このことをさっきまで知らなかった。あまりにもショッキングでどう書いていいのかまだ模索中である。
僕は夜、PCを開いてネット接続すると、自分のブログを書き出す前にまず情報サイトを見る。その中の一つにみるくてぃーさんのプロレス愛溢れるブログがあり、ここで今日のプロレスニュースを見て、あーだこーだと考えるのが常である。今日も訪問して、目を疑うような記事に接することになってしまった。
「橋本真也さん急死!!」
そんな馬鹿な。確かに右肩を手術してリハビリ中なのは知っている。しかし、死ぬような話ではなかったはず。いったいどうなっているのだ? 詳細をリンクして下さっているのでニュースサイトに飛ぶ。
「“破壊王”のニックネームで親しまれたプロレスラーの橋本真也さんが11日午前、横浜市内の市立大付属市民総合医療センターで死去した。40歳だった。死因は脳内出血とみられる。」
愕然、である。なんでだ?!
彼と僕とは同い年である。そんなに早く逝ってしまっていいのか。先だって新日の5/14のドーム大会に武藤敬司、三沢光晴が参戦し、蝶野が「これで橋本さえリングに上がってくれれば…」という声明を出した。全くそのとおりで、闘魂三銃士に三沢が加わるプロレス・サミットは僕も本当に見たかった。今プロレス界の千両役者といえばやはり彼らであっただろうから。
プロレス技の記事を書いてこれで22回なのだけれども、その第一回目が「ブレーンバスター」だった。そのときに僕は、垂直落下式を復活させたのは橋本真也ではないだろうか? と書いた。僕の世代は垂直落下と言えばもちろんディック・マードックであった(キラー・カール・コックスはさすがに知らない)のだが、その垂直落下といえば「尻もち式」であった。よく考えれば橋本真也は違う。体重をぐっと相手の首に乗せて脳天を叩きつける。復活、と言うよりも「元祖」と言うべきであった。それに、橋本は「ブレーンバスター」ではなく「DDT」と自ら言っている。
DDTとブレーンバスターの違いは実はかなり難しい。分類学というほどたいそうなものではないのだけれど、ノーザンライトボムやジャックハマーとも系統的に分けなくてはならない。僕は単純に、相手の腕を自分の首に巻きつけるか否かという点で区別しようとしていた。だから、アントニオ・ドライバーや初代タイガーのタイガードライバーもDDTと同系統とみる。つまりフロントネックチャンスリーだ。その中で、相手の脳天をマットに突き刺すような角度で投げるのを「DDT」と言う。そんなふうに理解していた。橋本の垂直落下式DDTは、相手の腕を自分の首の後ろにもってくる。相手の抱え上げ方がブレーンバスターと同じだった。じゃあブレーンバスターじゃないの? と思ってしまうのだが、橋本曰く「足のステップがDDTなんだ」そうである。そうやって考えると、足を蹴り上げるようにステップを踏む。あれがDDTの証しなのか。難しいので橋本選手にもう一度教えを乞いたいが、残念ながらもうその術はない。橋本はさらにジャンプしてのDDTも放つ。あの橋本の体重がすべて脳天に集中してマットに突き刺さるということを想像しただけでも恐ろしい。100%フォールを奪える必殺技であった。あれだけ体重を乗せて放てるレスラーはもう出てはこまい。あれもやはりDDTなのだろうか? 橋本選手に解説を聞きたいのだがもうそれも詮無いこととなった。
しかし、本人はDDTを放っていたのだろうが、そのDDTが、既に痛め技の範疇となっていたブレーンバスターを復活させたのもまた事実である。橋本はやはり「元祖」でありブレーンバスターを甦らせたことには間違いはない。
橋本は1984年に新日本プロレスに入門。すぐに頭角をあらわした、というわけではなかったかもしれない。同期の武藤には最初水をあけられた感があった。スター性という面で武藤は素晴らしいものを確かに持っていたからだ。しかし、橋本の眼光は鋭かった。
僕は、デビューしてまだ間もないころの橋本の試合のVTRをまだ持っている。当時TV中継はまだ一時間枠で、時々若手の試合も放送したのだ。それは6人タッグで、木村健吾・山田恵一(ライガーですな)・武藤組vs星野勘太郎・小杉俊二・橋本組の試合。最も若手が武藤と橋本だ。まだ橋本が黒のショートタイツをはいているのでもしかしたらお宝映像かもしれない。当時は小杉がヤングライオン杯を制した時でノッていた。しかし一番若い橋本は負けじとぶつかっていた。ニールキックも当時から放っていて、蹴りは重かった。フロントスープレックスやブロックバスターなどの珍しい技も繰り出し、最後は木村健吾の稲妻レッグラリアートに沈んだ。しかし、その眼光の鋭さは、優しい目をした武藤よりも印象に残る。
その後海外遠征、そして凱旋帰国してからは「闘魂三銃士」として長州軍離脱、UWF離脱の後をよく埋めて頑張った。輝かしいタイトル歴も光る。エースとして新日を引っ張っていた。
しかし、小川直也戦以降、少し路線が変わってしまう。引退、そして千羽鶴による復活。しかし会社と対立し、解雇そしてゼロワン創設へと向かうのだ。
橋本は、自ら進んで荒海に出てしまったとも言える。そのことが、彼に無理を強いることになったのではないだろうか。全日、ノア、そしてハッスルと戦いの場をいくつも数え、団体枠を超えるキーマンともなった。よそで思惑があって出来ない試合もゼロワンなら出来る。このままでいけば、薩長同盟を成功させた坂本龍馬のようにプロレス団体の融和そして統一の礎になれたかもしれなかった。しかし…。
手術、そしてゼロワン崩壊宣言。負債を抱えた橋本だったが、レスラーはマットに上がらないと何も出来ない。リハビリに励む毎日であったと聞くが、精神的にもかなり無理があったのではないだろうか。焦りもあっただろう。そうした中で…。
11日午前、脳幹出血のため死亡。享年40歳。あまりにも早すぎる死。袈裟斬りチョップも水面蹴りも、何人たりとも反せない垂直落下式DDTも、もはや見ることはかなわない。ただ合掌。
僕は夜、PCを開いてネット接続すると、自分のブログを書き出す前にまず情報サイトを見る。その中の一つにみるくてぃーさんのプロレス愛溢れるブログがあり、ここで今日のプロレスニュースを見て、あーだこーだと考えるのが常である。今日も訪問して、目を疑うような記事に接することになってしまった。
「橋本真也さん急死!!」
そんな馬鹿な。確かに右肩を手術してリハビリ中なのは知っている。しかし、死ぬような話ではなかったはず。いったいどうなっているのだ? 詳細をリンクして下さっているのでニュースサイトに飛ぶ。
「“破壊王”のニックネームで親しまれたプロレスラーの橋本真也さんが11日午前、横浜市内の市立大付属市民総合医療センターで死去した。40歳だった。死因は脳内出血とみられる。」
愕然、である。なんでだ?!
彼と僕とは同い年である。そんなに早く逝ってしまっていいのか。先だって新日の5/14のドーム大会に武藤敬司、三沢光晴が参戦し、蝶野が「これで橋本さえリングに上がってくれれば…」という声明を出した。全くそのとおりで、闘魂三銃士に三沢が加わるプロレス・サミットは僕も本当に見たかった。今プロレス界の千両役者といえばやはり彼らであっただろうから。
プロレス技の記事を書いてこれで22回なのだけれども、その第一回目が「ブレーンバスター」だった。そのときに僕は、垂直落下式を復活させたのは橋本真也ではないだろうか? と書いた。僕の世代は垂直落下と言えばもちろんディック・マードックであった(キラー・カール・コックスはさすがに知らない)のだが、その垂直落下といえば「尻もち式」であった。よく考えれば橋本真也は違う。体重をぐっと相手の首に乗せて脳天を叩きつける。復活、と言うよりも「元祖」と言うべきであった。それに、橋本は「ブレーンバスター」ではなく「DDT」と自ら言っている。
DDTとブレーンバスターの違いは実はかなり難しい。分類学というほどたいそうなものではないのだけれど、ノーザンライトボムやジャックハマーとも系統的に分けなくてはならない。僕は単純に、相手の腕を自分の首に巻きつけるか否かという点で区別しようとしていた。だから、アントニオ・ドライバーや初代タイガーのタイガードライバーもDDTと同系統とみる。つまりフロントネックチャンスリーだ。その中で、相手の脳天をマットに突き刺すような角度で投げるのを「DDT」と言う。そんなふうに理解していた。橋本の垂直落下式DDTは、相手の腕を自分の首の後ろにもってくる。相手の抱え上げ方がブレーンバスターと同じだった。じゃあブレーンバスターじゃないの? と思ってしまうのだが、橋本曰く「足のステップがDDTなんだ」そうである。そうやって考えると、足を蹴り上げるようにステップを踏む。あれがDDTの証しなのか。難しいので橋本選手にもう一度教えを乞いたいが、残念ながらもうその術はない。橋本はさらにジャンプしてのDDTも放つ。あの橋本の体重がすべて脳天に集中してマットに突き刺さるということを想像しただけでも恐ろしい。100%フォールを奪える必殺技であった。あれだけ体重を乗せて放てるレスラーはもう出てはこまい。あれもやはりDDTなのだろうか? 橋本選手に解説を聞きたいのだがもうそれも詮無いこととなった。
しかし、本人はDDTを放っていたのだろうが、そのDDTが、既に痛め技の範疇となっていたブレーンバスターを復活させたのもまた事実である。橋本はやはり「元祖」でありブレーンバスターを甦らせたことには間違いはない。
橋本は1984年に新日本プロレスに入門。すぐに頭角をあらわした、というわけではなかったかもしれない。同期の武藤には最初水をあけられた感があった。スター性という面で武藤は素晴らしいものを確かに持っていたからだ。しかし、橋本の眼光は鋭かった。
僕は、デビューしてまだ間もないころの橋本の試合のVTRをまだ持っている。当時TV中継はまだ一時間枠で、時々若手の試合も放送したのだ。それは6人タッグで、木村健吾・山田恵一(ライガーですな)・武藤組vs星野勘太郎・小杉俊二・橋本組の試合。最も若手が武藤と橋本だ。まだ橋本が黒のショートタイツをはいているのでもしかしたらお宝映像かもしれない。当時は小杉がヤングライオン杯を制した時でノッていた。しかし一番若い橋本は負けじとぶつかっていた。ニールキックも当時から放っていて、蹴りは重かった。フロントスープレックスやブロックバスターなどの珍しい技も繰り出し、最後は木村健吾の稲妻レッグラリアートに沈んだ。しかし、その眼光の鋭さは、優しい目をした武藤よりも印象に残る。
その後海外遠征、そして凱旋帰国してからは「闘魂三銃士」として長州軍離脱、UWF離脱の後をよく埋めて頑張った。輝かしいタイトル歴も光る。エースとして新日を引っ張っていた。
しかし、小川直也戦以降、少し路線が変わってしまう。引退、そして千羽鶴による復活。しかし会社と対立し、解雇そしてゼロワン創設へと向かうのだ。
橋本は、自ら進んで荒海に出てしまったとも言える。そのことが、彼に無理を強いることになったのではないだろうか。全日、ノア、そしてハッスルと戦いの場をいくつも数え、団体枠を超えるキーマンともなった。よそで思惑があって出来ない試合もゼロワンなら出来る。このままでいけば、薩長同盟を成功させた坂本龍馬のようにプロレス団体の融和そして統一の礎になれたかもしれなかった。しかし…。
手術、そしてゼロワン崩壊宣言。負債を抱えた橋本だったが、レスラーはマットに上がらないと何も出来ない。リハビリに励む毎日であったと聞くが、精神的にもかなり無理があったのではないだろうか。焦りもあっただろう。そうした中で…。
11日午前、脳幹出血のため死亡。享年40歳。あまりにも早すぎる死。袈裟斬りチョップも水面蹴りも、何人たりとも反せない垂直落下式DDTも、もはや見ることはかなわない。ただ合掌。
さっき報道ステを見てたら心なしか古舘さんの目も潤んでいましたね。
あのDDTは誰にもできないし、それ以上にあんなにプロレスに全て賭けて猪木イズムを継承するレスラーはもういないでしょう
闘魂3銃士を組む前も武藤、蝶野に比べると遅咲きでしたよね。でも、いつも橋本の目には光があった!あの長州を追ってた時の彼は輝いていたなぁ‥。
本当にただただ、ご冥福をお祈りするだけです。
合掌‥
橋本真也がやろうとしていたことは、巷間いろいろ言われていますが、結構純粋なものだと僕は信じています。彼は、ゼロワンを、団体枠を超えた誰でも上がれるリングにしたいと思っていたのでは、と。志半ばにして斃れましたが、フリーとしての橋本真也の仕事は、まさにこれからだったと思えるだけにショックです。
彼は眼光鋭いですが、笑うと実にあどけない顔になります。その笑顔がまた忘れられません。鼻の奥が熱くなってきました。
プロレスのことを知らなくても、橋本真也さんのことは知っています。
とても人なつこそうな方ですよね。
同世代の、しかも、まだまだこれからの人には、そんなに簡単に旅立ってほしくはないですね。
今はただ、ご冥福をお祈りするばかりです。
凛太郎さん同様、デビュー時から知ってるわけですし彼の試合でどれだけ熱狂したか
もう、彼の試合が見れなくなるという事実だけが
残ります。
ご冥福をお祈りします。
彼は、実に茶目っ気たっぷりの笑顔を見せましたね。そこが、プロレスファン以外にも愛された所以なのでしょう。
なんとも言えません。
つらいねぇ。