【1761年(宝暦11年)】
武州多西郡原小宮村は、「日本橋から12里半、民家25軒散在せり。村内神社仏寺なし」。今から約180年前、文政年間に書かれた新編武蔵風土記稿の小宮領の項に、こう記されている。多摩川支流平井川の対岸には源平合戦で名を馳せた武蔵西党の平山季重が建立したと伝えられている、氏神である小宮神社がある。橋のなかった江戸の頃、この氏神を川を隔てて遥拝をしていたと思われる、「小宮一神門」と彫られた石碑が、一昨年発掘された。この石碑は再建された遥拝所に、馬頭観世音、庚申塔、寒念佛などの石仏や、地蔵塚から移された地蔵尊と並んで奉られている。地蔵は、原小宮「蕃椒地蔵尊」であるが、数体あるうちでも最も早く造られたと思われる、宝暦11年(1761年)と側面に彫られた石仏がある。原小宮蕃椒地蔵講の講元によれば、その石仏は「寒念佛供養」の信仰対象として造られた可能性があるという。「寒念佛供養」は、一年で最も寒さの厳しい小寒から大寒にかけての30日間、鉦をたたき念仏を唱えながら諸所を回る僧侶たちの苦行のこと。それが念仏講となったり、供養塔や石仏が造られたのである。富士山の大噴火や、大地震、凶作、飢饉、疫病と、人びとの心を揺るがせる天変地異の続いていた元禄、宝永、享保といった江戸時代中期(1700年代の前半)に、これらの風習は始まったようであり、原小宮でも同様の供養が行なわれていたと推測される。原小宮伝承として、享保6年頃(1721年)の大規模な「はやり疫病」の際には、亡くなった村人の荼毘や、疫病を村の外に送り出す祭りを行い、供養の石碑を建てたといわれる。こういった歴史を経て、小宮神社遥拝所の桜株の根元に野ざらしになっていたのを掘り起こされ、昭和9年に地元青年有志によって地蔵堂に安置されて、「蕃椒地蔵尊」という名称になったとされる。その当時、腫瘍(吹き出物)が流行したが、蕃椒を供えて願をかけるとよいと伝えられたとのこと(原小宮蕃椒地蔵尊縁起)。地元出身の郷土史研究家であった山上翁の記録では、夏になると畑作業の帰りに、唐辛子を地蔵に奉納している人びとの姿をよく見かけたという(「多摩のあゆみNO26. 山上茂樹翁ききがけノート」、原小宮の地蔵。昭和57年)。なぜ、「とうがらし地蔵尊」ではなく、「蕃椒(とうがらし)地蔵尊」なのか? ご本尊は、どこか? 謎がいろいろあるが、漢方で唐辛子の生薬名として「蕃椒」は、「ばんじゃ」か「ばんしょう」と呼ばれることから、「蕃椒」は唐辛子の薬効への願いという意見も貴重である。ところで、武蔵国の地誌である新編武蔵風土記稿の内藤宿の項に「内藤トウガラシ」の記述がある。「蕃椒 四ツ谷内藤宿及び其邊の村々にて作る、世に内藤蕃椒と呼べり」である。幕府が江戸周辺の産物調査をした「武江産物志」の中でも、特に産地付記の野菜として「番椒(とうがらし) 内藤宿」の記載も見られる。「内藤トウガラシ」は、「蕃椒(とうがらし)地蔵尊」と同じ、「蕃椒」だったのか? 「内藤トウガラシ」は、天に向かって房状に果実をつける八房(ヤツブサ)という品種であるが、「蕃椒(とうがらし)地蔵尊」のある原小宮周辺の畑では、今でも「内藤トウガラシ」と同じ八房(ヤツブサ)唐辛子が見られる。また、地蔵縁日の10月24日に毎年「蕃椒地蔵尊祭」が行われ、真っ赤な唐辛子(八房)が供えられる。内藤家の下屋敷で作られていた内藤トウガラシ(八房)と、原小宮の蕃椒は、街道を通じて結ばれていたのか? 建立のいわれや、「蕃椒」と名付けられた経緯を含め、原小宮「蕃椒(とうがらし)地蔵尊」は、ロマンと謎に満ちているのである。
◎このblogは、内藤トウガラシの歴史等の調査過程でまとめたものです。現在も調査継続中であり、内容の一部に不十分・不明確な表現等があります。あらかじめご承知おき願います。To Be Contenue ・・・・・。