もったいない・ご恩返しの心を!太田清蔵の世界世直し運動

地位と名誉と資産と収入を一番大切にする自己中心主義を替えて、戦争とテロと貧乏と病気と麻薬撲滅に全力集中

九州鉄道の経理監査旋風 ( 『太田清蔵翁傳』より )

2009年06月16日 17時58分41秒 | 太田清蔵翁伝
九州鉄道重役会―明治39年―中列右より4人目が翁

九州交通の大動脈である九州鉄道株式会社(後の國鉄九州線)が地方人士によって設立されたのは、明治二十年であった。設立正式免許は二十一年六月七日、最初の起工式は同十二月十日、本社は福岡に置かれ(後ち門司に移る)第一期線である福岡・千歳川(久留米)間の開通は二十二年十二月に挙行され、爾來逐年新線路の開通を見た。同社は当時九州第一の大会社で、社長は初代前総領事高橋新吉氏、二代工学博士仙石貢氏であった。初め幅岡縣下の株主代表格で十七銀行頭取小河久四郎氏が監査役であったが、三十六年同銀行の破綻で退任したので、清藏翁がその後任に推された。
 ところが、このときも翁は持前の太田式を発揮して、関係方面をあっといわせた。それは、かねがね世間普通の名前だけの監査役の行き方をあきたらず思っていた翁は、その任についた以上、断然その弊を排除する決心をして、名実共に備った「監査役」の正しきあり方を唱道、本社をはじめ各地方の事務所までも一切の金庫から帳簿、倉庫の在品、軌條など保有財産のすべてを検査することにした、疾風迅雷のようにこの大検査をドシドシ実行するので、検査を受ける方では何処も彼処も大騒ぎ、現業につかぬほどの恐慌ぶりであった。然しその監査役ぶりは正々堂々たるものだから正面からは何とも手はつけられぬ。騒ぎが段々大きくなるので、取締役の一人であった炭鉱界の巨頭安川敬一郎が、なだめ役に出てやっとこの太田旋風がおさまった。
 九鉄の会計監査、これによつて革新されたことはいうまでもない。後年翁は、「今思うても実に痛快であった」と語っていた。日露戦後・西園寺内閣の手で鉄道國有が断行された時まで(明治四十年七月)翁は監査役としてその任務を誠実にやり通した。
(写真・文出典『太田清蔵翁傳』―第1章博多中心時代より)

初代・太田清蔵と福岡藩主黒田家(『太田清蔵翁傳』より)

2009年06月12日 15時55分12秒 | 太田清蔵翁伝

黒田藩祖三百年祭のとき(大正10年)後列左端が四代目太田清蔵翁

 初代清藏は天保五年四十八歳のとき、藩廳の諭旨を体して永納銀二百目を献上、又水害による米デン價騰貴、貧民救助のため米十五俵を寄捨す。天保八年五十一歳のとき、黒田家より松原出の禮遇「年始御禮、御参勤御往來之節松原出、御慶事の節頂戴等被仰付」の資格を賜わった。是れ太田家が格式町人となった始めである。当時藏本番ではこの栄譽を與えられた者は十一人(年寄役の職分をもって筆頭たる波多江八右衛門は別)、新参の油屋清藏はその四番目であった。家道漸く振るうことを物語るものである。
(中略)
初代清藏は隠居して名を改めて愚八と称したが、その隠居の年月は明確でない(五十七歳節もある)。家号は天保十三年、四年ごろから太田屋と称するようになった。
(写真・文出典『太田清蔵翁傳』―前記の四 太田家の祖先)

四代目・太田清蔵翁

2009年06月11日 12時37分31秒 | 太田清蔵翁伝

四代目・太田清蔵翁(45才頃)

 太田清蔵翁(厳格には四代清蔵翁)は、明治維新により五年前に生まれて、明治、大正、昭和の三代にかけて活躍したのであるから、その一生は眞子にめまぐるしいほど変転のはげしい時代であった。翁がものごころついたころは、まだ徳川時代の封建制のにおいがぷんぷんしていた時代であつた。
(『太田清蔵翁傳』―前記翁の一 時代より)

祖父・四代目太田清蔵の東京進出

2009年05月26日 19時02分01秒 | 太田清蔵翁伝
福岡藩主黒田家ですが、幕末は朝廷側ではなく幕府側でした。なので非常に明治維新以降は立場が悪かったのですが、私の爺様は先の先が読める人だったので、九州電力や三池鉱山も博多湾鉄道など全部手掛けてやっておりました。
九州で実業家として有名になっていった頃、明治31年に山県有朋が、根津嘉一郎などを中心として徴兵保険をつくりました。ところがその三代目の社長が、やはり武家の商法休むに似たりで、うまく続かない。そこで、私の爺様が引き受けることになりました。
ちょうどその頃(明治41年)に、私の爺様は政友会に入党いたしました。当時、現在の聖路加病院のあるあたり一帯は、全部欧米人の住む場所になっておりまして、慶応大学の発祥の地も、立教大学の発祥の地も、全部あの辺りなんですね。私の爺様も九州から上京して仕事をするようになり、同時に政友会の中にも入りまして貴族議員として国政にも携わるようになりました。
二足の草鞋を履いていたわけですが、そのときに日本全国のおもだったところを、どんどんどんどん買い漁っていきました。(太田清蔵勉強会『もったいないご恩返しの会』2009年1月21日スピーチより)

初代・太田清蔵と福岡藩主黒田家

2009年05月25日 19時04分56秒 | 太田清蔵翁伝
1776年から1789年のわずか13年の間に、天明の飢饉が4回襲ってきました。そのときに福岡県も相当にやられまして、もう百姓ではやっていけないと、易者にみてもらったところ、枡で量る仕事をやれと言われました。
それが私の六代前の清蔵でございます。
そのときに、易者に、
「お前さんの一族は、枡で量る仕事をやれば、どれもこれも全部成功する」
と言われたんですね。そして菜種油を採る仕事を専門にやりました。さらにお米やお醤油なども手掛けて、実際に全部成功しています。

そのようななかで商売を成功させていたくわけですが、当時はまだ福岡藩主黒田家は贅沢な藩でしたから、藩にお金が足りなくなると、御用米と称してお金持ちからお米を回収しておりました。そうした御用米や御用銀を大量に出していたのが、六代前の清蔵だったのです。
そして御用金をたくさん出してくれるというので、苗字帯刀を許されて初代・太田清蔵を名乗ったのです。
ですから、太田家は最初から黒田家にお金を奉るということが約束されておりました。(太田清蔵勉強会『もったいないご恩返しの会』2009年1月21日スピーチより)