ベクトライズ

様々な出来事について、その過程や流れ、方向性を自分なりに探っていきたいと、ベクトルと「分析」をひっかけた造語です。

犯罪を生み出すもの(性犯罪の再犯問題を問う番組を見て)

2005年11月09日 22時06分44秒 | Weblog
NHKの番組で、性犯罪の再犯の問題についてレポートしていた。
奈良の少女殺害事件が入り口になって、実状を知らしめる構成だ。

僕が驚くのは、刑務所での無策ぶりだった。

明治以来、罰としての労務だけで刑期を終えて、受刑者を社会へ戻していたわけだから、再犯の対策は「仕事に就けるようにする」という、せいぜい窃盗犯向けのものだけだ。

社会への適応力とは、職業技術で成り立っているわけではない。雇用があろうが無かろうが、社会に同化する意識のない人たちはいずれ問題を起こす。奈良のケースは、起こるべくして起きたものといえる。罪の意識を問われることもなく、「罰」によって「自分の愚かな行為」が清算されたと考えられてしまえば(番組内で犯歴のある男性が自ら明言していたように)、「また、しばらく入ってくればいいいか・・・」という感覚で、無関係な人々を犠牲にしても、なんの不思議もない。
現状の制度では、性犯罪に限らず再犯率は高いはずだ。

性犯罪、特に子供に向けられるものは、被害者がずっと背負わされる重荷は大きい。被害を出さないことが如何に重要かについては、議論を必要としないだろう。それでいて、この状況はいったいなんなのか?これこそ「何もしない」という「犯罪」だと思う。

しかし、これは問題の本質ではない。犯罪者を生み出しているのは、我々の社会そのものなのだから。

「個人主義」とか、「自己主張」とか体裁の良い言葉に踊らされて、他人の感情や立場を尊重しない人々が増えている。それが、結果として「いじめ」、ショッキングな数々の少年・少女の事件につながっている。人間性の欠如。それは、この時代に生きるほとんどの人に突きつけられている指摘ではないだろうか?

刑務所や役人の無策の前に、我々一人一人が本当に今のままで良いのか真剣に考えるべきだ。競争社会の中で無節操に他人を犠牲にしている我々は、我先に品物を奪い合っている我々は、彼らと同じように自分本位に立ち回っているではないか?

「優しさ」とか「おもいやり」とか、言葉だけは沢山出回っているが、そういうものをちゃんと持っていると、我々は言い切れるのだろうか?
そういう我々の子供たちは、果たして反社会的な存在、犯罪者にならないと言い切れるだろうか?

犯罪の温床は、間違いなく我々自身にある。僕は改めてそれを感じさせられた。