今日は、お葬式でした。亡くなられたのは、65歳の男性の方でした。
定年退職してから、大学に入り直して卒業し、学芸員として第二の人生を始める矢先のことだったそうです。
無常の風がいつ吹くか、誰にも分かりません。だからこそ、精一杯、生きたいものですね。
また、無常の風がいつ吹こうとも、阿弥陀さんに手抜かりはありません。安心して、おまかせです。なむあみだぶつ。
今日は、お葬式でした。亡くなられたのは、65歳の男性の方でした。
定年退職してから、大学に入り直して卒業し、学芸員として第二の人生を始める矢先のことだったそうです。
無常の風がいつ吹くか、誰にも分かりません。だからこそ、精一杯、生きたいものですね。
また、無常の風がいつ吹こうとも、阿弥陀さんに手抜かりはありません。安心して、おまかせです。なむあみだぶつ。
今日、本山へ行きました。そして、ご法主から直々に辞令を手渡していただきました。
まだまだ浅学非才の若輩者、到底その任に堪えうるとは思えないのですが、「これは通過点であって、倦まず弛まずこれからも精進し続けてください」というご法主からのお言葉をいただきました。
これからもご指導の程、よろしくお願い申し上げます。
今日は、津中日文化センターで「親鸞の生涯とその思想」の講座の日でした。
今回は、「澄憲と聖覚/縁起」ということをテーマとしてお話しさせて頂きました。
澄憲と聖覚というのは、安居院流の唱導師の祖です。その方々が実際どういう人達であったのかについて、お話しさせて頂きました。
次に、縁起について、お話ししました。というのは、この「親鸞の生涯とその思想」という講座が、3月で終了するからです。
4月からは「親鸞の手紙を読む」という新しい講座になります。
3月で最後の講座になるので、そこでは今までのまとめをお話ししたいと思っています。そのため、今回はその前段階となるお話しをさせて頂いたのでした。
さて、今お話ししたように、津中日文化センターでは、4月から、「親鸞の手紙を読む」と題して、親鸞聖人のお手紙をすべて読んでいく講座が始まります。講師は私です。興味のある方はぜひご参加ください。みなさまのご参加をお待ちしておりま~す♪
今日は、聞法会でした。今回は、月愛三昧と法友についてお話ししました。
月愛三昧とは、釈尊がアジャセの身心の苦しみを除くために入られた三昧のことです。
苦しんでいる者を救う仏の慈悲のはたらきを、月の光にたとえたものと言えましょう。
その月愛三昧について、①光と闇、②平等、③寂静という三つの視点から、お話しさせて頂きました。
その後、アジャセを支えたギバについて、法友のありがたさをお話しさせて頂きました。
仏教では、三つのことを宝と言います。三宝ですね。仏と法と僧です。仏とは法を教えてくださった方、法とは真実の教え、そして、僧とは僧伽(サンガ)、つまり法友の集まりのことです。
単なる友達の集まりではなく、法友の集まり、それは宝なんですよ、とお話しさせて頂きました。
夜の報謝念仏の後の雑談で 「青巖寺さん、ヘアスタイル、変えやんたん?」と尋ねられ、思わず笑ってしまいました。
そして、「いや、床屋に行く時間がなくて、こんなことなってるんです」と笑いながら答えました。
実際、昨年末からずっと忙しかったので、かなり長い間、髪を切っていません。
「ここ10年ほどで、一番長く伸びてますね。今は寒いですし」
「ああ、そら、今切ったら、風邪、引くに。暖かくなるまで、そのままの方がええ」
などなど、しばらく髪のことで盛り上がりました。
私の場合、クセ毛なので、伸びてくるとドンドン厄介になってきます。
ただ、今は、なんとかおさまっているので、しばらくはこのままで行ってみることにします。
ひょっとすると時々、寝ぐせで、髪がはねてるかも知れませんが、気にしないで下さいね。(笑)
昨日の続き、これで最後です。
それにしても、東井先生に妻のことなど何も話していなかったのに、私の心配ごとや妻の痛みまで、どうして分かったのだろう? なんでこんなやんちゃ者を可愛がっておくれるのだろう? と不思議でなりませんでした。
今考えてみると、なかなか変わりそうにもない、出来の悪い私を、なんとかしてましな人間にしてやろうと願い続け、大事な一日を棒に振って、私を目覚めさせて頂いたのだと気付くのです。
東井先生の無限の愛のいのちに出会い、いつの間にか私と妻は手を取り合って泣いていました。
それからは、私はもとより家族みんなが、東井先生をかけがえのない人生の師として、仰ぐようになっていったのです。
東井先生の慈愛の光につき動かされ、光を持たない私も、少しずつ光り始めました。学校に行くのがだんだん楽しくなってきました。子どもの心に迫る授業作りが楽しくなってきました。学級通信や実践記録を書かずにおれなくなりました。そんな生きがいに満ちた光いっぱいの教師生活が、私にも開けてきたのです。(略)
このような東井先生との「いのちの出会い」は、形は違っても、どの先生方も持っておられます。職員の一人ひとりが今何を考え、何に頑張り、何に悩んでいるか、東井先生は千里眼のような目で見抜き、全身で支えて下さる「慈愛の人」でした。職員の全てが東井先生との「めぐり会いに手を合わせながら」少しでもましな教師になろう、人間らしい人間になろう、東井先生のような優しさを持って、子どもに接していこうと努力しました。
苦しいことが出てきても、逃げないで正面からぶつかり、ここまで乗り越えられたと喜び合える、生きがいを燃やす教師集団に成長していきました。
(中川真昭『東井義雄さんの軌跡 人が生きる根を育てる』本願寺出版社より)
昨日の続きです。困り果てて帰ったとのことでしたが、帰ったのは、家ではなく、病院だったそうです。
ちょうどその頃、妻が子宮筋腫の手術のため、八鹿病院に入院していたので、私は病院から学校へ、学校から病院への生活をしていたのです。
病室に帰ってくると、妻が「お父ちゃん……」と言って泣きながら私を見つめるのです。
「何だ? 何があった?」と尋ねても涙にむせんでなかなか話せないのです。
「今日は、東井先生がお見舞いにきて下さって、一日中看病して下さったんです……」
「みんなの大事な校長先生です。看病して頂くのはうれしいのですが、私などが一人占めするわけにはいきません。どうか学校に帰って下さい」と何度もお願いしたそうですが、東井先生は「お父ちゃんたちがちゃんと教育してくれているので、心配せんでもええで……」と言って、午後もずっと看病して下さったと言うのです。
妻は大手術をした直後でしたから、背中に手を入れて持ち上げるようにしていないと、絶えず激痛が走るのです。昨夜も私は論文を書きながら、何度も手を入れて持ち上げ、首も肩もパンパンに張っていました。妻の背中には空気枕を入れて出勤していたのです。
東井先生は「お父ちゃんの代わりはできんけど……」と言いながら一日中妻の背中に手を入れて持ち上げ、痛みを和らげて下さったと言うのです。
私は、体中が硬直して、ガタガタガタガタ震えが止まらなくなりました。一日中、東井先生の悪口を言い、腹立ちに餌をやり続けていた情けない自分、そんな自分のために、妻のために、東井先生の大切な時間を、骨の折れる看病という形で、まるごと下さったのです。
(つづく)
昨日に続き、東井先生のこと。今日からは、私が好きなエピソードを一つ。山根功暉先生の文章です。
私が東井先生にめぐり会ったのは、三十代半ばの血の気の多い頃でした。
ある日のこと、締切り間近の論文原稿を徹夜で書き上げ、今日は東井先生に見てもらって発送しようと張り切っていました。
二時間目の休み時間に校長室へ行ってみると、姿が見えません。
教頭先生に尋ねても「さあ、知らんで」と言われるばかりでした。
私はだんだんいらいらしてきて「行き先ぐらい、ちゃんと言って出ればいいのに……」と東井先生の悪口を並べていました。
そんな思いで、校長室を何度も何度も覗きにいきました。
昼休みも午後も、とうとう帰る時間になっても、東井先生の姿はありませんでした。
今日この原稿を送らないと締切りに間に合わないし、どうしよう……といらいらし、困り果てて帰ってきました。
(つづく)
教育者であり、念仏者であった東井義雄先生(1912~1991)の言葉を一つ。
花の命を信じて
不断の愛を注いでくれる人を
花は知っている そして
その期待に答えられずにおれなくなって
美しい花を咲かせる
子どももまた然りである