凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも平治の乱で源義朝が勝っていたら

2007年02月03日 | 歴史「if」
 前回の続き。

 藤原信西という人物についてまだ考えている。彼はいったい何を目指したのか。
 信西の頭脳明晰さ、博学さという点においては、いくつも逸話がある。鳥羽上皇がふと日本故事について尋ねた際、信西はスラスラとアンチョコなしで即答したという。さすがの悪左府藤原頼長もこのときにはシャッポを脱いだらしい。歴史に通暁し、「本朝世紀」を始め史書を編纂した。また法律の専門家で「法曹類林」も著している。さらに中国語がペラペラで宋人と通訳なしで話したという。後に聞かれて「自分に遣唐使の命が下ったときの用意だ」と答えたという。菅原道真が献策して遣唐使が廃止されてから既に百年以上経っているのに。
 このことから分かることは、信西は中国に憧れ、律令に精通していたということ。そしておそらくは奈良時代に中国に倣って制定された律令制が骨抜きとされ、摂政関白といった令外の官が幅を利かせていることを憂いていたのではないかと想像できる。
 そう考えると、信西の目指す方向性ははっきりしていたと思われる。それは天皇家親政による中央集権国家の復活であろう。
 保元の乱後、信西は死刑を復活させ、源為義らを斬刑に処した。これは一種の遵法精神である。祟りを恐れ死刑に値する罪であっても必ず罪一等を減じて遠流等に止めていた今までのあり方に釘を刺したのであろう。
 また、それだけではないところに信西の策謀家たるところが見える。この死刑復活でダメージを負ったのは間違いなく源氏である。源氏は一族郎党斬られ、残ったのは義朝とその息子だけである。平氏にはさほどのダメージはない。これはやはり源氏の力を削がんとしたからだろう。平氏は正盛、忠盛以来院政と深く結びついていた。対して源氏は義家以来摂関家との繋がりが深い。この斬刑は摂関家の力を削ぐことにも繋がるのである。乱の恩賞も、当然先頭に立った義朝に厚くしてしかるべきところを、清盛に播磨守、大宰大弐を与え義朝には左馬頭である。明らかに差をつけている。
 摂関家にもさらにメスを入れる。藤原摂関家は、関白が忠通、氏の長者が頼長という分裂状態であったが、頼長敗死により氏の長者を忠通とする命を出した。これは、一見摂関家の建て直しにも見えるが、氏の長者というのは公的官職ではなく藤原家の私的なものである。その人事に介入という前例を作ったのだ。
 そして、信西は荘園整理令を出す。荘園とは私領であり、藤原摂関家の財力の源である。これも本来の律令制を逸脱した存在である。律令制では公地公民のはずであるから。
 この荘園整理令は今までにも幾度も出されてきた。しかしその度に骨抜きとなる。為政者が摂関家であり最大の荘園保有者であったからには当然だ。信西は記録荘園券契所を設置し、後三条天皇の時に成果を上げた延久の荘園整理令の再来を目指した。これらは摂関家の抑圧、そして寺社勢力をも対象としている。
 その他朝廷の諸儀式の再興、また大内裏の復興など矢継ぎ早に政策を進めていく。内裏復興では、信西は建築技術までも指導し短期間で完成させてしまう。このあたり理系の頭も持っていたのだろう。藤原仲麻呂を彷彿とさせる部分である。だがやっていることは、後の後醍醐天皇に近い。

 こうして天皇親政の政策を着々と進めていく。官僚としてはかなり優秀な人物だろう。理想とする政治体型に邁進する様子は、ある意味石田三成を連想させる。しかし三成が武断派の恨みをかったのと同様、信西も敵を多く作ることとなってしまう。
 最初の挫折は、後白河が保元の乱より三年経って、勝手にさっさと守仁親王に譲位してしまったことである。何でだ? 確かに後白河即位当初は「繋ぎ」であるとされていた。有能である守仁即位のために繋ぎで天皇になったと。しかしそう路線を引いた鳥羽院はもういない。鳥羽、崇徳が居なくなりせっかく権力が天皇親政によって一元化したのに、これで即位した守仁(二条天皇)と二元体制となってしまう。信西を快く思わない勢力は二条に付く。せっかく信西が天皇親政(王政復古)、中央集権の国家体制を目指していたのに。
 後白河は面倒だったのだろうか。今様で遊びたかったのかもしれない。信西は後白河を暗主と罵っている。気持ちはよくわかる。
 さらに、院政勢力内でも分裂が起きる。藤原信頼の存在である。
 信頼は後白河に近侍し寵愛を得ていたが、政治家としての能力には疑問符がついた人物だったとされる。だが後白河により順調に出世し、ついに右大臣、右大将の任官を望んだ。後白河も乗り気であったが信西がこれを差し止めた。能力主義の信西らしいが、これにより信頼は信西に深い恨みを抱くこととなる。
 さらに武家勢力である。信西によって勢力を削がれる形となった源義朝は、それでも信西に近づこうと縁組を試みるが、信西によってはねつけられる。その後まもなく信西は清盛と縁組をしたため、義朝は信西に対し怨恨を持つようになる。武士というものの存在を掌握しきれなかったところに、信西の弱さがあったのかもしれない。

 年号が替わり平治、ついに信頼と義朝は手を組みクーデターを起こすこととなる。
 二条天皇派の連携も成し得た信頼と義朝は、信西の一種近衛であった清盛が一族を引き連れ熊野参詣へ出発したのを見計らい、後白河院と二条天皇を拘束して院の御所である三条殿を焼き払い、お手盛りで信頼は右大臣右大将、義朝は播磨守を任じ朝廷を占拠した。こうしてクーデターは成功したが、清盛は熊野に無傷で居る。この戦力が京へ折り返せば必戦である。
 その頃鎌倉より参上した義朝の長男である悪源太義平は、「直ぐに大阪に出陣して清盛を待ち伏せ、まだ武装していない白装束であるはずの清盛一行を殲滅すべきだ」と奏上する。
 しかし、信頼は「大阪まで行くのは疲れるぞ」と訳のわからないことを言い、清盛は京都に入ってから成敗すればいい、と義平の献策を退けたのである。
 歴史は繰り返す。これは三年前の保元の乱で源為義(及び為朝)の献策を退けて滅亡した藤原頼長と同じことである。結局源氏は公家にずっと煮え湯を飲まされているのである。
 ここでもしも、義平の進言を受け入れ平氏追討の進軍をしていたならば。
 清盛一行は熊野参詣の途中である。これは真実かどうかわからないが、御所占拠の報を受けても、清盛はまだ熊野へ参っていないことに未練を持ち、「熊野参詣を先に済ませるか」などとのんびりしたことを言っていたとも言う。それを長男重盛が一喝し、急ぎ京への道をたどったと言う。ここにもifがある。この時清盛ら平氏一行がのんびりしていたならば。そして義平の軍勢がやってきたならば。
 清盛一行は平治物語によれば、ある程度の武装の用意はあったと言う。しかし完全ではなかった。清盛は一計を案じ、四国に渡って軍勢を整えてから京へ押し出そうとも考えたと言う。しかしそれも重盛が反対して、急ぎ京へと向かう算段になったとも言われる。
 平氏に重盛が居てよかったなあ。ともかく平氏は急ぎ引き返す。そしてやすやすと六波羅へ入ってしまうのである。

 もしも大阪で義平が待ち伏せをしていたら。平氏一行はある程度の武装は整え、紀伊で戦力を増強したとしても、少なくとも清盛はそう簡単に京都へは入れまい。清盛を京都に入れないことが重要なのである。清盛がのんびりして熊野参詣を先に済ませたり、また四国へ渡って戦力を整えたりしていたら。京都に入るのがぐっと遅くなるのである。その間に、後白河、二条を手中にしている信頼・義朝は、平氏追討の院宣や綸旨を出させることも可能であったはず。そうなれば平氏は朝敵となる。
 こうなってしまえば、流れが出来てしまうのである。平氏滅亡の時期が早まったかもしれない。そこまでは難しくても、この後の平氏の隆盛に待ったがかかった状態になるだろう。ここから先は無限に考えられる。信頼は器量がなく義朝は視野が広くなかったので、義朝が清盛のように太政大臣にまで上り詰めるとは思えないが。しかし平氏と源氏が逆の立場に立ち、「源氏でなければ人ではない」という世の中がやってきて、それに不満を抱く武士が重盛を中心に巻き返し「福原幕府」「安芸幕府」を開くというところまで想像しようと思えば…難しいか。そもそも将軍職を開拓したのは頼朝だしねぇ。ただ歴史は変わっていたことは間違いないだろう。

 実際は、六波羅に入った清盛一行は、抵抗しないと見せかけて油断させ、一気に反撃に出る。信頼側の人間に工作し、後白河、二条を脱出させる。そして即座に信頼・義朝追討の宣旨を出させるのである。
 もうこれで勝負はついたと言ってもいい。有名な義平の奮戦はあるものの、朝敵となった源氏には裏切りも出て、結局平氏方の勝利に終わるのである。信頼は斬首、義朝も騙し討ちにあい非業の死を遂げる。こうして、平氏隆盛の時代がやってくるのである。

 さて、信西はどうしていたか。
 話は遡るが、信西は信頼と義朝の軍勢が攻め入る直前に逃げているのである。平治物語では天変を見てこのことを予見したことになっているが、情報網をある程度持っていたのかもしれない。
 そのまま逃げ延びることは可能だったかもしれないと思っている。しかし京都の情勢を知り、もはやこれまでと観念してしまった。自らが目指した王政復古、中央集権国家の道は水泡に帰した、と。義朝が平氏を討ってしまえばそれで終わりだ。そう予測しただろう。まさか「大阪まで行くのは疲れる」などと信頼が言ったなどとはさすがに明晰な信西は想像出来なかったのではないか。
 信西は出家らしく「入定」という方法をとる。土中に自ら埋まり、空気穴だけを造り、断食して即身仏(ミイラ)になるということである。僧らしく衆生救済を目的とした死に方を選んだ。潔いとも思える。平治物語によれば、「忠臣君に代わり奉る」と、後白河の身のために自らを滅ぼす道を選んだと記されている。
 信西が気の毒なのは、これがまだ息のあるうちに見つかり掘り返されてしまったことである。もう瀕死の状態であったかもしれないが、まだ虫の息があった。そして首を斬られて絶命。その首は引き回され獄門に処されたという。絵巻物にその時の信西の首を写したものが存する。

 後白河は、天皇親政時代は政治はほぼ信西に任せきりであったらしい。
 信西の政治は、虚飾を排せばとても奸臣とは思えない。一本筋が通っている。成り上がりで出世だけを望んだとも言われるが、理想を追い続けた人物であったようにも思う。しかし人の気持ちは判らなかったようで、同時代に居たら僕もとても信西を好きにはなれなかっただろう。冷徹すぎたキライがある。そこいらへんも三成を思い出す。
 その信西の政治を後白河はずっと見ていた。政治というもののやり方を失敗例も含めて学んだに違いない。その強者の間の立ち回り方までも、信西の失敗から学んだことだろう。暗愚と言われ今様にうつつを抜かしていた後白河は、いつのまにか大政治家となっていく。人を操り、戦わせ栄枯盛衰を何かの影に隠れて見ている。源義仲も平宗盛も源義経も後白河に翻弄されて滅びていく。頼朝をして「日本一の大天狗」と言わしめた、稀代のタヌキ政治家となった後白河。しかし後白河は権謀術策だけに頼り、結局武士の時代を成立させてしまう。後白河に保身はあってもポリシーが感じられない。後白河が目指したものは何だったのだろうか。天皇親政、中国型の中央集権の律令政治を目指した信西が見れば、いったいどう評価するだろうか。



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2 コメント

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>jasminteaさん (凛太郎)
2007-02-17 08:23:00
「平治物語」またそれに連なる「平家物語」「源平盛衰記」が全てノンフィクションであるとは思いませんが、結局平氏は重盛が全てであったのかもしれません。彼がいなければもうこの時点で滅んでいてもおかしくはない。物事の機微、道理がよくわかった人物であったのでしょうね。

信西について考えるといつも様々なことが脳裏を去来します。彼は政治的ずるさも十分に持ち合わせていたと思うのですが、結局この結末になってしまった。仲麻呂、その息子であったかもしれない徳一、そして信西には何か共通したものを僕も感じます。

そのやりかたを後ろでずっと見ていたのが後白河であったのでしょうね。彼はそのため、器量はないのに技量は十分に持ち合わせた人物に育った。そのため歴史がややこしくなる(笑)。
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重盛を褒めて下さって♪ (jasmintea)
2007-02-15 22:26:08
重盛に関する一文を拝見してニコニコです
私が喜んでも関係ないですよね
信西はおっしゃる通り仲麻呂を彷彿とさせます。
こうして改新的な考えと言うか、決められたことをキッチリやろうとしたら反対勢力が出るのは当たり前。
自分に賛同してくれる人を近くに置けばそれで悪く言われるし。
仲麻呂にしても、信西にしてもその死は痛ましいです。

後白河は、、たぶん、、自分を守りたかっただけなんだと思います。
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