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小山 青巖寺

三重県津市一志町小山にある真宗高田派のお寺です。

新しい顔ぶれ

2012年05月30日 | 聞法会・月例法座

 今日は、聞法会でした。

 新しく聞法会にいらっしゃった方が二人みえました。

 そのため、今までのおさらいをして、さらに先月行った九品についてお話ししました。

 しかし、先月「九品のところは大事で難しいところので、来月もう一度やります」と言いながら、今までのおさらいをしたため、九品のところは駆け足で説明することとなりました。

 初めていらっしゃった方にとっては、難しいところが、さらに難しく感じられたのでは、と危惧しています。

 いつもはもっと分かりやすいですからね~!(…って自分が思っているだけだったりして

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法然聖人

2012年05月16日 | 聞法会・月例法座

 今日は、月例法座でした。

 月例法座では『文類偈』を読んでいますが、今月は、法然聖人の箇所でした。

 法然聖人については、いろんなところで話していますし、いろいろお話ししたいところでもありますので、熱を入れてお話しさせていただきました。

 最近、ずっと『西方指南抄』という法然全集を読んでいるのですが、法然の講義録を見れば見るほど、膨大な知識に裏付けられた理路整然とした話だなぁと感心させられます。しかも、それが、一般的な知識に留まらず、法然自身を含むすべての個人を救う理論となっている。すごいことだと思います。

 そういう理論の一端を、今日はお話しさせていただきました。

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九品唯凡

2012年04月30日 | 聞法会・月例法座

 今日は、聞法会でした。今回から、九品(くぼん)の所に入ります。

 そこで今日は、九品についての概略をお話ししました。

 九品とは、人間を9種類に分けたものです。

  1.上品上生(じょうぼんじょうしょう)
  2.上品中生(じょうぼんちゅうしょう)
  3.上品下生(じょうぼんげしょう)
  4.中品上生(ちゅうぼんじょうしょう)
  5.中品中生(ちゅうぼんちゅうしょう)
  6.中品下生(ちゅうぼんげしょう)
  7.下品上生(げぼんじょうしょう)
  8.下品中生(げぼんちゅうしょう)
  9.下品下生(げぼんげしょう)

 善導以前の高僧は、上品は菩薩、中品は聖者や善人、下品は一時的に悪に陥ったものの臨終時に念仏して善人になった人というように解釈していました。「一生懸命頑張って修行して、すばらしい人になって、往生していく」という考え方です。

 しかし、善導は、そういった考え方を真っ向から否定して、「上品は大乗仏教に遇った凡夫、中品は小乗仏教に遇った凡夫、下品は悪に遇った凡夫である」と断言しました。全部、凡夫だ、と。そして、九品を菩薩や聖者と考えるのは、仏の心を全く分かっていないからだと、厳しく批判されました。

 「今、現に苦しんでいるものを救いたいというのが、仏の心であって、そういう苦悩の海に沈んでいる凡夫を安らかな浄土へ救い取ることが説かれているのが、この『観経』なんだ! 苦悩を克服した菩薩や聖者のために説かれた教えではない!」と、善導は独り、仏の本当の心を明らかにされたのでした(「善導独明仏正意」)。

 自分の心さえコントロールできず、すぐに欲望と怒りが暴れ出して、愛憎に振り回されている私たちを、なんとかして救おうとされているのが、阿弥陀仏です。「散り乱れたその心のままでいいから、私の名前を称えなさい。必ず救うから、絶対に見捨てないから」と誓われた阿弥陀仏の行が、念仏です。南無阿弥陀仏。

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報土と化土

2012年04月16日 | 聞法会・月例法座

 今日は、高田本山での開山聖人750回遠忌報恩大法会の最終日でした。

 出勤したかったし、する予定だったのですが、急にお寺参りや亡くなられた方が出て、行けなくなり、残念でした。次は、50年後です。(生きてないや(^-^;))

 夜6時からお通夜でした。亡くなられたのは、93才の方でした。高齢でのお一人暮らしでしたが、元気に過ごされていました。ですが、朝から姿が見えないので近所の方が不審に思って見てみたら、亡くなられていたとのことでした。

 お通夜の後、月例法座がありました。今回は、源信和尚の報化二土のところでした。

 報土は、真実の浄土で、阿弥陀仏の呼び声を聞いたものが行くところ。広大な開かれたところ。

 化土は、かりの浄土で、自力のものが行くところ。閉じられたところ。

 これは、浄土のことでありつつ、自分の心の象徴とも言えるでしょう。

 私たちは、そもそもは、自分の力しか信じていません。自分ががんばればなんとかなるし、がんばらなければダメで当然、と。そのことをおかしいとも感じません。ただ、孤独な在り方です。

 ですが、実はそう考えているとき、まわりの姿が見えていません。自分ががんばれているのは、実は自分ががんばっているからではなく、本当は自分ががんばれるまわりに恵まれているからです。そういうまわりに気づかされたものは、まわりのありがたさに感謝し、心が広くなります。そして、そういうまわりに支えられて生きていることに気づいておくれと願われ、私たちに呼びかけられているのが、阿弥陀仏です。

 阿弥陀仏に願われていることに気づき、その呼び声を聞いたものは、自分ががんばっていると思っていた自分の殻を破られ、「そうでした、そうでした。支えられていました」と、まわりに感謝することができます。自分で自分を閉じ込めていたところから、広大な開かれた世界に導かれるのです。

 そういうお話をさせていただきました。

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願われている

2012年03月30日 | 聞法会・月例法座

 今日は、午前中、本山に行っていました。貴重な時間を過ごさせていただきました。

 午後からは、聞法会でした。聞法会では、初めに30分ほど本堂で勤行し、次に茶所に移って、1時間ほど『観経』を読んで、残りの時間、坊守(母)と交代して、茶話会として一緒にお茶とお菓子をいただいてもらっています。

 今日は、本山に行っていたため、20分ほど遅れての開始となりました。

 聞法会としては、普観・雑観のところを勉強しました。その後、「よびごえ」に投稿した「願われている」を読みました。

 そして、茶話会を終えて茶所を出られた方々が、「聞法会に来ると、スッとする」「1ヶ月があっという間や」という会話をされていたと、坊守から聞きました。喜んで、法を聞きに来ていただいてもらっている、本当にありがたいことだと思いました。

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後の世を渡す橋

2012年02月16日 | 聞法会・月例法座

 今日は月例法座の日でした。今、月例法座では「文類偈」を読んでいます。
 今回は、源信和尚の箇所に入ったところでした。そこで、源信とその母親の有名なお話を紹介しました。

 源信は大和の国の生まれで、幼くして比叡山に登りました。

 もともと利発な子であった源信は、15才の時、村上天皇の前で、講義されました。

 帝はその講義の素晴らしさに感銘を受け、源信に褒美の品と「僧都」という位を与えられました。

 源信は、嬉しくて、大和の母に、褒美の品を贈りました。
 すると、母から、こんな歌が返ってきました。

後の世を 渡す橋とぞ思いしに
 世渡る僧と なるぞ悲しき

 「あなたが出家したのは、この世で悩んでいる人たちを仏の世界に導くためではなかったのですか? それなのに、帝に誉められて、位が上がり、褒美の品をいただいたと言って、満足するのですか? うまく世渡りするために仏門に入ったのですか?」ということでしょう。

 この母の手紙を読んでから、源信は比叡山でも最も奥深い横川というところに住んで仏道修行に精進されたとのことです。

 源信が書いた『往生要集』は、平安時代の人々に大きな影響を及ぼし、それは法然・親鸞を通して、今日にまで及んでいます。まさに、源信僧都は「後の世を渡す橋」になられたのでした。

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観音菩薩・勢至菩薩

2012年01月30日 | 聞法会・月例法座

 今日は、聞法会でした。今回は、阿弥陀仏の脇士である観音菩薩と勢至菩薩について学びました。

 観音菩薩は、慈悲(やさしさ)の菩薩です。いろんな姿に身を変えて、人びとを救おうとされています。

 勢至菩薩は、智慧(ちえ)の菩薩です。その智慧によって、人びとを苦しみから救います。

 ところで、親鸞聖人は、29歳の時、比叡山を下り、六角堂に百日参籠して、95日目の暁、聖徳太子の示現を得て、法然聖人のところへ行き、また百日間通い続け、ついに法然上人のお弟子になられたのでした。

 その親鸞聖人は、聖徳太子のことを観音菩薩と、そして、法然聖人のことは勢至菩薩と考えられていました。

 つまり、親鸞聖人は、観音菩薩に導かれ、勢至菩薩の所に行き、そこで阿弥陀仏に出遇われたのでした。

 また、親鸞聖人は妻の恵信尼のことを観音菩薩と思い、恵信尼もまた夫の親鸞聖人を観音菩薩と考えられていました。そして、ともに、法然聖人のことを勢至菩薩と考えていました。

 つまり、親鸞聖人や恵信尼さんにとって、観音菩薩も、勢至菩薩も、自分に関係のない遠い存在ではなく、自分を導いてくれている身近な存在だったのでした。

 今も、両菩薩は、私たちの身近なところで、私たちを救おうとはたらいています。

 観音菩薩は、身近な存在に身を変えて。

 勢至菩薩は、本当のことを教えて。

 今も、あなたを救おうとはたらいています。

 南無阿弥陀仏。

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大慈悲心

2011年12月25日 | 聞法会・月例法座

 今日は、聞法会の日でした。

 先月はお休みさせていただいたので、2ヶ月ぶりの聞法会でした。

 10月にお話しした「摂取不捨」について善導大師がお教え下さった三縁釈を復習し、今日は「仏心は大慈悲心」ということについてお話しさせていただきました。

 上から困っている人々をあわれむのではなく、苦しみ悲しんでいる人達に共感し、同じ思いを共有して、「だからこそ、あなたを救いたいんだ」とはたらきかけている仏の心についてお話させていただきました。みなさん熱心にお聞きいただき、ありがたかったです。

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東井義雄さんの話

2011年12月16日 | 聞法会・月例法座

 今日は、月例法座の日でした。

 いろいろお話しした後、最後に、東井義雄さんのお話をしました。

 東井さんが77歳の時、体育の先生だった息子さんが、学校で体育の授業中、急性心筋梗塞となり、病院に運ばれたものの、意識喪失の状態になったのでした。

○息子さんが倒れられた日の日記(平成2年3月6日)

体温が少し戻ってきたという

倅(せがれ)よ

かすかながら

自力の呼吸をしているようだという

倅よ

何とか

わたしに先立つことだけはしてくれるな

何とかわたしに

後残りの悲しみを与えることは

やめておくれ

どうかもういっぺん

けさの出勤のときの顔に

戻っておくれ

手をふって私の見送りに

応えてくれた姿にもどっておくれ

○3月7日の日記

親と子の間がらであったのに

かわってあげることが

できない やりきれなさ もどかしさ

倅よ

おまえは

それを

このような形で

わたしに教えてくれるのか

○3月8日の日記

もう 何も

思い残すことはない

いつ 終わりのときを

迎えさせていただいても

心残りはない と 思っていた

わたしだったのに

倅よ

これでは

死ぬこともできないではないか

どうか もういっぺん

元気を回復しておくれ

 子を思う親の悲痛な叫びが刻まれています。

 東井さんの日記には、こんなことも書かれています。

マラソンの途中で倒れたとか

体育の授業中 生徒がなくなったとか

聞いてきた

よそごととしてみるのと

自分のこととしてみるのと

おなじ事実であるのに

これだけ 痛みの違いがあるのか

世間の多くのみなさん

この薄情な 今までの私を おゆるしください

自分のことしか見えない

この了見のせまい私を

おゆるし下さい

 何が起こってくるか分からない、この娑婆世界です。どんな辛いことが起こってきてもおかしくはないこの娑婆世界です。

 しかし、普段、私たちはそう思ってはいません。何ごともなく暮らせることを当たり前と思って生きています。でも、実は、それは、奇跡のようにありがたいことだったのです。

 でも、そのことに気づいていなかった自分。自分の身にとんでもないことが起こって初めて気づいたありがたさ。そして、そのことを、このつぶれてしまいそうな大変な時に、一生懸命教え、支えようとしてくれているはたらきがあります。

倒れて以来、誰よりも「私」のために、「無言の大説法」を、いのちがけで、続けていてくれるのを感じます。おかげさまで、私自身の聴聞の甘さに気づかせていただき、長い間、あいまいなままにしておりました大切な問題を、たくさん、確かめさせていただくことができました。

と、東井さんは、この辛い現実を受け止めていらっしゃいます。

 そして、息子さんの意識が戻らないままの日々をずっと過ごされた9月11日には新聞の取材に対し、こうおっしゃっています。

今、多くのことに気づかしてもらっている。先日も嫁が看病しながら“悲しみを通して、初めて見さしてもらえる世界があるのですね”と申しました。息を吸うて吐く。その人間の一息一息がどんなに大変なことであるか。当たり前だと考えていることが当たり前でない。すばらしいことなのです。自分が生きている。可愛い者と一緒にそろって一日を過ごしている。これがどんなにたいへんなことであったか。…いのちを喜ぶ。そしてこの目覚めによって、どんなつらいことも乗り越えさせていただく。それが、かけ値なしの人生とおもうようになりました。

 この娑婆世界、何が起こってくるか分かりません。でも、どんな辛いことが起こってこようとも、そのことを通して初めて知らされる世界があります。そのことを通して初めて、知らされるありがたさがあります。ありがたいことを当たり前と思っていた愚かな自分。それほど愚かな自分なのに、今もなお、そのありがたさを教えてくれているはたらきに気づかされます。

 どんなに辛いことが起こってきても、一緒になって、あなたを支えてくれているはたらきがあります。

 どんなに悲しいことが起こってきても、あなたを支えるための本当のことを教えてくれているはたらきがあります。

 大丈夫、阿弥陀仏はいつもあなたと一緒です。

 どんなに悲しい時も、どんなに辛い時も。

 あなたが生まれる前から、あなたが死んでからも。

 だって、あなたを救いたい、というのが、阿弥陀仏の願いなのですから。

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樹心弘誓仏地、流念難思法海

2011年11月16日 | 聞法会・月例法座

 今回の御遠忌のお稚児さんでは、坂部さん宅が稚児宿を引き受けてくださいました。

 8月のお盆の時、仏間に通していただくと、床の間に、お軸が3本、飾られていました。

 真ん中のお軸を挟んで左右に掛けられたお軸はまだ真新しく、楷書でキッチリ墨書されていたので、「どなたが書かれたのですか」とお聞きすると、お孫さんとのことでした。上手な字でしたし、せっかく稚児宿をされるのですから、ぜひお孫さんが書かれたお軸をお稚児さんの当日も飾ってください、とお話ししました。

 すると、何か御遠忌にあたっていい言葉はありますか、とのことでした。

 5~7文字くらいで、対になっていて、御遠忌を記念するような言葉。いざ考えるとなるとなかなか浮かびません。

 先月ようやく言葉をお伝えしました。「樹心弘誓仏地」と「流念難思法海」です。

 昔から好きな言葉なので、お伝えしたのですが、今月、法語カレンダーをめくってみて、ビックリ。同じ言葉が載っていました。ちょうど11月。いい記念になりそうです。

 坂部さんからは、意味を聞かせて欲しいと言われていました。

 ちょうど今日、月例法座の日でしたので、そのお話しをしました。これから、月例法座でお話ししたことを書いてみます。(1時間かけてお話しした内容をかいつまんでお話しするのは難しいですが…

 私たちは通常、仕事や家族など、何かを頼りに生きています。そして通常は、頼りにしていることさえ、あまり意識していません。

 でも、たとえば、会社が倒産したり、家族が亡くなったり、頼りにしていたものが崩れ去った時、立っていられなくなることがあります。その崩れ去ったものが、今までの自分の頼りであり、支えであったことを知らされる瞬間です。それが自分を支えてくれていた場所だったわけです。

 人は、場所がなくなれば、生きていけなくなります。学校でも、職場でも、居場所があるからこそ行くことができるのであって、自分の居場所がないところにはなかなか行けないものです。

 ですが、どれほど盤石にみえる場所であっても、崩れ去ることがあります。今回の東日本大震災はそれをよく示しています。家族が突然亡くなったり、町そのものがなくなったり、長年暮らしていた土地に住めなくなったり…。何が起こってくるか分からないこの娑婆世界です。

 その娑婆世界に生きる私たちを、救わずにはおれないと、立ち上がられたのが、阿弥陀仏です。「必ずすべてのものを救う」というのが、阿弥陀仏の願いです。「何が起こってこようとも、あなたを絶対に見捨てない」というのが阿弥陀仏の広大な誓いです。

 しかし、その誓いを、なかなか信じられない私です。けれども、阿弥陀仏は、なかなか信じようとしないあなたをこそ救いたいのだと、飽くことなく私を呼び続けてくださっています。

 「大丈夫。必ずあなたを救う。絶対見捨てない」と。

 そのおかげで、ようやく、阿弥陀仏の願いに気づくことができた時、自分がずっと他力に支えられて生きていたことに気づかされます。自分の力で生きてきたのではなく、支えられて生きていたのでした。そしてそのことをずっと教え続けられていたのでした。どんなことが起こってこようとも、阿弥陀仏の願いの大地が支えてくれていたのでした。

 その時、「自分ががんばっている」とか「他の人はどう思っているのだろう」とか「もっと分かって欲しい」とか、そういう思いは、どうでもいいこととして、流せるようになります。自分を包み、自分を支えてくれている大きな世界を知ることができたからこそ、自分の小さな思いから解放されるのです。

 だから、「慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念(おもい)を難思の法海に流す」とは、この私を弘誓の仏地が支えてくれていたことに気づかされ、頑なであった自分の思いから開放された喜びを吐露した言葉なのでした。

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