昔、新宿のFugetsudoによく通ったものです!

そろそろ先が見えてきましたから、今のうちに記憶を書いておこうと…

海外に住むことを考える

2014年03月30日 | ファンタジア・その後

 会社がリストラのために早期退職制度を立ちあげた。退職金が通常の50%増しという条件だ。ざっと5千万円くらいの金が入ることになる。

 その頃、僕は会社での仕事に行き詰まりを感じていた。一方、会社は本部長とか部長とか給料の高い人を辞めさせたがっているのは分かっていた。当然と言えば当然だ。

 一人を切れば、若い新卒を3人は雇えることになる。社内の世代交代もおきて、活性化できるということでもある。そのリストに僕の名前は入っていると確信していた。それまで、100人以上のSEに配置転換をしてきたのだが、僕の番が来た…。


 人工都市キャンペラ

 僕はその頃、関東に2か所、京都に関西の拠点があって、3か所を僕が見ることになっていた。3か所を飛び回って忙しかった。一人の京都への出張が続くと、おのずと懐かしいものが欲しくなる。

 木屋町のバーに気になる子がいて、ウイスキーボトルを置くようになった。毎月、最低一度は京都出張が当たり前だったから、そんなことが出来た。君と昔行った先斗町の「堰(いぜき)」もすぐそば。懐かしみながらのバー通いになったが、やはり空しさが僕につきまとっていた。

 その頃、もともと感じていたことなのだが、日本に住んでいることが、僕には何とも耐えられない、自分自身に許されないという気持ちが募っていた。ヨーロッパやアメリカから日本を見ると、日本に住むことに強い閉塞感を感じていた。

 最大の問題は、個人が自分らしく生きることを、日本の世間では、あたかも社会にとって罪であるかのように見ている気がすることだ。常に、隣の人、仲間、会社などの雰囲気を読んで、自分をハッキリ表現するのを、自分で抑え込むのが当り前といった空気だ。

 山本七平の「空気の研究」ではないが、日本独自の「空気」が出来て、自分らしく生きることを放棄させようとする力が、何時も働いていると感じるからだ。このことは、おそらく、単一民族で、農耕民族の持つ宿命なのかもしれない。村の掟に歯向けば、自分の水田には水は来ない。おのずと、まわりと柔らかく生きていくしかないと考えるのは当然だ。

 日本の外に住んで、外から見ていると、この感じが更に強く伝わってくる。そんなこともあって、僕は海外に移住することを考えていた。調べてみると、オーストラリアには定年退職者に長期間滞在ビザという特別なビザが出て、これを更新していけば永住できると分かった。



 Nさんにはアメリカの経験もあるし、クリスチャンだし、日本を離れることにあまり抵抗はなく、僕の話に乗ってきた。仕事としては、前にやろうとしていたカウンセラーを在豪の日本人を対象に始めればいい。将来的には、親しいオーストラリア人の友人を巻き込んで、それを広げていけばなんとかなると考えた。

 オーストラリア大使館に通って、必要な書類などの勉強を始めた。移住を手助けするエージェントが日本にあると知り、その会社と仮契約をした。5000万円以上の貯蓄証明がビザ申請の時に必要だった。これは、ぎりぎりカバーできる額だった。

 僕の過去のオーストラリア経験は、キャンベラ、シドニー、メルボルンとその周辺の小さな町たちだ。町の雰囲気、住みやすさ、食べ物のうまさ、トラムで何処まででも行ける交通システムなどを考えて、メルボルンを候補に考えていた。

 後は、僕の移住ビザをオーストラリア大使館から受ければいい。

 Nさんは、オーストラリアに行ったことはなかったから、一度行ってみようということになって、シドニーを歩き、メルボルンを体験してみた。

 Nさんのことを、彼女の通う教会の牧師さんに僕一人で会って話した。牧師さんは、僕とNさんとの関係は、キリストの教えに従ったものにあるべきだと僕を説いた。そして、僕に信仰を持つように要求した。

 僕は、「結婚」という言葉にギックっとなった。ついこの間、この言葉から、やっとおさらばしたばかりだったのだから。

 人間を超えるある意思の存在を僕は信じている。たが、それはキリストではなかった。キリスト教のいうゴッドでもなく、この宇宙を創造したもっと大きな力、意思の存在を信じていた。牧師さんとの話は、平行線におわった。

 しばらくして、急にNさんと会えなくなった。

 Nさんは一人で考えてみるといって、アメリカの福祉関係の団体で、一年間のOJTを受けにアメリカに旅立った。その裏には、教会からのプレッシャーがあったのだろうと思う。

 僕は、そのまま見送るしかなかった。
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