昔、新宿のFugetsudoによく通ったものです!

そろそろ先が見えてきましたから、今のうちに記憶を書いておこうと…

恣意的な結婚が崩壊した

2014年01月05日 | ファンタジア・その後
 君がアメリカに嫁ついだ後、僕の仕事の環境が激変した。

 会社はご他聞に漏れずリストラの嵐。勿論、給料の高い奴から首にすれば、固定費は大幅に削減できる。

 本来のリストラとは、仕事のやり方を変えること、新しい業界に参入して、将来の収益を確保することなのだけれど、なんだか日本のリストラは首を切ることの代名詞になっているらしい。

 結果として、一般社員の3倍も人件費のかかる僕をやめさせれば、効率は良い。そこで、子会社を作って、そこに転籍させるという手法をとった。転籍とは、親会社から見れば首だ。しかも、その子会社は、本体の仕事の下請けと決まっている。給料は下がる。モラルも下がる。僕自身のモラルも落ちていた。

 会社としては、早期退職金を退職金に上積みして、とにかく高給者の転籍を推し進めていた。

 会社には30年間お世話になったから、もうそろそろやめて、他の道を探そうと考え始めた。やるなら、やはり、前に目指していたカウンセラーとしての独立だった。

 さらに、子供たちも、長男はもう24歳で大学を出て就職した。下のチビも、CADの専門学校を出て、20歳で就職していた。これで、カミさんとの離婚の障害は、無くなったわけだ。離婚の条件のもう一つ、君との別れはもう前に終わっていた。子供たちの巣立ちが、僕の会社からの別れの可能性をも大きくした。

 別れようと、カミさんに切りだした。カミさんは、もともと別れるつもりだったようだから同意した。後は、子供たちに対する謝罪が残った。彼らにとっては、親は選べないから、生まれてみたら、僕とカミさんの子供だったわけ。



 彼らも、もう大人だから、僕達夫婦のもめ事は十分認識していた。15年以上も、親父は週末にだけ、自分たちに会いに帰ってきていることも知っていた。この先は、子供たちの結婚が一つのマイルストーンだけれど、そこまでは自分を引っ張れなかった。

 僕達夫婦は、法律的な離婚をすることになった。まずは、子供たちの今後の学費の積立金をカミさんに渡し、カミさんには土地、家屋、幾ばくかの金を渡すことにした。それは、その頃、僕が持っていたすべての財産だった。カミさんは、国家資格をとって自分で稼いでいた。金には困らない状況だった。

 後には、僕の生活費が少し残った。でも、それでいいやと気持ちは軽くなった。子供たちは、当分、僕の建てたカミさん名義の家にカミさんと住むことになった。それは良い事だとおもった。

 僕は、僕の身の回りの物を自宅から二俣の姉のマンションに運び入れた。こうして、二俣のマンション、会社、そして子供たちのいる自宅をめぐる3角形の一つの角がなくなった。こうして、25年の結婚が終わった。

 考えてみると、この結婚の破たんの原因と責任は僕にあった。

 カミさんを選んだ理由が、僕の中であまりにも恣意的で、ふつふつとわく感情に押されたものではなかったということだ。

 僕の生い立ちから、僕の中には何時も「平凡な家庭、家族で囲む夕食の食卓、明るいランプの下の会話」、そんなものに対する強い憧れがあった。僕はそんな時間や光景を経験したことがないのだ。

 戦争で家を焼かれて疎開した僕の家は貧しかった。上の姉は、高校を卒業すると、小学校の代用教員になって独立していた。お袋は、僕のすぐ上の姉をかわいがって、極貧の生活から逃げ出し土佐の裕福な実家に帰って行った。お袋が家に居るころも、僕のうちでは親父とお袋の仲が悪く、平凡な夕餉の景色は見えなかった。

 結果として、僕は、祖母と親父と3人の暗い貧しい小学生生活を送った。親父に、「高校から、自分で面倒を見ろ」と突き放されたのが中学2年の秋。それ以降、僕はすべてを自分でやって来た。日本育英会の特別奨学金、優しい先生たち、親父の友人たちに助けられ、大学もバイト、バイトで生活費を稼ぎ、学費は頑張って大学の授業料免除にこぎつけて、やっと卒業した。

 そんな生い立ちだから、平凡なつましい、しかし、家族のそろった夕餉は憧れだった。だから、僕のカミさんはそうした僕の長年の思いを満たしてくれる人でなくてはならないと自分で決めていた。

 家庭を守る主婦、勤め人の旦那をサポートする妻、子供たちの母親、地域社会で良い関係を維持できるカミさん、料理が上手くて、僕にも子供たちにも美味いものを食わしてくれる金銭感覚のある人。カミさん選びにはこんな属性を僕は強く意識していた。

 カミさんに会うまでの、僕の女友達は、そんな属性のリストから見ると、かなり違った世界にいた。絵描きの卵、ピアニストの卵、デザイナー、経営者、バンドのリーダー、A級ライセンのバーマン、などなど。彼女たちも、その後を見ると、ちゃんと結婚して、家庭を維持しているのを知ることになるのだけれど、当時は女友達であって、主婦ができる人とは見えなかった。

 僕が30歳で家を建てた時、カミさんとの価値観の違いが明らかになってきた。その時、一緒にいたい、離れているのが切ないなんていう感情のうめきを全く感じていない二人の形が見えた。でも、子供が二人いたから、途中で子供たちを投げ出すことはできなかっただけだ。

 こうして、離婚が成立してみると、なんと身軽になったことかと感じたのだ。恣意的に連れ合いを選んではいけないというのが、25年間から学んだ教訓だった。
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