ベクトライズ

様々な出来事について、その過程や流れ、方向性を自分なりに探っていきたいと、ベクトルと「分析」をひっかけた造語です。

広島の少女の事件について

2005年11月23日 21時01分21秒 | 暗い事件について
粘着テープで箱にふた 人通り少ない現場付近 女児殺害 (朝日新聞) - goo ニュース

こういう事件を防ぐ手段は、実質的に無いのだと実感させられる事件だと思う。学校や地域社会が手を尽くしたとしても、一人一人の子供達を四六時中保護することは不可能だ。

わずか2時間程度の間に、拉致→殺害→死体遺棄という展開は、あまりにも短絡的で稚拙な行動に思える。衝動的な行動と、その結果がもたらした少女の抵抗が、最悪の結果をもたらしてしまったという流れなのだろうか・・・
ダンボールに入れて道端に遺棄というのも、なんともお気軽なことだ。犯人の動揺ぶりの表れと解釈する方が自然なのか、そともテレビで誰かが言うように犯行を誇示する行動なのか・・・
僕は、また孤独で寂しい誰かの影を感じている。近所にいて、人知れず彼女を愛しく思っていた誰か・・・・願わくは犯人が近い年代でないことを願いたい。大人の犯行なら、何が救いになるというわけでもないのだが・・・・

自分と対等な立場以上にある人たちとまともな関係を築けない人たちがいる。僕もその中に入るが、人間関係の維持が得意でない人は世の中に沢山いる。その中で、特に欲求の対象が子供に向かう傾向のある人たちがいるそうだ。子供は自分の思い通りにできる対象だということらしい。失礼な表現になるが、人間的に成熟していないということなのだろう。大人になりきれない人達は、我々の想像以上に大勢いるのかもしれない。昨今の事件はそれを物語っている。

子供の遊びは、子供達同士で遊ぶ中で人と人との関係や自己主張の方法など、社会性を育成する大切な場のはずだ。我々の子供時代は、学校や広場に集まって、日が暮れるまで遊ぶことが多かった。最近の子供達は、集まって遊ぶときも少人数だったり、ゲームを交代でして、待ちの時間は勝手に本を見たり、別のことをして遊んだりしている。人間的な関係が希薄で、友達という言葉の意味が変わってしまったかのようだ。約束を守ることの意味や、相手の立場を理解することの重要さが、こんな関係から理解できるのだろうか?

僕が小学生の頃、中学校の受験のために学習塾に行ったり、家庭教師がついたりしていたが、とても殺伐とした虚しさを感じていたのを良く覚えている。当時受験のために散々教えられたことは、単純に表現すると「点数を取るテクニック」だった。そんなのは勉強じゃない。まして「周りの子達を敵だと思って出し抜け」と教えられるに至っては、子供ながらに大いに矛盾を感じていたものだ。塾帰りの子供達の姿や、たまに耳にする親達の話しからすると、今もぼらの頃と変わらない感覚が、少なくとも多くの母親達の中に延々と生きている。少なくともその間、30年くらいの間は、多くの日本人がそういう物の考え方の中で育ってきたということになる。

僕には、この時代の希薄な人間性の根源が、こうした親の意識にあるように思えてならない。僕らの親達の世代が僕らに期待したのは、「良い成績」で「良い学校(有名校に進学率の高い学校)」に行き「良い会社(有名な大企業)」で「楽に暮らす(休まず、遅れず、働かずという言葉が象徴する働き方)」ことだつた。冷静に考えれば、如何に無責任で自分勝手な生き方か誰にでもわかるはずなのに、親達はどこかで、自分の子供だけはそうあって欲しいと思っているわけだ。

マンションの構造設計の問題で、会見する設計士の言葉には、妙に現実感が無い。責任を云々する前に、そういう感覚の人々が大勢世の中で要職に就いていることを改めて直視して欲しい。保険金の不払い、粗悪品の販売、慢性的な談合、公金横領・・・心無い事件の数々に登場するようなエリート達の多くが、受験戦争の中で勝ちあがった人々だということを思い起こしてほしい。

僕は一人の親として、子供に外で遊ぶなとは言えない。そのことが彼らの社会性を大きく阻害したら、救ってやりようが無い。子供達の人間性を育成するために、親ができることがあるはずだ。少なくとも、友達を裏切っても成績を上げろとは絶対に教えない。

危険はぬぐえない。子供達を危険に晒すことになるかもしれない。でも、子供達に周りの人を信じるなと教え続けたら、こういうことの繰り返しになるのではないだろうか?

僕は結局、自分達の心の問題を問う。そんな悠長な課題ではないのに・・・・