日本と言う国は海で囲まれているために、国家が成立して後は比較的独立を保ってこられた。
国家が成立して後、と書いたのは、そもそも日本国家の成立が侵略によるもの、という考え方があるからだ。古来日本民族であった縄文人を駆逐して大陸から弥生民族が侵攻、倭国を成立させたという考え方もできる訳で、それが騎馬民族か否かは別としても古代には比較的侵略、移住は容易だったのかもしれない。
前置きはともかく、日本という国が成立して後は、陸続きでない日本は外敵に対しては楽な立場であったと言っていい。となりの朝鮮半島などは中国と接しているだけで外交と防衛戦争にあけくれた。
日本が危機にさらされたのは過去に6度ほどしかない。
最初は白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗れたとき。天智政権は水城を築き、城を固めて自らは近江に逃げた。しかしこのときは結局唐は攻めてはこなかった。
その後「刀伊の入寇」はあったがたいした事はなかった。次が鎌倉時代の元寇である。このときは実際に元が侵攻してきたわけで、日本歴史上未曾有の危機であったと言っていい。元はチンギスハン以来、宋を押しやって中原に腰を下ろし、高麗(朝鮮)を支配下におき、西は「タタールのくびき」のロシアをはじめヨーロッパを次々に陥とした。ローマ帝国以来の強大国と言ってもいい。(キプチャクカン国とかいろいろあって面倒なので、とりあえずみんな「元」ということにします) 次は戦国期にキリスト教とともにやってきた南蛮諸国の脅威(サン・フェリペ号事件で知られる)である。日本を植民地にしようとする動きは確かにあったのだが、スペイン・ポルトガルの国力低下と日本のキリスト教排除及び鎖国政策で封じた。
あとの3回は幕末の黒船、日露戦争、太平洋戦争である。何れも近代だ。
この中で最も危なかったのは、太平洋戦争と並んでやはり元寇だったと思う。
元は日本を支配する予定ではなかった、とはよく言われる説だ。高麗の三別抄を鎮圧出来ず、南宋の抵抗もあって、日本がこれらと連携しては困るのでとにかく同盟を結びたかった、或いは併合ではなく属国としたかったのだ、という説である。僕もおおむね賛成なのだけれど、絶対に征服併合しなかったという保証はない。国書を何回も無視しているわけで、そうなれば攻められる事は必至となる。元は怖いのだ。
結局、元は攻めてくる。といっても海に守られた日本であるから船を作らねばならず、支配下にあった高麗は突貫工事で船を量産させられた。そして文永11年に元・高麗軍はまず壱岐・対馬を攻めるのである。壱岐・対馬は壊滅状態になった。 このことは、後の太平洋戦争の沖縄戦に似ている。元寇に打ち勝ったことばかり喧伝されているが壱岐・対馬の犠牲をもっと知るべきだろう。
そして元は九州に上陸する。日本の戦法はまだ「やあやあ我こそは…」であったらしくこれでは鉄砲も持つ元軍に勝てるわけがない。義経でも居たらいい勝負をしたかもしれないけれども当時の鎌倉武士では勝ち目はなかった。
しかし奇跡が起こる。夜になって船に引き上げた元・高麗軍を嵐が襲う。神風だ。一説によるとこの戦いは偵察であり元軍は帰ったのだ、という説もあるが(この文永の役は11月であり台風シーズンではないため)、とにかく元が居なくなったことには違いはない。とりあえず命拾いである。
しかしその後も元の使者杜世忠を幕府は斬り(国際常識がない)、その後の使者周福も斬り、攻めてくれと言わんばかりの行動をとる。弘安の役は起こるべくして起こった。
今度は元も本気であり、鎌倉幕府も危機感を募らせ防塁を築き関東から幕府軍も来ていた。しかし戦力は圧倒的に元が勝る。しかし、またもや奇跡は起こるのである。2度目の神風。今度は8月でありおそらく台風だろう。元軍は壊滅した。
その後元は日本を襲うことなく無事に過ぎたが、元寇には恩賞もなく、御家人はますます窮乏し幕府崩壊の最大の要因となったことには間違いない。
では、もしも弘安の役のときに神風が吹かなかったとしたらどうなっていただろうか。
文永の役では神風はなかったという説もあり偵察派兵とも言われているが弘安の役は本気だった。元軍は14万、対する日本軍は6万である。防塁を築き、軍船に夜襲をかける等戦術も工夫していたが、やはり攻め込まれていたと考えるのが妥当ではないか。
極端に考えれば、元の日本征服は有りえたかもしれない。しかし、補給線の問題もあり、輸送を船に頼らざるを得ない元とすれば、日本の完全制圧は考えにくい。島国であるがゆえ世界を席巻した騎馬部隊が使えないからだ。しかし北九州をかりに元が制圧したとして、大規模な基地を作り高麗からの徹底した戦力補給がなされればかなりの混乱は予想される。当時は簡易鉄砲はあったにせよ人海戦術に違いはないので、ジリジリと元軍が京都、鎌倉方面へ局地戦を繰り返しながら攻めていくことになっただろう。
しかし高麗の三別抄の例もあるように、小競り合いやゲリラ戦などが頻発し元も完全制圧は難しいと思われる。陸続きではないのだから。元としては南宋や高麗と日本が手を組まなければいいわけであって、ある程度のところで和睦が考えられる。日本は元の属国となり、奥州の金はかなり吸い取られるだろう。その後、元の国力が衰退すれば、再び独立を取り戻すことが予想される。
だが、鎌倉幕府の権威は完全に堕ち、おそらくは鎌倉幕府崩壊は半世紀早くやってくるだろう。ただ、後醍醐天皇はまだ出てきていない。もしかしたら北条氏の失脚に留まって、鎌倉幕府は存命の可能性もある。だが幕府はガタガタのはずであり、朝廷は権謀術策に長けているので、承久の乱のリベンジをすべく政権奪還工作を始めることは充分に想像できる。しかし後醍醐天皇のような強烈な個性あってこその南北朝時代であるので、持明院統と大覚寺統があそこまでドロドロするとは思えない。長い南北朝の対立はおそらく無いだろう。そして朝廷がかりに政権奪還しても、武士の不満がおさまるわけでもなくまた武家政権は起こるだろう。その旗頭が足利なのか、或いは新田なのか武田なのかはわからないが、歴史は全然別の道を進むに相違ない。
※追記として、以下の記事をupしました。(2010/3/29)
もしも元寇のとき神風が吹かなかったら2
国家が成立して後、と書いたのは、そもそも日本国家の成立が侵略によるもの、という考え方があるからだ。古来日本民族であった縄文人を駆逐して大陸から弥生民族が侵攻、倭国を成立させたという考え方もできる訳で、それが騎馬民族か否かは別としても古代には比較的侵略、移住は容易だったのかもしれない。
前置きはともかく、日本という国が成立して後は、陸続きでない日本は外敵に対しては楽な立場であったと言っていい。となりの朝鮮半島などは中国と接しているだけで外交と防衛戦争にあけくれた。
日本が危機にさらされたのは過去に6度ほどしかない。
最初は白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗れたとき。天智政権は水城を築き、城を固めて自らは近江に逃げた。しかしこのときは結局唐は攻めてはこなかった。
その後「刀伊の入寇」はあったがたいした事はなかった。次が鎌倉時代の元寇である。このときは実際に元が侵攻してきたわけで、日本歴史上未曾有の危機であったと言っていい。元はチンギスハン以来、宋を押しやって中原に腰を下ろし、高麗(朝鮮)を支配下におき、西は「タタールのくびき」のロシアをはじめヨーロッパを次々に陥とした。ローマ帝国以来の強大国と言ってもいい。(キプチャクカン国とかいろいろあって面倒なので、とりあえずみんな「元」ということにします) 次は戦国期にキリスト教とともにやってきた南蛮諸国の脅威(サン・フェリペ号事件で知られる)である。日本を植民地にしようとする動きは確かにあったのだが、スペイン・ポルトガルの国力低下と日本のキリスト教排除及び鎖国政策で封じた。
あとの3回は幕末の黒船、日露戦争、太平洋戦争である。何れも近代だ。
この中で最も危なかったのは、太平洋戦争と並んでやはり元寇だったと思う。
元は日本を支配する予定ではなかった、とはよく言われる説だ。高麗の三別抄を鎮圧出来ず、南宋の抵抗もあって、日本がこれらと連携しては困るのでとにかく同盟を結びたかった、或いは併合ではなく属国としたかったのだ、という説である。僕もおおむね賛成なのだけれど、絶対に征服併合しなかったという保証はない。国書を何回も無視しているわけで、そうなれば攻められる事は必至となる。元は怖いのだ。
結局、元は攻めてくる。といっても海に守られた日本であるから船を作らねばならず、支配下にあった高麗は突貫工事で船を量産させられた。そして文永11年に元・高麗軍はまず壱岐・対馬を攻めるのである。壱岐・対馬は壊滅状態になった。 このことは、後の太平洋戦争の沖縄戦に似ている。元寇に打ち勝ったことばかり喧伝されているが壱岐・対馬の犠牲をもっと知るべきだろう。
そして元は九州に上陸する。日本の戦法はまだ「やあやあ我こそは…」であったらしくこれでは鉄砲も持つ元軍に勝てるわけがない。義経でも居たらいい勝負をしたかもしれないけれども当時の鎌倉武士では勝ち目はなかった。
しかし奇跡が起こる。夜になって船に引き上げた元・高麗軍を嵐が襲う。神風だ。一説によるとこの戦いは偵察であり元軍は帰ったのだ、という説もあるが(この文永の役は11月であり台風シーズンではないため)、とにかく元が居なくなったことには違いはない。とりあえず命拾いである。
しかしその後も元の使者杜世忠を幕府は斬り(国際常識がない)、その後の使者周福も斬り、攻めてくれと言わんばかりの行動をとる。弘安の役は起こるべくして起こった。
今度は元も本気であり、鎌倉幕府も危機感を募らせ防塁を築き関東から幕府軍も来ていた。しかし戦力は圧倒的に元が勝る。しかし、またもや奇跡は起こるのである。2度目の神風。今度は8月でありおそらく台風だろう。元軍は壊滅した。
その後元は日本を襲うことなく無事に過ぎたが、元寇には恩賞もなく、御家人はますます窮乏し幕府崩壊の最大の要因となったことには間違いない。
では、もしも弘安の役のときに神風が吹かなかったとしたらどうなっていただろうか。
文永の役では神風はなかったという説もあり偵察派兵とも言われているが弘安の役は本気だった。元軍は14万、対する日本軍は6万である。防塁を築き、軍船に夜襲をかける等戦術も工夫していたが、やはり攻め込まれていたと考えるのが妥当ではないか。
極端に考えれば、元の日本征服は有りえたかもしれない。しかし、補給線の問題もあり、輸送を船に頼らざるを得ない元とすれば、日本の完全制圧は考えにくい。島国であるがゆえ世界を席巻した騎馬部隊が使えないからだ。しかし北九州をかりに元が制圧したとして、大規模な基地を作り高麗からの徹底した戦力補給がなされればかなりの混乱は予想される。当時は簡易鉄砲はあったにせよ人海戦術に違いはないので、ジリジリと元軍が京都、鎌倉方面へ局地戦を繰り返しながら攻めていくことになっただろう。
しかし高麗の三別抄の例もあるように、小競り合いやゲリラ戦などが頻発し元も完全制圧は難しいと思われる。陸続きではないのだから。元としては南宋や高麗と日本が手を組まなければいいわけであって、ある程度のところで和睦が考えられる。日本は元の属国となり、奥州の金はかなり吸い取られるだろう。その後、元の国力が衰退すれば、再び独立を取り戻すことが予想される。
だが、鎌倉幕府の権威は完全に堕ち、おそらくは鎌倉幕府崩壊は半世紀早くやってくるだろう。ただ、後醍醐天皇はまだ出てきていない。もしかしたら北条氏の失脚に留まって、鎌倉幕府は存命の可能性もある。だが幕府はガタガタのはずであり、朝廷は権謀術策に長けているので、承久の乱のリベンジをすべく政権奪還工作を始めることは充分に想像できる。しかし後醍醐天皇のような強烈な個性あってこその南北朝時代であるので、持明院統と大覚寺統があそこまでドロドロするとは思えない。長い南北朝の対立はおそらく無いだろう。そして朝廷がかりに政権奪還しても、武士の不満がおさまるわけでもなくまた武家政権は起こるだろう。その旗頭が足利なのか、或いは新田なのか武田なのかはわからないが、歴史は全然別の道を進むに相違ない。
※追記として、以下の記事をupしました。(2010/3/29)
もしも元寇のとき神風が吹かなかったら2
いつも楽しませて頂いております。
歴史にお詳しいですね。お好きですか?
神風云々と称して、なぜ長い間日本は無事に過ごせてきたんでしょうね?
本当の所はどうなんでしょう?不思議です。
「黄金の国」と言われながらも、あまり魅力が無かったのかしら?
私、鎌倉時代の終わりも大好きです。
平家物語と同じで滅んでいく人たちの悲しさがありますよね。
ちなみに時宗のお父ちゃんの時頼好きです。
やっぱり弘安の役は本気だったと思います。そしてたぶん九州の一部は落とされたかもしれないですね。
でも、長い目で見れば駐留は不可能ですからやっぱり結果は日本の手に戻ったのではないでしょうか?
でもそうなったら凛太郎さんのおっしゃる通り鎌倉幕府はどうなっていたか。当面は外圧がある間は結束するでしょうが危機がさったあとはもたないでしょうね。歴史の「もしも」を考える時ってやり方、時期は違っても結局同じ結論にたどり着くのが不思議です。
私は足利は尊氏の力より直義の力が大きかったと思うんですよねー!と、また関係のないことでしたm(_ _)m
そしてまた長文でごめんなさい
日本が無事でいられた点は、3つあったと思います。
①偶然
弘安の役の神風にせよ偶然。大航海時代にはちょうどイスパニアが日本に本格的食指を伸ばした頃に国力が衰え、そのあとのオランダは侵略より通商を旨としていた。運がいい。日露戦争にせよ、よくぞ対馬海峡をバルチック艦隊は来てくれた。あれが津軽海峡だったらいくら秋山真之が頑張ってもダメ。恵まれていた。
②海に囲まれていた
まわりの海は実に日本を侵略しにくくしていた。元の騎馬部隊も海は渡れない。もし陸続きだったら、高麗のように侵略されていただろう。隣の朝鮮半島はずっと大国に脅かされ続けている。日本は天然の要害に囲まれているようなもの。
③辺境にあった。
やはり日本は世界的に見れば位置は辺境。「極東」ですからね。だから大国が侵攻したり植民地にしたりする順番は、いちばん最後の方になる。その頃になると大国は、もう充分に植民地支配をしていたり、あるいは疲弊して国力が衰えたりしていて日本に決定的一撃を与えることが出来ずに終わっている。立地条件の勝利でしょう。
以上のような点だと思います。日本に魅力がないなんてことはないですよ。(^-^) 黄金の国ジパングは憧れだったはずです。^^
時頼は「鉢の木(いざ鎌倉)」などでいい人みたいに言われますが実際はかなりの切れ者だったらしいですね。泰時もそうですし、北条はいい人材を輩出しましたね。
「if」を考えるとき、僕はいつも一番極端な結論が出れば面白いと思って書き出します。けれども結局無難な結論が出ちゃうことが多いのです。僕の好きなSF小説ですとこういうのは「歴史の自己補修作用」といいます。しかしパラレルワールドを考える事は楽しい。
元寇は兵站を考えると日本征服はどうしても難しいのです。極論を言えば、九州を元が完全制圧して、阿蘇の草千里で牧畜を行って騎馬をたくさん生産して(爆)、ということになれば日本征服は可です。しかし極端すぎる(笑)。
鎌倉幕府が早く滅亡すれば、後醍醐の出てくる間がありません。だとすれば、朝廷政権の出る幕はなく、そのまま次の幕府に移行していた可能性はあります。それが足利幕府とは限りませんしねぇ。
尊氏と直義は二人三脚だと思いますね。カリスマ尊氏と実務家直義か。秀吉に対する秀長よりはよっぽど存在は大きかったですね。
日本語がどこから生まれたのかってのは僕も勉強不足でよくわからないのですけれども、少なくとも文法は膠着語でありモンゴルや満州、朝鮮半島と同じですね。
妄想をたくましくすればそもそも「原日本語」があって、それは縄文文化下で話されていた言語でありそこに征服者である弥生人(騎馬民族かもしれない)がやって来て、融合したと。しかしもしも陸続きであったならば、言葉はどんどん侵食され、日本に古来からあったと考えられる言語は完全に姿を消し、語彙が同じになっていたかも。原日本語は、アイヌの言葉のようになっていた可能性もありますね。