夜明けの曳航

銀行総合職一期生、外交官配偶者等を経て大学の法学教員(ニューヨーク州弁護士でもある)に。古都の暮らしをエンジョイ中。

自分史その9 銀行員時代

2006年05月30日 | Weblog

そんな不純な動機だったせいか、司法試験には失敗し、1987年に卒業と同時にある銀行に女性総合職第一期生として就職することになった。前年に施行された男女雇用機会均等法のおかげで、多くの企業が初めて女性の総合職を採用するという年に、司法試験で留年していたため、たまたま大学を卒業したのである。時はバブル経済の最盛期で、銀行をはじめとする金融界は株式市場や不動産の高騰に業界をあげて驚喜乱舞している時代であった。

他の総合職一期生世代の女性と同様、何をするにしても「女性で初めて」という肩書がついてまわり、マスコミの取材等も受けていたが、私はまず一人前の銀行員として仕事で認められたかった。私が配属されたのは法務部で、銀行のさまざまな法律問題を解決したり契約書を作成したりするのが主な業務であったが、知識がものをいう仕事であったために、女性であるがゆえのハンディをほとんど感じることもなく、懸命に仕事をこなし、銀行内での高い評価ももらえるようになっていった。

そんな私に、転機は入社3年目に訪れた。その銀行では総合職は入社3年目から海外留学生になるための試験が受けられるので、金融のglobalizationの流れをひしひしと感じていた私は、金融先進国である米国のロー・スクールへの留学を志願したのである。しかし、英語も入社当時に比べかなり上達していたのに、結果は不合格。かなり落ちこんで「こんな会社辞めて自費で留学してやる(当時はいくらでも再就職口があると思えたのである)」とまで思いつめたが、一歩進んで、「そうだ、もう一度受験して合格したら留学だし、だめだったら会社を辞めるのだから、どちらにせよ、今の法務の仕事はあと1年しかできない、ならば悔いを残さないように今しかできないことに全力を尽くそう」と思うようになった。それで、事務セクションと定期的に会議を開いてより支店の助けになる連携策を練ったり、書籍や論文の検索を容易にするためデータベース(まだエクセルもない時代であった)の構築を企画・実行したりと積極的に業務の改善に取り組んだ。また、私生活でも、「生まれて初めて海外生活をするには、苦手を克服する精神力がなければ」と思い、子供の頃から大の運動音痴で大学三年になる時「これで人生でニ度と体育をしなくてすむ」と喜んだ私だが、テニススクールに入ったり、スキューバダイビングの免許を取得したりした。

その甲斐あって次回の挑戦でめでたく社内選抜に合格し、留学への切符を手に入れたが、行く先まで会社は用意してくれない。自分で志望校に出願するのであるが、ここでも私は他人と違うことに挑戦した。普通、企業派遣留学というのは、米国のビジネス・スクールかロー・スクールに留学して学位を取得するのだが、ビジネス・スクールは2年間でMBAを取得するのに対して、ロー・スクールは1年間でLL.M.(法学修士号)を取得するというように年限が違う、しかし、同じ企業派遣で期間に差を設けるのは…というので、ロー・スクール留学生も2年間留学させてもらえるようになっていた。学位は既にとっているのに、2年目何をするかというと、ほとんどの人は同じかまたは別のロー・スクールで聴講生のような単位取得義務のない立場で勉強するのだった。しかし、私はそれでは時間がもったいないと思い、2年目はイギリスの大学院に行きたいと思い、人事部に許可を得て(バブル経済だから許された贅沢であろう)、アメリカとイギリスの両方に出願し、Harvard, Columbia, Oxford, Cambridgeをはじめとするほとんどの大学から合格通知を得たが、イギリスの大学には「1年後に行かせて下さい」と手紙を出して、1991年にHarvard Law Schoolに留学した。

私は28歳のその時まで、海外旅行どころか飛行機に乗ったこともなかったし、英語の読み書きはできても会話はからっきしだめだったので、Harvardの勉強には非常に苦労したが、それは予行練習に過ぎなかった、と思ったのは翌年Oxfordに行ってからである。外国人留学生に慣れておりある意味お客さん扱いしてくれるHarvardと違い、Oxfordのカリキュラムは厳しかった。Tutorの先生に会う度に「昨日は何時間勉強したの?最低8時間以上は勉強しないと落第しますよ」と脅され、その先生をはじめ回り中の誰もが私は卒業できないと思っていた。しかし、勉強の要領を徐々に覚え、卒業時にはFirst Classという、上位10%の学生だけに与えられる特別賞付きで卒業証書をもらうことができたのである.(日本人では初めてではないかといわれ、初めの頃さんざん脅した先生も「厳しいことをいってごめんなさい」といってくれた)。その先生が、先日自殺されたのだ。

二つの法学修士号を手に、1993年に銀行に復帰した私を待っていたのは、完全に崩壊しきったバブル経済だった。国際業務のセクションに配属された私は、入社当時とあまりに様変わりした経済状況に唖然としていた。バブルの頃、できる銀行員の証であった不動産融資は、(当時の)大蔵省からほとんど犯罪視される等、全ての価値観が180度変わっていた。「鬼畜米英」といっていた学校の教師が終戦を境に掌を返したように米国を礼賛するのとも似た節操のないあり方に、私は「世の中には何一つ確かなものなんかない」と思うようになった。他の(主として男性の)同僚と同様、ジェネラリストとして出世の階段を上がっていくことこそ銀行員の花道と考えていたが、出世して役員になっても、かつて「手柄」だった取引が犯罪扱いになり引責辞任を迫られるケース等を見ていて、出世できなくても法務のスペシャリストとして生きていこう、そしていずれは大学で教えたい、と思うようになった。それで、激務の傍ら法律論文を発表したり、また、「教えたい体質」はその頃からあったのか、ロースクールに関する情報が極端に少ないことに自分自身が悩んだ経験を後進に役立ててもらうため、懇切丁寧な出願手続きのガイドからハーヴァードでの生活体験記までカバーしたガイドブックを出版した。今でもロースクール留学の最もコンプリヘンシブな本として読まれている。日本人留学者で知らぬ人はいないらしく、初対面の渉外弁護士から「あなたの本で勉強しました」と声をかけられることもある。

留学から帰国後2年で夫と見合い結婚もした。初めて会った時に「いずれ大学で教えたいという夢があるのです」と語った私に、夫が義母の教えもあり、「その夢をぜひサポートしたい」と思ってくれたのだ。見合いは夫が8人目であり、一人目の人には、私のロンドン出張帰りに車で成田まで迎えに来るというからお土産をたくさん抱えて搭乗口を降りたところで来られないというメッセージを受け取り、歩く歩道で転んでしまった。たくさんの荷物を散乱させて惨めだった。結局来られない理由も知らされないままフェードアウトという失礼な結果で、しばらくはその人の会社が長年提供している教養番組をみるのさえ嫌だった。

プロポーズは実質私がしたことになるのだろう。従来のキャリアパス上、すぐにニューヨークあたりの領事館に転勤になるだろうという夫に、「あなたと一緒なら仕事を辞めてついていってもいい」といったことに夫が感激して「じゃあ、一緒にやっていこうか」といってくれたのだ。結局、結婚後すぐ来たニューヨーク領事館への出向の話は、私が仕事を続けたいので断ってもらい、詐欺のようになってしまったが。

夫は私を女性というより人間としてみてくれる人で、両親に挨拶に来たときも「ください」などという表現を使わず、「敦子さんとの結婚を祝福していただきたく」といったのも、私を呼ぶ二人称はいつも「あなた」であることも、キャリア官僚の激務の傍ら家事をほとんどやってくれることも理想的だった。先述したお金のことさえなければ…。また、夫は私にとって母親のような存在で、幼児が常に目の端で母親を探しているように、私は夫がそばにいないと情緒不安定になる。私は失われた子供時代を夫とやり直そうとしているのかもしれない。

しかし、結婚後すぐまたも大波が訪れた。結婚後2ヶ月で私はそれまでいた国際審査部から国際事務部に転勤になったのだ。それは、今考えれば、一番優秀な人が行く部署から三番目に優秀な人がいく部署への転勤、くらいのもので、新しい仕事も、大和銀行ニューヨーク支店の不祥事により、金融当局の指導で、海外各拠点のコンプライアンス・オフィサーの統括を本店で行うことになり、その担当という重要な仕事でもあった。それなのに、また、「一番じゃなきゃ生きていけない病気」が前よりも深刻に再発した。出世よりも将来学者に、と思っていたくせに、やはり今現在いる場所が一番じゃないと我慢できないのだ。

新婚2ヶ月なのに私は毎日泣きながら「左遷だからもう二度と浮かび上がれない、この会社でもう私の将来はない、死んだ方がましだ」というようになり、そのうち手首を切るようになった。夫は包丁等の刃物を家のどこかに隠し、残業から帰ってから私にわからないように取り出して食事を作り、泣き止まない私に食べさせた。夫には今でも本当に申し訳ないと思っている。でも私はこの転勤の前の日に死んでしまったのだと思った。奇しくもその日、1995年7月31日は三島由紀夫未亡人の瑤子さんが亡くなった日という偶然の一致もあった。

とうとう一歩も外に出られなくなり、そのくせ一人ではいられなくなり、読書はおろかテレビさえも見ることができない重篤なうつ状態になり、私は会社を休職して入院した。

入院中も地獄だった。そもそも「もう出世できないかもしれない」という理由で病気になったのに、こうして休職して入院していること自体がますます出世の可能性を絶望的にゼロに近づけるのだから。うつの他にたえまない苛立ちで45分の大河ドラマさえ座って見ていることができない。絶望にうちひしがれながら病院の廊下を徘徊する廃人のような日々だった。

完全とはいえない状態で半年後に退院し、家に一人でいられないので会社に復帰した。いまでこそうつ病社員の職場復帰には良心的に取り組む会社が多いが、当時は逆にひどいいじめで返された。エリート総合職一期生、東大出、ハーヴァード、オックスフォードという今までは自分の付加価値を高めていたものが、現状の目はうつろで始終動いている惨めな自分との対比をされた時に、自分を貶め、まわりの嗜虐趣味をあおるだけのものになったのである。

課の誰も私と口をきかない。課長までぐるになって私だけにばれないように周到に飲み会や会議をやる。一般職までが、他の人には注意しないのに薬のために口が渇く私がパソコンのそばに置いた缶のお茶を非難する。私のゴミ箱だけを集配所にもっていってくれない。誰も昼食に誘ってくれないので、一人でそそくさと食べ(銀行は食堂で連れがいないだけで人間失格とみなされる)、残りの時間空いている席で日経新聞を読んでいると、次の日にテプラで「ここは休み時間に新聞を読む場所ではありません」と貼ってあったりする。私はこの時の課員、とくに管理職でありながらいじめに加担した課長を一生許すことができない。ほら、閉鎖されたパリ出張所の所長だったあんただよ。

その上、夫が半年間研修でジュネーブに行くことになった。これも私がいけないのだ。あまりの苦しさに「夫の海外転勤に同行という理由で辞めたい」と思い、夫がこの研修のことをいったとき、「絶対申請して」と頼んでしまったのだから。でも、死んでも専業主婦で終わりたくない、また働きたい、と思えば、たかが半年の転勤のために退職するのは履歴上の傷になり、再就職に不利だろうと思われ、辞めることはできなかった。今思えば、「当初もっと長い任期だったのに本省の都合で短縮されたんです」とか、いくらでも言い訳はきいたし、香港生活の充実を思えば、半年くらいフランス語を勉強するのもよかったかも、と思えるが、当時はそんな理由で辞めることは再就職の道を自ら閉ざすこととしか思えなかった。

夫のいない家で、相変わらず買物にも行けず、テレビも見ることができず、本も読めず、毎朝地獄への出勤時間までぎりぎりまで泣いて、そして満員電車に乗って、会社でも誰とも口を利かずいじめを受け、もちろん昇格は2年続けて見送りになり出世の望みが完全に絶たれた中での文字通り出口の見えないトンネルを這うような状態だった。

だんだんと回復してきたきっかけはやはり本だった。直木賞を受賞した乃波アサ氏の『凍える牙』の音道貴子刑事の、犬の孤高な魂と呼応する私生活の孤独を抱えながらの厳しい職業意識は胸を打ち、病気になって以来1年ぶりに初めて読み通した本になった(以前は月20冊くらい専門書以外の本を読んでいた)。会社でもいじめを受けながらもなんとか仕事をこなせるようになり、夫が帰ってきた頃には転職活動もできるようになっていた。

そんな時、運良く金融法務の分野では業界随一のレベルで研究者も輩出している別の銀行の法務部に転職することができた。その頃には全快していた。

激動する金融業界で、めまぐるしい法改正・新法制定により、銀行の法務業務は量的にも質的にも高度化し、弁護士資格を持つ二人の上司の厳しい指導の下、実践的な法律知識を身につけ、それを用いて現実の問題を解決する充実感を味わえる幸福な日々が3年半続いた。投資信託の窓口販売開始の際の法務責任者になったり、重要なプロジェクトもたくさん担当させてもらい、論文も20編以上執筆した。


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