「念仏衆生、摂取不捨」と経文にあります。
その「摂取」について、念仏者と阿弥陀仏との間には、三つの縁があると言われます。
1.親縁、2.近縁、3.増上縁、の3つです。
これらについて、聞法会で用いているテキスト、梯実円『聖典セミナー「浄土三部経Ⅱ 観無量寿経』には、次のように説明されています。
1.親縁(一瞬も離れない親しい関係)
私が仏の本願を疑いなく念ずれば、私を念じてくださっている如来に気づきます。それも私が仏を念ずる以前から、つねに私を念じたまうていた如来のいますことに気づくのです。まことに念仏とは、私が如来に念じられて如来を念ずる身になり、如来を念ずることによって、いよいよ念じられてある身をよろこぶという、まさに如来と私との深い心の通いを表していました。
2.近縁
近縁とは、如来は念仏の衆生を片時も離れたまわず、常に念仏者の近くにいたまうということ
私どもは、愛憎の煩悩に狂わされて、清浄な如来を見たてまつることはできません。しかし念仏する私の前には常に如来はいまして護りたまう
3.増上縁
本願を信じ念仏するものは、即時に罪障を消滅せられて、往生すべき身に定められ、臨終には、どのような終わりかたをしようと、仏、菩薩の迎接をえて、何ごとにもさまたげられることなく障りなく往生せしめられます。このような阿弥陀仏の本願力の無碍(さわりなき)の救いにあずかることを増上縁といわれたわけです。
以上です。
私たちが、念仏するより前に、仏が私たちを念じてくれています。
「救われてくれよ」と。
「必ず救うからね」と。
「絶対見捨てないから」と。
仏に念じられているおかげで、ようやく私も、そうやって私に本当のことを教えてくださっているはたらきがあることに気づくことができたのでした。そして、その仏は、たとえ、どんなことが起こってこようとも、たとえ、どんな終わりかたをしようとも、たとえ、どんな重い罪障を背負っているものでも、必ず浄土へ往生させるのです。
「摂取不捨」の「摂取」について、親鸞聖人は高田本山に蔵される『三帖和讃』に、その意味を書かれています。
ひとたびとりてながく捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。
これについて、梯先生は次のように言われています。ちょっと長いですが、引用してみます。
「ひとたびとりて永く捨てぬなり」とは、ひとたび救いの御手に摂め取られた限り、決して捨てたまわないということです。人間はもろいもので、状況次第によっては、念仏さえ忘れてしまうようなおろかな姿になりかねません。それでも如来は私を忘れたまうことはなく、「汝を救う」とおおせられたみ言葉に取り消しはないと味わわれたものです。
「摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり」といわれたものは、阿弥陀仏の大悲の特質を見事に言い尽くされた至言です。私の日々のふるまいは、如来に仕えるどころか煩悩に仕えているとしかいいようがありません。真実を求めて如来に近づこうとするどころか、愛憎と名利に埋没して、如来に背を向け、逃げまどうているようなありさまです。それが、いまはからずも本願のみ教えに遇い、念仏を申す身になっているということは、まことに不思議としかいいようがありません。それは逃げる私を見捨てることなく追い求めて育てつづけ、教えを聞かせて、自らの無明・煩悩に気づかせ本願をたのむ身に育てあげ、浄土へ迎えようとはたらきたまうダイナミックな大悲本願の御はからいのたまものであったといわれるのです。
阿弥陀仏の本願の救いは、如来に向かって近づいていく善人の善根功徳に対する褒賞として与えられるものではありません。近づくどころか如来に背を向けて煩悩をおこし、苦悩の中に沈んでいく愚悪な私どもを追い求めて寄りそい、わが事として背負いたまう大悲の必然として恵み与えられるのが救いなのです。そのことを親鸞聖人は「摂取不捨」というみ言葉のなかに聞き開いていかれたのでした。