関ヶ原の話を書いてみたいと思う。
関ヶ原の合戦でよく語られる「if」は、小早川秀秋の裏切りがなければ西軍は勝っていたか? という話である。これはもうあらゆるところで書かれている。而してその結論と言えば、たいていは、そのときはいったん西軍優位で東軍は退くものの「徳川の天下は揺るがない」である。どうしても人は現在の歴史の流れの呪縛から逃れられないものらしい。僕は素人であるからもう少し柔軟に考えたいと思うのであるが。
あの当時確かに家康は250万石の大大名であり、世の中は朝鮮出兵による疲弊で豊臣政権に対し不満が鬱積していたのも事実である。ではあるが、それだけではすんなりと徳川の天下へと移行しない。これは、家康の懸命の政治工作の賜物であり、「時勢」という言葉で片付けられることではないような気がする。徳川氏の天下となって、「徳川幕府当たり前史観」で語られるから、他に無数の選択肢があったことを覆ってしまうのではないか。家康は苦労してようやく天下をとったのだ。決して時勢に乗っかっただけではない。
おっと、最近「歴史のifを考えることは愚」という人(僕が逆らえない立場の人)と話してストレスが溜まったのを吐き出してしまった。ごめんなさい。しかし何故誰もがhistorical ifを目の敵にするのか。禁句とか禁物とか何故言うのか。
閑話休題。
関ヶ原の戦いにもしも家康が敗れていれば、歴史はかなり変わったというのは誰も異論がないところ。もしも家康討ち死にとなっていたら、江戸幕府は開かれなかっただろう。文字通り「天下分け目」だった。
状況を見てみたい。
豊臣秀吉の死から後、家康は豊臣政権下の大老であったが、天下人となることを狙っていた。家康は、武断派の武将(加藤清正、福島正則ら)を取り込む。彼らが石田三成ら文治派と対立していたことを利用しようと目論んだのだ。また個人としても豊臣家に反旗を翻す。伊達政宗らと婚姻関係を持ち勢力拡大に出た。三成はこれを責めたが動ぜず、対立を深める。
福島正則ら武断派は三成を廃しようとするが、前田利家が歯止めになり表面上は動けなかった。しかし利家が亡くなると、武断派は三成襲撃を企てる。家康は三成を庇うかわりに引退勧告をし、三成は蟄居することとなる。後に一戦交えることで天下の趨勢を決定しようと目論んでいたため三成を生かしたというのが通説。
家康は戦を起こそうと前田家謀反の濡れ衣を着せ討伐軍を出そうとするが前田家の懸命の保身工作で未然に終わる(お松の方が江戸へ行きましたね)。さすれば次に上杉景勝に嫌疑をかけて、討伐軍を編成し東下を開始する。その隙に、三成は毛利輝元を総大将に据えて挙兵した。
家康は会津征伐軍を反転させて西に向かい、三成軍と関ヶ原でぶつかり合戦となった。
これが関ヶ原の合戦のあらましである。
結果家康が勝ち、対立勢力を一掃して天下は家康が手中にするわけであるが、ここには無数の「if」が存在する。小早川秀秋の裏切りだけではない。みんな書いてみたいが長くなるので控えますが。
一番極端な話を書くが、この戦いがなぜ家康の勝ちとなったかについては、西軍の大将である石田三成の求心力のなさが最大の原因である。なぜ求心力がなかったかと言えば、三成の性格の悪さだと巷間言われるが、実際いちばん大きな理由は三成の戦力の裏付けのなさであると思う。家康は関東八州250万石の大大名であり、強大な戦力を持ち、もしも戦に負けたとしても保障があるのだ。比べて三成は佐和山19万石である。単独で対戦すれば圧倒的に家康が勝つだろう。だからこそ、三成は自分が大将になれずに参謀的役割のままで(実際に軍を動かしていたのは三成だが)、毛利輝元を総大将に仰ぎ、宇喜田秀家らの戦力をあてにしなくてはならなかったのだ。苦しい立場がよくわかる。
もしも三成に戦力の裏付けがあったならば。
史実かどうかはわからないが面白い話なので書いてみる。司馬遼太郎の大作「関ヶ原」によると、秀吉は晩年、小早川秀秋の無能さに業を煮やして移封させ、三成を北九州100万石に封じようとしたことがある、と書かれている。しかし三成は、九州は遠いので実務に支障をきたすとこの話を断ったというのだ。
この話は「関ヶ原」でしか読んだことはないので司馬さんの創作だろう(他にも小説としてあったかもしれないが未見)。裏付けがもしあるのなら教えて欲しいものだが。史実として残るのは、秀秋は確かに移封された。筑前36万石から越前12万石である。旧領は秀吉直轄となり、その代官に三成が任命されている。100万石とはいかないまでも、近い状況があったと言える。うまくやれば自分の領地に出来たのではないか。さすれば佐和山と合わせ60万石に近い領地を得られたことになる。戦力は3倍に膨れることになる。こうなると三成は2万人近い動員力をもつことになる。西軍の中核部隊が2万いれば、三成にも説得力が生まれる。中立に立ち結局裏切った諸将(長宗我部、島津ら)も状況は変わってくるだろう。小早川秀秋はともかく、安国寺恵瓊に乗せられただけの毛利は本気になったかもしれない。そうなると戦局は大きく変わるのだ。
吉川広家は完全に家康派だが、毛利輝元は状況によってどう変わるかわからなかった。諜略によって大阪城を動かなかったが、もしも輝元が秀頼を押し立てて出てくることにでもなれば、東軍に造反者が出て、まず勝ちは西軍であったろう。こうなれば家康は天下獲りのチャンスを確実に逸することになり、殺されないまでも関東に封じ込められただろう。家康のことだから二度目の関ヶ原を狙うだろうが、そこまで寿命がもったかどうか。
三成は驚くほど人気がない。確かに最高級に有能な官僚だったけれども政治家ではなかった。しかし、忠誠心で動いていたのは間違いはなく、そこまで性格が悪いと言われることもないと思う。徳川の天下になって後、三成の評価は捻じ曲げられたような気がしてならない。家康の方がよっぽど人が悪いと思うのだが。
関ヶ原の合戦でよく語られる「if」は、小早川秀秋の裏切りがなければ西軍は勝っていたか? という話である。これはもうあらゆるところで書かれている。而してその結論と言えば、たいていは、そのときはいったん西軍優位で東軍は退くものの「徳川の天下は揺るがない」である。どうしても人は現在の歴史の流れの呪縛から逃れられないものらしい。僕は素人であるからもう少し柔軟に考えたいと思うのであるが。
あの当時確かに家康は250万石の大大名であり、世の中は朝鮮出兵による疲弊で豊臣政権に対し不満が鬱積していたのも事実である。ではあるが、それだけではすんなりと徳川の天下へと移行しない。これは、家康の懸命の政治工作の賜物であり、「時勢」という言葉で片付けられることではないような気がする。徳川氏の天下となって、「徳川幕府当たり前史観」で語られるから、他に無数の選択肢があったことを覆ってしまうのではないか。家康は苦労してようやく天下をとったのだ。決して時勢に乗っかっただけではない。
おっと、最近「歴史のifを考えることは愚」という人(僕が逆らえない立場の人)と話してストレスが溜まったのを吐き出してしまった。ごめんなさい。しかし何故誰もがhistorical ifを目の敵にするのか。禁句とか禁物とか何故言うのか。
閑話休題。
関ヶ原の戦いにもしも家康が敗れていれば、歴史はかなり変わったというのは誰も異論がないところ。もしも家康討ち死にとなっていたら、江戸幕府は開かれなかっただろう。文字通り「天下分け目」だった。
状況を見てみたい。
豊臣秀吉の死から後、家康は豊臣政権下の大老であったが、天下人となることを狙っていた。家康は、武断派の武将(加藤清正、福島正則ら)を取り込む。彼らが石田三成ら文治派と対立していたことを利用しようと目論んだのだ。また個人としても豊臣家に反旗を翻す。伊達政宗らと婚姻関係を持ち勢力拡大に出た。三成はこれを責めたが動ぜず、対立を深める。
福島正則ら武断派は三成を廃しようとするが、前田利家が歯止めになり表面上は動けなかった。しかし利家が亡くなると、武断派は三成襲撃を企てる。家康は三成を庇うかわりに引退勧告をし、三成は蟄居することとなる。後に一戦交えることで天下の趨勢を決定しようと目論んでいたため三成を生かしたというのが通説。
家康は戦を起こそうと前田家謀反の濡れ衣を着せ討伐軍を出そうとするが前田家の懸命の保身工作で未然に終わる(お松の方が江戸へ行きましたね)。さすれば次に上杉景勝に嫌疑をかけて、討伐軍を編成し東下を開始する。その隙に、三成は毛利輝元を総大将に据えて挙兵した。
家康は会津征伐軍を反転させて西に向かい、三成軍と関ヶ原でぶつかり合戦となった。
これが関ヶ原の合戦のあらましである。
結果家康が勝ち、対立勢力を一掃して天下は家康が手中にするわけであるが、ここには無数の「if」が存在する。小早川秀秋の裏切りだけではない。みんな書いてみたいが長くなるので控えますが。
一番極端な話を書くが、この戦いがなぜ家康の勝ちとなったかについては、西軍の大将である石田三成の求心力のなさが最大の原因である。なぜ求心力がなかったかと言えば、三成の性格の悪さだと巷間言われるが、実際いちばん大きな理由は三成の戦力の裏付けのなさであると思う。家康は関東八州250万石の大大名であり、強大な戦力を持ち、もしも戦に負けたとしても保障があるのだ。比べて三成は佐和山19万石である。単独で対戦すれば圧倒的に家康が勝つだろう。だからこそ、三成は自分が大将になれずに参謀的役割のままで(実際に軍を動かしていたのは三成だが)、毛利輝元を総大将に仰ぎ、宇喜田秀家らの戦力をあてにしなくてはならなかったのだ。苦しい立場がよくわかる。
もしも三成に戦力の裏付けがあったならば。
史実かどうかはわからないが面白い話なので書いてみる。司馬遼太郎の大作「関ヶ原」によると、秀吉は晩年、小早川秀秋の無能さに業を煮やして移封させ、三成を北九州100万石に封じようとしたことがある、と書かれている。しかし三成は、九州は遠いので実務に支障をきたすとこの話を断ったというのだ。
この話は「関ヶ原」でしか読んだことはないので司馬さんの創作だろう(他にも小説としてあったかもしれないが未見)。裏付けがもしあるのなら教えて欲しいものだが。史実として残るのは、秀秋は確かに移封された。筑前36万石から越前12万石である。旧領は秀吉直轄となり、その代官に三成が任命されている。100万石とはいかないまでも、近い状況があったと言える。うまくやれば自分の領地に出来たのではないか。さすれば佐和山と合わせ60万石に近い領地を得られたことになる。戦力は3倍に膨れることになる。こうなると三成は2万人近い動員力をもつことになる。西軍の中核部隊が2万いれば、三成にも説得力が生まれる。中立に立ち結局裏切った諸将(長宗我部、島津ら)も状況は変わってくるだろう。小早川秀秋はともかく、安国寺恵瓊に乗せられただけの毛利は本気になったかもしれない。そうなると戦局は大きく変わるのだ。
吉川広家は完全に家康派だが、毛利輝元は状況によってどう変わるかわからなかった。諜略によって大阪城を動かなかったが、もしも輝元が秀頼を押し立てて出てくることにでもなれば、東軍に造反者が出て、まず勝ちは西軍であったろう。こうなれば家康は天下獲りのチャンスを確実に逸することになり、殺されないまでも関東に封じ込められただろう。家康のことだから二度目の関ヶ原を狙うだろうが、そこまで寿命がもったかどうか。
三成は驚くほど人気がない。確かに最高級に有能な官僚だったけれども政治家ではなかった。しかし、忠誠心で動いていたのは間違いはなく、そこまで性格が悪いと言われることもないと思う。徳川の天下になって後、三成の評価は捻じ曲げられたような気がしてならない。家康の方がよっぽど人が悪いと思うのだが。
関が原のことは私も当日9/15に書こうかな!と思ってました。
思わず記事を拝見して喜んでしまいました!!
三成はマジメな官僚で大大名とか、人の上に立つのには向かないですよね。
誰か上で支えてくれる人がいないと力を発揮できないタイプと言うか…。
上にたつ人は清濁あわせて飲める人じゃないとダメですよね。
そういう面では三成ほど秀吉に誠実な部下っていなかったんでしょうね。
関が原第2、3弾を楽しみにしていまーす!!
それにしてもjasminteaさんも書かれるとは。こりゃうかつなことは書けませんねー(笑)。そうか、9/15に書くという手もあったか。あんまりそういうことに気が回らない僕。(反省)。11/15ってのは企画しようかなとは思っていましたが。ふふふ。
三成は本当にマジメ人間で…。あの時代には考えられないほど優秀な逸材なんですけどね。時代を作るっていうのは難しいことだと本当に思います…。