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Joe Pass Memorial Hall 日本語ページ

ジョー・パスに関する話題や、自分の身近な話題を掲載していくつもりです

1枚の写真・・・おまけ

2015年06月23日 | 1枚の写真

Woodyさんからご連絡を頂き、お写真を送った。

 

同じ町内の方から「引越すので」とレコードを引取り、その際一緒に頂いた絵葉書と一緒に入っていた写真館で撮られた写真。何故か気になり取って置いた。

 

銅像は1913年に建立されたとWoodyさんのブログにあるので、102年の時を経て、記念のお写真が、ご子孫であるWoodyさんのお手許に届く事になる。

 

「1枚の写真」は、何人かの善意に助けられ、こんなハッピー・エンドを迎えましたとさ。。。メデタシ、メデタシ!

 

 

 


1枚の写真#8=ファイナル!

2015年06月22日 | 1枚の写真

1枚の写真シリーズとして1~7まで書いたのは、もう2年半前の事。

http://blog.goo.ne.jp/passalaqua/e/1c8efbaa0fc5b9d0e8333f68fb682045

 

上郎幸八の銅像について、今もあるか、どこに建てれたのかと、1枚の写真から色々と調べた。

 

まず、武生町(現・越前市)の役場に写真について尋ねたが分からず。

暫く放置していたが、偶然レコードを買って下さった福井のHさんにお尋ねしたところ、色々とご示唆頂く。

上郎幸八ゆかりの久保山光明寺に写真を見てもらうが、場所は「光明寺ではなさそうだ」とのご返事を頂く。

ここで、ストップしていたのだが、本日Hさんから2年振りにメールを頂き、思わぬ展開となった。

「上郎幸八さんのご子孫が作られた」ホームページがある、そこにこのブログで私の載せた写真が載せられているとの事、

早速行った見た。

http://woody.photo-web.cc/html/141226kourokouhati-story.html

おぉぉ、「左はインターネットに挙げられた写真」というのが私の掲載した写真ですね。

ここは福井の斗布神社境内との事。

最前列で座っている方が、このHPのWoodyさんの曾祖母で、幸八氏の妹さんとある。

銅像自体は、金属供出でやはり無くなっていたが、台座は今も神社に残っており、そこに私がかつてレコードをお譲り頂いた方のご先祖のお名前がハッキリと有りました!

 

「なんか気になる写真だなぁ」と気になった写真だったけれど、人々の善意にも恵まれ、また現代でしかあり得ない「偶然」も手伝って、その正体を知る事が出来ました。

Woodyさんはご実家に既にお写真をお持ちとの事でしたが、お邪魔で無ければお写真はお渡ししたいと思っています。(僕が持っているよりもずっと相応しいので)

 

 

 

 


1枚の写真#7

2013年02月16日 | 1枚の写真

やはりインターネットの時代となっても、データを上げる人がいなければ調べ様も無い訳だ。

先日ここで書いた以下URLの「横浜幻想」は「其の其の十二」まで読み続けている。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~kazuya22ai/megumi/meguminohonne.html

 

やはりこれは良く出来た小説の様で、途中に「幻想と現代社会へ続く歴史の真実との狭間を探してくださいね。」と書かれていいる様に、「現実」と「小説」を上手く織り交ぜている。

「現実」の例としては、「幻想明治 その一 洋館」に上郎幸八の子「新二」と自分の子「茂」について吉田健三が語る以下の部分等、他の資料では出て来ない。

寅吉がイギリス語教育かフランス語教育はと聞くと其れは今も上郎の息子の新二と共に教師をつけて勉強させていますとこともなげに答えた。
新二の母は士子の妹で上郎(こうろう)は道の並びに家を建てたばかりだ。

上郎についての記述は僅かにここのみだ。

また、新二の母は健三の妻士子(ことこ)の妹という事だが、健三と士子の婚約祝いを書いた「横浜幻想 其の九 安愚楽鍋」にも、妹として登場する人物は出て来ない。さらに、当時横浜にいた筈の健三の父、渡辺謙七についても一切記述が無い。婚約の席には来ると思うのだが。。。

紹介したサイトは、実は架空の人物(と思われる)「虎屋寅吉」その妻「容」を中心に書かれたものの様で(膨大な為すべては閲覧していない)、健三にばかりかかり切れないのは分かるとして、では何故誰も知らないだろう上郎幸八の息子の件を入れたのだろうか?(何か資料があるのだろうか?)

 

ところで、写真を見ていてもう一つ気が付いたのだが

銅像の顔(左)と、剃髪の座っている人の後ろにいる人(右)の顔が似ていないだろうか?

 


1枚の写真#6

2013年02月14日 | 1枚の写真

久保山光明寺から、連絡が来た。

ご住職にも写真を見てもらったとの事だが、「光明寺ではなさそうだ」とお返事をもらった。

 

ここでもう一度、写真を見返す。

銅像の下には「○郎幸八肖像」と彫ってあると書いたが(#1)、正しくは「上郎幸八肖像」とある。

「君」?

上郎幸八を「君」付けする人が建てたという事か?

で、「君」について調べてみると、現代では同輩や目下に親しみを込めて使う「君」は、昔は「大君(おおぎみ」と言う風に使われるように、「あるじ」という意味を持っていて、明治時代には相手に敬意を表す時に「君」を付けるようになったそうだ。その名残として、国会で議長が「~クン」と呼ぶのは「目下」では無く「敬意」を示すものとして残っているそうだ。

では、やはり上郎幸八に敬意を表して作られた銅像なのだろう。

横浜辺りの神社に昔あったのか、故郷の福井にあったのか、まず現存しないであろう銅像探しの旅は行き詰まった。

久保山光明寺のご住職が「光明寺ではなさそうだ」と仰った事も、断定ではないので、そうかも知れないし、違うかも知れないと理解しよう。

「幻想明治」のサイトに何かヒントが有るかも知れないので、もう少しそちらを読み進めてみようと思う。

 

それにしても、1枚の写真から、色々な調査、実際の人との交流を経て、ロマンを感じる想像の旅をしている様で、興味は尽きない。

 


1枚の写真#5

2013年02月13日 | 1枚の写真

神戸大学電子図書館システムというサイトで、「時事新報社第三回調査全国五拾万円以上資産家  1916.3.29-1916.10.6(大正5)」という記事を見つけた!

貸金業で財を成した人だという事が分かった。

吉田健三は事業家として活躍した人だから、金を借りる事も有っただろうし、ましてや奥さん同士が姉妹という事であれば、最も信頼出来る人だと言える。

さて、では何故、どこに、この銅像が建立されたのか? そして、今もあるのか? という疑問が残る。

2つ目の疑問に関しては、家内の説だが、「戦前の金属供出」で供出された可能性が高いと思う。

1つ目の疑問の「どこに」については、吉田健三と上郎幸八が共同で土地を寄進したという横浜にある久保山光明寺の可能性があると直観した。

という事で、今日久保山光明寺に問い合わせてみた。あいにくご住職が居なかったので、明日返事をくれるとの事。

さてさて、これで1枚の写真から続く、ロマンの旅が終了するのだろうか?