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〓〓〓  内藤トウガラ史  〓〓〓

ドラマもあれば、謎もある。トウガラシ・歴史年表。
by 赤井唐辛子(内藤新宿・八房とうがらし倶楽部)

貝原益軒が手がけた農書、「菜譜」(さいふ)が刊行される。益軒は、唐辛子を畠で観察していた?

2010年06月02日 | 1700年~
         
                   「甲州街道筋の内藤とうがらし(八房系)」            

  【1714年(正徳 4年)】
  日本古来の原種は、数えるほどの、いわゆる野菜類。奈良時代に中国から野菜の栽培が伝わったあと、大航海時代の戦国時代から江戸時代初期にかけては、アジアから、ヨーロッパから、新野菜が続々と伝来したといわれている。人見必大が30年以上の歳月を費やして書き上げた「本朝食鑑」や、日本3大農学者の一人である宮崎安貞の農業指導書「農業全書」、そして「養生訓」と並ぶ貝原益軒の代表作とされる「大和本草」をはじめとした本草書や農書に、こういった野菜(菜)の種類・分類・栽培法の解説が見られる。それぞれが、そうそうたる定評が築かれた書物だけに、「菜譜」の存在は、やや希薄に見られがちといわれる。ところが、この農書は、広く一般庶民に分かりやすいように平易な文章と、栽培に関する実用的な内容で構成されており、さらに江戸時代初期から中期にかけて、どういった種類の野菜が存在したかを知るうえでは、かなり貴重な文献と思われるのである。貝原益軒が書き上げた花譜・菜譜(筑波常治・解説、八坂書房・発行 昭和48年)に目を通していくと、菜譜には136種類の野菜(菜)が10区分されており、生育の方法と食べる部位によって仕分けられている。人が手をかけて畠で栽培されるのが圃菜(ほさい)、野原に生えている食べられる菜が「野菜」、山で採れるから「山菜」、水辺で採れるから「水菜」といった具合に、生育の場所に菜(な)がついて区分けされているわけで、別の見方をすれば、畠で栽培される菜(な)と、野生の菜(な)の2つに大きくグルーピング整理されているのである。文化の爛熟と農業の発展が見られた元禄の頃ではあるが、まだまだ圃菜(ほさい)より野生の菜(な)の方が多かったのかも知れないのである。
  今から約400年まえの江戸時代初期前後に伝来した新野菜のひとつである唐辛子は、「菜譜」(さいふ)に記された貝原益軒のグルーピングでは、番椒(たうがらし)として、圃菜(ほさい)に分類されている。野に生える野生の「菜」(な)ではなく、畠で丁寧に手をかけられ、生育されている圃菜(ほさい)というわけである。同じように、この圃菜(ほさい)に区分けされているのは、日本原産のだいこん、かぶらな、せりにんじん、ねぎ、それと、香辛菜のにら、にんにく、らっきょう、はっか、わさび、たうがらし、などなど。これらの区分けに関しては、博物学者としての知識と観察力に加えて、益軒が儒学の研究のために福岡から江戸や京都に出かけた数十回に及ぶ日本全国の見聞や、花や野菜を自宅で栽培した経験、畠での圃菜(ほさい)、唐辛子などの観察経験が生かされていると推察される。このように、唐辛子は、紛れなく圃菜(ほさい)。だから「菜譜」(さいふ)が書かれた元禄の頃、真っ赤に実った番椒(たうがらし)が、畠を赤く染めていた?





 ◎このblogは、内藤トウガラシの歴史等の調査過程でまとめたものです。現在も調査継続中であり、内容の一部に不十分・不明確な表現等があります。あらかじめご承知おき願います。To Be Contenue ・・・・・。




 



 

人見必大、「本朝食鑑」出版。番椒(とうがらし)の効能、食べ方、種え方が語られた、歴史的食物事典?

2010年05月17日 | 1600年~
              
                     幻の内藤番椒(とうがらし)

  【1697年(元禄10年)】
  「本朝食鑑」の書き出し(凡例)は、次のようである。「この書の大意は、民の日常生活に用いる食物の好悪について弁別するものである」。幕府侍医を父に持ち、自らも医者である著者の人見必大(ひとみひつだい)の意図は、一般庶民が口にする食べ物について医学的見地から、その良し悪しを記述することにあったといわれる。当時、わが国の本草学(植物や鉱物を中心とする中国の薬物学)に多大な影響を及ぼしていた「本草綱目」(明の李時珍が執筆)の記述手法や分類を参考に、対象とした食べ物に対して自ら吟味し実験的検討を行った、実証的な食物事典である。項目的には、「釈明」といわれる名称・学名、「集解(しゅうげ)」とよばれる博物的記述をはじめ、ごく日常的な食べ物ごとに詳細な記述がなされている。その中で、「味菓類5種」の一品として、山椒(さんしょ)、胡椒(こしょう)に続いて、番椒(とうがらし)が挙げられている。つまり、人見必大(ひとみひつだい)の時代観察からすると、この辺の食材は、元禄の頃には一般庶民の食卓に日常的に上っていたと推測され、トウガラシについても同様と思われるのである。
  執筆に30年以上もの歳月を費やした人見必大のライフワークとされる、「本朝食鑑」(ほんちょうしょっかん)。漢文体で書かれた、この「本朝食鑑」の読み下し本(島田勇雄訳注、東洋文庫・株式会社平凡社、昭和52年発行、「本朝食鑑2」)に目を通すと、当時の番椒(とうがらし)の状況を彷彿させる記述(トウガラシの歴史、国内伝播、順応性、味覚、栽培状況など)が見られるのである。以下要点であるが、「味は甚だ辣く(からく)、気も甚だ烈しい。青い時でも、香辣で、食べられる。紅いのは、採って乾して使う。・・・莢(さや)の中に小さな白い子があり、2月にこれを種(う)えるが、生えやすい性質なので、家圃(かほ)、田園に多く種える。我が国で番椒(とうがらし)を使うようになってから、百年に過ぎない。煙草と相先後して、いずれも番人によって伝種され、海西(さいこく)から移栽し、今は全国にある」。
 生活拠点の江戸から時代の流れを見つめ、執筆を続けていた人見必大が記した、「生えやすい性質」、「百年」、「番人によって伝種」、「海西から移栽」あたりは、トウガラシの日本伝来・伝播を考える上で興味が尽きないものがある。またトウガラシに関して、食のあり方に加え、漢方薬としての健胃剤の薬効、消化不良、下痢、発熱悪寒、肺炎、あるいは鞋履傷瘡(ぞうりくつずれ)、筋肉痛・神経痛等への処方などが、本草学と医学の側面からその好悪が詳解されている。ところで、内藤トウガラシをはじめとする唐辛子の品種と特徴は? 食物事典の視点のため、「本朝食鑑」での言及はないが、同じ元禄10年に刊行された宮崎安貞の「農業全書」には、「天に向かうあり、大あり、少あり、長き、短き、丸き、角なるあり、其品さまざま、おほし・・・」と、その多品種に分化したトウガラシが語られている。ただ「八房とうがらし」などの名称までは不明。それでは、「内藤蕃椒(とうがらし)の存在は、幻だった?」 時を経て、文化・文政年間以降、「新編武蔵国風土記稿」、「武江産物志」、「守貞漫稿」それぞれに、江戸名産としての「内藤蕃椒(とうがらし)」をとり上げている。ドラマもあれば、謎もある。江戸の昔の長きに渡り、内藤蕃椒(とうがらし)が内藤新宿あたり(新宿御苑周辺)を、真っ赤に染めていたのである。


         
                    内藤とうがらしと花園神社の銘板



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参勤交代によって始まった、大名屋敷の野菜栽培。江戸野菜の歴史と伝統は、ここから始まった?

2010年05月06日 | 1600年~
              
                高遠藩内藤家、庭園あと(新宿御苑・玉藻池)

  【1635年(寛永12年)】
  家康が徳川幕府を開いて約30年の歳月が流れたころ、幕府と江戸の町は、新しい展開を見せ始めた。そのひとつが、参勤交代による江戸市中での武士階級の増加。しかも、江戸城の修復と大名屋敷や町家の建設、それらの生活を支えるための職人や商人が江戸に集まっており、人口増加に拍車がかかったわけである。で、食糧不足、新鮮な野菜が足りないのである。参勤交代時、大きな藩では5000~6000人の家臣が江戸屋敷に居住しており、ことは深刻? その当時、大名たちは1年おきに国許と江戸を往復していたが、江戸屋敷内に、前栽畑(せんざいばた)と呼ばれる菜園をつくり、地元から持ち込んだ野菜の栽培を行うようになったといわれる。さらに大名屋敷で栽培されていた野菜のうちの一部は、やがて近郊の農村でも作られ始めたのである。たとえば、高遠藩内藤家の下屋敷(現在の新宿御苑)で栽培されていた内藤トウガラシ(八房=やつぶさ)や、内藤(淀橋)カボチャ。あるいは築地・廻船問屋の山路治郎兵衛が、薩摩藩の江戸屋敷で栽培されていた孟宗筍を入手し、戸越の農民たちに栽培を奨励、特産品となった戸越の孟宗筍(品川区指定文化財史跡、資料)等があげられる。こういった大名屋敷での野菜栽培は、明暦3年(1657年)の大火以降、一段と活発になったといわれている。
  家康が江戸に入府してから明暦の大火までの約70年の間に、140件もの火事が江戸に発生し、その発生元の60%以上は武家屋敷とされる(内閣府防災情報、1657明暦の江戸大火)。そこで、江戸市街地の60%が焼失した明暦の大火(振袖火事)の直後に、防火に重点をおいた江戸の都市改造が行われ、大名屋敷の江戸城周縁部移転と複数化(上・中・下)が実施されたと想定される。用途ごとの分散化である。また江戸の火事の件数は当時の3大都市である京都、大阪と比較して圧倒的に多く、江戸固有の気候が理由と考えられている。第1は、冬から春にかけての強い北風と、雨の少ない気候。第2に、春と秋に吹く強い南風。風と乾いた空気が原因なのである。いずれにしろ、藩主が住む本邸である上屋敷、隠居した藩主や嗣子の住居用の中屋敷、そして火事や災害時の避難場所、別邸、菜園、蔵屋敷として使用される下屋敷がつくられたのである。下屋敷はたいてい江戸郊外に下賜されたため、面積が広く、広大な庭園や菜園が、つくられたようである。ちなみに寛文10年(1670年)以来、約3万8千坪もの敷地を有していた岡山藩池田家の下屋敷では、大根、人参茄子などの蔬菜類、麦・蕎麦といった穀類が栽培され、藩主や家臣に届けられている。また、菜種や飼養も栽培されており、こちらの方は売却されることが多かったようである(「江戸大名下屋敷を考える」、文化2年の岡山藩大崎屋敷。原田佳伸)。ところで、江戸の伝統野菜を語る上で欠かすことのできない、練馬大根。尾張藩から五代将軍の綱吉に献上された宮重(みやしげ)大根が、名主の大木金兵衛により、沢庵用の練馬大根として栽培されたという伝承がある。収穫後の練馬大根をおいしく沢庵用に乾燥させるために、江戸近郊特有の冬の日差しと強いからっ風(北風)が、大いに役立ったといわれる(「江戸・東京ゆかりの野菜と花」JA東京中央会)。つまり、明暦の大火(振袖火事)の原因となった、あの北風が江戸名産の誕生に一役買っていた? 気候風土は、味に出るようである。

  
              
                     内藤トウガラシ(八房とうがらし)
  


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唐辛子地蔵

2010年04月22日 | 資料編  
   
      禅東院、とうがらし地蔵                  日野宿、トウガラシ地蔵


         
      原小宮、蕃椒地蔵尊                     正行寺、とうがらし地蔵  

正行寺「とうがらし地蔵」建立。唐辛子を供えるのは、「覚宝院」が自らの坐像を彫って安置した歴史に由来。

2010年04月21日 | 1700年~
         
                        正行寺、とうがらし地蔵
  【1702年(元禄15年)】
  内藤新宿を起点とした街道沿いの「とうがらし地蔵」ではなく、それと同じ時代に建立された「とうがらし地蔵」は他の街道筋でも見ることができる。江戸日本橋から中山道を1里、歴代将軍が東照宮への社参に利用した日光御成道(にっこうおなりみち)との分岐点となっている本郷追分に、正行寺(現・文京区)の「とうがらし地蔵」はある。寺の入口にあたる街道脇には立て札があり、「とうがらし地蔵」についての由来が書かれている。寺に伝わる元文3年(1738年)の文書によると、元禄15年(1702年)に僧の覚宝院(かくほういん)が、人びとの諸願成就を願うとともに咳の病を癒すため、自ら座禅姿の石像を刻み寺に安置したとされる。この座禅姿の覚宝院の石像が「とうがらし地蔵」と呼ばれるのは、「覚宝院」が「とうがらし酒」を好んだことに由来しており、人びとは唐辛子を供え諸願成就を願っていたとされる。覚宝院が「とうがらし酒」をこよなく愛し、また願かけに唐辛子が供え始められた元禄の頃は、数々の農業指導書が書かれた時代であり、唐辛子に関する情報も広く一般的になってきたと推察される。医師の人見必大による「本朝食鑑」や、江戸期の3大農学者のひとりである宮崎安貞が執筆した「農業全書」が出版されたのが元禄10年(1697年)、その数年後には貝原益軒が「菜譜」や「大和本草」の執筆を始めており、すぐれた農業指導書の登場により唐辛子の栽培は盛んになっていったと考えられる。それだけ身近な存在になった唐辛子は、地蔵に供える機会も増えるというものである。武蔵国村明細帳集成(天明8年/1788年)によると、正行寺の「とうがらし地蔵」のある本郷追分から日光御成道を4つ、岩槻宿の手前の大門宿の名産品として唐がらしが挙げられている。そうなると、甲州街道と同じように唐辛子が街道を行き来した? それは、内藤トウガラシ(八つ房)? それとも、日光唐辛子?思いをめぐらすと、話は尽きない。
  ところで覚宝院の座禅像に関しては、江戸中期の地誌として社寺・名所の来歴を記した「江戸砂子」(えどすなご)にひとつの記述が見られるという。曰く、「当寺境内に浅草寺久米平内(くめへいない)のごとき石像あり。・・・仁王座禅の相をあらはすと云へり」。江戸前期の剣の達人であった久米平内は、多くの人の命を奪った供養のために、自らが禅に打ち込む「仁王座禅」の姿を石に刻ませ、浅草寺に久米平内堂(くめのへいないどう)として祀ったとされる。これと同様の「仁王座禅」の相ということである。それぞれの石像に対する動機は違っても、禅に打ち込む真摯な思いは、平内も覚宝院も共通するものがあったのであろうか。また、正行寺の「とうがらし地蔵」の表情というか、顔つきが、内藤新宿から甲州街道を下った街道沿いに建立された「とうがらし地蔵」の表情と、かなり違いが見られる理由も、この辺にある? 八王子・禅東院の「とうがらし地蔵」、日野の「トンガラシ(ヤンメ)地蔵」、原小宮の「蕃椒(とうがらし)地蔵尊」、そして正行寺の「とうがらし地蔵」、それぞれの表情には、それぞれの建立背景が秘められているように思われるのである。

              
                         正行寺、地蔵堂


        
                            正行寺


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