昔、新宿のFugetsudoによく通ったものです!

そろそろ先が見えてきましたから、今のうちに記憶を書いておこうと…

何とか動き出した時間

2015年06月28日 | ファンタジア・その後

 大倉ダムの発見から、僕はすこし気持ちが楽になった。いつでも、死のうと思えば、簡単に自分の存在から離れることができると確信したからだ。今から思うと、大倉ダムの発見が、僕の精神的に病んだ世界を変えて行く切っ掛けになったわけだ。



 まったくの幽閉された感じから、少し、光の兆しが感じられた。うつ病と診断されて2年くらいたったころだ。もちろん、普通の生活はまだできなかった。

  昼間、PCを少しいじって、大部分は、居間の隣の和室に購入した折りたたみベッドを置き、そこに横になりながら居間のテレビを見て時間を過ごしていた。薬が効いているから、いつも頭はボーっとしていた。半覚せいに近いものだった。

 僕よりも先に動き始めたのは、Nさんのほうだった。東北大学の心理学研究室のすすめもあって、ネットでいろいろ調べていたが、気になるキリスト教会をいくつか見つけたようだ。



<東北大学研究室>

 Nさんは、車を自分で運転して出かけ始めていた。候補の教会を訪ねて、牧師さんに会っていたのだろう。やはり、宗教は人の動きを助けるもののようだ。彼女がクリスチャンでなかったら、外に救いを求めることを始められなかったと思う。

 いくつか訪問を経て、アメリカに本部を置くメソジスト派の教会が見つかったようだ。車で30分以上かかる、泉区のパークタウンの中だった。オーストラリアから赴任した宣教師夫妻と話し、出口に一番近い席に座るという形で、パニック障害を抱えながらミサに参加し始めた。

 彼女が少しずつ、障害を乗り越える動きを始めたのは、僕にも救いだった。そうするうちに、僕が車を運転して、彼女を教会に送り迎えすることになった。毎週日曜日、車に乗せて彼女を教会に連れて行き、僕もミサに出た。それは閉じ込められていた2年くらいの時間からの解放に向かった。



<教会>

 この教会のスコットランド人の宣教師ご夫婦と会ったことは、僕にも大きな意味があった。新しい人と会うことが、閉じこもり以来初めてできたのだ。彼らと英語が話せるのも、僕の楽しみにになった。

 駐車場から歩いて、教会に行く間に、何頭かのシュナウツアーに会うことができた。これも二人にとって、楽しみになった。小さなことだけれど、カロをなくしてから初めて撫でたシュナウの毛並みは、懐かしく、その匂いも救いだった。いつか、犬との出会いを求めているのが、僕が教会にいくモチベーションになった。Nさんも嬉しかったようだ。

 僕は、なんとか現状の閉じ込められた感じから抜け出すため、処方されていた精神安定剤のデパスを独断で止めた。そして、様子を見た。

 とくにぶり返すこともなかったから、次に抗鬱剤のパキシルの量も、時間をかけて、少しずつ減らしていった。僕は次第に、自律神経失調症の不安定な状況から、脱していけるような気がしていた。

 大倉ダムさま、さまだった。ダムとの出会いが無かったら、自分の気持ちのスイッチを切り替えることはできなかっただろうと思う。

 少しずつ、少しずつ、単なる気配だったものから、光が見えるようになっていった。それは、Nさんも同じだった。辛抱強く、自分の心のバランスが取れる日が来るのを期待しながら、繰り返しの同じような行動のパターンを生きていた。



<空>

 相変わらず、Nさんとの会話は、必要最小限度のものでしかなかった。

 まだまだ、鬱の状態から抜け出すまでにはならなかった。Nさんもパニック障害は克服できないで、二人して別々の心療内科に通う生活が続いていた。先の見えない仙台生活はまだまだ続いていた。

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二人居の孤独

2015年06月14日 | ファンタジア・その後

 カウンセリングの仕事とボランテイアの世界、二つの外の世界を失った僕は、半うつ状態で家にいるしか時間の使い方はなかった。当然、Nさんのパニック障害も、よくなる兆しはなかった。お互いが精神的に参っていた。



 <メランコリー>

 カロを失ってみて、初めて見えてきたことがある。それは僕とNさん、二人だけで、お互いを見つめ合ったことが無いということだった。見つめ合っていたのは、カロを中心とした世界を通して、右側からと左側から向き合っていたということだ。

 中心には、犬の一人息子のカロがいたのだ。カロなしでは、実は二人の会話は成り立っていなかったのだ。そう、カロなしでは、二人の会話は成り立たないという事実を、二人はかみしめていた。あの楽しい会話は、カロを真ん中に置いて、話しだったのだ。

 僕はエッセイを書く意欲も失せて、空っぽな感じで、日々を送っているという状態が続いた。週二回の買い物で出かけることがすべてだった。

 そんな時、ふっとなぜ二人でいるんだろうという疑問が湧いてきた。

 ドイツ語で、「アインザームカイト」という言葉を覚えている。「孤独」という意味だ。昔、大学で、延べ3年もドイツ語を勉強したのに全く覚えてないのに、覚えている唯一の言葉だ。そして、大学のころ、僕自身で「ツバイザームカイト」という言葉を作って、あそんでいたことを思い出した。いわば、「二人居の孤独」と訳せる言葉だ。もちろん辞書には載っていない。

 そんな言葉が、Nさんと二人きりの日々が続くと、ポロリところがり出てくる。若い頃、二人で居ても話すこともなく、むなしく孤独感をかみしめていた記憶があるのだろう。それが誰と、どんな状況で感じたものなのか、もう忘れている。そんな感情だけがよみがえってきたのだ。

 もともと、Nさんとの生活は、熱狂的な恋心で始まったものではない。アメリカに嫁に出した君を見送り、残る30年ほどの時間を一人で生きるより、誰かと一緒のほうがいいなと思って始めた意図的な、付き合いだった。

 二人居の孤独を感じ始めると、二人には、本当に愛おしく思う心が消えているのが透けてみえた。だから、なぜ…生きているのかと、自分を問い詰めていたのだろう。

 いつか、死を考え始めていた。もう、くたばってもいいか…という感情だ。生きている意味は、あるのかと自分に問うことから湧く誘惑だった。何日も何日も。繰り返しても、答えは出ない。

 どうやったら簡単に死ねるのかと考え始めた。Nさんと一緒にくたばろうとは考えていなかった。自分一人で逝こうと思っていた。その方法を考えていたのだ。

 そんなある日、一人で車を転がしていた。とくに目的地はなかった。広瀬川を少し遡ってみようと思ったようだ。広瀬川は、仙山線に沿って流れている。いや逆だ。仙山線は山形に向かって、仙台から広瀬川に沿って、谷を攻めていくことになる。その側を山形に向かう作並街道が、谷の奥を見ざして登っていく。

 あるところで、右手に大倉ダム入口との標識が立っていた。今は亡くなった姉は、中国地方の山の中で小学校の先生をしていた。そこの狭い谷を堰き止めてダムがつくられるのを、小学生だった僕は見ていた。急に、懐かしさを感じた。ハンドルを右に切って、作並街道から外れた。

 それが大倉ダムとの出会いだった。



 <大倉ダム1>

 一方通行のダム湖畔の道を、ゆっくり一周してみた。ダム自体は何のとりえもない、普通のコンクリートのダムだった。帰る前にと、堰堤の上に車をとめて、さらに、ダムが谷に切れ落ちるところまで歩いてみた。そこには巨大な空間がぽっかりと開いていた。とくに柵もなく、だれでも簡単にアクセスすることができた。

 あっこれだと、僕は思った。これだったら、一っ跳びで確実に自分がこの世から消えることができると確信した。簡単に、確実に死ねる方法を探そうともがいていた僕にとっては、これは救いだった。

 気持ちはすこし晴れたのか、気が楽になった。くたばるしか選択肢がないとしても、いつでも死ねると、自信ができた。すこし動き始めた自分がいた。



<メランコリーの写真は、flickrからBeat Kungさんの“Merancoly”をお借りしました>


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