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小山 青巖寺

三重県津市一志町小山にある真宗高田派のお寺です。

念仏者と阿弥陀仏の関係

2011年10月30日 | 聞法会・月例法座

 「念仏衆生、摂取不捨」と経文にあります。

 その「摂取」について、念仏者と阿弥陀仏との間には、三つの縁があると言われます。

 1.親縁、2.近縁、3.増上縁、の3つです。

 これらについて、聞法会で用いているテキスト、梯実円『聖典セミナー「浄土三部経Ⅱ 観無量寿経』には、次のように説明されています。

 1.親縁(一瞬も離れない親しい関係)

 私が仏の本願を疑いなく念ずれば、私を念じてくださっている如来に気づきます。それも私が仏を念ずる以前から、つねに私を念じたまうていた如来のいますことに気づくのです。まことに念仏とは、私が如来に念じられて如来を念ずる身になり、如来を念ずることによって、いよいよ念じられてある身をよろこぶという、まさに如来と私との深い心の通いを表していました。

 2.近縁

 近縁とは、如来は念仏の衆生を片時も離れたまわず、常に念仏者の近くにいたまうということ

 私どもは、愛憎の煩悩に狂わされて、清浄な如来を見たてまつることはできません。しかし念仏する私の前には常に如来はいまして護りたまう

 3.増上縁

 本願を信じ念仏するものは、即時に罪障を消滅せられて、往生すべき身に定められ、臨終には、どのような終わりかたをしようと、仏、菩薩の迎接をえて、何ごとにもさまたげられることなく障りなく往生せしめられます。このような阿弥陀仏の本願力の無碍(さわりなき)の救いにあずかることを増上縁といわれたわけです。

 以上です。

 私たちが、念仏するより前に、仏が私たちを念じてくれています。

 「救われてくれよ」と。

 「必ず救うからね」と。

 「絶対見捨てないから」と。

 仏に念じられているおかげで、ようやく私も、そうやって私に本当のことを教えてくださっているはたらきがあることに気づくことができたのでした。そして、その仏は、たとえ、どんなことが起こってこようとも、たとえ、どんな終わりかたをしようとも、たとえ、どんな重い罪障を背負っているものでも、必ず浄土へ往生させるのです。

 「摂取不捨」の「摂取」について、親鸞聖人は高田本山に蔵される『三帖和讃』に、その意味を書かれています。

 ひとたびとりてながく捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。

 これについて、梯先生は次のように言われています。ちょっと長いですが、引用してみます。

 「ひとたびとりて永く捨てぬなり」とは、ひとたび救いの御手に摂め取られた限り、決して捨てたまわないということです。人間はもろいもので、状況次第によっては、念仏さえ忘れてしまうようなおろかな姿になりかねません。それでも如来は私を忘れたまうことはなく、「汝を救う」とおおせられたみ言葉に取り消しはないと味わわれたものです。

 「摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり」といわれたものは、阿弥陀仏の大悲の特質を見事に言い尽くされた至言です。私の日々のふるまいは、如来に仕えるどころか煩悩に仕えているとしかいいようがありません。真実を求めて如来に近づこうとするどころか、愛憎と名利に埋没して、如来に背を向け、逃げまどうているようなありさまです。それが、いまはからずも本願のみ教えに遇い、念仏を申す身になっているということは、まことに不思議としかいいようがありません。それは逃げる私を見捨てることなく追い求めて育てつづけ、教えを聞かせて、自らの無明・煩悩に気づかせ本願をたのむ身に育てあげ、浄土へ迎えようとはたらきたまうダイナミックな大悲本願の御はからいのたまものであったといわれるのです。

 阿弥陀仏の本願の救いは、如来に向かって近づいていく善人の善根功徳に対する褒賞として与えられるものではありません。近づくどころか如来に背を向けて煩悩をおこし、苦悩の中に沈んでいく愚悪な私どもを追い求めて寄りそい、わが事として背負いたまう大悲の必然として恵み与えられるのが救いなのです。そのことを親鸞聖人は「摂取不捨」というみ言葉のなかに聞き開いていかれたのでした。

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10月の聞法会

2011年10月30日 | 聞法会・月例法座

 今日は、聞法会の日でした。

 催事部や総務部が集まって、御遠忌の準備を進めてくださっていたので、聞法会は本堂で行いました。

 今日は、真身観のところを読みました。いつもは座っているのですが、今日は立って、テキストを読み、解説を加え、ホワイトボードにキーワードを板書するという、授業のようなスタイルでした。

 とても大事な箇所であり、また三縁釈や親鸞の左訓など、お伝えすべきことも多く、講義スタイルで大丈夫だったか不安だったのですが、法話後、「こっちはたまにお念仏するだけやけど、阿弥陀さんは休むヒマもないなぁ」とか「今日のは、今までで一番よかったです」とか言っていただきました。

 実際、「念仏衆生摂取不捨」という重要な経言が出てくる箇所なので、そこを一番ありがたかったと言っていただけるのは、本当にちゃんと聞いてもらってるなぁ、ありがたいなぁ、と思わされました。みなさん、本当に、ありがとうございました。

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9月の聞法会

2011年09月30日 | 聞法会・月例法座

 今日は、聞法会の日でした。

 前回は、三尊仏が空中に現れたところまでお話ししたので、今回は、華座観・像観について、お話しさせていただきました。

 華座観には、こう書かれています。

「かくのごときの妙華は、これもと法蔵比丘の願力の所成なり」

 この花は、法蔵菩薩の願いの力によって、できている、と。

 花だけではありません。浄土も、阿弥陀仏も、法蔵菩薩の願いによって成就したものです。

 法蔵菩薩の願いとは、「あなたを救いたい」という願いです。その願いによって、浄土はできたのです。

 つまり、浄土とは、「必ずあなたを救う」という願いによってできた国土なのです。

 浄土とは、あなたを救うための場所です。

 阿弥陀仏とは、あなたを救うための仏です。

 そのことが、この華座観の経文から分かります。

 次に、像観には、ただ観が説かれているだけでなく、法を聞く大事さが説かれていました。

 定善の部分は、なかなか読む機会がなかったりするのですが、大事なことが書かれているなぁと改めて思わされました。

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大平光代さん

2011年09月16日 | 聞法会・月例法座

 今日は、月例法座の日でした。

 今、月例法座では「文類偈」を読んでいます。今日は、

三不三信誨慇懃 像末滅法同悲引
一生造悪遇弘誓 至安養界証妙果

 という箇所でした。

 “弘誓に遇う”ということは、“「必ずあなたを救う」という願いに遇う”ということです。

 そういう願いに遇うことで、人は変わるんだ、ということです。

 そして、大平光代さんの話をさせていただきました。

 大平光代さんは、中学の時にひどいいじめに遭い、自殺を図りました。しかし、未遂に終わり、その後、非行に走って、16歳の時に暴力団組長の妻となりました。そして、22歳で離婚、クラブでホステスをしていました。

 その時、後に養父となる大平浩三郎さんとの出遇いによって、立ち直り、29歳で司法試験に一発で合格し、弁護士となりました。

 2000年、自伝『だから、あなたも生きぬいて』を出版、260万部を超えるミリオンセラー。

 2003年、女性初の大阪市助役に就任。同時に助役就任中、中央仏教学院で親鸞聖人の教えを学び、先輩弁護士と再婚、女児を出産。女児はダウン症。2009年、龍谷大学客員教授に就任されています。

 個人的には最近の大平さんの対談集が好きなのですが、分かりやすいというか伝えやすいことから、『だから、あなたも生きぬいて』からいろいろお話しさせていただきました。「あなたを必ず救う」という願いとの出遇いにより、人生が変わった大平さんの話です。

 今回お話ししてみて、大平さんの人生は一度、みなさんにちゃんと紹介したいなぁという気持ちを強くしました。また、法話か何かで機会があれば、お話しさせていただきますね。

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8月の聞法会

2011年08月30日 | 聞法会・月例法座

 今日は、聞法会でした。
 6月、7月とお休みだったので、久しぶりの聞法会です。
 今回初めていらっしゃった方もあり、ありがたいことでした。

 今日は、阿弥陀仏・観音菩薩・勢至菩薩が空中に現れた場面について、二点、お話しさせていただきました。

 まず、一つは、ここで阿弥陀仏の救いが説かれていることです。

 もう少し正確に言うと、『観経』では、阿弥陀仏の救いは、ここにしか登場しません。そして、イダイケ夫人は、ここで救われます。

 今まで、イダイケ夫人の「どうしたらお浄土を観ることができますか?」という請いに応じて、お釈迦さまはいろいろとお浄土を観る方法を説いてきたわけです。しかし、その方法によって救われるのではなく、ある意味、今まで説いてきたことをあっさり否定するかのように、阿弥陀仏が現れ、イダイケ夫人を救うのです。

 ここに阿弥陀仏の救いが現れています。

 阿弥陀仏は、何かを成し遂げたから、救うのではないのです。
 がんばったから救うのでもないのです。

 イダイケ夫人は、今まで国王夫人として一生懸命がんばってきました。でも、息子のアジャセの反逆に遭い、牢獄へ閉じこめられてしまいました。憂い、悲しむイダイケ。さらには、「どうしてあんな子を産まなきゃいけなかったの?」と自分の人生を呪い、「あなたのせいじゃないの?」と人のせいにするイダイケ。阿弥陀仏が救おうとされるのは、そういう苦しみの渦中にいるイダイケだったのでした。決してがんばっているからではない。苦しんでいるからこそ、阿弥陀仏はイダイケを救わずにはおれないのです。

 そして、もう一つは、立っている姿で現れたことの意味です。

 この娑婆世界は、生老病死の四苦のほか、たえず思い通りにならないことばかり起こってくる世界です。その中で、身も心も焼かれるような苦しみにせめられ、自分自身もまた自分自身の煩悩の誘惑にたぶらかされて、様々な罪業をつくりながら、しかも、それに気付かない、誠に浅ましいイダイケや私たちです。

 そういう私たちを、阿弥陀仏はとても坐って見ていることはできなかったのです。今、救わなければ、と思し召したからこそ阿弥陀仏は、ゆったりと坐って対応するのではなく、急いで立ち上がり、イダイケを抱きとって、救おうとされたのです。なんとしても、今、私たちを救おうとされるからこそ、立っておられるのです。

 そういうことをお話しさせていただきました。

 それにしても、新しく聞きに来ていただいたのは、うれしいことでした。法を聞く人が一人でも多くなり、私たちをこそ救いたいという阿弥陀仏の願いに気付いていただきたいと思います。 

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6月の月例法座

2011年06月16日 | 聞法会・月例法座

 今日は、短大で授業した後、夜7時半から、月例法座がありました。

 先月と同じ箇所をお話ししました。

 「生死すなはち涅槃なりと証知す」

 という箇所です。

 まず、高田短大での宗祖降誕会での講演に対する学生たちの感想を聞いてもらいました。

自分の命だと思っていたけど、そうではなくて、生まれてきたいと思った命を自分があずかっていると聞いたとき、素直にそうなんだと思いました。毎日毎日当たり前だと思って生きていた自分が恥ずかしいと思いました。これから長い人生を、毎日毎日一生懸命生きようと思いました。家族のありがたみを考えることができました

 本当のことを知らされたとき、自分のことを恥ずかしいと思う。

 でも、その時、同時に、感謝の気持ちも生まれている。

 あさましい自分。そして、その自分を支えてくれているまわりのありがたさ。

 それを18歳の学生が素直な感想として書いてくれていました。

 次に、東井義雄さんのことを紹介させてもらいました。

 東井義雄さんの話、東井義雄さんの息子さんの話、

 分かっていなかった自分を知らされる話。

 そして、その次に、浅原才市さんの詩を16ほど紹介させていただきました。

 3つほど、ここでも紹介させていただきます。

あさましあさまし
よるひるなしのあさましあさまし
ありがたいありがたい
よるひるなしのありがたいありがたい
なむあみだぶつなむあみだぶつ。

あさましや あさましい念仏
うれしや ごおん念仏
才市や 念仏が二つあるか
二つあるではなけれども
両役つとめる一つ念仏

さいちよい うれしいか ありがたいか
ありがたいときゃ ありがたい
なっともないときゃ なっともない
さいち なっともないときゃ どがあすりゃ
どがあも しようがないよ
なむあみだぶと
どんぐりへんぐりしているよ
今日も来る日も やあい やあい

あさましあさまし
よるひるなしのあさましあさまし
ありがたいありがたい
よるひるなしのありがたいありがたい
なむあみだぶつなむあみだぶつ。

 あさましい自分。だからこそ、救うという阿弥陀仏。

 自分のあさましさに気付かないからこそ、あさましい。

 そんな自分に、自分のあさましさを教えてくれる阿弥陀仏。

 だからこそ、その自分を支えてくれているまわりのありがたさに

 気付かせていただける。その時、人は救われる。

 そういうお話しをさせていただきました。

 雨が降る中、わざわざ来ていただき、ありがとうございました。

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5月の聞法会(「観経」イダイケの救い)

2011年05月30日 | 聞法会・月例法座

 今日は、聞法会の日でした。

 今回は、『観経』の「宝樹観」から「華座観」の手前までを読みました。

 「宝樹観」「宝池観」「宝楼観」には、お浄土の木々や池や楼閣が説かれています。

 そしてその後には、「このお浄土の様子を想像できれば、必ず極楽に生まれる」と書かれています。

 ですが、これがなかなかできません。

 たとえば、「宝樹観」には、木の花や葉の色について、「瑠璃色の中からは金色の光を出し、玻璃色の中からは紅色の光を出し…」と書かれています。しかし、これは、どういう色を想像すればいいのでしょう?

 また、「宝池観」では、池の水の流れについて、「その流れからおこるすばらしい響きは、苦・空・無常・無我や六波羅蜜などの教えを説き述べ…」と書かれています。しかし教えを理解していないと、その響きを想像することができません。

 いやはや、これらを想像できないと往生できないのであれば、とても往生できそうにありません。

 ところが、その後、釈尊は、こうおっしゃいます。

 「わたしは今、そなたたちのために、苦悩を除く教えを、説き示そう」

 そして、その言葉が終わると、空中に阿弥陀仏が観音菩薩・勢至菩薩を伴って現れました。

 その阿弥陀仏のお姿を見て、イダイケは確かな信心を得たのでした。

 ここでイダイケは何もしていません。それなのに、阿弥陀仏の方から、現れてきました。

 阿弥陀仏は、こちらが何かをしたから、現れるのではないのです。なぜなら、阿弥陀仏がいらっしゃるのは、真実たることを何もできないこの私を救うためだからです。

 そして、何もしていない自分、仏を信じようともしていない自分のために、阿弥陀仏が現れてくださるから、私も信心が得られるのです。この自分を救おうとしている仏がいることを知らされるのです。

 さて、次回は、この阿弥陀仏に遇うということはどういうことか、具体的にお話ししたいと思います。

 ただ、来月は聞法会としてはお休みです。聞法会は、前住職の命日に、開いています。来月は、前住職の一周忌に当たります。いつも聞法会に来ていただいている方々には、その一周忌にお参りいただきたいと思っています。なので、6月はお休みです。

 次回の聞法会は、7月30日になります。どうぞ、お越しください。

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5月の月例法座

2011年05月16日 | 聞法会・月例法座

 今日は午後7時半から月例法座でした。

 ちょっと、なんだかんだあって、前回の月例法座は2月でしたので、久しぶりの月例法座でした。

 月例法座では、「文類偈」を読んでいます。今日は次の箇所でした。

 「煩悩成就の凡夫人、信心開発すればすなはち忍を獲、生死すなはち涅槃なりと証知す。かならず無量光明土に到りて、諸有の衆生みなあまねく化すと」

 ここは、非常にお話ししたいことが多い箇所でした。ですが、準備が全然できていませんでした。

 ざっとテキストを読み、今日短大でお話しした内容を再度お話しし、最後、浅原才市さんの詩をご紹介して終わりました。

 準備不足で、申しわけございませんでした。

 最後に、紹介させていただいた浅原才市さんのたくさんあるすばらしい詩の中から一つをここでも紹介させていただきます。

わしのこころが あなたにむけば
やれあさましや あさましや

あなたのこころが わたしにむけば
やれありがたや ありがたや

なむあみだぶつ なむあみだぶつ

 浅原才市さんの詩はすべてすばらしい詩ばかりです。また、機会があれば、いろいろご紹介したいと思います。来月16日の月例法座でも、この浅原才市さんをいろいろご紹介したいと思っています。もしお時間がおありでしたら、是非ご参加ください。

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4月の聞法会

2011年04月26日 | 聞法会・月例法座

 いつも聞法会は、毎月30日です。しかし、4月30日には、親戚のお寺の御遠忌に出勤しなくてはいけません。そこで、今月の聞法会は26日に行うことにしました。つまり、今日です。

 聞法会では、『観経』を読んでいます。今日は、日想観・水想観・地想観を読みました。

Yuhi

 夕日をイメージする日想観は、できそうでした。

 水をイメージする水想観も、なんとかなりそうですが、水想観の途中から地想観の内容になります。その辺りから、イメージできなくなってきました。

 地想観になると、もう全く実行できそうにありませんでした。

 これらを実行すれば救われる、と書かれていますが、なかなか実行できない自分であることが知られます。救われる方法が説かれているのですが、それを実行しようとすることで見えてくるのは、実行できない自分の姿です。

 自分自身の姿を知らせてくれるのが、仏教なんですよね。

仏道をならうといふは、自己をならうなり (道元)

 そして、救われる方法を実行できない私たちを、実行できない私たちであるが故に、救おうとはたらき続けられているのが、阿弥陀さんなんですよね。なんまんだぶ、なんまんだぶ。

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生きる力

2011年03月30日 | 聞法会・月例法座

 今日は、聞法会の日でした。

 いつもは、『観経』を読んでいるのですが、今日は東ちづるさんの『わたしたちを忘れないで ドイツ平和村より』という本を読みながら、ボランティアや生きる力などについてお話ししました。

Azuma_2

 ボランティアは、奉仕作業でも、慈善事業でもなく、自発的な無償の行為であること。

 相手にとって必要なものは何か。そのために自分ができることは何か。それを考え、実行すること。

 やさしさの源泉は、相手への想像力であること。

 また、生きる希望をなくしていた子どもが、再び生きる意欲を取り戻した話を読んで、何かをすることで救われるのではなく、「そこにあなたがいる、それだけでいい」と誰かに願われることで、人は生きていけること。

 失敗してもいい。

 迷惑かけてもいい。

 ただ生きていてくれさえすればいい。

 そう願われていることに気づく。

 ただそれだけで、いや、それこそが、生きる力となること。

 そんな話をしてました。

 ※ちなみに、4月の聞法会は4月26日です。30日の都合が悪いので(^^ゞ

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