昔、新宿のFugetsudoによく通ったものです!

そろそろ先が見えてきましたから、今のうちに記憶を書いておこうと…

近くにいるかも知れない死

2015年01月18日 | ファンタジア・その後

 心房細動の頻脈が多発し始めて、初めて、死というものが僕自身の近くに存在しているのだと自覚を持った。それは、変な感覚だった。

 死というものを考えたのは、高校時代の3年の頃、太宰を研究して、演劇の演出なんかをやっていた時以来だ。その後の生活の中では、死は概念としては持っているけれど、自分との距離感というものについては、全く考えないで、仕事と家庭と秘めたる恋に自分を集中させていた。事故とかの偶発的な死や、神様のきまぐれによる死は防ぎきれないし、自分では意識しても始まらないと思っていた。

 しかし、肥大型の心筋症と、それを原因とする心房細動は、僕の死への距離を実感させ始めた。ちょうど僕が還暦を迎えた頃だから、その死への感覚は変わってきた。

 そういえばこんなことがある。僕が36歳の頃、心理学カウンセラー・セミナーで、「自分に対する弔辞」を書いたことがあったのを思い出した。それは大切にしまっていた。享年75歳とあるから、この頃、自分の人生は75歳までと予感していたようだ。しかし、これ以外に具体的に自分の死を考えることはなく過ごしてきた。



<弔辞>

 もちろん、人間の死は避けて通ることはできないと分かっている。すると、この心臓の病気が発症し始めたということは、自分に許される時間が限られたものだとの思いが表面化してきた。では、今の時間の使い方は、これでいいのだろうかと、自問し始めた。カウンセリングでクライアントのことは、客観的に見えていたのに、自分自身は客観的に見てこなかったと分かった。それは衝撃だった。

 その頃、もう両親は死亡し、親父がデザインした墓も建てた。さらに、一番上の姉が、心筋梗塞で突然死した。リュウマチで苦しんでいたこと、関節を人工関節に手術したことなどは知っていたが、心臓の病までは知らなかった。おそらく本人も深くは知らなかったと思う。こうして、死が僕の近しい人にも現れ始めた。

 もう死は、どこかにあるというものではなくて、自分のこれからの道のどこかにちゃんと存在しているのだとの意識が強まった。はたして、僕は残された時間をどう過ごすのが自分に正直なのだろうかと、思い始めた。やり残したことはやっておかなくてはとも思い始めた。

 発作が起きると、そのための対症療法を求めて、近くのクリニックで抗不整脈剤の点滴を受けているだけで、良いのだろうか…。

 聖路加病院の心臓血管外科の渡辺直先生が、「不整脈疾患について」という患者向けの23ページの解説論文がネットにあるのを見つけた。



<心房細動>

 これを読み終えたのが、僕の自分の病気に対する整理された初めての理解だった。原因は、遺伝性の肥大型心筋症のようだ。それから派生する心房細動が僕の発作で、軽度の心房細動ならばともかく、激しい頻脈が心筋の疲れを誘発し、心電図で見られるQTタイムの延長という現象の先に心室頻脈があり、死への近道が存在すると知ったわけだ。それが、トルサード・ドウ・ポワンだと学んだ。遺伝性の心筋症が引き起こす、死への道筋だった。

 もう一つ怖いことが分かった。心房細動が24時間以上続くと、心房に血栓ができて、それが脳に飛び込めば、脳梗塞の危険度が高くなるとも知った。これに対しては、血をサラサラにするワルファリンという薬の投与が必要だとあった。これが、伊豆長岡の順天堂病院で勧められた薬でもあった。この薬を服用すると、怪我が出来ない、好物の納豆が食べられないとの条件が付いていた。脳梗塞とのトレードオフとしては、受け入れるしかないと判断した。

 このようなことを勉強すると、僕の死が現実として、すぐ後ろにいるのかもしれないと考えはじめた。では、何を僕はやるべきなのか、やりたいことは何なのかと考え始めた。死の床で、僕は僕自身を慰められるのか、自分の存在の証明ができるのかと、考え始めた。

 肥大型の心筋症に対する、直接の根治治療方法は、そのころ確立していなかったし、今も確立はしていない。ただ、現象として起こる心房細動に対しては、劇薬のアンカロンという薬があることを学んだ。




<アンカロン>

 但し書きに、「他の薬が無効な、肥大型心筋症に伴う心房細動への抗不整脈剤」とあった。「劇薬だから、医者の厳重な管理のもとでしか使えない」とも記載されていた。

 副作用も恐ろしいことが書いてあった。
 ・間質性肺炎
 ・新たな不整脈 頻脈(120/分以上の)
 ・心不全
 ・肝臓障害
 ・甲状腺機能障害

 さあどうするかと考え始めた。そして、次の結論を得た。

 ・肥大型心筋症から起きる不整脈に対する先進的治療を受けよう。
 ・くたばる迄にやっておきたいことを出来るだけやろう。

 これが、その後の僕の人生の基本設計になった。

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伊豆高原は無医村?

2015年01月04日 | ファンタジア・その後

 君への思いが僕の心の中に再点灯し始めたけれど、何かできるわけでもなく、Nさんとカロとの日常生活はいつも通りに平穏に展開していた。

 カウンセラーの仕事で東京に出たり、カウンセラー仲間の研究会に出席したり、伊東のボランティア活動を楽しんだりと、いちおう普通の生活が続けられた。

 しかし、だんだんと、僕の行動が制限される状態が起きてきた。それは病気の発症。



 <心筋症>

 会社勤めをしていた頃に受けた人間ドックで発見された、肥大型心筋症が基本原因の心房細動の発作の発症の頻度が上がり、さらに頻拍数の上昇が、僕の行動の自由を奪い始めた。

 横浜の大学病院で処方された抗不整脈薬を、伊豆高原の小さなクリニックから貰って、飲み続けてはいたのだが、だんだんその効果が薄れてきたのか、心房頻脈の頻度が上がってきたのだ。

 心拍数が、突然、140/分くらいに上昇すると、立ってはいられない。バクバクと心臓が鼓動する。気持ちも悪い。そんな時、発作を止めるために、クリニックで、抗不整脈薬の点滴を受けることになる。それが、最初は2か月に一回くらいだったのだが、週に一回とかになってきた。

 なんとか、カロの散歩は続けたけれど、伊東市のボランティア活動での期的な会合に出席できないってことが起き始めた。申し訳ない。役割分担をしているのがボランティアの基本だから、突然の僕の不参加は、他の人に迷惑をかけることになる。積極的な動きは出来なくなってきた。

 もっと困ったことは、アポイント・ベースのカウンセリングの仕事に影響が出始めたことだ。その頃、一回(50分)で5千円くらいのカウンセリングだったから、「申し訳ない」と電話してドタキャンするのもクライアントにとっては大迷惑。スケジュールをして、時間をかけてやって来てくれるのに、僕の都合でフイになる。



 <カウンセラー研究会>

 一番ひどい思い出は、後楽園のホテルを借りて、全国から若い地方公務員の女性を集めて開かれた全国女性管理者研究会。前日になって、心房細動の発作が起こって、東京行が危なくなった。でも、全国から集まってくれた女性たちにも、呼んでくれた主催者にも悪い。

 決められた量の倍の抗不整脈剤を飲んで、様子を見た。朝、体はふらついていたが、発作は収まっていたので、熱海から新幹線で東京へ。なんとか、後楽園のセミナーの一日を終えた。セミナー恒例の夜の会食は一次会だけで失礼して、二次会はすっぽかして後楽園ホテルで眠っていた。こんなのはマズイなあと思いながら。



 <セミナー>

 まあ、ボランティアは許してもらえるけれど、セミナーとか、グループワークとか、個人のカウンセリングは、許してくださいでは通らないなと思い始めた。そこで、ボランティアで知り合った伊東市の課長さんに相談してみた。僕の、心臓の病気を診てくれる専門はどこだろうと…。

 ところが、当てにしていた伊東の国立病院には循環器内科はあるけれど、心筋症に対する専門ではなく、要望があれば救急車で伊豆長岡の順天堂病院まで搬送していると話してくれた。狭心症とかの血管系の症状には対応できるけれど、心筋症には専門医がいなということだった。

 愕然とした。伊豆高原に移り住むことを検討した時、気温だとか、買いものだとか、電車の便だとか、環境だとかは調べていた。その頃は、心臓の方は発作もなく、単に薬を飲んでいればいいと思って、そこまでは調べていなかったのだ。

 緊急性のある症状が出たら、伊東では対応できないと分かった。救急車で1時間半ほどかけて、伊豆の東山脈を越えて、中伊豆の長岡まで行かかなくてはならないと分かったのだ。でも、他には病院がない。

 僕の心臓病の進行も診てもらおうと、自分で車を転がして長岡の順天堂病院まで行ってみた。大室山のふもとの細い近道を通って行っても、楽に1時間半はかかる。これが、救急車だからと早いわけではない。急に恐ろしくなったのだ。病気は年齢とともに進行していくと告げられた。発作の頻度が上がったら、ここまで通えるかと心配になった。

 その頃あった稲取の日大病院、熱海の国立病院と当ってみたけれど、心筋症の心房細動に対しては自信がなさそうだった。

 どうしようと考え始めた。伊豆高原に家を買ってから、6年が経っていただろうか。この間、心臓君は比較的おとなしくしてくれていたわけだ。僕は、単に幸運だっただけなのだと思い知った。どうしよう。

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