今日は、津中日文化センターで「親鸞の手紙を読む」の日でした。
今回は、京都での親鸞聖人についてお話ししました。
その中で、聖人の京都でのお住まいについてもお話ししました。
忘れないように、ここにも書いておくことにします。
まず、親鸞聖人は京都に戻られてから初めの内は、あちこち転々とされていたようですが、やがて五条西洞院に居を定められました。
当時の五条通りは、現在とは違っていて、今の松原通が、当時の五条でした。
(豊臣秀吉が、自分の寺である方広寺にみんなが参拝してくれるように五条大橋を今の場所に架け替えたので、道の名前が変わってしまったのです。)
ですから当時の五条西洞院は、今で言えば松原通西洞院になります。
基本的に京都という街は、応仁の乱でほとんど焼けてしまっているので、それ以前の建物はなく、はっきりしたことは言えないわけですが、今の光円寺や大泉寺があるあたりにお住まいだったのだろうと思います。
しかし、建長7年(1255)12月10日、親鸞聖人は火事に遭い、それ以降は三条富小路の善法坊に居を移されました。ちなみに、善法坊は、聖人の弟、尋有の里坊で、火災があった当時、尋有は日光に滞在していました。
「三条富小路(顕智・自然法爾の御書)」つまり「押小路の南、万里小路より東(覚如・伝絵)」は、今の京都御池中学校のあたりになります。
そして、弘長2年(1262)11月28日、聖人はその地で往生されました。御年90歳でした。
さて、津中日文化センターの「親鸞の手紙を読む」ですが、全部で43通あるお手紙の内、今回が42通目でした。つまり、あと1通で終わります!
そこで、講義後、事務の方とお話しした結果、恵信尼さんのお手紙なども少し紹介することにして、3月に講座を終えることにしました。
4月からは、また新しい内容で、講座を開きます。どういう内容にするかはまだ決まっていません。決まり次第、またお知らせいたします。お楽しみに~!
今回は、京都での親鸞聖人についてお話ししました。
その中で、聖人の京都でのお住まいについてもお話ししました。
忘れないように、ここにも書いておくことにします。
まず、親鸞聖人は京都に戻られてから初めの内は、あちこち転々とされていたようですが、やがて五条西洞院に居を定められました。
当時の五条通りは、現在とは違っていて、今の松原通が、当時の五条でした。
(豊臣秀吉が、自分の寺である方広寺にみんなが参拝してくれるように五条大橋を今の場所に架け替えたので、道の名前が変わってしまったのです。)
ですから当時の五条西洞院は、今で言えば松原通西洞院になります。
基本的に京都という街は、応仁の乱でほとんど焼けてしまっているので、それ以前の建物はなく、はっきりしたことは言えないわけですが、今の光円寺や大泉寺があるあたりにお住まいだったのだろうと思います。
しかし、建長7年(1255)12月10日、親鸞聖人は火事に遭い、それ以降は三条富小路の善法坊に居を移されました。ちなみに、善法坊は、聖人の弟、尋有の里坊で、火災があった当時、尋有は日光に滞在していました。
「三条富小路(顕智・自然法爾の御書)」つまり「押小路の南、万里小路より東(覚如・伝絵)」は、今の京都御池中学校のあたりになります。
そして、弘長2年(1262)11月28日、聖人はその地で往生されました。御年90歳でした。
さて、津中日文化センターの「親鸞の手紙を読む」ですが、全部で43通あるお手紙の内、今回が42通目でした。つまり、あと1通で終わります!
そこで、講義後、事務の方とお話しした結果、恵信尼さんのお手紙なども少し紹介することにして、3月に講座を終えることにしました。
4月からは、また新しい内容で、講座を開きます。どういう内容にするかはまだ決まっていません。決まり次第、またお知らせいたします。お楽しみに~!
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