横浜を離れて住むところを探すのは、難しいことだった。
仙台は寒そう。候補にはなったけれど、前に仕事で行っているから大体の感じは分かる。積極的に住むところではなかった。でも、その後、住むことになるのだが…。
三浦半島は、あまりにも君との思い出が濃い場所だから、三浦に住もうと思わなかった。君との過去を、これからの生活に引きずるのは避けたかったからだ。
城ケ崎
伊東の山奥、天城高原に何度か仕事で行っていたことで、伊豆高原は候補地の一つになった。相模灘を挟んで、なつかしい葉山とは直線距離で50km。晴れた日の夕陽が三浦半島を鮮やかに映し出して見せてくれる。
こうして伊豆高原が浮かび上がった。伊豆には子供たちとはいっぱい思い出があるけど、君との思い出は全くなかったのも良かった。君との記憶を引きずりださなくて。
これまでの軽井沢、八ヶ岳、四万十川、高知、仙台、伊豆高原を候補として考えてみると、浮きあがってきたものがある。
それは、僕は東京から隔絶された場所には住めないかも…ということだった。自然があるのはありがたい。しかし根本的には、同時に都会という存在そのものが、僕には必要なのだということだった。
音楽も、絵画も、友達も、すてきな食べ物も、勝手を知った街も、仕事のセミナーも、クライアントの存在も、TAの研究会の参加おとかも、すべてひっくるめて、僕には都会が必要だと分かったのだ。
住む場所としては、田舎と都会が混ざり合った場所が必要だということだ。豊かな自然と便利な都会のベストミックス。これが、僕にとっての条件だったのだ。
君がアメリカへ嫁いでからも、僕は君とコンタクトを持ちたがっている自分を押し込めておく必要もあった。なんとか、新しい世界を作らなくては…と思っていた。
この先、Nさんと生きていってもいいかなぁと思い始めていたから、夏休みにコロラド、ボルダーまで出かけて話してみた。Nさんは、その気は無いという感じではなく、決めるのは僕だと無言で言われた感じがした。
僕はもう二度と結婚はしたくはなかったので、女友達でいられたら…と思っていたのだが、しかしクリスチャンのNさんは、それはできないと決めていたようだ。それが、Nさんの唯一の条件だった。
Nさんの教会の牧師さんにも、僕は釘をさされていた。Nさんが日本を離れたわけはそこにあると僕は思っていた。
僕はY牧師を訪ねて彼の意向を聞いてみた。聞くまでもなく、神の前での結婚というのが彼の答だった。ただし、僕がキリスト教に改宗するのは、その後でもいいとの感触を得た。
君がアメリカに去ってから、3年後に親父は亡くなった。君と親父とは、三社祭で、二人を不意打ちで引き合わせていた。浅草・雷門のはすむかいの松喜というステーキハウスだった。
親父に好感を持ってくれた君を知っていたから、親父の残した桔梗の色紙と一緒に、親父の死を君に知らせたいと思った。少なくとも、親父の色紙は、なんとか送ってあげたいと思っていた。
いや、本心は、君とコンタクトを取りたかったのだ。しかし、アメリカ人の旦那が駐在で日本に住んでいた頃、僕が逗子の君にかけた電話に対する君の拒絶は、その希望をなえさせるものだった。仕方ない。これからの20年位を一人で生きていくのはつまらない…と思った。
Nさんが帰国して、一緒に伊豆高原の家を見に行った。二か所見た。赤沢の分譲地の眺めはいいけれど、生活には不便。まるで、山奥の仙人になったような気分の隔絶された場所だった。ここはやめようと合意した。
伊豆高原の家
結果として、伊豆高原の分譲地にある中古物件、もともとは別荘として建てられた2LDKの二階建ての家が候補になった。大きなベランダがあって、そこから大島、神津島、利島、式根島が見えた。駅にも車で10分弱。ショッピングモールまで、車で15分の場所だった。さらに、熱海から新幹線を使えば東京まで2時間弱というのも決め手だった。
かすんで見える神津島
横浜のNさんの教会で、クリスチャンの彼女と、クリスチャンではない僕の結婚の会が行われた。一人ぼっちでなく過ごすこととの代償として、こうして、二度目の結婚ということになった。
姉は二俣のマンションンを引き払っていたから、僕が仮住まいしていた南万騎が原の小さなマンションで生活が始まった。
毎週、日曜日には彼女を30分くらいかけて、教会に送って行った。僕も日曜礼拝には参加したので、教会の牧師さん、信徒の二人の人と仲良くなった。そこには全く、今までとは違った世界が広がっていた。
教会で、本当に親しい友達が一人できた。どこかの教会の牧師さんの息子。ずっと洗礼を促されていたけれど、拒否し続けた経歴を持っていた。僕と歳はあまり変わらなかった。何かに突き動かされて、彼は洗礼を受けたようだ。このSDさんとは波長が合って、日曜日に彼と会うのは楽しみだった。
そういえば、中学生のころ、友達に教会の牧師さんの息子がいて、日曜学校やクリスマスのキャンドルサービスを一緒にやっていた自分を思い出した。古い讃美歌が全て歌えるのは、その時の経験だった。
新しい生活には、新しい世界が存在した。