昔、短大で、仏教の試験を行った時の話です。
補助の先生が付いてくださり、試験監督を手伝っていただきました。
答案用紙を回収しながら、学生たちの答案を読んでいたその先生は、「答案に書いてあることはどれもよく分かるのですが、最後に書いてある「いつでもどこでもはたらいている阿弥陀仏のはたらき」というのが分かりません。どういうことですか」と質問されました。
そこで、分かってもらえるように、たとえ話なども入れていろいろとお話ししました。10分くらいでしょうか、ずっと話していって、私は自分が間違っていることに気づきました。
1年掛けて教えてきた内容を、10分くらいの話で伝えられるわけがなかったのです。1年掛けて学んできた学生たちにしても、おぼろげながらようやく漠然としたイメージが浮かんできたというくらいでしょう。私自身、何年もかかったことです。それを短時間で分かってもらうことなど、そもそも無理な話なのです。
もし、それで相手が分かったと思ったのであれば、それは本当に分かったのではなく、分かったつもりにさせただけだと思います。
基本、人は「考えれば分かる」と思っています。そうやって物事を理解するために考えること(知恵)を、仏教では「分別知」と呼んでいます。「分別知」の特徴は、物事を分けて、分析することです。
人は、赤ちゃんとして生まれてきた当初は、まだ自分と他人の区別もしていません。それが次第に、自と他の区別を知り、母親を知り、家族を知り…というように、それぞれを区別していくことで世界を知っていきます。世界をバラバラにすることで認識していくわけです。この知恵を「分別知」といいます。私たちが普段使っている知恵のことです。
しかし、世界は、本来、すべて関係しあっていて、しかも絶え間なく変化し続けています。その世界のあり方を「縁起」といいます。そういう世界を、自と他を区別せずありのままに見るのが、仏の智慧であり、それを「無分別智」と呼びます。
「分別知」によって、「無分別智」を理解することは不可能です。「分別知」は、自と他を区別し、見るものと見られるものを区別する二元論的な知ですので、どうしても見る自分が残り、ありのままの世界を見ることができないからです。「分別知」が理解しているのは、自分中心に見た世界です。しかも、私たちはそれをありのままの世界と思いこみ、知っているつもりになっています。
「分別知」の方から「無分別智」を理解することはできませんが、「無分別智」は「無分別智」の方から「分別知」を突き崩す形で私たちにありのままの世界を知らしめます。私たちにありのままの世界を知らせるはたらきを他力といい、そのはたらきの主を阿弥陀仏と呼んでいます。
だから、「分別知」によって阿弥陀仏を理解しようとしている人相手に、短時間で理解させるなんて、仏ならともかく、私にできるはずがなかったのでした。せめて私にできることは、問いを持ってもらうことくらいです。「考えたけど、分からなかった。いったい何なんだろう?」と。そうすれば、いつか阿弥陀仏がその人の「分別知」を突き破って真実を知らせた時に、「ああ、これが他力なのか」と分かってもらえることでしょう。
※ちなみに、信仰とは、人間が神を信じることですから、二元論です。だから、無分別智を知らされる信心とは異なります。