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〔世界平和構想7〕【ヨゼフ・ピタウ元大司教の呼びかけで『世界平和宗教者殿堂』創建を】

2008年10月13日 14時47分19秒 | 世界平和構想
私は、世界のあらゆる宗教宗派の代表者が一堂に会せる「世界平和宗教者殿堂」を靖国神社の前庭1万坪と皇居北の丸の武道館の回り2万坪、合わせて3万坪に創建する構想をかねてより温めてきました。
その呼びかけをカトリック教会のヨゼフ・ピタウ (Joseph Pittau、イタリア語名はジュゼッペ・ピッタウ=Giuseppe Pittau)元大司教にお願いしたいと熱望しています。ピタウ元大司教は1928年10月20日、 イタリアのサルデーニャ州ヴィッラチードロでお生まれになり、1945年、イエズス会に入会されています。上智大学で17年間学長を務められ、日本語でミサを捧げることのできる元大司教です。以下、略歴を紹介しておきましょう。
1952年、 スペイン・バルセロナ大学にて哲学を修める。
1954~1956年 栄光学園中学校教師。
1959年、司祭叙階。
1960年、 上智大学にて神学を修める。
1963年、ハーバード大学大学院修了、政治学博士号を取得する。
1966年~1981年、上智大学法学部政治学教授に就任。
1968年~1981年、上智大学学長に在任(このころの教え子に三雲孝江がおられたそうです。
1981年、イエズス会管区長に就任。同年10月 教皇ヨハネ・パウロ2世の要請によりイエズス会本部へ(ローマ法王パウロ2世の跡を継がれるものと思われておりました)
1992年~1998年、 教皇庁立グレゴリアン大学学長。
1997年~1998年、 教皇庁立科学アカデミー・ 社会科学アカデミー会長。
1998年、 バチカン教育省局長に就任、およびサルデーニャ教会大司教に叙階。
2004年、 75歳の定年によりバチカンを辞し、再来日する。
2004年~2005年4月、 カトリック大船教会協力司祭に在任。
2006年、文藝春秋の「諸君!」(オピニオン誌)9月号にジャーナリスト細川珠生との対談記事「カトリック大司教、『靖国』と『中国』を語る」が掲載される。聖職者として「死者の政治的利用」に反対し、厳密な政教分離の条件をつけながらも、戦没者慰霊施設としての靖国神社また公人の参拝を容認する見解を示しています。著書には「聖地アッシジの対話 聖フランチェスコと明恵上人」(河合隼雄との共著、藤原書店)

私は1991年9月25日、バチカンを訪問し、パウロ2世に「皇室がカソリックに改宗なさった場合、神道神事をお認めになりますか」と問い合わせました。これに対しパウロ2世から、「然り」という力強いお答えをいただきました。聖グレゴリアン大学総長を務められていたピタウ大司教にお立会いいただくことを期待ましたが、残念ながら、このときは、ピタウ大司教のお姿はここにはなく、ロックハイマー顧問に立会っていただきました。
しかし、ピタウ大司教は略歴に示したように75歳の定年により2004年、バチカンを辞し再来日されて、カトリック大船教会協力司祭に就任され、平成16年6月3日、大船教会で、次のように挨拶されています。
 「みなさま、ご無沙汰致しておりましたが、23年ぶりに日本に帰ってまいりました。帰国致しました私を横浜教区のラファエル梅村昌弘司教様は、大船教会主任司察である久我純彦神父様のもとで司牧活動をするよう任命なさり、4月25日より大船教会で働き始めました。
ローマから日本へ帰って直ぐに神田教会を訪ねました。この神田教会で1959年3月18日に土井枢機卿の祈りと按手によって私は司祭になりました。
現在の神田教会は、祭壇がむかしと変わっているものの、教会全体の建物は当時と同じでした。何か45年前に戻って、新しい気持ちで日本における神の国のために働きたいという想いを強く感じました。
日本での最初の仕事はローマから送った別送品の受け取りでした。受領するためには入国管理、カーゴ事務所、税関で手続きをしなければなりませんでした。手続きは煩雑複雑なものでしたが、各部署の係員は暖かく親切で、また能率よく、正確に仕事をしてくれました。なにか自分の国へ帰ったという印象でした。
日本航空カーゴのゾーンにある事務所と倉庫で荷物の確認、引取りをしたのですが、膨大な荷物量を仕分けるのにどれ程忙しいか、それと同時に正確とスピードをもって皆様が働いているか、一つ一つの荷物のため勤勉とケアーによってそこにどうして世界が動いているか、わかったような気が致しました。
私は1928年10月20日イタリアで生まれ、1945年イエズス会に入会、修練と最初の養成はローマとピエモンテ地方のクネオ市で済ませ、哲学をスペインのバルセローナ市で終了しました。
イタリアに帰って、1952年9月、今度は日本へ送られ、一生を日本の使途的働きのために任命されました。1952年から1956年まで横須賀市の田浦で、2年間は日本語の勉強、そしてその後の2年間は、栄光学園で中学生に教師として教えました。この田浦での4年間はその後の活動のために私にとって大きな土台となりました。
この後、東京石神井の神学院で司祭養成の最後の段階に入り、1959年3月18日、神田教会で司祭に叙階されました。
1960年4月、神学の最後の試験を終え、米国ハーバード大学に送られ、2年半の勉強の後、広島で第三修練を終了しました。1964年上智大学法学部で倫理学と国際政治を教えることとなり、それと同時に上智大学の学術誌モヌメンタニッポニカの編集長に任命されました。
1968年には上智大学イエズス会修道院の院長と上智学院理事長になり、そのときには大学紛争の体験も致しました。1975年上智大学学長になり、1968年以来、学問的な活躍と経営の責任がありながらも学生たちに公教要理を教え、使途的な活動も大切にする努力をいたしました。
1981年にイエズス会菅区長になり、同年8月アルペ・イエズス会総長がご病気になられ、10月、ヨハネ・パウロ2世にローマに呼ばれ、イエズス会本部で働くようになりました。
約2年間の間に世界中を回り、1983年9月のイエズス会総会の準備を致しました。1983年からイタリアと東南アジア地区の総長補佐、1992年、グレゴリアーナ大学総長、またバチカン科学アカタミーと社会科学アカデミーの長官も兼務いたしました。そして1998年バチカン教育省事務次宮となって、大司教に叙階されました。今回75歳の定年を迎え、教皇様とイエズス会総長にお願いし、日本に帰ってまいりました。
帰国後、大船教会に赴任する前の1ヶ月程は栄光学園の修道院で過ごしました。教鞭をとったのは50年も前のことになりますが、ここでも50年がなかったかのように元に戻ったという印象を受けました。
この1ヶ月の滞在中にどれ程教育(幼稚園から大学まで)と宣教は互いに助かっているかを感じました。これからは神様に呼ばれるまで、日本で司牧の活動をするつもりです。神田教会で司祭叙階式の時に諸聖人の連祈を唱えている間、ひれ伏して自分の物足りなさを感じながらも諸聖人と教会の信者達が手を挙げて私を支えているということを強く感じました。どうぞみなさま、手を挙げて私を支えて下さい」
ピタウ元大司教は2006年8月11日、上智大学で次のような講演をされています。
「今世紀は、2001年9月11日に起きたニューヨーク・マンハッタン島のツインタワービル大爆発事故という忌まわしいテロをキッカケとするアフガニスタン空爆、イラク戦争の勃発、それに加えて麻薬と病気、貧困と憎悪に見舞われた混迷した社会のなかで始まりました。当時、私はバチカンの大司教の任にあり、大きな責任を感じていました。それから5年経た2006年8月11日、元いた上智大学の一角から叫びました。
1、神の名において人を殺さない
2、神の名において金儲けをしない
3、神の名において人助けをし
4、自ら信仰を基にして他宗の教会においては他の礼拝の形式をそのまま履行して世界中の人々と併存できることを喜び合いたい」
そのよその宗教の拝み方によって手を合わせるというやり方で、世界中が納得して平和に住めるようになると言っていらっしゃったのです。
日本の神道は神という文字が使われてはいますが、他の太平洋一帯のポリネシア、ミクロネシア、メラネシアの地域一帯からペルー、ボリビア、エクアドル等中南米まで含めた先祖崇拝、地域崇拝の伝続で、日本以外の地では宗教としてのキリスト教とは別の儀式として、数千年にわたって続いています。日本でも佛教が渡来して一時不協和でありましたが、佛教信仰の厚い天皇皇后両陛下ほど神道神事を立派に果たしておられます。
「日本の神道は太平洋全域に拡がっている地域崇拝、先祖崇拝と同じだから、日本の皇室がキリスト教信者になられても神道神事を禁止するものでもない」と言っておられます。さらに、現在世界の主だった王国は「君臨すれども統治せず」の方式をとって居りますが、「大統領制のように国をあげて君臨統治するよりも遥かに安定しているので世界が一つになっても国別統治は国王制に続くだろう」と言われております。
現在、パオロ2世の後継者であるドイツの法王様が、イスラムから大変危険視されることになっております。そこで私は、「世界中からローマ法王にご推挙申し上げるべきである」と思っています。ローマカソリックとイスラムの関係でなく、世界全体を公平にごらんになれる最高の方だからです。この偉大な元大司教に是非とも、靖国の前庭一万坪と皇居二万坪武道館のある空き地に、世界のあらゆる宗教宗派の代表者が一堂に会せる「世界平和宗教者殿堂」の中心に位置して欲しいと願っています。ピタウ元大司教もまた、東京における世界宗教者殿堂の創建に最大の関心を示され、「ぜひ是非実現したい」と言っておられます。

余談ながら、私が、「世界宗教者殿堂」という聖堂建立を強く意識した一文を日本経済新聞平成5年(1993)1月26日付の朝刊「交遊抄」欄に寄稿しています。「われら地球市民」と題して、以下のように書いています。
「世界百八十三カ国の元首や首脳を集め、ブラジルで第二回地球サミットを主宰したのは、カナダのモーリス・ストロングという人である。世界恐慌が起こった一九二九年のカナダ生まれで、小学校卒業直後の十三歳から実業界入りし、三十歳そこそこでカナダ電力公社総裁、三十五歳の時に年俸二十万ドルを棒に振ってカナダの国際開発庁長官になり、四十二歳で国連人間環境会議事務長としてストックホルムで第一回の地球サミットを主宰した。
私どもの東邦生命渋谷本社ビルには、国連大学の本部などが七五年の藩成時点から昨年七月表で同居していたことから、同氏とは来日の折に家族付き合いが始まり、八三年の米国コロラド州アスペン人文科学研究所のフォーラムの折には、ストロングさんの提供されたバカグランデの講堂も使うことができた。夫人のハンナさんはデンマーク生まれの環境活動家で、自らをアメリカインディアンの生まれ変わりと信じ、彼らの言う『聖なる山』のふもとのバカグランデに世界中の宗教殿堂をつくって、宗教間の対立を超えた平和運動を展開している。またその地にチベット仏教の施設院を建設する際には、建設設計士で在米中の私の息子もお手伝いをさせていただいた。
熱心なハンナさんは、私の勧めで越前・永平寺に三泊四日の座禅をされ、当時の秦慧玉禅師に十万坪の土地を提供するから、バカグランデに禅室をつくってくださいと懇請した。結果は不調に終わったが、帰途、白山神社に皇国神道の平泉澄宮司をお訪ねした。九十歳を鰯えておられたので宮司に最後にお会いした外国人であったと思う。
私は毎年のクリスマスのあいさつに自分の所感を付しているが、それがお気に召したのか、八九年、スイスのダボスで開催されたワールドエコノミックフォーラムでも、昨年のリオデジャイロの地球サミットでもお会いし、いつも地球市民としての環境の大切さを誇り、励ましあっている」

〔世界平和構想6〕【靖国神社に合祀のA級戦犯は、新たに建立する『昭和神社』に分祀を】

2008年10月12日 18時14分00秒 | 世界平和構想
自民党総裁選挙(平成20年9月)で争った5候補のうち、麻生太郎、石原伸晃、石破茂の3氏が、靖国神社からの「A級戦犯分祀」に賛同する意向を明示しています。いずれも「天皇はじめ皇族が公式参拝できるように元に戻さなくてはならない」という意見を述べています。麻生太郎新内閣(9月24日組閣)は、中国、韓国などへの「外交的影響」を配慮しながら、問題解決に踏み出すことになりそうです。
平成20年8月15日の終戦記念日には、日本遺族会会長である自民党の古賀誠元幹事長(選対委員長)をはじめ、無派閥ながら古賀氏に近い野田聖子元郵政相(現在、消費者・科学技術担当相)や古賀派の太田誠一農林水産相(当時)らの国会議員が、靖国神社を参拝しています。
しかし、A級戦犯「分祀」については、古賀氏は翌16日「すべての国民、首相や天皇陛下も行けるような環境整備のため、私たち遺族が大きな決断をしなければならない」と述べ、分祀すべきとの考えを改めて強調し、「一挙決着」の強い姿勢を示されたことから、靖国神社側も、従来の「合祀論」を維持しにくくなってきています。
A級戦犯を「分祀」する場所については、東京都渋谷区神宮前1丁目5番3号、すなわち原宿の竹下通り近くにある大日本帝国海軍ゆかりの東郷神社(昭和15年創建)が、名乗りを上げておられます。東郷神社前宮司の松橋暉男氏が2008年6月に出版した著書「幻の揮毫」(毎日ワンズ)のなかで、神社関係者としては異例の提言を行っています。全国8万神社をまとめる神社本庁は「分祀は神道の教義上できない」との見解を堅持していますが、傘下の有力神社の一つである東郷神社の前宮司が「A級戦犯受け入れ」を表明したことで、分祀論議に拍車がかかってきました。
東郷神社には、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃滅した大日本帝国海軍の連合艦隊司令長官を務められた東郷平八郎元帥が、「戦勝の神様」として祀られています。私が理事長を務めている財団法人近代美術振興協会「浮世絵太田美術館」のちょうど北側の方向にあります。徒歩でわずか数分のところです。
しかし、私は、靖国神社に合祀されているA級戦犯を「真鶴半島」の天然松林内に建立する「昭和神宮」に「分祀」する考えを以前から構想しております。
この「真鶴半島」の天然松林は、三木武夫元首相の夫人・睦子さんが、全部所有しておられます。ここから10キロ離れた近くの静岡県熱海市伊豆山には、極東国際軍事裁判で絞首刑の判決を受け、処刑された松井石根陸軍大将(BC級戦犯)が昭和15年、日中戦争における日中双方の犠牲者を弔うために私財をすべて投じて建立された「興亜観音像」(中国・南京の土を使用)があり、その側には、ABC級戦犯で処刑された1700柱の墓碑銘が建てられ、遺族らが祭礼を行ってきています。
忘れてはならないのは、連合国軍最高司令部が昭和23年12月23日、すなわち今上天皇陛下が皇太子であられたときの15歳の誕生日をわざわざ選んで東条英機元首相らA級戦犯7人を処刑したという事実です。
私は、「昭和神社」建立に当り、千葉大学の清水馨八郎元教授のご尽力をいただき、A・B・C級戦犯1700柱の墓碑を神道様式で建立し、御祭主を三木睦子さんにお願いできれば幸いと考えております。また、警察官僚出身の政治家・亀井静香元建設相には、大宮司として殉職警察官の祭祀を務めていただきたいと希望しています。
「昭和神宮」への「分祀」が現実化すれば、中国、韓国などから浴びせられてきた首相の靖国神社公式参拝批判が一気に沈静化し、天皇陛下の公式参拝も可能となります。
これまで日本遺族会は、自民党の支持基盤の一つでしたが、遺族の高齢化が進み、減少し続けていることから、古賀氏は、「広く国民の間で英霊を祭る靖国神社の支援者を増やすためにも、分祀を急ぐ必要がある」とされており、靖国神社問題の決着は、自民党の政権維持にとって、ますます切実な問題になってきています。
靖国神社は明治2年6月29日(新暦1869年8月6日)に戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、大村益次郎(旧姓名・村田蔵六)の献策により「東京招魂社」として創建されました。明治12年(1879)6月4日に「靖国神社」に改称し、同時に別格官幣社となっています。戦前は、神社行政を総括した内務省が職員の人事権を有し、陸軍省および海軍省によって共同管理される特殊な存在であり、国家神道の象徴として捉えられていた。運営の主導権は財政をになった陸軍省が有していた 。祭主は陸・海軍武官が勤めておりました。
私が社長を務めました東邦生命は、前身を「徴兵保険相互会社」(明治31年設立、大正14年、と第一徴兵保険相互会社と改称、昭和22年11月、組織を変え、東邦生命として新発足)といいました。第一徴兵保険相互会社時代の昭和9年(1934)には、「神門」(良質の台湾檜づくり)を靖国神社に奉納しております。東邦生命と靖国神社とは、深い縁で結ばれていたのです。

〔世界平和構想5〕【アインシュタイン博士の遺志を受け継ぎ、「世界連邦の樹立」実現を】

2008年10月04日 00時06分03秒 | 世界平和構想
いわゆる「相対性理論」によりノーベル物理学賞を受賞されたアルベルト・アインシュタイン博士(1879年3月14日~1955年4月18日)は、ドイツ出身の理論物理学者であります。イタリアやスイスに居住し、「光電効果の発見」の功績により、1921年にノーベル物理学賞を受賞しています。
アインシュタイン博士は第一次世界大戦時には反戦を訴えていました。しかし、ユダヤ系であり、ユダヤ人国家建設運動であるシオニズム運動を支援していました。1932年には、ヒトラー率いるナチス・ドイツからの迫害を逃れて、アメリカに亡命し、第二次世界大戦時には一転して戦争を正当化していた時期があります。
当時のフランクリン・デノラ・ルーズベルト大統領は、アインシュタイン博士亡命を受けて、「敵を作って、敵を倒すからアメリカの存在意義がある」という「敵対者の論理」をはっきりと宣言されました。
こうした状況の下で、アインシュタイン博士が、レオ・シラード(1898年2月11日、ハンガリーの首都ブダペスト生まれのユダヤ人物理学者、1964年5月30日、カリフォルニアで死去)の勧めにより当時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト宛への手紙に署名したことは事実であると言われています。
日本では一般の人々の間で、アインシュタイン博士を通じたルーズベルト大統領への進言によって原子爆弾開発のきっかけを作った人物として有名である。この手紙は、シラードが接触を図っていたアレクサンダー・ザックスを介して、1939年10月にアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに渡されており、内容は以下のようなものでした。

「近い将来にウラン元素が新たに重要なエネルギー源になると予想されること。
フランスのジョリオ=キュリーならびにアメリカのフェルミとシラードの研究により、大量のウラン中で連鎖核反応を起こすことができるようになる可能性がきわめて高い、ということ。
その連鎖核反応においては、莫大なエネルギーとラジウムに似た新種の元素が大量に作り出されるであろうこと。
この研究が進めば爆弾の製造にも応用され、新しいタイプのきわめて強力な爆弾が作られるということにもなるかもしれないこと。
その爆弾は巨大なものになり、飛行機による爆撃は不可能と思われるものの、船によって輸送して爆発させた際には港湾施設等を広域にわたって破壊しうるということ。
ウランのもっとも重要な産地であるベルギー領コンゴなど含め、合衆国へのウラン鉱石の供給を確保することに特に関心を寄せること。
政府と物理学者たちとの間に恒常的な接触をもたせるべきである、ということ。具体的には、大統領への以下の提案を含む。
政府の省庁を通じて、さらなる開発のための周知徹底を図り、またウランの供給の実現に注意を向けさせるための政府行動を起こすよう勧告を行うこと。
寄付を惜しまない私人への接触を通じて基金を設立し、また必要な装置をもっている企業研究所の協力を取り付けることによって、開発を促進すること。
ドイツがウランの販売を停止したことは、ウランの研究がカール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカーを中心として国家単位で行われていることを意味する、ということ」

アインシュタイン博士は、原子力の平和利用を念頭においていたのです。この手紙を受けて、ルーズベルト大統領は、ウラン諮問委員会を設置し、アインシュタイン博士の提言が検討され、黒鉛・天然ウラン原子炉の研究についての資金援助を決定しています。ただし、このときは、「原子爆弾については、はっきりしないことが多すぎた」ため、原爆開発は見送られたそうであります。
しかし、アメリカは1941年秋、原子爆弾の開発・製造が開始しました。「マンハッタン計画」と呼ばれています。これは1941年夏以降、英国の科学者たちがまとめた「原爆製造は可能である」とする検討結果がアメリカに伝わるようになったためとされています。
このとき、アインシュタイン博士自身は、マンハッタン計画への協力を求められることはありませんでした。 国防研究委員会の議長であったヴァネヴァー・ブッシュ (1890年3月11日~1974年6月30日、アメリカの技術者・科学技術管理者。アナログコンピュータの研究者、情報検索システム構想「メメックス」 提唱者、また原子爆弾計画の推進者)が、その理由について「アインシュタイン博士の過去の平和主義やシオニズムの政治的傾向からみて彼は機密を守れない可能性がある」と疑っていたからだといわれています。
 アインシュタイン博士から原子爆弾の知識を手に入れたルーズベルト大統領は、
 「これからのアメリカは、原子爆弾で武装した世界一強力な国家にならなくてはならない。敵を潰す力強いアメリカ作りが使命だ」
との立場から、
「日独伊防共協定により、ドイツとイタリアから強制された東條英機首相が開戦の意志を持っている」
と判断し、これを根拠に、日本を挑発してきました。その果てに、
「日本がハワイの真珠湾攻撃の不意打ちをかけてきたので、日本に開戦せざるを得なくなった」
 と開戦の責任を日本側に押し付けてきたのです。その結果、ルーズベルト大統領が急死され、後任に選ばれたトルーマン大統領が、日本に対して好意的であり、大戦前、長くフィリピンで生活しておられたダグラス・マッカーサー司令官に対して、戦争開始と原子爆弾2発の使用を強制されました。残念ながら、大統領命令には抗することはできず、対日
原子爆弾を投下せざるを得なかったのです。
博士博士は大戦後、再び反戦運動に転じ、英国の数学・哲学者バートランド・ラッセルとともに平和活動に取り組んでいます。アインシュタイン博士の死後、英国の貴族バートランド・ラッセル卿は、「ラッセル・アインシュタイン宣言」を発表し、「パグウォッシュ会議」を創設、「世界連邦の樹立」を提唱するなど、多くの平和的言動を残しています。
1955年7月、パグウォッシュ会議発足の元になった「ラッセル・アインシュタイン宣言」に湯川秀樹教授が参加しており、1957年7月、カナダのパグウォッシュ村で開かれた第1回パグウォッシュ会議に湯川秀樹教授、朝永振一郎教授、小川岩雄助教授(現在:立教大学名誉教授)の3氏が出席、この年の秋には、パグウォッシュ会議日本グループ発足しています。
こうした経緯が正確に伝わらず、日本の一部には「アインシュタイン博士が原子爆弾の開発者」であると思い込んでいる人が、少なからずいました。しかし、これは誤解であり、アインシュタイン博士は原子爆弾製造に関しては一切関与してはいなかったのです。
アインシュタイン博士は、日本の社会をこよなく愛し、日本の皇室を最も崇拝していた人物でした。このため、
「まさかルーズベルトが、原子爆弾を使って日本を叩くとは、とんでもないことだ。勿体ない御恩返しの武士道の精神があれば、原子爆弾などは不要のものであった」
と終生、お詫びの姿勢を取り続けておられました。
ちなみに、アインシュタイン博士は1922年11月17日、訪日された際、島根県松江市にも立ち寄られ、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの伝記を読み、日本の社会と皇室のあり方に限りない憧憬を感じられ、「1922年11月17日は初来日 小泉八雲の本に感激 して」と題し、「日本人への親愛なるメッセージ」という一文を残されています。それは、以下のような内容です。
「近代日本の発展ほど、世界を驚かせたものはない。一系の天皇を戴いていることが今日の日本をあらしめたのである。私はこのような尊い国が世界の一ヶ所位なくてはならないと考えていた。世界の未来は進むだけ進み、その間、幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れる時が来る。その時、人類はまことの平和を求めて、世界的な盟主をあげなければならない。この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜き越えた、最も古く、また尊い家柄でなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。我々は神に感謝する。我々に日本という、尊い国をつくって置いてくれたことを・・・。
日本の家族制度ほど尊いものはない。欧米の教育は個人が生存競争に勝つためのもので極端な個人主義となり、あたり構わぬ闘争が行われ、働く目的は金と享楽の追求のみとなった。家族の絆はゆるみ、芸術や道徳の深さは生活から離れている。激しい生存競争によって共存への安らぎは奪われ、唯物主義の考え方が支配的となり、人々の心を孤独にている。日本は個人主義はごく僅かで、法律保護は薄いが世代にわたる家族の絆は固く、互いの助け合いによって人間本来の善良な姿と優しい心が保たれている。この尊い日本の精神が地球上に残されていたにことを神に感謝する」
この文章は、アインシュタイン博士の「歴史的名言」として伝えられている。

〔世界平和構想4〕【中近東の砂漢を大森林と大産業により最も理想的な地域に変え、繁栄させる】

2008年09月29日 15時58分28秒 | 世界平和構想
フランスのロスチャイルドさんが、
「中近東の砂漢は全部、宗教的な争いの場ではなく、生産力と大森林で世界の注目を浴びるような地域にしたい。そうすれば、もう砂漠の中で宗教が違うからといって争いになることはない」
と言ってらっしゃるとのお話をお伺いして、私は大変、感銘を深くしました。フランスのロスチャイルドさんは、まだ40代です。父親のロスチャイルド・フランス家の当主・ギ・ド・ロスチャイルド男爵(銀行家)は2007年6月12日、パリで亡くなっています。享年98歳。その子息であるフランスのロスチャイルドさんは、こう言われたそうです。
「エジプト、バビロニア、ギリシャ、ローマ、インド、中国、インカという国々は、文明文化が進んだところです。そこは後に、全部砂漢になってしまって、その砂漠をどう後処理していくかという考え方のないまま、さらに戦争という争い事を起こして、希望のないものにしてしまった。けれども、これは根本的な間違いです。人類の将来社会を見掘えて、もしも日本がユダヤと一緒に提携し、砂漠を素晴らしい大森林と大産業に恵まれる最も理想的な地域に変えて、繁栄させていかなければならない。そうなれば、この地域は、戦争の場ではなしに憧れの場となり、過去の対立を超えて、世界中のすべての人種、すべての宗教・宗派の方々が集まってくるようになり、アラブ・アフリカ戦争は、もう昔話になってしまうでしょう。そのために、金はユダヤが出すので、技術は日本が出していただきたい。この大事業をイスラエルから始めようじゃないですか」
この方は、世界の先の先を見抜いていらっしゃると感じました。私は、フランスのロスチャイルドさんが構想されていることに、心から共鳴し賛同します。この構想が実現すれば、砂漠を中心とした地域に新しい文化が生まれてくるのは、間違いないでしょう。
砂漠を大森林と大産業に恵まれる最も理想的な地域に変えて、繁栄させていくには、潤沢な資金と優れた技術が必要です。
日本には、この素晴らしい構想に応えるだけの優れた技術があります。砂漠を大森林に変える植林技術しかり、文明を根底から支えるエネルギーしかりです。イスラエル政府は現在、自動車をすべて電気自動車にするための国家プロジェクトを進めているそうです。その概要は、以下の通りです。
○イスラエル政府は2011年から100%電気で走る新型電気自動車を普及するため、イスラエル全土でバッテリー充電スタンド建設を本格化させる。その数は50万基に上り、ドライバーはどこでも充電できるようになり、世界初の「ガソリン不要・完全電気自動車社会」が出現、イスラエルがモデルとなる。
○イスラエル政府は、交通インフラを再生可能エネルギーへ移行する方針を決め、今1月21日、仏ルノ・日産自動車の2社と米ベンチャー企業のプロジェクト・ベター・プレイスとの共同事業により、世界初の電気自動車の実用化・量産化に向けた覚書をエルサレムで締結した。
○カルロス・ゴーンがCEОを務めるルノー・日産は、他社に比べてエコカーの開発に遅れを取っていた。そこにイスラエル駐日大使らからの熱心なアプローチがあり、共同事業を「渡りに船」と歓迎した。ゴーン氏の夫人と自分の祖父がイスラエル隣国のレバノン出身で土地勘もある。仏ルノーと日産自動車が既存の車種を電気モーターで駆動するように改造、プロジェクト・ベター・プレイスが、電気自動車の販売とバッテリーの充電・交換拠点(バッテリースタンド)のネットワーク運営を担当。すでにデンマークとポーランドからは新型電気自動車購入とバッテリースタンド建設のオファーがあり、さらに名乗りをあげる国が出てくれば、イスラエルでの工場建設も視野に入れた量販体制が可能になる。

この事業に対して、日本は技術面で十分に協力できます。たとえば、イスラエルで作った自動車に東芝の素階らしい蓄電池を搭載すれば、安価に生産できます。さらに言うならば、かつて戦闘機を製造した中島飛行機の後身・富士重工業が作ったスバルサンバは、ドイツのフォルクスワーゲンをもじった名前ですが、もっと小型です。小型で安価な電気自動車が大量生産されれば、だれでも手軽に買えて、だれでも乗れるようになります。
電気自動車の普及は、石油・天然ガスを最大のエネルギー源とする現代の文明社会を革命的に根底から変えていくことになります。近代・現代の戦争が、エネルギー資源である石炭、石油・天然ガスの奪い合いによって発生しているいわば「文明の業」であるとすれば、一日も早くこの「業」を断ち切らなくてはなりません。その救世主が、「電気自動車」であるとも言えます。 
エネルギー源の変換は、価値観の変換、言い換えれば「パラダイム変換」を促します。砂漠が大森林化と大産業によって変わっていけば、アラブ・アフリカのみなさんは、一気に生気を取り戻していくことでしょう。
いままでのように戦争とテロと貧乏と病気と麻薬などによる死に隣り合わせで生活しなければならない苦しみから必ず解放されます。子どもを産むだけを楽しみとし、子どもをどんどんつくり、なかにはエイズで死なせてしまう親が少なくありません。こんなかわいそうな習慣も終わりになります。
日本や先進国では、少子高齢社会という難問を抱えています。アラブ・アフリカも、同じような状況になるかも知れません。しかし、ひとりひとりの子どもを手塩にかけて大切
に大切にして育てていけるようになるでしょう。
私は、フランスのロスチャイルドさんが、世界がいままでの秩序ではない新しい秩序づくりに腐心していらっしゃるということに感銘を受け、すぐにお手紙を差し上げました。このなかで、私は、こう提案させていただきました。
「フランスのロスチャイルドさんが日産、東芝、富士スバルサンバ工場に1000億円に相当する資金をイスラエル政府を通じて投資していただけば、砂漠を中心とした世界の次の大発展につながることになります」

〔世界平和構想3〕【日本人は、ロシアとユダヤのすべてをもう一度検討しよう】

2008年09月26日 21時31分21秒 | 世界平和構想
 第2次大戦時、バルト海沿岸のリトアニアの首都・カウナス日本総領事であった杉原千畝氏 (1900年=明治33年=1月1日 - 1986年=昭和61年=7月31日)は日本の官僚、外交官。第二次世界大戦の際、外務省の命令に反してユダヤ人が亡命できるようにビザを発給し、ナチス政権下のドイツによる迫害を受けていたおよそ6,000人にのぼるユダヤ人を救った)が、シベリア鉄道経由日本の敦賀・神戸・上海、アメリカ行きのビザを出して下さったことに、ユダヤの人々は大変感謝しておらます。
「ユダヤ人を苛めなかったのは日本だ」
と言って、戦後日本に来られたユダヤのラビ、トケシヤ師が、
「ユダヤ人の9割が日本好きであり、ロシアの共産主義からの離脱する際に、日本が助けてくれたことに対し、ロシアの9割以上の人々が日本大好きです。日本がODAをつけてくれるならNHK、民放でそのままロシアで流させてあげましょう」
と言っておられました。
スターリンが第二次大戦後で50万人の日本人を拉致してシベリアにつれて行き、10万人を殺した責任を追及しており、日本人の9割が、「ロシアは嫌いだ」と言っております。 しかし、これは、ロシアについて事実を知らないために起こったことであり、大変残念です。私もロシアに行くまでは、ロシアについて本当のことを知らず、嫌いでした。
そうした誤解を解くためにも、ユダヤの人々とロシアとの関係について、説明しておかなくてはならないでしょう。
西暦1100年から1300年までヨーロッパのカソリック勢力による十字軍エルサレム奮回が失敗してから、15世紀に入って、ロシアのカスピ海と黒海の間にあるハザール王国というロシア人の王国が、何故かキリス教国に挟み打ちにあって、王様以下国民全員が当時のアルタイ山を中心とするハザール王国のユダヤ教への転換がございました。ここの方々が現在、世界で大変豊かな人たちに発展していらっしゃいます。
ハザール王国は、黒海のカスピ海の間に生まれております。すなわち、アシュケナージ為物ロシア・ユダヤ人が13世紀に生まれてきました。キリスト教とイスラム教の挟撃にあって王様以下多数の方々が、アシュケナージ偽物ロシア・ユダヤ人のハザール王国を形成し、その方々が東ヨーロッパからアジアに来ております。満州の外側のグラゴベンチェンスクに1000万人以上のアシュケナージ・ユダヤ人が住んでおられました。
この方々が、第1次世界大戦後、ロシアが戦争に負けてからレーニン、トロッキーはスイスに亡命して革命の機会を求めておりました。だが、満州の外側のグラゴベンチェンスクにクラスノフチョーコフというやはりアシュケナージ偽物ロシア・ユダヤ人の方々が、シベリアに出兵した日本人たちとも手をつなぎながら、アメリカのシカゴ・ヘラルドトリビューンに移り、レーニン、トロツキーが行ったのと同じ時期にポリシェビキ革命を起こしアメリカ式社会主義を作ろうしした。
ところが、レーニンが革命を成功したにもかかわらず、すぐ痛気で死んでしまわれた。その後、トロツキーは、メキシコに逃げました。しかし、クラスノフチョーコフさんは逃げるチャンスを失ってロシアの革命の後釜であるスターリンに惨殺されてしまいました。 そのあまりにもひどい惨殺の仕方にみなさんが恐れをなし、第1次世界対戦後、イギリスが勝ってこのエルサレムをイギリス保護領にした際に、是非こちらにいらっしゃいというふうに勧められたわけでございます。
ところが、その第1次世界対戦後に400万人がグラゴベンチェンスクから、エルサレムのイギリスの保護領に移ってこられました。
イスラエルの国民900万人のうち400万人は、第1次世界対戦後イギリスの勧めによって東アジアから移られた人たちであり、第二次大戦後、400万人はドイツ、ポーランド、アメリカから移られた方々です。
100万人だけが元々のスハルティアラブ・ユダヤ人です。この人たちをいま、どのように扱ったらいいかということで、ドイツ、ポーランドの人々はそちらに帰り、極東ユダヤ人は世界一の繁栄が期待されるウラジオストックを中心とする東アジアに帰ろうとしています。第一次、第二次大戦後、イギリスとアメリカの要請でイスラエルに移住しました。600万人近いロシア系ユダヤ人を最高の条件でロシアに呼び込み、米露合邦に近い形にさせたいと提案されております。
アシュケナジーロシアユダヤ人が現在、イスラエルで主導権を握っているために、いつまで経っても問題が解決しないのです。
アシュケナジー・ユダヤ人は帝国時代、ロシア当局によってさんざん苛められた苦い経験があります。このため、プーチン大統領は、世界の84%にのぼる天然ガスの保有を握ってきたユダヤ人の方々に活用してもらおうと考えています。アメリカとロシアが軍事同盟からさらにもっと進んだたくさんの移民をアメリカから会うことも出来るようになるでしょう。
EUは最近、メキシコ人のアメリカ移入禁止を怒って、南北アメリカをEUの傘下にして、アメリカをボイコットしています。アメリカ自体が1割の金持が9割の貧乏人を苦しめる国家として、10年後にはイスラム国家となります。アメリカの富める人々は、ロシアとの提案をせざるを得ないところにまできています。プーチン大統領(現在・首相)は2005年5月27日当時、
「日露戦争の日本の勝因は、高橋是清大蔵大臣の英米ユダヤ人の資金を全箇導入の成功であり、逆にロシアは国内のユダヤ人から最も嫌われていたため、英米のユダヤ資本を活用する事が全然できなかったためである」
と、資料を基に強い口調で叫ばれました。
ところで私は、プーチン大統領(当時)から、国家貢献賞を戴かれたセルゲイ・アクセノフさん経由でウラジオストック極東国際大学名誉博士号及び名誉教授号下さるとまで言って下さいました。

〔世界平和構想2〕【一神教の国々の方にも、勿体ない御恩返しの思想を広めていこう」

2008年09月25日 23時55分22秒 | 世界平和構想
立正佼成会の庭野日敬理事長が1991年10月、ネパールの首都カトマンズで「第4回アジア宗教者平和会議」を開かれました。
その折、当時、東邦生命社長で国連大学後援会長を国遵大学首唱者磯村英一先生より授けられていた私にも、是非、立正佼成会と同額1200万円を持って参加するよう奨められ、参加させていただきました。
 寄付金の2400万円で、ネパールのビネンドラ国王以下600人のアジア聖者が集まりました。主唱者を代表して私ども出資者は、
「ヨーロッパ、アラブ、アフリカ、その他アメリカも含めてこれら一神教の国々の方々は、みな自分達の拝んでいない神様の信者は殺してもいいということでございますが、お釈迦様のもとでお生まれになった方々は、お釈迦様が人間も動物も植物も鉱物もみんな仏様のお作りになったものでございますから、たとえ信じる神が違っていても、同じような扱いをしなければいけないと教えられております。こうして、勿体ない御恩返し思想が徹底しております。アラブ、アフリカ、欧米は一神教で、アジアはお釈迦様のお陰で多神教ですが、是非一つ、多神教の国々で巡礼団をつくり、一神教の国々に廻って、『何故一神教の人々は異る神を拝む人々を殺さなければならないのか』を聞いてみよう。そして同時に、ヨーロッパ・アメリカ、その他、一神教の国々の方にも、勿体ない御恩返しの思想を広めていこうではないか」
と提案し、全員の賛成を得たうえで実行しようとしておりました。私は1992年2月、みなさんの賛成を得て、イスラエルの首都テルアビブに、シモンヌペレーズ元社会党委員長で後の外相、首相を訪問し、
「是非一つ、異教徒の人たちが巡礼に来たときは生命の保証をして下さい」
とお願いしたところ、
「アラファトパレスチナ代表の生命も保証する」
と言われました。これでエルサレム、イスタンブール、ローマ、カンタベリーなど異宗教のところを拝んで巡礼できると思っておりました。
しかし、イスラエルのシャロン氏が大統領になられてから、
「絶対反対」
と表明され、不可能になってしまいました。誠に残念なことでした。いまは、いまは途絶えておりますが、これを何とかして復活させてみたいと考えております。

■民族、人種、宗教的対立を克服するための世界平和構想■

2008年09月24日 21時37分26秒 | 世界平和構想
〔主旨〕世界的な国際政治学者・戦略家で知られるハーバード大学のサミュエル・P・ハンチントン教授は、著書「文明の衝突」において、21世紀を「ユダヤ教・キリスト教世界とイスラム教世界」の「宗教対立」による「文明の衝突」を警告しておられます。確かに、世界情勢は、2つの文明の衝突という様相を示し、大変な状況に陥っています。
 サウジアラビア王国出身のオサマ・ビンラディンは1998年2月、「ユダヤ人と十字軍のための国際イスラム戦線」を結成し、対米戦線の宗教命令「ファトウ」を発令して、アフガニスタンと共同して、各地でテロ事件を起こしています。このままでは、世界平和は、望むべくもありません。いまこそ、民族、人種、宗教的対立を克服して、世界中の人々が平和裏に安心して暮らせる社会を築いていかなければなりません。
そのための私なりの「構想」をまとめて、ご紹介したいと考えます。

〔世界平和構想1〕【ロンドン・ロスチャイルド家第5代当主に教えられた共存共栄圏構想】
 私は、東邦生命社長時代、英国ロンドンと米国ニューヨークで定期的にレセプションを主催しており、ロンドンでレセプションを催すときには、必ずレーバーとしてロンドン・ロスチャイルド家の第5代当主エドムント・ロスチャイルド氏を招いていました。平成10年(1998)2月10日から11日(日本の建国記念日)にかけて、私はそのレセプションに出かけ、サザンプトンのエドムント・ロスチャイルド氏と約4時間話ました。場所はロンドンのヒースロー空港南のホテルです。私の部屋に来ていただいて、食事をしながら、懇談したのです。そのなかで、エドムント・ロスチャイルド氏は、私が飛び上がるほど驚くことを2つ口にしました。一つ目は、この発言です。
「私は大英帝国の国民であることをだれよりも誇りに思っています」
普通の人が言ったならば、大変立派な話で済みます。しかし、自分は英国民である前にユダヤ人であると言っていた人たちが、そう言うというのは何かおかしいのではないかと勘繰ってしまいます。そこで私は、
「なぜ、あなたはそのようなことを私に言うのですか?」
と聞きました。すると、彼は、
「私は人類愛主義者である。私の三代か四代前の先祖はスエズ運河開拓のお手伝いをさせてもらった。イラクにチグリス・ユーフラテス川という中近東一の川がある。このチグリス・ユーフラテス川をシリア、レバノン、そしてイスラエルのヨルダン川に引っ張ってくる国際的な大プロジェクトをやりたい。それには、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教がみんな手を結び、共存共栄圏をつくらなければならない。そのための資金づくりなど、いろんな折衝をしたけれども、どうしてもできない。結局、国境が邪魔をして何もできない結果となった。だから私はやはり、ユダヤ人である前にイギリス人であるのだと反省させられた。いまさらながら、だれよりも英国を誇りに思っている」
エドムント・ロスチャイルド自身も、イギリス人としてカナダの水力発電所の建設を支援しています。もちろん発電所はカナダのものです。さらにもう一つ驚いたのは、彼が、「私はユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教をみんな勉強してきているけれども、世界で一番素晴らしい宗教は仏教だ」と言ったからです。彼はユダヤ教のラビ一祭司一よりもはるかに上の人です。その彼が私を前にしてそう言ったのです。
「あなた、それを言っていいのですか?なぜそのように思うのですか」と尋ねると、エドムント・ロスチャイルドは、「ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、全部戦争によって力づくで相手を屈伏させ、改宗させた。仏教は違う。水がしみ込むように浸透していっている。これが本当の宗教の姿だ」
 と言いました。どういうことかと言いますと、ユダヤの本当のリーダー的な人たちは、いままでのようなユダヤの勝手なやり方はもはや通用しないということに気づき始めている。どのように世界と力を合わせて、共存共栄していけばいいかを真剣に考えている。彼らは頭がいいので、各分野の先端的な人たちはみんなそう考えているということです。