もったいない・ご恩返しの心を!太田清蔵の世界世直し運動

地位と名誉と資産と収入を一番大切にする自己中心主義を替えて、戦争とテロと貧乏と病気と麻薬撲滅に全力集中

〔東アジア開発計画プロジェクト案③〕【南北朝鮮経由の航空路設置と東海、黄海二大国際港湾都市をつくる】

2008年10月27日 21時12分16秒 | 東アジア開発計画プロジェクト案
私は、「アジア興してこそ日本列島均分繁栄への道」という書籍のなかで、「南北朝鮮経由の航空路設置と東海、黄海二大国際港湾都市提案」をさせていただいております。韓国は2001年3月29日、「仁川国際空港」を開港しています。世界各地と航空路で結ばれ、大韓航空及びアシアナ航空のハブ空港となっており、ハブ空港を持っていない日本をはるかに凌いでいます。
仁川国際空港(インチョンこくさいくうこう)は、大韓民国仁川広域市中区にある国際空港。永宗島と龍遊島の間にあった干潟を埋め立てて建設したそうです。以前に使用していた金浦国際空港は一部を除き国内線専用となった。滑走路は3,750m×2本と4,000m×1本の合計3本が供用中である。
韓国は、アジアにおけるハブ空港の座を確かなものにするため、積極的に日本、特に日本海側の地方空港と仁川を結ぶ航空便を就航させています。実際に成田国際空港や関西国際空港ではなく仁川経由で欧米へ赴く日本人も多くなっているようです。国内線は釜山線、済州線、大邱線があります。空港内にはさまざまな商店や娯楽施設があり、待ち時間が有効に使えるようになっています。
また、私が1988年9月10日、「アジア興してこそ日本列島均分繁栄への道」を
発刊したときには、韓国も北朝鮮も国連に加盟していませんでした。それが1991年に、韓国と北朝鮮が、 エストニア、ミクロネシア連邦、ラトビア、リトアニア、 マーシャル諸島とともに国連加盟を果たしています。そのなかでも韓国は、目覚しい成長と発展を遂げています。このことを確認する意味で、「南北朝鮮経由の航空路設置と東海、黄海二大国際港湾都市提案」について、引用しておきましょう。

中国の某要人が1988年3月に竹下総理を訪問され、東京・ソウル・北京間の航空路を日本側の航空会社が、「北京・平壌・東京間の航空路を中国の航空会社が設置する提案をされました。
日本も中国も韓国も研究に価する事として乗り気を示したのですが、北朝鮮側が、日中両航空路とも平壌を通すのでなければ応じられないと返答されたそうです。
北・南両線を承認し合うことは、やがて中・ソ・米・日四か国の南北朝鮮の相互クロス承認と、それによって国連への同時加盟を誘発して、東西両ドイツのように分割統治を事実上容認してしまう結果になる、というのがその論拠です。
1988年6月25日、朝鮮人民民主主義共和国は、平壌外港南浦を初めての国際開放港湾都市にすると宣言されました。しかし日本では、一、二の新聞が小さな囲みで先の事実を報道したのに止まり、大半の日本人の眼にはその事実は止まりませんでした。
中国の14か所の国際港湾開放都市宣言はこれと異なり、大変な国際的反響を呼んだのです。なぜなら、それらの各都市の背景にそれぞれ一億人近い人々の市場が張り付いており、各国ともその市場性に魅了されたからです。
南浦港が一港であっても、その背後にある北朝鮮の人口は1800万人から2000万人であり、それらはちょうど人口900万の九州、600万の北海道がいくら金と太鼓で中央資本を呼んでも、一向に興味を示されない現象とよく似かよっています。私は、北海道はアメリカ・欧州へ一番近い日本の空港だから、北方圏空路として日本の中心になることを提案しております。同様に、九州は東南アジアに一番近い日本の空港・港湾であり、東南アジアに対する中心拠点としての存在意義を強調する以外に、筑紫の極み陸奥の奥では国内の関心は勿論、アジアや欧米の人々の関心をひくことも出来ないでしょうと考えております。
幸い平壌と南浦間の距離は50キロですから、その中間に大国際空港を開設して、日本から中国、なかんずく東北地区のハルビン、長春、藩陽、大連、北京、西安その他の路線はすべてこの北朝鮮の港の中継ぎということになれば、大変な旅客と便数が新空港を経由することになりましょう。
かくして、中日両国の中継ぎ中間工程工場としての南浦国際港湾都市は大変な盛況をきたすこと間違いありません。
私は、中国訪問時にクラスキノに隣接したトマン河口地帯の吉林省沿辺地区璋春に、第15番目の国際開放港湾都市開設を提案致しました。
中国は中ソ国境の三江地帯の米中合作開発事業や、愛璋地区における中ソ合弁の紡績工場その他の開発地域をもっています。しかし日本海に面した港がないので、そこに行くためには津軽海峡、朝鮮海峡、旅順、大連経由鉄道で国境に行かなければなりません。トマン経由が円周上の一点経由であるのに対して、全円周廻りに近い大迂回で余り経済的でないと、私は中国側に申しました。
中国側は、北朝鮮の要請で北朝鮮経済応援のため、日本海に面する清津港経由で、百キロ北の中国に物資を運んでいますが、余り経済的ではなく、中ソ国境も現在それほど経済活況を呈していないので琿春に第15番目の開放港湾都市をつくる意味がないとまでいわれ、大連港開設への協力を要請されました。
中国の李鵬首相は、中国と韓国の経済交流の活発化を調ってはおられるものの、韓国の政治的承認は、北朝鮮への信義を重んじられて頑なに拒否されております。
中国が璋春地区の開放都市は魅力的でないとおっしゃる真意は、現在北朝鮮にトマン開放地区の意向がない以上すべての陸揚げはソ連経由でされなければならないので、余り気乗りがしない謎であると受けとめました。
したがって、クラスキノがソ連側の日本海出口でありシベリアヘの窓口とすると、もし北朝鮮側がその対岸のトマンを世界の人々の意表をついて開放港湾都市宣言をされた場合、一番喜ぶのは、その後ろにある琿春地区の中国であり、中ソ国境地区の国際合弁各種企業であろうと思います。
かくして東海(日本海)にトマンを、黄海に南浦を、国際開放港湾都市として真に国際的な通過経済の窓口をあけると、北朝鮮はその優秀な人材と恵まれた資源によって、急速度の近代化と国民生活の向上が期して待たれることになりましょう。私自身もこれまで、四か国の南北朝鮮の相互クロス承認と、国連への同時加盟を北朝鮮自身が待ち望んでおられるものと誤解していたため、つまらない迂回思考をしていましたが、むしろ中国への中継地としての経済産業の興隆で、十分2000万人の職場を確保出来るものと考えられるようになりました。

東アジア開発計画プロジェクト案②【朝中ロ国境・豆満江地域開発計画の実現を】

2008年10月26日 21時02分34秒 | 東アジア開発計画プロジェクト案
 米国政府は戦前から、中国東北部を独立させ、新しいユダヤ人国家を建設する構想を実現しようと目論み、その大前提として「北東アジア開発」に意欲的であると言われています。この構想を受けて、国際連合の1つの機関である「国連開発計画」が中心になって「豆満江地域開発計画」を立案しています。
しかし、残念ながら、北朝鮮が金正日総書記の独裁体制が続いてきたため、「豆満江地域開発計画」が、未だに実行に移されないという不幸な状況に置かれています。
国連が、「国連開発計画」に「豆満江地域開発計画」を立案させ、実現に向けて活動を開始するところまで積極的な動きをするに至ったキッカケをつくったのは、実は、私、太田清蔵でありました。このことを改めて強調しておきたいと思います。
私は訪英中の昭和62年(1887)11月23日、当時のサッチャー首相を国会執務室にお訪ねし、福田赳夫元首相の親書をお渡し、懇談いたしました。このなかで、私は、
「朝中ソ国境のトマン河口三国開放港湾姉妹都市を作るためのフィージビリティスタディ(企業化研究)について、是非、ご尽力をお願いしたい」
と要請しました。これに対して、サッチャー首相は、
「この問題は、いずれ88年には国連経済開発指定マターになるでしょうが、それまで一緒に頑張りましょう」
と言われました。私は、訪英して保守党あげての歓待を受けました。
英国のピーター・タプセル議員を経由し、「フィージビリティスタディ委託費用1200万円」を「ヒューエンデン基金シンクタンク」(クリスバッテン理事長=元香港総督)に提供し、同シンクタンクのエジャートンさん立会いのもとに私の提案の実現をお願いしていました。このシンクタンクは、ロード・ヒューム、ロード・カー元首相が主宰された権威ある研究機関です。
そして、私は本当にびっくりしました。サッチャー首相が約束された通り、私が提案した「朝中ソ国境のトマン河口三国開放港湾姉妹都市を作るためのフィージビリティスタディ」が、88年から少し遅れたとはいえ、90年に国連において本当に「国連経済開発指定マター」に指定されたのでした。
私の提案の内容やサッチャー首相にお目にかかるまでの経緯については、著書「アジア興してこそ日本列島均分繁栄の道」の「第二部 南浦とトマンを開放港湾都市に」のなかで、「北鮮の南浦とトマンを開放港湾都市にして日中両国の掛け橋としての経済活性化を―朝・中・ソ国境クラスキノ地区にソ連版開放港湾都市計画」と題して、次のように説明しています。

 私は、1987年6月26日から10日間、モスクワ・レニングラードに旅して、ソ連の各種行政機関に次のような提案をして大歓迎を受けました。
一、トマン河口の朝・中・ソ国境地区のソ連領内の100平方キロの土地と周囲諸国との交易権を現物出資し、自由圏側は一兆円の現金を出資して、51%・49%の国際合弁土地会社を設立する。
二、有効期間は60年とし、その間現金出資者に対しては八%相当の外貨建て配当をし、外貨支払いが不能な場合は当初10年くらいまでは無償八%増資をする。
三、配当八%のうち、0・3%ずつ60年積んで元利合計すれば投下資本を全部回収し終わるので、合弁契約を終結して土地・建造物をソ連に返還する。
四、1兆ドルの外資を使って、国際空港・港湾テレポート等の社会資本を充実し、その上に別の合弁工場・商社・ホテル・その他をつくって活発な貿易産業都市を形成する。
五、背後の朝・中・ソ地域のタングステン・モリブデン・バナジュウム・イットリウム・ニオビュウム・マンガン・クローム等の希少金属等を自由世界に輸出し、マイナス四五度でもイグニッションがかかる自動車産業、マイナス35度でも材質が変形しないシリコンハウス等の工場を起こしてココムに抵触しない地場産業を育成する。
 この提案に対して、朝・中・ソと、日本海を通して韓国、日本、アメリカその他との多角貿易にはどのくらいの貨物と、人間と資金が動くか、関係各国で企業化採算研究をすることになりました。日本政府は、非公式に日ソ共同の企業化採算研究も日ソ合弁土地会社への出資も不可という意見でしたが、ソ連と英国、または米国等との共同研究や合弁会社設立、ロンドンのシティやニューヨークのウォールストリートを通して無国籍化した日本の資金その他を投入することはかまわない、という態度を示してきました。
 私は、英国保守党のシンクタンクであるヒューエンデン基金に企業化採算研究をたのみ、英ソ合弁会社の設立意向も打診しました。勿論、金は英国で出さなくても、日本その他、および東南アジアの華僑の資金等を無国籍化して出すことを前提としたのです。
 ソ連は、軍事上、環境保全上、合弁企業法上各種の困難はあっても、1986年7月28日のゴルバチョフ書記長のウラジオストック演説に関連して、どのように極東の港湾を日本その他の自由圏諸国に開放するかと思い悩んでいる最中でもあったため、自由国側がまず1平方メートル当り1万円の土地代相当額を出すことによって、社会資本の初期投資額が可能になるとして、この案に賛成して下さいました。
 その後、ソ連からは要路の方々が何人か来日され、国境近接地帯は濃霧発生地点であるため、他の二、三の候補地を出してこられました。私は、日本の生保会社としても過去三年間に三十社で五兆円のドル相場下落による為替評価損が出たことを考慮して、一兆円を戦争準備に代えて平和目的のための投資をすることは、人命尊重のためにも意味がある、と考えました。
 昨年(1987年)11月には英国のサッチャー首相にお会いし、今年6月には中国の呉学謙副首相にお会いしました。そして9月には盧泰愚韓国大統領、11月にはルイシコフソ連首相、来年2月にはアメリカの大統領にお会いする予定です。その間日本の竹下首相以下政治の中枢の方々にお会いしたり、関係各国の間を往来して、出来れば1997年香港島返還までの間に実現にこぎつけたいと思います。

 さて、環日本海経済研究所作成の「北東アジア」には、この計画を以下のように紹介されています。
 この計画は、中国、ロシア、朝鮮民主主義人民共和国の国境が接する豆満江流域を多国間の協力により開発しようとする構想で、現在の対象地域は「北朝鮮の清津、中国の延吉、ロシアのナホトカを結んだ線の内側の地域」と定義されています。対象地域内の面積は5万5000平方キロメートル、人口は約430万人です。
 国連開発計画(UNDP)によりますと、この地域は木材、鉱物、石炭、石油、穀物などの天然資源が豊富であり、安価な労働力に恵まれ、不凍港と鉄道網により欧州および日本の巨大なマーケットに連結が可能であります。この地域の開発を進めることにより、国際的な物流、貿易、工業の中心地に発展させ、「北東アジアの香港」を目指すことができると言われています。
 豆満江地域開発が初めて国際的な関心を集めたのは、1990年7月に中国の長春で開催された「第1回北東アジア経済発展国際会議」でした。この会議で中国代表が「豆満江河口=黄金の三角地帯構想」を発表しました。これがキッカケとなり、豆満江地域開発についての議論が活発になったと言われています。
朝日新聞によりますと、国連開発計画は平成11年(1999)4月23日、中国吉林省琿春市に中国、ロシア、北朝鮮、韓国四か国の関係者を集め、「国連世界平和センター」設立の調印式を行なった模様であり、豆満江地域開発計画が実現に向けて一歩前進しているようです。
 こうした動きを受けて、国連開発計画(UNDP)が1991年3月に豆満江地域開発を国連開発計画の第5次事業計画(1992年~96年)の重点事業として取り上げることを決め、1999年10月に調査報告書をまとめて国連開発計画の「豆満江地域開発構想」として発表しました。この構想は、20年間に300億ドルを投入して開発を進め、羅津(北朝鮮)、琿春(中国)、ポシェット(ロシア)を結ぶ小三角地帯(面積1千平方キロメートル)に新たな国際都市を建設するとともに、清津(北朝鮮)、延吉(中国)、ウラジオストック(ロシア)を結ぶ大三角地帯(面積1万平方キロメートル)を開発し、小三角地帯を支援するという内容でした。

■東アジア開発計画プロジェクト案①■〔主旨〕

2008年10月25日 19時55分56秒 | 東アジア開発計画プロジェクト案
米国ブッシュ政権が、北朝鮮に対する「テロ国家指定」を解除したことから、東アジア情勢は、わずかながら新展開する様相を示しています。ブッシュ大統領が、2009年1月19日、任期満了となるため、外交政策での実績を残したいとの思いから、苦し紛れに外交政策を大転換したということは否めない事実であります。日本にとっては、「拉致問題」が未解決のままで、「ブッシュ大統領に裏切られた」という失望感を拭えません。これは、「日米同盟」のみに頼っていては、日本は大変な目にあわされるという対米不信感を招いてもいます。日本はいまこそ、独自の外交防衛政策と経済政策を持つべき時がきているとも言えるでしょう。
 そのための方策の一つが、日本海を「絶望の海」から「希望の海」に変えることであると、私は、確信しています。端的に言えば、日本、中国、ロシア、韓国、北朝鮮各国が日本海を取り囲む「東アジア経済圏」に新しい市場を創造していくという戦略の実行であります。日本海が「絶望の海」のままでは、東アジアの平和と安定、そして繁栄は、望むべくもないからであります。この戦略の実行にとって、北朝鮮に対する「テロ国家指定解除」が、第一歩になることが期待されます。
 時折りしも、米国ニューヨーク・マンハッタン島ウォール街発の「金融危機」がキッカケとなり、世界の景気が大きく後退するという不穏な状況が進行中であります。米国依存が仇になり、中国では、企業倒産、失業者続出という最悪のシナリオが急展開しつつあります。中国企業に化学製品の原材料を輸出している日本企業も大打撃を受け始めています。
 日本ばかりでなく、中国、韓国、ASEAN諸国、インド、パキスタンに至るまで、米国への輸出に依存してきました。この結果、親亀がこけたら小亀もこける。孫亀もこけ、曾孫亀もこけるという経済関係に陥ってしまいました。大変危険な関係です。
こうした事態を回避するには、環日本海を中心とする「東アジア経済圏」を育て、大きく成長させ、活性化していくしか道はありません。これにより、対米依存から脱却できるのです。
日本は戦後、太平洋ベルト地帯の重化学工業化をテコに高度経済成長と発展を推し進めてきました。その半面、日本海を「絶望の海」したまま放置してきたのです。米国発の金融危機によって、そのツケをいま支払わされかねない重大局面に立たされようとしているのです。地域間格差、企業間格差、所得階層間格差の根本原因を探れば、太平洋ベルト地帯に偏りすぎた経済発展が、ついに行き詰まってきていることがわかります。
しかし、この「危機」を憂いているばかりでは、何事も解決しません。むしろ、いまこそ「ピンチ」を「チャンス」とすべきであります。それには、思い切った「発想の大転換」が必要です。「危機」を「良薬」として活かすのです。
実は、私は、20数年も前から、「環日本海経済」、さらには「東アジア経済圏の繁栄」を構築するためのプランを描き、戦略が実行される日の到来を待ち望んできました。
そのプランにつきましては、私が東邦生命社長時代の昭和63年(1988)9月10日、毎日新聞社から発刊した「アジア興しこそ日本列島均分繁栄への道」と題する書籍(非売品)のなかで提案し、詳しく述べております。それを改めて読み返してみますと、いまでもしっかりと生きていることに気づきます。これからいよいよ実現に向けて「プロジェクト」が組まれるべきプランであると確信しています。以下、順次披瀝させていただきます。

〔世界平和構想7〕【ヨゼフ・ピタウ元大司教の呼びかけで『世界平和宗教者殿堂』創建を】

2008年10月13日 14時47分19秒 | 世界平和構想
私は、世界のあらゆる宗教宗派の代表者が一堂に会せる「世界平和宗教者殿堂」を靖国神社の前庭1万坪と皇居北の丸の武道館の回り2万坪、合わせて3万坪に創建する構想をかねてより温めてきました。
その呼びかけをカトリック教会のヨゼフ・ピタウ (Joseph Pittau、イタリア語名はジュゼッペ・ピッタウ=Giuseppe Pittau)元大司教にお願いしたいと熱望しています。ピタウ元大司教は1928年10月20日、 イタリアのサルデーニャ州ヴィッラチードロでお生まれになり、1945年、イエズス会に入会されています。上智大学で17年間学長を務められ、日本語でミサを捧げることのできる元大司教です。以下、略歴を紹介しておきましょう。
1952年、 スペイン・バルセロナ大学にて哲学を修める。
1954~1956年 栄光学園中学校教師。
1959年、司祭叙階。
1960年、 上智大学にて神学を修める。
1963年、ハーバード大学大学院修了、政治学博士号を取得する。
1966年~1981年、上智大学法学部政治学教授に就任。
1968年~1981年、上智大学学長に在任(このころの教え子に三雲孝江がおられたそうです。
1981年、イエズス会管区長に就任。同年10月 教皇ヨハネ・パウロ2世の要請によりイエズス会本部へ(ローマ法王パウロ2世の跡を継がれるものと思われておりました)
1992年~1998年、 教皇庁立グレゴリアン大学学長。
1997年~1998年、 教皇庁立科学アカデミー・ 社会科学アカデミー会長。
1998年、 バチカン教育省局長に就任、およびサルデーニャ教会大司教に叙階。
2004年、 75歳の定年によりバチカンを辞し、再来日する。
2004年~2005年4月、 カトリック大船教会協力司祭に在任。
2006年、文藝春秋の「諸君!」(オピニオン誌)9月号にジャーナリスト細川珠生との対談記事「カトリック大司教、『靖国』と『中国』を語る」が掲載される。聖職者として「死者の政治的利用」に反対し、厳密な政教分離の条件をつけながらも、戦没者慰霊施設としての靖国神社また公人の参拝を容認する見解を示しています。著書には「聖地アッシジの対話 聖フランチェスコと明恵上人」(河合隼雄との共著、藤原書店)

私は1991年9月25日、バチカンを訪問し、パウロ2世に「皇室がカソリックに改宗なさった場合、神道神事をお認めになりますか」と問い合わせました。これに対しパウロ2世から、「然り」という力強いお答えをいただきました。聖グレゴリアン大学総長を務められていたピタウ大司教にお立会いいただくことを期待ましたが、残念ながら、このときは、ピタウ大司教のお姿はここにはなく、ロックハイマー顧問に立会っていただきました。
しかし、ピタウ大司教は略歴に示したように75歳の定年により2004年、バチカンを辞し再来日されて、カトリック大船教会協力司祭に就任され、平成16年6月3日、大船教会で、次のように挨拶されています。
 「みなさま、ご無沙汰致しておりましたが、23年ぶりに日本に帰ってまいりました。帰国致しました私を横浜教区のラファエル梅村昌弘司教様は、大船教会主任司察である久我純彦神父様のもとで司牧活動をするよう任命なさり、4月25日より大船教会で働き始めました。
ローマから日本へ帰って直ぐに神田教会を訪ねました。この神田教会で1959年3月18日に土井枢機卿の祈りと按手によって私は司祭になりました。
現在の神田教会は、祭壇がむかしと変わっているものの、教会全体の建物は当時と同じでした。何か45年前に戻って、新しい気持ちで日本における神の国のために働きたいという想いを強く感じました。
日本での最初の仕事はローマから送った別送品の受け取りでした。受領するためには入国管理、カーゴ事務所、税関で手続きをしなければなりませんでした。手続きは煩雑複雑なものでしたが、各部署の係員は暖かく親切で、また能率よく、正確に仕事をしてくれました。なにか自分の国へ帰ったという印象でした。
日本航空カーゴのゾーンにある事務所と倉庫で荷物の確認、引取りをしたのですが、膨大な荷物量を仕分けるのにどれ程忙しいか、それと同時に正確とスピードをもって皆様が働いているか、一つ一つの荷物のため勤勉とケアーによってそこにどうして世界が動いているか、わかったような気が致しました。
私は1928年10月20日イタリアで生まれ、1945年イエズス会に入会、修練と最初の養成はローマとピエモンテ地方のクネオ市で済ませ、哲学をスペインのバルセローナ市で終了しました。
イタリアに帰って、1952年9月、今度は日本へ送られ、一生を日本の使途的働きのために任命されました。1952年から1956年まで横須賀市の田浦で、2年間は日本語の勉強、そしてその後の2年間は、栄光学園で中学生に教師として教えました。この田浦での4年間はその後の活動のために私にとって大きな土台となりました。
この後、東京石神井の神学院で司祭養成の最後の段階に入り、1959年3月18日、神田教会で司祭に叙階されました。
1960年4月、神学の最後の試験を終え、米国ハーバード大学に送られ、2年半の勉強の後、広島で第三修練を終了しました。1964年上智大学法学部で倫理学と国際政治を教えることとなり、それと同時に上智大学の学術誌モヌメンタニッポニカの編集長に任命されました。
1968年には上智大学イエズス会修道院の院長と上智学院理事長になり、そのときには大学紛争の体験も致しました。1975年上智大学学長になり、1968年以来、学問的な活躍と経営の責任がありながらも学生たちに公教要理を教え、使途的な活動も大切にする努力をいたしました。
1981年にイエズス会菅区長になり、同年8月アルペ・イエズス会総長がご病気になられ、10月、ヨハネ・パウロ2世にローマに呼ばれ、イエズス会本部で働くようになりました。
約2年間の間に世界中を回り、1983年9月のイエズス会総会の準備を致しました。1983年からイタリアと東南アジア地区の総長補佐、1992年、グレゴリアーナ大学総長、またバチカン科学アカタミーと社会科学アカデミーの長官も兼務いたしました。そして1998年バチカン教育省事務次宮となって、大司教に叙階されました。今回75歳の定年を迎え、教皇様とイエズス会総長にお願いし、日本に帰ってまいりました。
帰国後、大船教会に赴任する前の1ヶ月程は栄光学園の修道院で過ごしました。教鞭をとったのは50年も前のことになりますが、ここでも50年がなかったかのように元に戻ったという印象を受けました。
この1ヶ月の滞在中にどれ程教育(幼稚園から大学まで)と宣教は互いに助かっているかを感じました。これからは神様に呼ばれるまで、日本で司牧の活動をするつもりです。神田教会で司祭叙階式の時に諸聖人の連祈を唱えている間、ひれ伏して自分の物足りなさを感じながらも諸聖人と教会の信者達が手を挙げて私を支えているということを強く感じました。どうぞみなさま、手を挙げて私を支えて下さい」
ピタウ元大司教は2006年8月11日、上智大学で次のような講演をされています。
「今世紀は、2001年9月11日に起きたニューヨーク・マンハッタン島のツインタワービル大爆発事故という忌まわしいテロをキッカケとするアフガニスタン空爆、イラク戦争の勃発、それに加えて麻薬と病気、貧困と憎悪に見舞われた混迷した社会のなかで始まりました。当時、私はバチカンの大司教の任にあり、大きな責任を感じていました。それから5年経た2006年8月11日、元いた上智大学の一角から叫びました。
1、神の名において人を殺さない
2、神の名において金儲けをしない
3、神の名において人助けをし
4、自ら信仰を基にして他宗の教会においては他の礼拝の形式をそのまま履行して世界中の人々と併存できることを喜び合いたい」
そのよその宗教の拝み方によって手を合わせるというやり方で、世界中が納得して平和に住めるようになると言っていらっしゃったのです。
日本の神道は神という文字が使われてはいますが、他の太平洋一帯のポリネシア、ミクロネシア、メラネシアの地域一帯からペルー、ボリビア、エクアドル等中南米まで含めた先祖崇拝、地域崇拝の伝続で、日本以外の地では宗教としてのキリスト教とは別の儀式として、数千年にわたって続いています。日本でも佛教が渡来して一時不協和でありましたが、佛教信仰の厚い天皇皇后両陛下ほど神道神事を立派に果たしておられます。
「日本の神道は太平洋全域に拡がっている地域崇拝、先祖崇拝と同じだから、日本の皇室がキリスト教信者になられても神道神事を禁止するものでもない」と言っておられます。さらに、現在世界の主だった王国は「君臨すれども統治せず」の方式をとって居りますが、「大統領制のように国をあげて君臨統治するよりも遥かに安定しているので世界が一つになっても国別統治は国王制に続くだろう」と言われております。
現在、パオロ2世の後継者であるドイツの法王様が、イスラムから大変危険視されることになっております。そこで私は、「世界中からローマ法王にご推挙申し上げるべきである」と思っています。ローマカソリックとイスラムの関係でなく、世界全体を公平にごらんになれる最高の方だからです。この偉大な元大司教に是非とも、靖国の前庭一万坪と皇居二万坪武道館のある空き地に、世界のあらゆる宗教宗派の代表者が一堂に会せる「世界平和宗教者殿堂」の中心に位置して欲しいと願っています。ピタウ元大司教もまた、東京における世界宗教者殿堂の創建に最大の関心を示され、「ぜひ是非実現したい」と言っておられます。

余談ながら、私が、「世界宗教者殿堂」という聖堂建立を強く意識した一文を日本経済新聞平成5年(1993)1月26日付の朝刊「交遊抄」欄に寄稿しています。「われら地球市民」と題して、以下のように書いています。
「世界百八十三カ国の元首や首脳を集め、ブラジルで第二回地球サミットを主宰したのは、カナダのモーリス・ストロングという人である。世界恐慌が起こった一九二九年のカナダ生まれで、小学校卒業直後の十三歳から実業界入りし、三十歳そこそこでカナダ電力公社総裁、三十五歳の時に年俸二十万ドルを棒に振ってカナダの国際開発庁長官になり、四十二歳で国連人間環境会議事務長としてストックホルムで第一回の地球サミットを主宰した。
私どもの東邦生命渋谷本社ビルには、国連大学の本部などが七五年の藩成時点から昨年七月表で同居していたことから、同氏とは来日の折に家族付き合いが始まり、八三年の米国コロラド州アスペン人文科学研究所のフォーラムの折には、ストロングさんの提供されたバカグランデの講堂も使うことができた。夫人のハンナさんはデンマーク生まれの環境活動家で、自らをアメリカインディアンの生まれ変わりと信じ、彼らの言う『聖なる山』のふもとのバカグランデに世界中の宗教殿堂をつくって、宗教間の対立を超えた平和運動を展開している。またその地にチベット仏教の施設院を建設する際には、建設設計士で在米中の私の息子もお手伝いをさせていただいた。
熱心なハンナさんは、私の勧めで越前・永平寺に三泊四日の座禅をされ、当時の秦慧玉禅師に十万坪の土地を提供するから、バカグランデに禅室をつくってくださいと懇請した。結果は不調に終わったが、帰途、白山神社に皇国神道の平泉澄宮司をお訪ねした。九十歳を鰯えておられたので宮司に最後にお会いした外国人であったと思う。
私は毎年のクリスマスのあいさつに自分の所感を付しているが、それがお気に召したのか、八九年、スイスのダボスで開催されたワールドエコノミックフォーラムでも、昨年のリオデジャイロの地球サミットでもお会いし、いつも地球市民としての環境の大切さを誇り、励ましあっている」

〔世界平和構想6〕【靖国神社に合祀のA級戦犯は、新たに建立する『昭和神社』に分祀を】

2008年10月12日 18時14分00秒 | 世界平和構想
自民党総裁選挙(平成20年9月)で争った5候補のうち、麻生太郎、石原伸晃、石破茂の3氏が、靖国神社からの「A級戦犯分祀」に賛同する意向を明示しています。いずれも「天皇はじめ皇族が公式参拝できるように元に戻さなくてはならない」という意見を述べています。麻生太郎新内閣(9月24日組閣)は、中国、韓国などへの「外交的影響」を配慮しながら、問題解決に踏み出すことになりそうです。
平成20年8月15日の終戦記念日には、日本遺族会会長である自民党の古賀誠元幹事長(選対委員長)をはじめ、無派閥ながら古賀氏に近い野田聖子元郵政相(現在、消費者・科学技術担当相)や古賀派の太田誠一農林水産相(当時)らの国会議員が、靖国神社を参拝しています。
しかし、A級戦犯「分祀」については、古賀氏は翌16日「すべての国民、首相や天皇陛下も行けるような環境整備のため、私たち遺族が大きな決断をしなければならない」と述べ、分祀すべきとの考えを改めて強調し、「一挙決着」の強い姿勢を示されたことから、靖国神社側も、従来の「合祀論」を維持しにくくなってきています。
A級戦犯を「分祀」する場所については、東京都渋谷区神宮前1丁目5番3号、すなわち原宿の竹下通り近くにある大日本帝国海軍ゆかりの東郷神社(昭和15年創建)が、名乗りを上げておられます。東郷神社前宮司の松橋暉男氏が2008年6月に出版した著書「幻の揮毫」(毎日ワンズ)のなかで、神社関係者としては異例の提言を行っています。全国8万神社をまとめる神社本庁は「分祀は神道の教義上できない」との見解を堅持していますが、傘下の有力神社の一つである東郷神社の前宮司が「A級戦犯受け入れ」を表明したことで、分祀論議に拍車がかかってきました。
東郷神社には、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃滅した大日本帝国海軍の連合艦隊司令長官を務められた東郷平八郎元帥が、「戦勝の神様」として祀られています。私が理事長を務めている財団法人近代美術振興協会「浮世絵太田美術館」のちょうど北側の方向にあります。徒歩でわずか数分のところです。
しかし、私は、靖国神社に合祀されているA級戦犯を「真鶴半島」の天然松林内に建立する「昭和神宮」に「分祀」する考えを以前から構想しております。
この「真鶴半島」の天然松林は、三木武夫元首相の夫人・睦子さんが、全部所有しておられます。ここから10キロ離れた近くの静岡県熱海市伊豆山には、極東国際軍事裁判で絞首刑の判決を受け、処刑された松井石根陸軍大将(BC級戦犯)が昭和15年、日中戦争における日中双方の犠牲者を弔うために私財をすべて投じて建立された「興亜観音像」(中国・南京の土を使用)があり、その側には、ABC級戦犯で処刑された1700柱の墓碑銘が建てられ、遺族らが祭礼を行ってきています。
忘れてはならないのは、連合国軍最高司令部が昭和23年12月23日、すなわち今上天皇陛下が皇太子であられたときの15歳の誕生日をわざわざ選んで東条英機元首相らA級戦犯7人を処刑したという事実です。
私は、「昭和神社」建立に当り、千葉大学の清水馨八郎元教授のご尽力をいただき、A・B・C級戦犯1700柱の墓碑を神道様式で建立し、御祭主を三木睦子さんにお願いできれば幸いと考えております。また、警察官僚出身の政治家・亀井静香元建設相には、大宮司として殉職警察官の祭祀を務めていただきたいと希望しています。
「昭和神宮」への「分祀」が現実化すれば、中国、韓国などから浴びせられてきた首相の靖国神社公式参拝批判が一気に沈静化し、天皇陛下の公式参拝も可能となります。
これまで日本遺族会は、自民党の支持基盤の一つでしたが、遺族の高齢化が進み、減少し続けていることから、古賀氏は、「広く国民の間で英霊を祭る靖国神社の支援者を増やすためにも、分祀を急ぐ必要がある」とされており、靖国神社問題の決着は、自民党の政権維持にとって、ますます切実な問題になってきています。
靖国神社は明治2年6月29日(新暦1869年8月6日)に戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、大村益次郎(旧姓名・村田蔵六)の献策により「東京招魂社」として創建されました。明治12年(1879)6月4日に「靖国神社」に改称し、同時に別格官幣社となっています。戦前は、神社行政を総括した内務省が職員の人事権を有し、陸軍省および海軍省によって共同管理される特殊な存在であり、国家神道の象徴として捉えられていた。運営の主導権は財政をになった陸軍省が有していた 。祭主は陸・海軍武官が勤めておりました。
私が社長を務めました東邦生命は、前身を「徴兵保険相互会社」(明治31年設立、大正14年、と第一徴兵保険相互会社と改称、昭和22年11月、組織を変え、東邦生命として新発足)といいました。第一徴兵保険相互会社時代の昭和9年(1934)には、「神門」(良質の台湾檜づくり)を靖国神社に奉納しております。東邦生命と靖国神社とは、深い縁で結ばれていたのです。

〔世界平和構想5〕【アインシュタイン博士の遺志を受け継ぎ、「世界連邦の樹立」実現を】

2008年10月04日 00時06分03秒 | 世界平和構想
いわゆる「相対性理論」によりノーベル物理学賞を受賞されたアルベルト・アインシュタイン博士(1879年3月14日~1955年4月18日)は、ドイツ出身の理論物理学者であります。イタリアやスイスに居住し、「光電効果の発見」の功績により、1921年にノーベル物理学賞を受賞しています。
アインシュタイン博士は第一次世界大戦時には反戦を訴えていました。しかし、ユダヤ系であり、ユダヤ人国家建設運動であるシオニズム運動を支援していました。1932年には、ヒトラー率いるナチス・ドイツからの迫害を逃れて、アメリカに亡命し、第二次世界大戦時には一転して戦争を正当化していた時期があります。
当時のフランクリン・デノラ・ルーズベルト大統領は、アインシュタイン博士亡命を受けて、「敵を作って、敵を倒すからアメリカの存在意義がある」という「敵対者の論理」をはっきりと宣言されました。
こうした状況の下で、アインシュタイン博士が、レオ・シラード(1898年2月11日、ハンガリーの首都ブダペスト生まれのユダヤ人物理学者、1964年5月30日、カリフォルニアで死去)の勧めにより当時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト宛への手紙に署名したことは事実であると言われています。
日本では一般の人々の間で、アインシュタイン博士を通じたルーズベルト大統領への進言によって原子爆弾開発のきっかけを作った人物として有名である。この手紙は、シラードが接触を図っていたアレクサンダー・ザックスを介して、1939年10月にアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに渡されており、内容は以下のようなものでした。

「近い将来にウラン元素が新たに重要なエネルギー源になると予想されること。
フランスのジョリオ=キュリーならびにアメリカのフェルミとシラードの研究により、大量のウラン中で連鎖核反応を起こすことができるようになる可能性がきわめて高い、ということ。
その連鎖核反応においては、莫大なエネルギーとラジウムに似た新種の元素が大量に作り出されるであろうこと。
この研究が進めば爆弾の製造にも応用され、新しいタイプのきわめて強力な爆弾が作られるということにもなるかもしれないこと。
その爆弾は巨大なものになり、飛行機による爆撃は不可能と思われるものの、船によって輸送して爆発させた際には港湾施設等を広域にわたって破壊しうるということ。
ウランのもっとも重要な産地であるベルギー領コンゴなど含め、合衆国へのウラン鉱石の供給を確保することに特に関心を寄せること。
政府と物理学者たちとの間に恒常的な接触をもたせるべきである、ということ。具体的には、大統領への以下の提案を含む。
政府の省庁を通じて、さらなる開発のための周知徹底を図り、またウランの供給の実現に注意を向けさせるための政府行動を起こすよう勧告を行うこと。
寄付を惜しまない私人への接触を通じて基金を設立し、また必要な装置をもっている企業研究所の協力を取り付けることによって、開発を促進すること。
ドイツがウランの販売を停止したことは、ウランの研究がカール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカーを中心として国家単位で行われていることを意味する、ということ」

アインシュタイン博士は、原子力の平和利用を念頭においていたのです。この手紙を受けて、ルーズベルト大統領は、ウラン諮問委員会を設置し、アインシュタイン博士の提言が検討され、黒鉛・天然ウラン原子炉の研究についての資金援助を決定しています。ただし、このときは、「原子爆弾については、はっきりしないことが多すぎた」ため、原爆開発は見送られたそうであります。
しかし、アメリカは1941年秋、原子爆弾の開発・製造が開始しました。「マンハッタン計画」と呼ばれています。これは1941年夏以降、英国の科学者たちがまとめた「原爆製造は可能である」とする検討結果がアメリカに伝わるようになったためとされています。
このとき、アインシュタイン博士自身は、マンハッタン計画への協力を求められることはありませんでした。 国防研究委員会の議長であったヴァネヴァー・ブッシュ (1890年3月11日~1974年6月30日、アメリカの技術者・科学技術管理者。アナログコンピュータの研究者、情報検索システム構想「メメックス」 提唱者、また原子爆弾計画の推進者)が、その理由について「アインシュタイン博士の過去の平和主義やシオニズムの政治的傾向からみて彼は機密を守れない可能性がある」と疑っていたからだといわれています。
 アインシュタイン博士から原子爆弾の知識を手に入れたルーズベルト大統領は、
 「これからのアメリカは、原子爆弾で武装した世界一強力な国家にならなくてはならない。敵を潰す力強いアメリカ作りが使命だ」
との立場から、
「日独伊防共協定により、ドイツとイタリアから強制された東條英機首相が開戦の意志を持っている」
と判断し、これを根拠に、日本を挑発してきました。その果てに、
「日本がハワイの真珠湾攻撃の不意打ちをかけてきたので、日本に開戦せざるを得なくなった」
 と開戦の責任を日本側に押し付けてきたのです。その結果、ルーズベルト大統領が急死され、後任に選ばれたトルーマン大統領が、日本に対して好意的であり、大戦前、長くフィリピンで生活しておられたダグラス・マッカーサー司令官に対して、戦争開始と原子爆弾2発の使用を強制されました。残念ながら、大統領命令には抗することはできず、対日
原子爆弾を投下せざるを得なかったのです。
博士博士は大戦後、再び反戦運動に転じ、英国の数学・哲学者バートランド・ラッセルとともに平和活動に取り組んでいます。アインシュタイン博士の死後、英国の貴族バートランド・ラッセル卿は、「ラッセル・アインシュタイン宣言」を発表し、「パグウォッシュ会議」を創設、「世界連邦の樹立」を提唱するなど、多くの平和的言動を残しています。
1955年7月、パグウォッシュ会議発足の元になった「ラッセル・アインシュタイン宣言」に湯川秀樹教授が参加しており、1957年7月、カナダのパグウォッシュ村で開かれた第1回パグウォッシュ会議に湯川秀樹教授、朝永振一郎教授、小川岩雄助教授(現在:立教大学名誉教授)の3氏が出席、この年の秋には、パグウォッシュ会議日本グループ発足しています。
こうした経緯が正確に伝わらず、日本の一部には「アインシュタイン博士が原子爆弾の開発者」であると思い込んでいる人が、少なからずいました。しかし、これは誤解であり、アインシュタイン博士は原子爆弾製造に関しては一切関与してはいなかったのです。
アインシュタイン博士は、日本の社会をこよなく愛し、日本の皇室を最も崇拝していた人物でした。このため、
「まさかルーズベルトが、原子爆弾を使って日本を叩くとは、とんでもないことだ。勿体ない御恩返しの武士道の精神があれば、原子爆弾などは不要のものであった」
と終生、お詫びの姿勢を取り続けておられました。
ちなみに、アインシュタイン博士は1922年11月17日、訪日された際、島根県松江市にも立ち寄られ、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの伝記を読み、日本の社会と皇室のあり方に限りない憧憬を感じられ、「1922年11月17日は初来日 小泉八雲の本に感激 して」と題し、「日本人への親愛なるメッセージ」という一文を残されています。それは、以下のような内容です。
「近代日本の発展ほど、世界を驚かせたものはない。一系の天皇を戴いていることが今日の日本をあらしめたのである。私はこのような尊い国が世界の一ヶ所位なくてはならないと考えていた。世界の未来は進むだけ進み、その間、幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れる時が来る。その時、人類はまことの平和を求めて、世界的な盟主をあげなければならない。この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜き越えた、最も古く、また尊い家柄でなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。我々は神に感謝する。我々に日本という、尊い国をつくって置いてくれたことを・・・。
日本の家族制度ほど尊いものはない。欧米の教育は個人が生存競争に勝つためのもので極端な個人主義となり、あたり構わぬ闘争が行われ、働く目的は金と享楽の追求のみとなった。家族の絆はゆるみ、芸術や道徳の深さは生活から離れている。激しい生存競争によって共存への安らぎは奪われ、唯物主義の考え方が支配的となり、人々の心を孤独にている。日本は個人主義はごく僅かで、法律保護は薄いが世代にわたる家族の絆は固く、互いの助け合いによって人間本来の善良な姿と優しい心が保たれている。この尊い日本の精神が地球上に残されていたにことを神に感謝する」
この文章は、アインシュタイン博士の「歴史的名言」として伝えられている。