三島由紀夫の作品なので当然見に行った。
ミシマダブルについては、『サド侯爵夫人』は戦後戯曲の人気投票で一位になった作品で、現在も繰り返し上演されている。私もこの5年で3回目くらいだ。
『我が友ヒトラー』は、題名のせいか、なかなか上演されることがなく、私も小劇場で10年以上前に見て以来である。
演劇のアンケートに「上演してほしい作品は何ですか」という問いがよくあるので、その度に「らい(どうしても漢字がでてこないというのはどういうことか?漢字をなくせば差別がなくなるとでもいうのか?)王のテラス」「我が友ヒトラー」と書き続けてきた甲斐がある。
でも、「らい王のテラス」は無理なんだろうな。
実際、60年代に北大路欣也が初演も含めて2回やった以外に聞いたことないし。もちろん私は幼稚園児だったので見てない。
(北大路欣也が、「楽屋でシャワーを浴びていたら三島先生が入ってきて驚いた」といっていた。
北大路は中学の時ファンだった。勤めている大学は北大路通りのすぐそばなんだが、この芸名は、父の市川右太衛門が近所に住んでいて「北大路の御大」と呼ばれていたからだそうだ。)
ちなみにうちの大学と北大路を挟んでほぼ向かいにあるのが金閣寺の放火犯の通っていた大谷大学(しかしなぜ禅寺の修行僧が真宗系のの大学に?)。小説中にももちろん何度も出てくる。そばを通る度に「ああ、ここが林養賢の通った大学か」と感慨深い。金閣寺から十分歩いて通える範囲だということも京都に住んで実感した。2008年は校舎に「文学部卒業生津村記久子さん 祝芥川賞」という垂れ幕が出ていた。
『金閣寺』を読んだことがなくても、大谷大学の関係者でなくても、10代の若者でも、京都の人は皆、放火犯が大谷大学生だったことを知っているのがすごい。
上演開始になってから大きな鏡を設置するとか、ソファなどの調度品は二つの作品に共通して使っていた。
役者の後ろ姿も観客は見えるわけである。
木場勝巳のサンフォン夫人が圧倒的にうまい。
これほど見事なサンフォン夫人を私は見たことがない。
生田斗真も思ったよりはなかなかやる。
ただ、ずっとハイテンションで一本調子の演技だった。少なくとも最後の「政治は中道をいかねばなりません」は、もう少し冷静にいうべきだと思うが、これは演出の問題だろう。
しかし、東山紀之のルネ、レームがひどい。
科白を丸暗記しているのがみえみえで全然消化していない。
役者としてやっていくつもりなら相当厳しいものがあるだろう。
『サド侯爵夫人』は能のお囃子のような音楽はいいとして、最後に例の市ヶ谷バルコニーの演説を流すのはいかがなものか、藤原竜也が同じ蜷川演出で『弱法師』をやったときも全く同じだったが、陳腐だと思う。
まだ、『我が友ヒトラー』でこれをやるならわかる。レームの「軍隊ごっこ」はまさに楯の会そのもので、自決の2年前に書かれたこの戯曲を見ると、三島が自分がやろうとしていることが児戯に等しいことも、実現しっこないことも、世間から嘲笑されることも理解していたことがよくわかるから。
初めてこの戯曲を見た夫は「これって楯の会の隊員は見てなかったのかなあ」といっていた。
『我が友ヒトラー』は、ミソジニーの世界、ヴィスコンティの『地獄に墜ちた勇者ども』と同じ世界観で、そういう意味では、ジャニーズの美少年にやらせるのに一定の意味はあるかもしれないが。
それにしても、ジャニタレが出ていると、三島を読んだこともなく、普段演劇に興味もない層が見に来るせいか、観劇マナーがひどかった。
まず、私の斜め後ろのおばさんは、何度も分厚いアルミの袋に手を突っ込んでばりばり音をさせてお菓子を食べている。2幕目で振り向いてにらみつけたのに、3幕目でもやるのに驚いた。3幕めでまた振り向いてにらみつけたらその周辺から携帯電話のぶるぶる音が聞こえてきてもう最悪。隣の人は、携帯で時間を確認していてまぶしい。前のおばちゃんは上演中何度もペットボトルを飲んでいる。
『金閣寺』宮本亜門演出もひどかった。
まず、ストレートプレイなのに役者が全員マイクを使っているへたれぶり。
それから、主人公が何かしようとすると金閣が邪魔をするという現象が、ホーメイ奏者が不快な金属音を肉声で響かせるという方法で表現されていて、何か作品に対する大きな誤解があるとしか思えなかった。
ストーリー展開もト書きの朗読を含めた説明調のもので、演劇としてやる意味があまり見えなかった。
柏木役の高岡蒼甫はまあまあかな。(『ヘンリー6世』でのリチャード三世の役もなかなかのものだったが)
どちらの興行も、ジャニタレが出ると何か制約があるのか、アンケートをとらないというもので、三島ファンとしては「もうジャニタレを使うのはやめてくれ」とただひたすら思った。
ミシマダブルについては、『サド侯爵夫人』は戦後戯曲の人気投票で一位になった作品で、現在も繰り返し上演されている。私もこの5年で3回目くらいだ。
『我が友ヒトラー』は、題名のせいか、なかなか上演されることがなく、私も小劇場で10年以上前に見て以来である。
演劇のアンケートに「上演してほしい作品は何ですか」という問いがよくあるので、その度に「らい(どうしても漢字がでてこないというのはどういうことか?漢字をなくせば差別がなくなるとでもいうのか?)王のテラス」「我が友ヒトラー」と書き続けてきた甲斐がある。
でも、「らい王のテラス」は無理なんだろうな。
実際、60年代に北大路欣也が初演も含めて2回やった以外に聞いたことないし。もちろん私は幼稚園児だったので見てない。
(北大路欣也が、「楽屋でシャワーを浴びていたら三島先生が入ってきて驚いた」といっていた。
北大路は中学の時ファンだった。勤めている大学は北大路通りのすぐそばなんだが、この芸名は、父の市川右太衛門が近所に住んでいて「北大路の御大」と呼ばれていたからだそうだ。)
ちなみにうちの大学と北大路を挟んでほぼ向かいにあるのが金閣寺の放火犯の通っていた大谷大学(しかしなぜ禅寺の修行僧が真宗系のの大学に?)。小説中にももちろん何度も出てくる。そばを通る度に「ああ、ここが林養賢の通った大学か」と感慨深い。金閣寺から十分歩いて通える範囲だということも京都に住んで実感した。2008年は校舎に「文学部卒業生津村記久子さん 祝芥川賞」という垂れ幕が出ていた。
『金閣寺』を読んだことがなくても、大谷大学の関係者でなくても、10代の若者でも、京都の人は皆、放火犯が大谷大学生だったことを知っているのがすごい。
上演開始になってから大きな鏡を設置するとか、ソファなどの調度品は二つの作品に共通して使っていた。
役者の後ろ姿も観客は見えるわけである。
木場勝巳のサンフォン夫人が圧倒的にうまい。
これほど見事なサンフォン夫人を私は見たことがない。
生田斗真も思ったよりはなかなかやる。
ただ、ずっとハイテンションで一本調子の演技だった。少なくとも最後の「政治は中道をいかねばなりません」は、もう少し冷静にいうべきだと思うが、これは演出の問題だろう。
しかし、東山紀之のルネ、レームがひどい。
科白を丸暗記しているのがみえみえで全然消化していない。
役者としてやっていくつもりなら相当厳しいものがあるだろう。
『サド侯爵夫人』は能のお囃子のような音楽はいいとして、最後に例の市ヶ谷バルコニーの演説を流すのはいかがなものか、藤原竜也が同じ蜷川演出で『弱法師』をやったときも全く同じだったが、陳腐だと思う。
まだ、『我が友ヒトラー』でこれをやるならわかる。レームの「軍隊ごっこ」はまさに楯の会そのもので、自決の2年前に書かれたこの戯曲を見ると、三島が自分がやろうとしていることが児戯に等しいことも、実現しっこないことも、世間から嘲笑されることも理解していたことがよくわかるから。
初めてこの戯曲を見た夫は「これって楯の会の隊員は見てなかったのかなあ」といっていた。
『我が友ヒトラー』は、ミソジニーの世界、ヴィスコンティの『地獄に墜ちた勇者ども』と同じ世界観で、そういう意味では、ジャニーズの美少年にやらせるのに一定の意味はあるかもしれないが。
それにしても、ジャニタレが出ていると、三島を読んだこともなく、普段演劇に興味もない層が見に来るせいか、観劇マナーがひどかった。
まず、私の斜め後ろのおばさんは、何度も分厚いアルミの袋に手を突っ込んでばりばり音をさせてお菓子を食べている。2幕目で振り向いてにらみつけたのに、3幕目でもやるのに驚いた。3幕めでまた振り向いてにらみつけたらその周辺から携帯電話のぶるぶる音が聞こえてきてもう最悪。隣の人は、携帯で時間を確認していてまぶしい。前のおばちゃんは上演中何度もペットボトルを飲んでいる。
『金閣寺』宮本亜門演出もひどかった。
まず、ストレートプレイなのに役者が全員マイクを使っているへたれぶり。
それから、主人公が何かしようとすると金閣が邪魔をするという現象が、ホーメイ奏者が不快な金属音を肉声で響かせるという方法で表現されていて、何か作品に対する大きな誤解があるとしか思えなかった。
ストーリー展開もト書きの朗読を含めた説明調のもので、演劇としてやる意味があまり見えなかった。
柏木役の高岡蒼甫はまあまあかな。(『ヘンリー6世』でのリチャード三世の役もなかなかのものだったが)
どちらの興行も、ジャニタレが出ると何か制約があるのか、アンケートをとらないというもので、三島ファンとしては「もうジャニタレを使うのはやめてくれ」とただひたすら思った。