今日は二戸市戦没者追悼式が市民文化会館で行なわれ参加してきた。
実家の父の代理の母の代理であった。
我が生家には二人の戦死者がおり、何れも父の兄である。
戦死した時の年令が二人とも25歳前後だから。自分の倅たちの年代である。
自分が幼少の頃、彼らの母である祖母の口からは悔しさを表現した切ない言葉がちょくちょくこぼれた。
たがその悔しさの気持ちは、当時は理解出来なかった。
その後、二十代のとき参加した岩手青年の船で洋上慰霊祭を経験した。
伯父が撃沈された現場と同じ海域で行なわれた洋上慰霊祭。何日も陸が見えない日が続く船、甲板には強烈な日差しが突き刺さる。そうしたロケーションは沈む船と運命を共にする胸中を想像させてくれる。
洋上慰霊祭の数日後、フィリピン・ルソン島の日本人墓地にも参った。
今日の追悼式の最中、そんな思い出に想像をめぐらした。
そして祖母たちの言葉を思い出すのであった。
実家の父の代理の母の代理であった。
我が生家には二人の戦死者がおり、何れも父の兄である。
戦死した時の年令が二人とも25歳前後だから。自分の倅たちの年代である。
自分が幼少の頃、彼らの母である祖母の口からは悔しさを表現した切ない言葉がちょくちょくこぼれた。
たがその悔しさの気持ちは、当時は理解出来なかった。
その後、二十代のとき参加した岩手青年の船で洋上慰霊祭を経験した。
伯父が撃沈された現場と同じ海域で行なわれた洋上慰霊祭。何日も陸が見えない日が続く船、甲板には強烈な日差しが突き刺さる。そうしたロケーションは沈む船と運命を共にする胸中を想像させてくれる。
洋上慰霊祭の数日後、フィリピン・ルソン島の日本人墓地にも参った。
今日の追悼式の最中、そんな思い出に想像をめぐらした。
そして祖母たちの言葉を思い出すのであった。