昔、新宿のFugetsudoによく通ったものです!

そろそろ先が見えてきましたから、今のうちに記憶を書いておこうと…

離婚のフォローアップ

2016年03月20日 | ファンタジア・その後


 Nさんは実家へ帰り、僕は横浜・金沢へ転居が終わった。しかし、それですべが終わったわけではなかった。いくつかの残った仕事があった。



 一番手間がかかったのは、スバルの軽自動車、R2のNさんへの移譲だ。離婚するとき、年取った義理の母のことも考えて、Nさんは車を持ったほうがいいと勧めた。買い物や、お袋さんの移動を楽にするため、運転の技術を風化させないためにも、横浜で車を持つことを勧めたのだ。Nさん自体の行動の範囲も広がると考えた。

 その頃、僕が転がしていたのは、スバルの軽、R2だった。スバルらしい、オリジナルのデザインで、かわいらしい形だった。これが、最後のスバルデザインだったのだが…。さて、当時、スバルの中古店に並んでいた同じ年式の車は、60万以上の値段がついていた。もともと、離婚合意の資産には入っていなかったのだから、Nさんに買ってもらうのが当たり前だった。

 しかし、僕が勧めた以上、買ってもらうというのも何か変だと思った。そこで、僕が10万くらい払って新たに車検を取り、別料金を払って仙台からR2を横浜までスバルに陸送してもらい、そして、横浜ではぎょっとされるような宮城ナンバーを横浜ナンバーに変える諸費用、手続きを含めて、20万で譲ることにした。ほとんど必要経費だ。

 僕の引っ越しの前に宮城スバルに頼んで車検整備をし、神奈川スバル・金沢店まで、陸送してもらった。あとは僕が、第三京浜・港北IC近くの軽自動車協会に行って、書類を作り、新しいナンバーを受け取り、宮城ナンバーを返還すれば、横浜のR2になる。


 

 <軽自動車協会>

 僕が横浜に引っ越して10日ぐらいで、すべてが終わった。ピカピカの、横浜ナンバーのR2をNさんに引き渡せば、Nさんとの約束はすべて完了だった。駅前で会って、話すこともなく、新しい車検証を見せ、車を引き渡してR2の後姿を見送った。これで、四駆のインプレッサ以降の楽しかったスバル車との思い出、付き合いは終わった。

 あとは、僕たちの結婚式をしていただいた、キリスト教会の牧師先生夫妻へのご挨拶が残った。あんなに心配してもらって、Nさんの相談にも乗っていただいた牧師夫妻、仙台にまでご夫婦で様子を見に来ていただいたこと、Nさんが突然、年末に仙台に帰ってきたとき、同行していただいたE子先生への感謝などだ。

 結果としては、僕たちの結婚は破たんしたのだが、一度、僕としては、ご挨拶に伺うのが筋だと思って、教会にお伺いした。




 <十字架>

 いろんなご質問に答えながら、僕の考えと、Nさんが牧師のご夫婦に持っていた感情などをお話しした。僕たちの離婚は、彼らにとっては不幸な出来事だったに違いない。ご夫婦にとって最初の結婚式だったし、皆から祝福された二人の旅立ちだったから、僕たちの離婚は、お二人にはとても残念な出来事だった。

 特にE子牧師にとっては、Nさんにあらぬ疑いを持たれ、僕とE子先生がグルになって、Nさんを貶めたというNさんの妄想は、深い傷になったようだった。それはNさんの猜疑心の仕業だった。冷静に考えれば、E子先生は、二人の将来の継続を期待されて相談に乗ってくださったのだし、僕の方は一緒の生活が耐えられなくて、Nさんと別れることを考えていたのだから、E子先生と僕の間に、共通の目論見があるわけはなかった。

 この猜疑心がなぜ生まれたのかについても、3人で話してみたが、結果として、わからなかった。僕は、Nさんがなぜキリスト教徒になる洗礼を受けたのか、もしかしたらこれが鍵なのかと思い、尋ねてみた。しかし、牧師夫妻は、Nさんの洗礼には関係していなくて、牧師の教会に行く前に、外国人の宣教師に洗礼を受けていたということだった。

 僕には、多神教の日本人が、一神教の教徒になるということは、何らかの契機による重大な決断だと思う。ここに、きっと、Nさんの心理的なトラウマがあるのだと思うけれど、横浜の教会の牧師さんご夫妻も、思い当たることは記憶されていなかった。仙台の心療内科の先生が言っていた、古い心の苦しみが、その洗礼のきっかけだったかもしれないが、結果として、Nさん、本人にしか、その動機は分からぬままになった。

 さらに、驚いたことを牧師夫妻は話された。当然、Nさんは横浜に帰ったら、懐かしい友達もいっぱいいるこの教会に通っていると思っていた。クリスチャンは一度、洗礼を受けると、洗礼を受けた教会の教会員になり、戸籍簿のような登録が記録される。Nさんは、お二人も知らない瀬谷区の方の教会に、転居ならぬ「転会」をしていた。やはり、これも、3人にとって、何故…という疑問でしかなかった。

 思わぬ展開になっていた。教会の友達はどうなったのだろう。やはり、自分から絶ち切ってしまったのだろうか。まったくわからない。

 おそらく、もう二度と訪れることはないと思いながら、僕は、牧師ご夫妻に別れを告げ、その教会を出た。

 これで、離婚の後始末は終わった。



いつ離婚届は出せるのか

2016年03月06日 | ファンタジア・その後

 調停離婚ではなく協議離婚にするというNさんの言い分に合意して、僕はすぐにでも離婚届を出したかった。年内に届を出して、来年はいい年にしたかった。しかし、それはかなわなかった。Nさんの横浜の実家の事情だった。



 <実家>

 結婚して実家を出て行ったら、彼女の部屋は当然、彼女のものではなくなった。お袋さんが、弟さんをかわいがっていたから、親父も亡くなった実家は、いわばラブラブの弟さんとの実家だった。そこに、娘が帰って来るって、弟さんにとってはありがた迷惑な話だろう。部屋は、彼の部屋の延長になっていて、物も置かれていたようだ。結果として、お袋さんたちがNさんを物理的に受け入れてあげることには時間がかかった。

 僕は、Nさんの引っ越しに際しては、持っていきたいものは何でも持っていけばいいと初めから言ってあった。勿論、彼女が結婚の時に持ってきたベッドとかは、持って帰るとして、そのほか僕との生活の中で増えたものは、何でも持って行っていいという意味だった。ガサバルものは、二台のシンセサイザー。それに加えて、ラジカセ、小型扇風機、小型テレビ、立派な寝具、空気清浄器、加湿器、キッチンのフードプロセッサー、立派なクリスタルグラス、買った大きなヒツジのぬいぐるみなどが彼女の6畳の部屋に入って、もう足の踏み場もない状況だった。いいさ、どんどん持って帰ってほしいと僕は思っていた。



 <シンセサイザー>

 僕の方では、マンションの売り出しを進めなくてはならなかった。まずは、仲介業者選びだ。伊豆で戸建てを売った経験から、会社選びと同時に、担当者選びも大切だと学んでいた。家を売るということは大きなプロジェクトで、ぱっと売れるものではない。売り主と業者の担当者が、同じような価値観と方向性で動かなければうまくいかない。担当者は大切なファクターだった。

 マンションを買う時に世話になった「三井」に声を掛けたが、担当者が気に食わなかった。他も当ってみたが、結果としてSさんという若い、しかし、しっかりした若者のいる「大京」に絞ってお願いすることにした。

 マンションの一番売れる時期は、3月まで。学校があり、勤めが変わり、転勤が集中するからだ。急いで、売り出し広告の値付けを決めなければならなかった。彼の意見では、年明けから、即、内覧できるようにした方がいいということだった。

 僕は、買った値段の8掛け位を皮算用していた。売りは4LDKの広さ、独立した倉庫、さらには、太平洋、仙台市街、青葉山が見える43㎡の専用ガーデン、学校や駅への無料のシャトルバス、無料のイオンの買い物バス、イタリア風の豊かな造り、周りの自然などを考えてのことだ。こんな素晴らしいマンションはないと自負していた。しかし、業界には業界の相場がある。



 <マンションのチラシ>

 議論を重ね、周りのマンションの値付けなども参考にして、結果として、7掛けで広告を打つことに決めた。7年も住んだのだから、減価償却は進んでいるというSさんの意見を考慮したのだ。Sさんには、できるだけ早くマンションを空にした方がいいと忠告された。それはそうだ。見に来た人が、売る人が住んでいたら、自由に見ることや、自由に営業さんと話すこともできない。出来るだけ早くというのは理解できた。

 Nさんの方の引っ越しのこともあるけど、僕の引っ越しも同時に進めなければならなかった。暗い年が明けて、1月17日、やっと二人で離婚届けを仙台市青葉区役所に提出した。合意した財産分与の金額をNさんの口座に振り込んだ。

 結婚して15年だった。カロの居た10年は幸せの日々だったが、その後の5年は二人にとって、苦しい時間だった。二人はパニック障害と、うつ状態。しかし、これで鬱はとけると思った。

 1月19日に、僕は一人、横浜にいた。マンションが売れない限り、キャッシュフローから見て、新たにマンションを買うという選択肢はなかった。一人住まいのこと、心臓の病気で通う病院のこと、買い物のこと、駐車場のこと、横浜、東京へのアクセスのことなどを考えて、横浜市金沢区にあるUR(元 日本住宅公団)の団地を見に行った。金沢文庫近くに物件を見つけ、即、契約した。保証人、敷金が要らないURは、こんな場合、便利だ。14階に1LDKの実物を見て、隣接のスーパーまで歩いて見て、納得した。これで、僕も横浜に帰れる準備が出来たわけだ。



 <イトーヨーカドー>

 仙台では、Nさんの引っ越しが決定していた。1月28日、横浜から伊豆高原へ、さらに仙台への引っ越しでお世話になった「The0123」で荷物が先に出て、Nさんとはマンションのエントランスでさようならを言った。

 残るは僕の引っ越し。荷物は、もともと少ない方だから、僕の引っ越しは楽チンだった。いらないものをドンドン分けた。使ってもらえそうなものは、ネット「パド」に広告を出して、ただで引き取ってもらった。インプレッサ用の夏タイヤが、4本セットで片付いた。

 2月の16日に、僕は横浜・金沢に引っ越した。「The0123」のエプロン隊が、僕のこまごまとした食器などを整理して、住めるように仕上がったのは2月17日だった。

 15年ぶりの横浜だ。一人で、よく眠った。いつの間にか、鬱は僕を去っていた。ベランダからは東に、明るい東京湾が見えた。やっと独立したのだ。