小山 青巖寺

三重県津市一志町小山にある真宗高田派のお寺です。

3限続けて

2014年11月28日 | 高田短大
 今日は、1限目、高田短大で、仏教専門講座でした。
 観経の三心の続きで、今回は、回向発願心についてお話し、その後、三心を振り返ってまとめました。
 何を話すかきちっと決めていなくて、話しながら話す内容を考えていたのですが、自分としては結構おもしろい話になりました。と言っても、聞いていた方々にとってどうだったかは知りませんが…(^-^;)

 2限目・3限目は、短大の仏教の授業でした。
 今日は、阿弥陀仏とはどんな仏なのか、ということをお話ししました。

 しかし、さすがに90分の授業を3限続けて行うと、ノドが痛かったです。風邪かなぁ。('_'、
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

分別知と無分別智

2014年11月27日 | 日記
 昔、短大で、仏教の試験を行った時の話です。
 補助の先生が付いてくださり、試験監督を手伝っていただきました。
 答案用紙を回収しながら、学生たちの答案を読んでいたその先生は、「答案に書いてあることはどれもよく分かるのですが、最後に書いてある「いつでもどこでもはたらいている阿弥陀仏のはたらき」というのが分かりません。どういうことですか」と質問されました。
 そこで、分かってもらえるように、たとえ話なども入れていろいろとお話ししました。10分くらいでしょうか、ずっと話していって、私は自分が間違っていることに気づきました。
 1年掛けて教えてきた内容を、10分くらいの話で伝えられるわけがなかったのです。1年掛けて学んできた学生たちにしても、おぼろげながらようやく漠然としたイメージが浮かんできたというくらいでしょう。私自身、何年もかかったことです。それを短時間で分かってもらうことなど、そもそも無理な話なのです。
 もし、それで相手が分かったと思ったのであれば、それは本当に分かったのではなく、分かったつもりにさせただけだと思います。

 基本、人は「考えれば分かる」と思っています。そうやって物事を理解するために考えること(知恵)を、仏教では「分別知」と呼んでいます。「分別知」の特徴は、物事を分けて、分析することです。
 人は、赤ちゃんとして生まれてきた当初は、まだ自分と他人の区別もしていません。それが次第に、自と他の区別を知り、母親を知り、家族を知り…というように、それぞれを区別していくことで世界を知っていきます。世界をバラバラにすることで認識していくわけです。この知恵を「分別知」といいます。私たちが普段使っている知恵のことです。
 しかし、世界は、本来、すべて関係しあっていて、しかも絶え間なく変化し続けています。その世界のあり方を「縁起」といいます。そういう世界を、自と他を区別せずありのままに見るのが、仏の智慧であり、それを「無分別智」と呼びます。
 「分別知」によって、「無分別智」を理解することは不可能です。「分別知」は、自と他を区別し、見るものと見られるものを区別する二元論的な知ですので、どうしても見る自分が残り、ありのままの世界を見ることができないからです。「分別知」が理解しているのは、自分中心に見た世界です。しかも、私たちはそれをありのままの世界と思いこみ、知っているつもりになっています。
 「分別知」の方から「無分別智」を理解することはできませんが、「無分別智」は「無分別智」の方から「分別知」を突き崩す形で私たちにありのままの世界を知らしめます。私たちにありのままの世界を知らせるはたらきを他力といい、そのはたらきの主を阿弥陀仏と呼んでいます。

 だから、「分別知」によって阿弥陀仏を理解しようとしている人相手に、短時間で理解させるなんて、仏ならともかく、私にできるはずがなかったのでした。せめて私にできることは、問いを持ってもらうことくらいです。「考えたけど、分からなかった。いったい何なんだろう?」と。そうすれば、いつか阿弥陀仏がその人の「分別知」を突き破って真実を知らせた時に、「ああ、これが他力なのか」と分かってもらえることでしょう。

※ちなみに、信仰とは、人間が神を信じることですから、二元論です。だから、無分別智を知らされる信心とは異なります。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

親鸞の言う信心

2014年11月26日 | 日記
 この間書いた「信仰と信心」について、こんな感想&質問を頂きました。

 「難しい・・。浄土を期待して信じるのではなく、信じた先に分かることがあるはずだと信じる事が信心ってことなのかな?」

 正直、感想や質問をもらえるとは思っていなかったので、とても嬉しかったです。ですので、少し答えてみたいと思います。

 まず、「信じた先に分かることがあるはずだと信じる」というのは、「分かるか分からないか知らないけど、とりあえず分かるらしいから分かると信じてみよう」みたいな感じで、「信じる」という行為が先にあると思います。

 でも、親鸞の言う信心は、「分からないものを信じる」ことではなく、分かったから信じるものです。というか、「分かった!」ということが信心です。

 「分かった」ということは、それまでは「分かっていなかった」ということです。つまり、「分かった」ということは、それまで分かっていなかった自分を知ることです。

 そして、分かっていなかった自分が分かったわけですから、分かっていなかった自分に教えてくれたはたらきがあったわけです。つまり、それは、分かっていなかった自分に教えてくれたはたらきがあったことを知ることでもあります。

 まとめると、「分かった」ということは、分かっていなかった自分を知ることであり、また同時に、分かっていない自分に教えてくれたはたらきがあったことを知ることでもある、というわけです。

 これが、親鸞の言う信心です。

 だから、親鸞の言う信心は、分からないものを信じることではありません。むしろ「分かる」ということそのものです。

 じゃあ、何を分かるのか、というと、これが実は結構当たり前のことだったりします。
 「すべては移りゆく」ものであること、そして、「すべては関係しあっている」こと。
 これを仏教では「縁起」と言います。

 そして、それを本当に、心から分かった時、いや、分からせてもらえた時、その心を、信心といいます。そして、分からせてくれたはたらきの主を、真宗では、阿弥陀仏と呼んでいます。(^-^)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲城選恵和上

2014年11月19日 | 日記
 昨日、久しぶりに稲城選恵和上のことを思い出したら、今日、和上がご往生されたという報せが届きました。
 正しく昨晩、ご往生されたとのことです。

 亡くなられた日に、和上のことを思い出しているとは、ありがたいご縁でした。
 南無阿弥陀仏。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信仰と信心

2014年11月18日 | 日記
 今日、ある方とお話ししていて、こんな話になりました。

 「親鸞の教えも宗教ですから、信仰心が中心になると思います。でも、論理もまた大切だと思うのです。その点、キリスト教は分かりやすいです」
 「そうですね」と私。
 「神を信じるという信仰が重要なんですよね」
 「うーん、ただ、親鸞の言う信心は信仰ではないですけどね」
 「でも、浄土があると信じるわけでしょう?」
 「親鸞は『歎異抄』で「念仏によって浄土に往生するかどうか、私は知りません」って言ってますよね」
 「そうですけど、でも、たとえばキリスト教であれば、信じる者は救われる、というのが信仰心ですよね」
 「そういう意味の信仰であれば、それは親鸞の言う信心ではないですよ。親鸞の言う信心とは、分からないものを信じることではなく、むしろ救われたからこそ知らされるものです。だから信仰ではないです」

 そう言って、第十九願、第二十願、第十八願を使って簡単に説明させていただきました。もちろん、簡単に説明できるような内容ではありません。
 ただ、詳しく説明したら理解できるのかと言えば、そうでもないと思います。冷暖自知。人に教えてもらって分かることではなく、自分で経験して初めて知ることができることです。ただ、ここでは、「信心とは信仰ではない」ということを知ってもらえばそれでいいと思っていました。

 その時、「信心は信仰ではない」と言い切れるのは、自分の経験もさることながら、お二人の先生のおかげだなぁと思いながら、その方に説明していました。
 一人は、龍谷大学の学長でもあった信楽峻麿先生です。もう一人は、西本願寺勧学の稲城選恵和上でした。
 お二人は、立場も違えば、考え方もずいぶん違うお二人でした。ですが、私は書物を通してお二人からいろいろとお教えいただいていました。
 そして、お二人とも、「信心は信仰ではない」と仰っていたのです。だからこそ、自信を持って言うことができたのだと思います。
 全くもって、ありがたいご縁をいただいていた私でした。南無阿弥陀仏。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絵ものがたり 正信偈

2014年11月16日 | 聞法会・月例法座
 今日は、月例法座でした。

 今回から、「絵ものがたり 正信偈 -ひかりになった、王子さま-」を読み始めました。

 絵本になっていて、読みやすいです。

 月例法座は、毎月16日、夜7時半から始めています。どなたでも、どうぞ♪
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小学生たちの来訪

2014年11月10日 | 日記
 今日は、小学3年生の子たちが、青巖寺に来てくれました。

 まず本堂でお話しさせていただきました。青巖寺の歴史や、みんなに支えてもらっていることや、いろんないのちをいただいていることや、子どもたち一人ひとりが宝物であり輝いていることや、みんなで力を合わせれば人を感動させることができることなど。みんな、いっぱい質問しながら、しっかり聞いてくれました。

 その後、本堂の中や、池の鯉を見学してもらいました。
 予定した時間をオーバーしてしまいましたが、みんな楽しんでもらったみたいで、嬉しかったです。
 みんな、ありがとう!

 その日の夕方、さっそく二人の女の子が遊びに来てくれて、せいがん寺文庫の本を借りていってくれました。
 いつでも来てね~♪
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

報恩講

2014年11月09日 | 日記
 今日は、報恩講でした。


 こちらで役員さんたちが受付を行っています。


 受付を終えた方々には、こちらでお非時を召し上がってもらっています。

 報恩講の法要の後は、バザーを開きました。
 今日は雨だったので、慈照軒でバザーを行いました。



 こちらでは野菜を販売しています。

 雨にもかかわらず、大勢の方々にご参詣いただきました。ありがとうございました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

報恩講の準備

2014年11月08日 | 日記
 今月9日は、報恩講です。
 昨日は、大井・波瀬地区の方々に来ていただき、きれいに清掃していただきました。
 そして今日は、役員さんや小山の女性の方々に来ていただき、報恩講の準備をしていただきました。



 みなさん、ほんとうにありがとうございました。
 いよいよ明日、報恩講です。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2014年11月06日 | 日記
 昨日は、あいにく曇っていて、月は見られませんでしたが、今日は、月がきれいに見えました。
 下は、ぼやけてますが、スマホで撮った今晩の月の写真です。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする