昔、新宿のFugetsudoによく通ったものです!

そろそろ先が見えてきましたから、今のうちに記憶を書いておこうと…

二人の自分自身への回帰の道は

2015年12月27日 | ファンタジア・その後

 仙台の4LDKでの同居別居、しかも、諍いの生活は僕には耐えられなかった。Nさんも、人生の大切な時間を無駄にしていると思った。しかし、牧師のE子先生の仲介をも失くして、どこも頼るところはない。

 Nさんは、本当は横浜に帰るのがいいだろうと、僕は思っていた。このまま、出口の見えない生活がいいはずはない。Nさんは、カロのいた頃の間柄に戻りたいと思っているようだが、それはカロというボンドを失くした今は、成り立たない世界だった。



 <カロ>

 Nさんは、80過ぎのお袋を一人、横浜に残し、母教会も、若いころからの友達も、交わる社会も失くして、パニック症状で閉じこもっている。うつ状態の僕に付き合って仙台にいるより、横浜に帰るのがはるかに健全だと思った。慣れ親しんだ教会にも顔を出せるし、話す相手もできる。

 僕は義理のお袋さんに電話してみた。こんな状態では、長くは続かないし、いずれ別居することになるだろうと思う。その時は、実家にNさんを受け入れてあげて欲しいと頼んだ。お袋さんは、もう歳だから、そちらでうまくやってくださいと、冷たい反応。やはり義母にとっては、一人息子の弟さんとの方が住みやすいようだ。しかし、僕は引き下がれない。最後は、どうぞよろしくお願いしますと話した。お袋さんも、最後は自分の娘として扱いますと言ってくれた。



 <実家>

 僕は、Nさんに別の生活をした方がいいと、具体的に話し始めた。しかし、彼女の眼は恐ろしく憎しみ満ちて見返してきた。怖い目だった。一番怖いのは、クリスチャンとしては許されることではない「自殺」という行為だった。それは避けたかった。

 生活上必要なこと以外は、会話がない。横浜のキリスト教会のE子先生の仲介も、Nさんから閉ざした。

 他に頼れるところがないから、僕は、仙台市、弁護士協会、宮城県が提供している無料法律相談を受けることにした。

 受けた法律相談は、全部で、5件。



 <法律相談1>

 6月下旬:須田先生
 ・協議離婚がベスト ・家裁の調停という方法も有る ・マンションの売却はできる

 7月中旬:佐々木先生
 ・離婚調停がダメなら、審判がある ・誰かと相談することが、調停の前提

 7月下旬:曽我先生
 ・民法770条を読むこと ・協議>調停>裁判ということで、協議を勧める



<法律相談2>

 8月:宮部先生
 ・離婚調停申請を勧める ・現状は結婚の破たん状態 ・調停は不調になる事もある
 ・法律的な離婚以前に、事実上の離婚、つまり、別居という方法も有ると勧められる

 9月:小松先生
 ・財産分与の考え方 ・協議離婚と離婚調停は同じ ・最終的には裁判

 全ての先生に勧められたのが、家裁への離婚調停を申し込むということだった。間に入ってもらう人はいないし、弁護士に入ってもらうのは、残された最後の手だということだった。

 さて、どうしたものか…。
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生活を変えるために始めたこと

2015年12月13日 | ファンタジア・その後

 君がアメリカで、PCのIPアドレスをご主人と共有していると知って、君と安全にコミュニケーションできる方法はないかと考えた。

 それにはPC上のメールソフトに頼ることなく、ホスト上に専用のアドレスを持つということを思い付いた。考えれば簡単なことだった。早速、日本のGmailに専用アドレスを設定して、IDとパスワードを含めて、君のアメリカ ヤフーのアドレスにアルファベットでメールした。



 <Gmail>

 これで、旦那に見られることなく、メールを交換できる。危険な電話や、悠長な物理的手紙よりも便利になった。何時でも安心して、君とコミュニケーションが取れるようになった。Nさんにも、君の旦那にも知られることのない安全な方法た。

 ペペで話した時、君は、大体一日中、一人でテレビを見ながら、PCをいじっていると知った。そのわけは、どうも旦那とは無縁な生活を、海の向こうでやっているようだった。僕が仙台でNさんとやっているような、同居別居のような生活らしい。食事の準備、後片付け、洗濯、庭仕事を主婦としてやっているようだが、旦那との時間は少ないようだ。退職した旦那は書斎に籠ってPCをやっているか、趣味の外洋ヨットに乗りに海まで出かけるとのこと。君には、不毛な生活にみえる。君の子供は、ミックスの猫、キュー君だけのようだ。猫と24時間一緒に過ごしているらしい。

 Gmailは、僕たちのコミュニケーションの大切なツールになった。僕が書いた日本語は、アメリカのホストでそのまま読めた。君からの返事は、ローマ字だ。これは仕方がない。

 僕の方では、Nさんの状況をどうすればいいかと、横浜の女牧師のE先生とメールで話し始めた。Nさんには内緒だった。仙台には、彼女が安心して相談できる人は、まだいなかったからだ。昨年末にカロの散骨を済ませ、マンションの鍵を置いて、Nさんは仙台を出でいった。そのNさんを横浜から連れて帰ってきた、この牧師さんが唯一、僕とNさんの間に入ってもらえる可能性のある人だった。

 二人の結婚式をやってくれたY牧師の妻という立場もあって、この女牧師、E先生は、もちろん、僕たちがこれからもうまくやってくれるようにという願いで、僕とNさんの相談に乗ることが狙いだった。そういう意味では、僕の意図とは違うけれど、Nさんの暴走、例えば、時々脅迫の言葉で使う「自殺」などという考えを止めることができると、僕は考えていた。しかし、なかなか、二人の間の取り持ちはE先生にも難しいようだった。

 ある日、Nさんがこんなことを言い出した。

 「もうE先生とは話さない。メールもしない。どうも、E先生は僕の意図を汲んでグルになって、私(Nさん)を陥れようとしている」と言い出した。

 僕がE先生に期待したのは、Nさんが本心で相談でき、客観的にものごとを理解できるようにNさんを援助してもらいたいということだった。一方、Nさんと僕の間には深い猜疑心の壁があった。間違っていても、一度思いこんだらNさんはそれに固執する。

 Nさんの中には、僕の最初の9月東京行きは、Nさんを裏切って初恋のSIさんに僕が会っていたという確信に満ちていて、その誤解は溶けそうもなかった。

 それは、今から思えば、カロの死以降、僕の心がNさんから離れ、さらには二人の共同生活の意味をもう期待していないということだった。前の年の年末にカロを散骨した時に、僕の心の中ではNさんとの関係は完全に終わっていた。誰かと相談しても、それを元に戻すことはできるはずはなかった。

 そんな2月、東京で僕がお世話になった心理学のカウンセラー、O先生の奥さんからメールが舞い込んだ。山形県の米沢に行く用事があるから、帰りに足を延ばして、仙台まで来るということだった。鬱と、心臓の病気のために、外部の人とのコンタクトを失っていた僕はうれしくて、喜んでご案内したいとメールを返した。



 <牡蠣づくし>

 仙台駅でY子さんを見ると、カウンセラー時代の、仲間の感情が頭をもたげてきて、ハグした。僕自身が、人に飢えているのがよくわかった瞬間だった。閉じ込められた生活から、外の新鮮な空気を吸った気になった。車で仙台市街と青葉山を案内して、帰りに、新鮮な三陸の牡蠣を食わす店にお連れした。楽しい時間で、あっという間に医者から言われていた時間制限の5時間を過ぎていた。Y子さんは夕方の新幹線で、東京へ帰って行った。今度は東京で、みんなで会いましょうとの約束を残して。

 人に会うのは、僕にとって救いだった。洞窟のような4LDKに無言で二人、同居別居をしている現状から見れば、世界が違った。ああ、こんな世界があったんだと、懐かしい気持ちになると同時に、現実の重苦しくて暗い生活を早く終わりにしたいとの思いを深めた。自由な自分を取り戻したいと強く思うようになった出来事だった。

 Nさんに、別れるという選択肢を初めて口にしたのは、この後だった。彼女の眼は強く“NO”と言っていた。しかし本当に、二人とも、もっと自由な自分になることが必要だったのだが…。



 <映画祭>

 その年の4月も、二度目のイタリア映画祭を見るため、僕は3泊4日の予定で、一人、東京に出てきた。これも、自分の時間を自分で使うためだった。そして、Nさんにとって、僕の恒例のことにしておきたかったのだ。実績を積み上げるしかないわけだ。
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