57年前の屋久島宮之浦岳登山は、海外遠征に行くような感じでした。何しろ屋久島には港が無く、波の高い日には鹿児島港を出る船は欠航になる始末。屋久島便は週2便あり、その一つが貨客船の永田丸でした。果たして私達が乗った船も鹿児島港を船出して、錦江湾を出たところで港に引き返してしまいました。その晩は船内に泊めてもらい、翌日やっと出港して屋久島に着きました。しかし港が無い上に太平洋の波は高く、接岸は不可能で島から迎えに来た小舟に飛び移るという、スリル満点の経験をしました。
船は宮之浦に着いたため、当時宮之浦と安房を往復していたバスに乗り安房まで行きました。着いた安房には宿が無く、小学校に泊まりました。当然乗り物を利用して高度を稼ぐことなどは考えられず、海岸から山頂まで歩くことになります。

安房から小杉谷まで、伐採した屋久杉を運ぶためのトロッコが走っており、私達はひたすらそのトロッコ道を登り、夕方小杉谷に着きました。当時小杉谷は屋久杉の集荷地として沢山の人が働いており、小学校までありました。現在は無人化して小学校の門だけが残っています。屋久杉を運ぶのには、上の写真の通り大きな屋久杉に跨り、トロッコのスピードを調整しながら山を下って行くのです。狭いトロッコ道ですから、トロッコを避けるために山側に張り付いてやり過ごすのです。しかし結構怖かった記憶があります。

小杉谷では作業場の宿舎に泊めてもらいました。2食付きで弁当まで作ってもらい200円だったことを覚えています。暗い内に小杉谷を出て、花之江河経由で宮之浦岳に登頂しました。5月のゴールデンウィークだったにも拘わらず、登山者は我々三人のみで、他の登山者は一人も見かけませんでした。頂上近くにはまだ豊富な残雪があり、傘をピッケル代わりにグリセードをして遊びました。登頂したその日だけ好天に恵まれて、緑のヤクザサと点在する花崗岩の岩塔、そして残雪の白、さらに太平洋の青い海の色など、今も思い出すことが出来ます。
写真は花之江河で撮ったもので、左から永松、広松、私です。残念なことに山頂で撮ったものがありません。下山は小杉谷からトロッコに乗せて貰い安房まで下りました。これはスリルがありました。下山後安房で船待の間、2日間小学校に泊まり、その間釣りをして時間を潰しましたが、売るほどの魚が釣れました。
その後ずっと時間を置いて屋久島を訪れましたが、良き時代の屋久島は無くなっていました。もう行くことはないでしょう。
船は宮之浦に着いたため、当時宮之浦と安房を往復していたバスに乗り安房まで行きました。着いた安房には宿が無く、小学校に泊まりました。当然乗り物を利用して高度を稼ぐことなどは考えられず、海岸から山頂まで歩くことになります。

安房から小杉谷まで、伐採した屋久杉を運ぶためのトロッコが走っており、私達はひたすらそのトロッコ道を登り、夕方小杉谷に着きました。当時小杉谷は屋久杉の集荷地として沢山の人が働いており、小学校までありました。現在は無人化して小学校の門だけが残っています。屋久杉を運ぶのには、上の写真の通り大きな屋久杉に跨り、トロッコのスピードを調整しながら山を下って行くのです。狭いトロッコ道ですから、トロッコを避けるために山側に張り付いてやり過ごすのです。しかし結構怖かった記憶があります。

小杉谷では作業場の宿舎に泊めてもらいました。2食付きで弁当まで作ってもらい200円だったことを覚えています。暗い内に小杉谷を出て、花之江河経由で宮之浦岳に登頂しました。5月のゴールデンウィークだったにも拘わらず、登山者は我々三人のみで、他の登山者は一人も見かけませんでした。頂上近くにはまだ豊富な残雪があり、傘をピッケル代わりにグリセードをして遊びました。登頂したその日だけ好天に恵まれて、緑のヤクザサと点在する花崗岩の岩塔、そして残雪の白、さらに太平洋の青い海の色など、今も思い出すことが出来ます。
写真は花之江河で撮ったもので、左から永松、広松、私です。残念なことに山頂で撮ったものがありません。下山は小杉谷からトロッコに乗せて貰い安房まで下りました。これはスリルがありました。下山後安房で船待の間、2日間小学校に泊まり、その間釣りをして時間を潰しましたが、売るほどの魚が釣れました。
その後ずっと時間を置いて屋久島を訪れましたが、良き時代の屋久島は無くなっていました。もう行くことはないでしょう。


