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〔世界平和構想5〕【アインシュタイン博士の遺志を受け継ぎ、「世界連邦の樹立」実現を】

2008年10月04日 00時06分03秒 | 世界平和構想
いわゆる「相対性理論」によりノーベル物理学賞を受賞されたアルベルト・アインシュタイン博士(1879年3月14日~1955年4月18日)は、ドイツ出身の理論物理学者であります。イタリアやスイスに居住し、「光電効果の発見」の功績により、1921年にノーベル物理学賞を受賞しています。
アインシュタイン博士は第一次世界大戦時には反戦を訴えていました。しかし、ユダヤ系であり、ユダヤ人国家建設運動であるシオニズム運動を支援していました。1932年には、ヒトラー率いるナチス・ドイツからの迫害を逃れて、アメリカに亡命し、第二次世界大戦時には一転して戦争を正当化していた時期があります。
当時のフランクリン・デノラ・ルーズベルト大統領は、アインシュタイン博士亡命を受けて、「敵を作って、敵を倒すからアメリカの存在意義がある」という「敵対者の論理」をはっきりと宣言されました。
こうした状況の下で、アインシュタイン博士が、レオ・シラード(1898年2月11日、ハンガリーの首都ブダペスト生まれのユダヤ人物理学者、1964年5月30日、カリフォルニアで死去)の勧めにより当時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト宛への手紙に署名したことは事実であると言われています。
日本では一般の人々の間で、アインシュタイン博士を通じたルーズベルト大統領への進言によって原子爆弾開発のきっかけを作った人物として有名である。この手紙は、シラードが接触を図っていたアレクサンダー・ザックスを介して、1939年10月にアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに渡されており、内容は以下のようなものでした。

「近い将来にウラン元素が新たに重要なエネルギー源になると予想されること。
フランスのジョリオ=キュリーならびにアメリカのフェルミとシラードの研究により、大量のウラン中で連鎖核反応を起こすことができるようになる可能性がきわめて高い、ということ。
その連鎖核反応においては、莫大なエネルギーとラジウムに似た新種の元素が大量に作り出されるであろうこと。
この研究が進めば爆弾の製造にも応用され、新しいタイプのきわめて強力な爆弾が作られるということにもなるかもしれないこと。
その爆弾は巨大なものになり、飛行機による爆撃は不可能と思われるものの、船によって輸送して爆発させた際には港湾施設等を広域にわたって破壊しうるということ。
ウランのもっとも重要な産地であるベルギー領コンゴなど含め、合衆国へのウラン鉱石の供給を確保することに特に関心を寄せること。
政府と物理学者たちとの間に恒常的な接触をもたせるべきである、ということ。具体的には、大統領への以下の提案を含む。
政府の省庁を通じて、さらなる開発のための周知徹底を図り、またウランの供給の実現に注意を向けさせるための政府行動を起こすよう勧告を行うこと。
寄付を惜しまない私人への接触を通じて基金を設立し、また必要な装置をもっている企業研究所の協力を取り付けることによって、開発を促進すること。
ドイツがウランの販売を停止したことは、ウランの研究がカール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカーを中心として国家単位で行われていることを意味する、ということ」

アインシュタイン博士は、原子力の平和利用を念頭においていたのです。この手紙を受けて、ルーズベルト大統領は、ウラン諮問委員会を設置し、アインシュタイン博士の提言が検討され、黒鉛・天然ウラン原子炉の研究についての資金援助を決定しています。ただし、このときは、「原子爆弾については、はっきりしないことが多すぎた」ため、原爆開発は見送られたそうであります。
しかし、アメリカは1941年秋、原子爆弾の開発・製造が開始しました。「マンハッタン計画」と呼ばれています。これは1941年夏以降、英国の科学者たちがまとめた「原爆製造は可能である」とする検討結果がアメリカに伝わるようになったためとされています。
このとき、アインシュタイン博士自身は、マンハッタン計画への協力を求められることはありませんでした。 国防研究委員会の議長であったヴァネヴァー・ブッシュ (1890年3月11日~1974年6月30日、アメリカの技術者・科学技術管理者。アナログコンピュータの研究者、情報検索システム構想「メメックス」 提唱者、また原子爆弾計画の推進者)が、その理由について「アインシュタイン博士の過去の平和主義やシオニズムの政治的傾向からみて彼は機密を守れない可能性がある」と疑っていたからだといわれています。
 アインシュタイン博士から原子爆弾の知識を手に入れたルーズベルト大統領は、
 「これからのアメリカは、原子爆弾で武装した世界一強力な国家にならなくてはならない。敵を潰す力強いアメリカ作りが使命だ」
との立場から、
「日独伊防共協定により、ドイツとイタリアから強制された東條英機首相が開戦の意志を持っている」
と判断し、これを根拠に、日本を挑発してきました。その果てに、
「日本がハワイの真珠湾攻撃の不意打ちをかけてきたので、日本に開戦せざるを得なくなった」
 と開戦の責任を日本側に押し付けてきたのです。その結果、ルーズベルト大統領が急死され、後任に選ばれたトルーマン大統領が、日本に対して好意的であり、大戦前、長くフィリピンで生活しておられたダグラス・マッカーサー司令官に対して、戦争開始と原子爆弾2発の使用を強制されました。残念ながら、大統領命令には抗することはできず、対日
原子爆弾を投下せざるを得なかったのです。
博士博士は大戦後、再び反戦運動に転じ、英国の数学・哲学者バートランド・ラッセルとともに平和活動に取り組んでいます。アインシュタイン博士の死後、英国の貴族バートランド・ラッセル卿は、「ラッセル・アインシュタイン宣言」を発表し、「パグウォッシュ会議」を創設、「世界連邦の樹立」を提唱するなど、多くの平和的言動を残しています。
1955年7月、パグウォッシュ会議発足の元になった「ラッセル・アインシュタイン宣言」に湯川秀樹教授が参加しており、1957年7月、カナダのパグウォッシュ村で開かれた第1回パグウォッシュ会議に湯川秀樹教授、朝永振一郎教授、小川岩雄助教授(現在:立教大学名誉教授)の3氏が出席、この年の秋には、パグウォッシュ会議日本グループ発足しています。
こうした経緯が正確に伝わらず、日本の一部には「アインシュタイン博士が原子爆弾の開発者」であると思い込んでいる人が、少なからずいました。しかし、これは誤解であり、アインシュタイン博士は原子爆弾製造に関しては一切関与してはいなかったのです。
アインシュタイン博士は、日本の社会をこよなく愛し、日本の皇室を最も崇拝していた人物でした。このため、
「まさかルーズベルトが、原子爆弾を使って日本を叩くとは、とんでもないことだ。勿体ない御恩返しの武士道の精神があれば、原子爆弾などは不要のものであった」
と終生、お詫びの姿勢を取り続けておられました。
ちなみに、アインシュタイン博士は1922年11月17日、訪日された際、島根県松江市にも立ち寄られ、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの伝記を読み、日本の社会と皇室のあり方に限りない憧憬を感じられ、「1922年11月17日は初来日 小泉八雲の本に感激 して」と題し、「日本人への親愛なるメッセージ」という一文を残されています。それは、以下のような内容です。
「近代日本の発展ほど、世界を驚かせたものはない。一系の天皇を戴いていることが今日の日本をあらしめたのである。私はこのような尊い国が世界の一ヶ所位なくてはならないと考えていた。世界の未来は進むだけ進み、その間、幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れる時が来る。その時、人類はまことの平和を求めて、世界的な盟主をあげなければならない。この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜き越えた、最も古く、また尊い家柄でなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。我々は神に感謝する。我々に日本という、尊い国をつくって置いてくれたことを・・・。
日本の家族制度ほど尊いものはない。欧米の教育は個人が生存競争に勝つためのもので極端な個人主義となり、あたり構わぬ闘争が行われ、働く目的は金と享楽の追求のみとなった。家族の絆はゆるみ、芸術や道徳の深さは生活から離れている。激しい生存競争によって共存への安らぎは奪われ、唯物主義の考え方が支配的となり、人々の心を孤独にている。日本は個人主義はごく僅かで、法律保護は薄いが世代にわたる家族の絆は固く、互いの助け合いによって人間本来の善良な姿と優しい心が保たれている。この尊い日本の精神が地球上に残されていたにことを神に感謝する」
この文章は、アインシュタイン博士の「歴史的名言」として伝えられている。