九州鉄道重役会―明治39年―中列右より4人目が翁
九州交通の大動脈である九州鉄道株式会社(後の國鉄九州線)が地方人士によって設立されたのは、明治二十年であった。設立正式免許は二十一年六月七日、最初の起工式は同十二月十日、本社は福岡に置かれ(後ち門司に移る)第一期線である福岡・千歳川(久留米)間の開通は二十二年十二月に挙行され、爾來逐年新線路の開通を見た。同社は当時九州第一の大会社で、社長は初代前総領事高橋新吉氏、二代工学博士仙石貢氏であった。初め幅岡縣下の株主代表格で十七銀行頭取小河久四郎氏が監査役であったが、三十六年同銀行の破綻で退任したので、清藏翁がその後任に推された。
ところが、このときも翁は持前の太田式を発揮して、関係方面をあっといわせた。それは、かねがね世間普通の名前だけの監査役の行き方をあきたらず思っていた翁は、その任についた以上、断然その弊を排除する決心をして、名実共に備った「監査役」の正しきあり方を唱道、本社をはじめ各地方の事務所までも一切の金庫から帳簿、倉庫の在品、軌條など保有財産のすべてを検査することにした、疾風迅雷のようにこの大検査をドシドシ実行するので、検査を受ける方では何処も彼処も大騒ぎ、現業につかぬほどの恐慌ぶりであった。然しその監査役ぶりは正々堂々たるものだから正面からは何とも手はつけられぬ。騒ぎが段々大きくなるので、取締役の一人であった炭鉱界の巨頭安川敬一郎が、なだめ役に出てやっとこの太田旋風がおさまった。
九鉄の会計監査、これによつて革新されたことはいうまでもない。後年翁は、「今思うても実に痛快であった」と語っていた。日露戦後・西園寺内閣の手で鉄道國有が断行された時まで(明治四十年七月)翁は監査役としてその任務を誠実にやり通した。
(写真・文出典『太田清蔵翁傳』―第1章博多中心時代より)
九州交通の大動脈である九州鉄道株式会社(後の國鉄九州線)が地方人士によって設立されたのは、明治二十年であった。設立正式免許は二十一年六月七日、最初の起工式は同十二月十日、本社は福岡に置かれ(後ち門司に移る)第一期線である福岡・千歳川(久留米)間の開通は二十二年十二月に挙行され、爾來逐年新線路の開通を見た。同社は当時九州第一の大会社で、社長は初代前総領事高橋新吉氏、二代工学博士仙石貢氏であった。初め幅岡縣下の株主代表格で十七銀行頭取小河久四郎氏が監査役であったが、三十六年同銀行の破綻で退任したので、清藏翁がその後任に推された。
ところが、このときも翁は持前の太田式を発揮して、関係方面をあっといわせた。それは、かねがね世間普通の名前だけの監査役の行き方をあきたらず思っていた翁は、その任についた以上、断然その弊を排除する決心をして、名実共に備った「監査役」の正しきあり方を唱道、本社をはじめ各地方の事務所までも一切の金庫から帳簿、倉庫の在品、軌條など保有財産のすべてを検査することにした、疾風迅雷のようにこの大検査をドシドシ実行するので、検査を受ける方では何処も彼処も大騒ぎ、現業につかぬほどの恐慌ぶりであった。然しその監査役ぶりは正々堂々たるものだから正面からは何とも手はつけられぬ。騒ぎが段々大きくなるので、取締役の一人であった炭鉱界の巨頭安川敬一郎が、なだめ役に出てやっとこの太田旋風がおさまった。
九鉄の会計監査、これによつて革新されたことはいうまでもない。後年翁は、「今思うても実に痛快であった」と語っていた。日露戦後・西園寺内閣の手で鉄道國有が断行された時まで(明治四十年七月)翁は監査役としてその任務を誠実にやり通した。
(写真・文出典『太田清蔵翁傳』―第1章博多中心時代より)