一時帰国の3泊4日の時間は、あっという間に過ぎていった。ゴールデンウイークに入る前、懐かしい三浦半島を二人で確認した。
何度もお世話になった君のうちの葉山の別荘、秋谷海岸、佐島港と思い出を追確認して、22年間の空白を共に埋めていった。僕の足になったプジョウ君は、そのしなやかの足で、三浦半島の西海岸を走ってくれた。
<プジョウ>
二人でうまい寿司を食った三崎、咲乃家での思い出を追いかけてみたが、店を仕切っていたおばあちゃんは他界していて、代替わりで息子さんが新しい店を開いていた。どこか優しさを感じさせてくれたボロの木造の店は、立派な冷たい感じのするコンクリートの店になっていた。時間とともに、風景は変わったのだ。
その昔、二人が秘めたる恋仲だったころ、三崎でマグロ寿司を食べるとき、よく行った店だ。会社の連中と鉢合わせしないようにと、狭い階段を上がって、二階の広間をそっと覗いた。混雑の中に知り合いがいないとわかったら、小さな個別のテーブルをもらって、おばあちゃんの注文取りが来るのを待った。本当は、一階のカウンターが一番のおきにいりで、目の前で握ってくれたのだけれど、そのカウンターは小さくて、7~8人の客でいっぱいだった。つまり、そのころは、おばあちゃんの切り盛りで、店は繁盛していたのに…。
<咲乃家>
城ケ島は、相変わらず風の島だ。猫の島も変わってはいない。二人で見ていた22年前の景色と変わっていなかった。
この限られた二人の時間は、二人の距離を詰めるに大切な時間だった。
なぜアメリカ人と結婚することにしたのかという基本的な話を聞いてみた。君にとっては、僕との別れは、すべての生活のリセットだったという。
14年もの長い秘めたる恋が終わった時、君は、僕から旅立つ必要があったのだ。確かに僕にとっても、身近に別れた君を見ているのは、つらかっただろうと思う。お互いに嫌いになって、喧嘩別れしたわけではなく、どちらかというと僕の筋論で別れた二人だ。あたらしい環境を一から始める必要があったのだと納得した
知らないアメリカ人と唐突に結婚すると決めたのは、リッセットが目的だったという。日本からも、知った人からも離れて、真新しい生活を始めるには、いい選択だったかもしれない。それにしても、お互いを知る時間が短かったのではないかと思っている。
君から出た言葉で、思いもしなかった言葉があった。それは、僕は子供たちの独り立ちまでは、君とは一緒になれない、離婚はできないと言った時のこと。
なぜ、「それまで待ってくれと言ってくれなかったのか…」との言葉だった。そして、もし僕が待ってくれといったなら、「待っていたかも…」と口にした。僕の心に、ズンと来た。僕には、想像もしていなかった言葉だったからだ。
やはり、二人の間には、大きなギャップがあったのだ。さらには、「子供を作っておけばよかった」って思うとも言った。会社の中に、ほかにも秘めたる恋をしている人がいて、その人は、道ならぬ恋の相手の子供を堂々と生んだという。そんな選択の可能性もあったとは、男性の僕は思いもつかなかった。女性の強い心の表れかもしれない。
僕の心に今も疑問なことも確かめた。いつだったか、僕が別居中に住んでいたぼろアパートで僕の帰りを待っていた君が、酔っぱらって、鋭利なガラスの破片で左の手首を切ったことがあった。僕は慌てて深夜に病院を探し、近くの救急病院で傷口を縫ってもらって事なきを得たことがある。あれは自傷行為ではなかったのかと、いうことを訊いてみた。
答えは、リストカットはヒステリの仕業だったと。やはり、リストカットだったのだと、責任を感じる僕がいた。また、こんなことも話していた。君のうちでは、親父さんと君はまずい仲だった。そして、「まずくない親父を僕のなかに期待したのかもしれない」と。過去の君の心の動きを、こんな長い空白の時間の後に、聞くことになったのは皮肉だった。僕たちを引き付けていたものの実態が、少し明らかになった気がした。
3泊4日の間、いろんなことを話したが、一番の大切な合意、約束は、君が何としても、日本にできるだけ早く帰ってくるということになったことだ。病気の彼をほっておくわけにはいかないとか、愛猫のキューちゃんは飛行機には乗せられないとか、簡単にアメリカを離れることは、君にとって、つらいことだろうとも思った。
<猫>
しかし、22年の空白の時間はあっても、二人は、この二人で生きて行きたいと思っていることを確認した。何時、アメリカのご主人の海馬のコントロールがだめになるかもしれないし、麻薬にも手を出し始めたという状況からは、決別してほしいと訴えた。帰ってきて、見つけた横浜のマンションで、二人で暮らすと、約束した。
マンションについて、君の同意が得られたから、僕は金を用意して不動産屋さんを訪れ、売買契約を完了した。その日、君を自由が丘のモンブランに待たせておいて、契約終了してから、君と一緒に東横線に乗って中目黒経由で日比谷に出た。一緒にイタリア映画祭を見るためだった。長く、ひとりでこの映画祭を見ていて、誰かと感想を共有できたらと思っていたのが、それを君とできたのだ。うれしかった。
<サテンドール>
その後、懐かしい浅草を歩き、夜、六本木のサテンドールで生ジャズを聴いて、日帰りの君と最後の一日は終わった。4月から5月にかけての、君の一時帰国の滞在での、最後の日だった。君は、5月9日に、成田から絶対に帰ってくると電話をくれて、アメリカに帰って行った。
身一つでいいから、1日でも早く、安全な日本に君を迎えたかった。