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小山 青巖寺

三重県津市一志町小山にある真宗高田派のお寺です。

菩提流支と曇鸞

2013年04月24日 | 仏教史

 今日は、津中日文化センターで「親鸞の生涯とその思想」という講座の日でした。

 この間から七高僧についてお話ししていて、今日は曇鸞についてお話ししました。

 正信偈や高僧和讃に曇鸞がどう書かれているかを読んでいきました。

 ただ、和讃は、量が多く、内容も深く、時間内に十分説明することができませんでした。なので、来月の講座の初めに、曇鸞についてサクッと分かりやすくまとめてお話ししますね。

 ところで、曇鸞について調べていたら、武田龍精先生の『曇鸞浄土教思想の研究』の一部がご本人によりインターネット上にアップされていました。(こちら

 それには、曇鸞は、菩提流支が訳した『浄土論』の訳語について、批判的であったことが書かれていました。

 たとえば、曇鸞の『論註』には次のように書かれています。

  訳者なにによりてか、かの宝を目けて草となすや。(中略)余もし参訳せばまさに別に途あるべし。

 (自分が、もし『浄土論』の訳場に居合わせていたら、いま採用されているような訳語はしていない、別の方法をとったであろう)

 武田先生は、このような箇所を他にも指摘し、次のように述べられている。

 『浄土論』の翻訳者はボーディルチであった。ボーディルチといえば、道宣の『続高僧伝』第六巻曇鸞伝においては、彼に浄教を授け、仙経を焼き捨て楽邦に帰依せしめた、いわば曇鸞にとっては善知識であり、曇鸞の生涯に決定的な影響を与え尊崇せられてきた人物であったと語られている。そのようなボーディルチに対して、彼の翻訳を批判的に曇鸞は捉えているのである。かかる曇鸞のボーディルチに対する姿勢を考慮にいれると、果たしてボーディルチが本当に善知識であったのかどうか疑われてくる。

 そして、服部仙順氏の説を出されている。

 服部仙順は、従来の諸説を詳細に検討しつつ、『観経』の授受には疑義のあることを論じている。結論的には、ボーディルチによる浄土教への導きそのこと自体にすでに疑わしき点があり、曇鸞が師事した師は、直接は道場法師(『安楽集』巻下第四大門念仏大徳所行)であったという。

 菩提流支(ボーディルチ)が曇鸞に観経を授けたという話は、唐代の『続高僧伝』に書かれているので、その時代にはもう成立していた話であるのは確かですし、法然聖人や親鸞聖人も信じていらっしゃった話ですが、どうも実際にあった話かどうかは疑わしいようですね。

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中国での唯識(4)

2013年04月19日 | 仏教史

 実は、ヴァスバンドゥ(世親/天親)の思想を最初に中国にもたらしたのは、菩提流支でした。

 「北魏宣武帝の永平元年(508)に中インドのラトナマティ、北インドのボーディルティ(菩提流支)とブッダシャーンティとが洛陽に来り、宣武帝の命をうけてヴァスバンドゥの『十地経論』およびアサンガの『摂大乗論』を翻訳し、それによってアサンガとヴァスバンドゥの思想が中国にはじめて紹介された。」(三枝充悳 『ヴァスバンドゥ』講談社より)

 ちなみに、この『十地経論』により地論宗が生まれました。地論宗からは、浄影寺の慧遠(523-592)などのすぐれた学者が出ましたが、やがて摂論宗や華厳宗に吸収されました。

 菩提流支…あれ?ひょっとして『浄土論』を訳したのって…と思って、調べてみると、…やっぱり、菩提流支でした。

 曇鸞が浄土教に帰したのは、菩提流支に出遇ったから。その菩提流支が『浄土論』を訳したわけですから、当然、曇鸞の手にも渡ったわけなんですね。

 そこで、FBに「『浄土論』を訳出したのは、菩提流支です。(^_-)-☆」とコメントしました。

 すると、こんな返事が返ってきました。

 「驚きました。二人の出遇いは正に奇跡であり、必然であったもいえるでしょうか。この幸運は曇鸞大師のみならず、あらゆる衆生にとっても掛け替えのない大きな出来事だったのですね。」

 本当に、大きな出遇いです。そういう大きな出遇いが、いくつもいくつも重なって、今、私に、お念仏が届いてるんですね。また一つ、教えていただきました。

               

 今日は、龍大(瀬田)で授業でした。夕方、帰ってくると、田仲寺さんが明日からの永代経の準備をしてくださってました。ありがとうございました。本当に助かりました。

 その後、枕勤めに行きました。亡くなられたのは、お世話方もしてもらってた方でした。お元気だったのに、年末から急に調子を崩されたとのことでした。84歳でした。

 葬儀の打ち合わせを終えて、家に帰ると、電話がありました。また、お檀家さんが亡くなられたとのことでした。

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中国での唯識(3)

2013年04月18日 | 仏教史

 玄奘の前に中国に唯識をもたらしたのは、真諦(499-569)でした。

 そもそも玄奘は、真諦の訳した『十七地論』の完本を求めて、インドに渡ったのでした。ちなみに、『十七地論』の完本とは、『瑜伽師地論』のことで、唯識の中でも重要な文献です。

 真諦は、アサンガ(無着)の『摂大乗論』を翻訳し、教理的に組織体系化された唯識説を中国に紹介しました。

 この真諦訳の『摂大乗論』に基づき、摂論宗が成立しました。善導が『観経疏』で批判した摂論宗ですね。しかし、法相宗が成立してからは、この摂論宗は法相宗に吸収されていきました。

 ただ、真諦が中国に来たのは、548年で、曇鸞没後です。

 では、真諦以前に、唯識を中国にもたらしたのは、誰でしょう?(つづく)

             

 今日は、高田短大で授業でした。2コマ講義した後、仏教専門講座担当者会議に出席しました。

  ※仏教専門講座については、こちら

 その際、公開講座の講題を聞かれました。そうでした今年の仏教教育研究センター公開講座で講義しなくてはいけないのですが、その講題の締め切りが今日でした。

 会議中に考え、会議後、他の方々にも相談しお知恵をいただいて、講題を決めました。

 「善導独明仏正意-善導独り仏の正意を明かす」です。

 私が話すのは、10月24日。一般に公開された講座ですので、誰でも聴講できます。よかったら、聞きに来てください。

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中国での唯識(2)

2013年04月17日 | 仏教史

 中国に、唯識をあますところなく伝えたのは、三蔵法師として有名な玄奘(602-664)でした。

 玄奘の弟子、慈恩大師窺基(632-682)がそれら唯識説を体系立てて、法相宗としてまとめあげました。

 ただ、玄奘や窺基は、善導大師(613-681)と同時代の人なので、曇鸞(476-542)より時代が下ります。

 では、玄奘以前に唯識を中国に持ち込んだ人は誰でしょう?(つづく)

           

 今日も、お葬式でした。

 帰ってきてから、婦人会役員会に出て、21日に行う青巖寺婦人会総会の打ち合わせを行いました。

 20日までに事項書を仕上げなきゃ

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中国での唯識(1)

2013年04月16日 | 仏教史

  今朝、FBを見てたら、「インドの天親菩薩は4~5世紀の人。中国の曇鸞大師も5世紀後半の生まれと聞きます。天親菩薩の書かれた『浄土論』が数十年から百年ほどの間に、中国の曇鸞大師の手によって『浄土論註』が生まれてくる」のは「あまりにスピーディ過ぎやしないだろうか」という書き込みがありました。

 曇鸞の生没年は476年~542年とも言われます。確かに、天親(世親)と年代的には近そうです。

 そこで、三枝充悳さんの「人類の知的遺産〈14〉ヴァスバンドゥ」を見てみました。そこで分かったことがいろいろあったので、書いてみます。

 ただ、長くなりそうなので、これから何日かに分けて、書くことにしますね。(つづく)

        

 今日は、お葬式でした。夜、初七日を終えてから、車を走らせ、お通夜に向かいました。渋滞を心配してたのですが、あまり渋滞してなかったので、無事、時間までに着くことができました。よかった、よかった

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