今日は、津中日文化センターで「親鸞の生涯とその思想」という講座の日でした。
この間から七高僧についてお話ししていて、今日は曇鸞についてお話ししました。
正信偈や高僧和讃に曇鸞がどう書かれているかを読んでいきました。
ただ、和讃は、量が多く、内容も深く、時間内に十分説明することができませんでした。なので、来月の講座の初めに、曇鸞についてサクッと分かりやすくまとめてお話ししますね。
ところで、曇鸞について調べていたら、武田龍精先生の『曇鸞浄土教思想の研究』の一部がご本人によりインターネット上にアップされていました。(こちら)
それには、曇鸞は、菩提流支が訳した『浄土論』の訳語について、批判的であったことが書かれていました。
たとえば、曇鸞の『論註』には次のように書かれています。
訳者なにによりてか、かの宝を目けて草となすや。(中略)余もし参訳せばまさに別に途あるべし。
(自分が、もし『浄土論』の訳場に居合わせていたら、いま採用されているような訳語はしていない、別の方法をとったであろう)
武田先生は、このような箇所を他にも指摘し、次のように述べられている。
『浄土論』の翻訳者はボーディルチであった。ボーディルチといえば、道宣の『続高僧伝』第六巻曇鸞伝においては、彼に浄教を授け、仙経を焼き捨て楽邦に帰依せしめた、いわば曇鸞にとっては善知識であり、曇鸞の生涯に決定的な影響を与え尊崇せられてきた人物であったと語られている。そのようなボーディルチに対して、彼の翻訳を批判的に曇鸞は捉えているのである。かかる曇鸞のボーディルチに対する姿勢を考慮にいれると、果たしてボーディルチが本当に善知識であったのかどうか疑われてくる。
そして、服部仙順氏の説を出されている。
服部仙順は、従来の諸説を詳細に検討しつつ、『観経』の授受には疑義のあることを論じている。結論的には、ボーディルチによる浄土教への導きそのこと自体にすでに疑わしき点があり、曇鸞が師事した師は、直接は道場法師(『安楽集』巻下第四大門念仏大徳所行)であったという。
菩提流支(ボーディルチ)が曇鸞に観経を授けたという話は、唐代の『続高僧伝』に書かれているので、その時代にはもう成立していた話であるのは確かですし、法然聖人や親鸞聖人も信じていらっしゃった話ですが、どうも実際にあった話かどうかは疑わしいようですね。