昔、新宿のFugetsudoによく通ったものです!

そろそろ先が見えてきましたから、今のうちに記憶を書いておこうと…

調停と一人旅

2016年02月21日 | ファンタジア・その後



 9月15日の調停申し立てから4か月間で、4回の調停が行われた。決して楽しいものではなかった。Nさんにも、楽しいものではなかっただろう。調停委員にプライバシーの全てを語るわけだから、メンタル的にも辛いものだ。



 <離婚調停>

 最初の聞き取りで、僕の申し立ては理解されたとの感触だった。「もう婚姻状態は壊れていると判断できる」と、間接的なフィードバックがあった。あとは、調停委員とNさんの話し合いが、持たれるまで僕の出番はない。今までと同じく、同居別居と、諍いの日々は続いた。

 予定していた秋の一人での東京行きは、調停中だったが、スケジュールがOKだったので出かけた。一週間、一人で東京に暮らしてみようと考えて、ウイークリーマンションを赤坂に予約した。秋たけなわの10月に、一週間あれば自分の世界を実行できると考えたからだ。精神的にリフレッシュしたかったのだ。

 アメリカの君に、もし日本に来るチャンスがあったら、東京で会ってカウンセリングをしてもいいよと連絡しておいた。しかし、アメリカのご主人が、肝硬変で吐血を起こし、来日は不可能になった。僕は、予定どおり東京に出た。

 チャレンジだった。心臓病に対して、うつ状態に対して、そして、同居別居の暗い世界からの自己解放のためのチャレンジだった。
 
 そこには、健全な世界が広がっていた。



 <浅草>

 青山墓地での昔の人の墓参り、大学時代の古い親友、二人との浅草。ここでは、昼間から、ホッピーを飲み、焼き鳥を食ってしゃべった。

 昔からの、六本木のライブジャズ、サテンドールにも顔を出し、レイアウトの変わった店のかぶりつきで生のジャズを楽しんだ。

 僕の好きなシャガール展が東京芸大で開かれていたので、久しぶりの生のシャガールにも出会った。そこから、日暮里から谷中へ、そして根岸へと歩き、昔、親父たちと住んでいた家を見に行った。そこは建て替えられて、アパートになっていた。ただ、ガッポ、ガッポと水をくみ上げる手押しポンプは健在だった。

 昔、住んでいた自由が丘では、高校の頃の恋人で、今はシングルマザーで会社を経営しているYさんと、その子供、Aちゃんの3人であって贅沢な食事をした。

 新国立美術館のゴッホ展を楽しみ、そこの素晴らしいウッドデッキで、空を見上げた。

 横浜の中華街、大桟橋のクジラの背中を歩いて、元気を取り戻して仙台に帰ってきた。心臓はおとなしくしてくれた。



 <新国立>

 調停は10月に第二回を終えた。それまでにNさんは、一回の調停を受けていた。おおむね、僕の立場を理解してくれた調停委員は、Nさんを説得に掛かったようだ。Nさんは、現状が見えてないと言われた。状況は客観的に見て、離婚がより良い方向だろうと話したらしい。4週間で、どうしたいのかをまとめてくださいと、Nさんに宿題が出た。Nさんも、やっと考え始めたようだった。

 11月、第3回目の調停があった。僕は、扶余的な財産分与の提案を固めていた。内容は、Nさんが60歳の厚生年金の受給が始まるまでの期間に必要な厚生年金保険料を積算、二人で掛かっていた平均的生活費の半分の額を65歳まで積算し、さらに国民健康保険料の65歳までの必要額を合計した700万円弱の財産分与案だった。調停委員にも、良心的だと見えたようだ。僕の持つ動産の三分の一くらいの額だった。

 11月の調停で、家裁は公的な調停案を具体的に検討し始めた。

 Nさんは、10月末から自分で弁護士と相談し、結果、裁判までは持っていかないと結論をえたようだ。12月には、調停離婚でいくと決めて、財産分与について僕と話すようになった。マンションの売却は反対しない、僕に任せるということで、不動産屋さんと話を始めることが可能になった。Nさんは、一時、仙台に一人残るということを考えたようだが、結果として横浜に帰る方向で、お袋さんと話し始めた。

 12月22日の調停の前に、Nさんは、調停離婚ではなくて、協議離婚にしたいと言い出した。強制力のある調停離婚がいいと僕は言ったが、Nさんは戸籍に傷がつくから、協議離婚にしたいと強く言った。確かに戸籍では、調停離婚か協議離婚かが分かるようだ。構わないと、僕は合意した。

 12月22日の調停で、僕は「協議離婚することにしましたので、調停はこれで終わりたい」と申し入れた。調停委員は唖然とした顔をしていたが、申し立てが取り消された以上、調停は不要になった。



 <協議離婚覚書>

 12月に離婚と財産分与の合意書を作り、二人でサインをした。何とか、新しい2011年が迎えられそうだった。



クレジット情報 
<離婚調停の写真は、新潟家裁の提供です>
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君からの国際電話

2016年02月07日 | ファンタジア・その後

 10月、突然、アメリカの小さな村に住んでいる君から電話をもらった。



 <電話>

 それは、僕が一人で大きな音で、井上陽水を聴いていたときだった。

  僕:今、陽水を大きな音で聴いています。
  君:うらやましいです。
  僕:そちらでは陽水のアルバムは持っていないんだ?
  君:全くありません。聞こうと思えば、YouTube です。

  僕:いろいろ聞いても、陽水とサザンとが傑出していますね。
  君:サザンは毎日聞いています。

  僕:その次に、君が好きな玉置浩二が来るのかもしれません。
  君:そうですね。
  僕:このあたりの曲が、将来もクラシックと同じようにスタンダードとして残っていく のかな…。
  君:陽水はそうなると思います。サザンも…。
    でも玉置はまだそこまで行っていないかもね。最近、荒れているので、だめかもしれません。

  僕:コブクロも残っていくかも
  君:コブクロもいいですね。

  僕:女性では、みゆきさんと、ドリカムかな?
  君:あとは高橋真理子とか…。
  僕:そうだね。ちょっとオリジナリティが足りない気がしますが…。
  君:そう、やはり自分で作らないとだめですね。高橋真理子は作り始めましたが、
    まだまだですね。
  僕:そう、自分で書きはじめましたね。

  僕:「傘がない」が今、聞こえています。
  君:「傘がない」は、大好きです。
  僕: 君よりより古い付き合いです。
  君: もちろんそうですね。暗いけどいい曲です。

  僕: 陽水は若い時の曲も、中断後の年取ってからの曲も、両方、いいのは素敵です。
  君:才能ですね。
  僕:詞がいいですね、曲に負けず。だれも想像できない言葉を紡いでいます。
  君:本当にそうですね。
    どこから出てくるの…というくらいいいですね。

  僕:そういう意味で、玉置と陽水のコラボは素敵です。
  君:「夏の終わりのハーモニー」はすごいです。
  僕:僕が玉置を知ったのは、陽水とSONGSに出ていた時です。
    それまでは全く知らなかった。
  君:二人のジョイントコンサートで、初めて、「夏の終わりのハーモニー」を歌いました。すごかったです。よく覚えています。
  僕:安全地帯時代には、玉置の名も知りませんでした。まったく気になっていませんでした。
  君:私が昔きいていたの 知らなかった?
  僕:おぼえてないなぁ

  君:そういえば、二人で音楽、あまり聞かなかったですね。
  僕:そんなことはないけど。車に乗っているときはいつもカセットがかかっていました。洋楽が多かったのかも…です。
  君:よく覚えていません。

  僕:フミヤもいいですね。
  君:フミヤも最近いいです。



 <陽水>

  僕:「夢のなかに」が流れています。陽水、高い声が今も出ますね。
  君:懐かしい!
  僕:お気に入りは、「長い坂の絵のフレーム」と「積み荷のない船」ですかね。
  君:比較的、新しい曲ですね。

  僕:淋しさのつれづれに…、「心もよう」が聞こえています。
  君:手紙をしたためています…ですね。
  僕:そうです。
  君:美しい日本語ですね。

 電話はきれた。

 ちょっと、30年も前の懐かしい感情で陽水を聴いた。
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