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〔世界平和構想7〕【ヨゼフ・ピタウ元大司教の呼びかけで『世界平和宗教者殿堂』創建を】

2008年10月13日 14時47分19秒 | 世界平和構想
私は、世界のあらゆる宗教宗派の代表者が一堂に会せる「世界平和宗教者殿堂」を靖国神社の前庭1万坪と皇居北の丸の武道館の回り2万坪、合わせて3万坪に創建する構想をかねてより温めてきました。
その呼びかけをカトリック教会のヨゼフ・ピタウ (Joseph Pittau、イタリア語名はジュゼッペ・ピッタウ=Giuseppe Pittau)元大司教にお願いしたいと熱望しています。ピタウ元大司教は1928年10月20日、 イタリアのサルデーニャ州ヴィッラチードロでお生まれになり、1945年、イエズス会に入会されています。上智大学で17年間学長を務められ、日本語でミサを捧げることのできる元大司教です。以下、略歴を紹介しておきましょう。
1952年、 スペイン・バルセロナ大学にて哲学を修める。
1954~1956年 栄光学園中学校教師。
1959年、司祭叙階。
1960年、 上智大学にて神学を修める。
1963年、ハーバード大学大学院修了、政治学博士号を取得する。
1966年~1981年、上智大学法学部政治学教授に就任。
1968年~1981年、上智大学学長に在任(このころの教え子に三雲孝江がおられたそうです。
1981年、イエズス会管区長に就任。同年10月 教皇ヨハネ・パウロ2世の要請によりイエズス会本部へ(ローマ法王パウロ2世の跡を継がれるものと思われておりました)
1992年~1998年、 教皇庁立グレゴリアン大学学長。
1997年~1998年、 教皇庁立科学アカデミー・ 社会科学アカデミー会長。
1998年、 バチカン教育省局長に就任、およびサルデーニャ教会大司教に叙階。
2004年、 75歳の定年によりバチカンを辞し、再来日する。
2004年~2005年4月、 カトリック大船教会協力司祭に在任。
2006年、文藝春秋の「諸君!」(オピニオン誌)9月号にジャーナリスト細川珠生との対談記事「カトリック大司教、『靖国』と『中国』を語る」が掲載される。聖職者として「死者の政治的利用」に反対し、厳密な政教分離の条件をつけながらも、戦没者慰霊施設としての靖国神社また公人の参拝を容認する見解を示しています。著書には「聖地アッシジの対話 聖フランチェスコと明恵上人」(河合隼雄との共著、藤原書店)

私は1991年9月25日、バチカンを訪問し、パウロ2世に「皇室がカソリックに改宗なさった場合、神道神事をお認めになりますか」と問い合わせました。これに対しパウロ2世から、「然り」という力強いお答えをいただきました。聖グレゴリアン大学総長を務められていたピタウ大司教にお立会いいただくことを期待ましたが、残念ながら、このときは、ピタウ大司教のお姿はここにはなく、ロックハイマー顧問に立会っていただきました。
しかし、ピタウ大司教は略歴に示したように75歳の定年により2004年、バチカンを辞し再来日されて、カトリック大船教会協力司祭に就任され、平成16年6月3日、大船教会で、次のように挨拶されています。
 「みなさま、ご無沙汰致しておりましたが、23年ぶりに日本に帰ってまいりました。帰国致しました私を横浜教区のラファエル梅村昌弘司教様は、大船教会主任司察である久我純彦神父様のもとで司牧活動をするよう任命なさり、4月25日より大船教会で働き始めました。
ローマから日本へ帰って直ぐに神田教会を訪ねました。この神田教会で1959年3月18日に土井枢機卿の祈りと按手によって私は司祭になりました。
現在の神田教会は、祭壇がむかしと変わっているものの、教会全体の建物は当時と同じでした。何か45年前に戻って、新しい気持ちで日本における神の国のために働きたいという想いを強く感じました。
日本での最初の仕事はローマから送った別送品の受け取りでした。受領するためには入国管理、カーゴ事務所、税関で手続きをしなければなりませんでした。手続きは煩雑複雑なものでしたが、各部署の係員は暖かく親切で、また能率よく、正確に仕事をしてくれました。なにか自分の国へ帰ったという印象でした。
日本航空カーゴのゾーンにある事務所と倉庫で荷物の確認、引取りをしたのですが、膨大な荷物量を仕分けるのにどれ程忙しいか、それと同時に正確とスピードをもって皆様が働いているか、一つ一つの荷物のため勤勉とケアーによってそこにどうして世界が動いているか、わかったような気が致しました。
私は1928年10月20日イタリアで生まれ、1945年イエズス会に入会、修練と最初の養成はローマとピエモンテ地方のクネオ市で済ませ、哲学をスペインのバルセローナ市で終了しました。
イタリアに帰って、1952年9月、今度は日本へ送られ、一生を日本の使途的働きのために任命されました。1952年から1956年まで横須賀市の田浦で、2年間は日本語の勉強、そしてその後の2年間は、栄光学園で中学生に教師として教えました。この田浦での4年間はその後の活動のために私にとって大きな土台となりました。
この後、東京石神井の神学院で司祭養成の最後の段階に入り、1959年3月18日、神田教会で司祭に叙階されました。
1960年4月、神学の最後の試験を終え、米国ハーバード大学に送られ、2年半の勉強の後、広島で第三修練を終了しました。1964年上智大学法学部で倫理学と国際政治を教えることとなり、それと同時に上智大学の学術誌モヌメンタニッポニカの編集長に任命されました。
1968年には上智大学イエズス会修道院の院長と上智学院理事長になり、そのときには大学紛争の体験も致しました。1975年上智大学学長になり、1968年以来、学問的な活躍と経営の責任がありながらも学生たちに公教要理を教え、使途的な活動も大切にする努力をいたしました。
1981年にイエズス会菅区長になり、同年8月アルペ・イエズス会総長がご病気になられ、10月、ヨハネ・パウロ2世にローマに呼ばれ、イエズス会本部で働くようになりました。
約2年間の間に世界中を回り、1983年9月のイエズス会総会の準備を致しました。1983年からイタリアと東南アジア地区の総長補佐、1992年、グレゴリアーナ大学総長、またバチカン科学アカタミーと社会科学アカデミーの長官も兼務いたしました。そして1998年バチカン教育省事務次宮となって、大司教に叙階されました。今回75歳の定年を迎え、教皇様とイエズス会総長にお願いし、日本に帰ってまいりました。
帰国後、大船教会に赴任する前の1ヶ月程は栄光学園の修道院で過ごしました。教鞭をとったのは50年も前のことになりますが、ここでも50年がなかったかのように元に戻ったという印象を受けました。
この1ヶ月の滞在中にどれ程教育(幼稚園から大学まで)と宣教は互いに助かっているかを感じました。これからは神様に呼ばれるまで、日本で司牧の活動をするつもりです。神田教会で司祭叙階式の時に諸聖人の連祈を唱えている間、ひれ伏して自分の物足りなさを感じながらも諸聖人と教会の信者達が手を挙げて私を支えているということを強く感じました。どうぞみなさま、手を挙げて私を支えて下さい」
ピタウ元大司教は2006年8月11日、上智大学で次のような講演をされています。
「今世紀は、2001年9月11日に起きたニューヨーク・マンハッタン島のツインタワービル大爆発事故という忌まわしいテロをキッカケとするアフガニスタン空爆、イラク戦争の勃発、それに加えて麻薬と病気、貧困と憎悪に見舞われた混迷した社会のなかで始まりました。当時、私はバチカンの大司教の任にあり、大きな責任を感じていました。それから5年経た2006年8月11日、元いた上智大学の一角から叫びました。
1、神の名において人を殺さない
2、神の名において金儲けをしない
3、神の名において人助けをし
4、自ら信仰を基にして他宗の教会においては他の礼拝の形式をそのまま履行して世界中の人々と併存できることを喜び合いたい」
そのよその宗教の拝み方によって手を合わせるというやり方で、世界中が納得して平和に住めるようになると言っていらっしゃったのです。
日本の神道は神という文字が使われてはいますが、他の太平洋一帯のポリネシア、ミクロネシア、メラネシアの地域一帯からペルー、ボリビア、エクアドル等中南米まで含めた先祖崇拝、地域崇拝の伝続で、日本以外の地では宗教としてのキリスト教とは別の儀式として、数千年にわたって続いています。日本でも佛教が渡来して一時不協和でありましたが、佛教信仰の厚い天皇皇后両陛下ほど神道神事を立派に果たしておられます。
「日本の神道は太平洋全域に拡がっている地域崇拝、先祖崇拝と同じだから、日本の皇室がキリスト教信者になられても神道神事を禁止するものでもない」と言っておられます。さらに、現在世界の主だった王国は「君臨すれども統治せず」の方式をとって居りますが、「大統領制のように国をあげて君臨統治するよりも遥かに安定しているので世界が一つになっても国別統治は国王制に続くだろう」と言われております。
現在、パオロ2世の後継者であるドイツの法王様が、イスラムから大変危険視されることになっております。そこで私は、「世界中からローマ法王にご推挙申し上げるべきである」と思っています。ローマカソリックとイスラムの関係でなく、世界全体を公平にごらんになれる最高の方だからです。この偉大な元大司教に是非とも、靖国の前庭一万坪と皇居二万坪武道館のある空き地に、世界のあらゆる宗教宗派の代表者が一堂に会せる「世界平和宗教者殿堂」の中心に位置して欲しいと願っています。ピタウ元大司教もまた、東京における世界宗教者殿堂の創建に最大の関心を示され、「ぜひ是非実現したい」と言っておられます。

余談ながら、私が、「世界宗教者殿堂」という聖堂建立を強く意識した一文を日本経済新聞平成5年(1993)1月26日付の朝刊「交遊抄」欄に寄稿しています。「われら地球市民」と題して、以下のように書いています。
「世界百八十三カ国の元首や首脳を集め、ブラジルで第二回地球サミットを主宰したのは、カナダのモーリス・ストロングという人である。世界恐慌が起こった一九二九年のカナダ生まれで、小学校卒業直後の十三歳から実業界入りし、三十歳そこそこでカナダ電力公社総裁、三十五歳の時に年俸二十万ドルを棒に振ってカナダの国際開発庁長官になり、四十二歳で国連人間環境会議事務長としてストックホルムで第一回の地球サミットを主宰した。
私どもの東邦生命渋谷本社ビルには、国連大学の本部などが七五年の藩成時点から昨年七月表で同居していたことから、同氏とは来日の折に家族付き合いが始まり、八三年の米国コロラド州アスペン人文科学研究所のフォーラムの折には、ストロングさんの提供されたバカグランデの講堂も使うことができた。夫人のハンナさんはデンマーク生まれの環境活動家で、自らをアメリカインディアンの生まれ変わりと信じ、彼らの言う『聖なる山』のふもとのバカグランデに世界中の宗教殿堂をつくって、宗教間の対立を超えた平和運動を展開している。またその地にチベット仏教の施設院を建設する際には、建設設計士で在米中の私の息子もお手伝いをさせていただいた。
熱心なハンナさんは、私の勧めで越前・永平寺に三泊四日の座禅をされ、当時の秦慧玉禅師に十万坪の土地を提供するから、バカグランデに禅室をつくってくださいと懇請した。結果は不調に終わったが、帰途、白山神社に皇国神道の平泉澄宮司をお訪ねした。九十歳を鰯えておられたので宮司に最後にお会いした外国人であったと思う。
私は毎年のクリスマスのあいさつに自分の所感を付しているが、それがお気に召したのか、八九年、スイスのダボスで開催されたワールドエコノミックフォーラムでも、昨年のリオデジャイロの地球サミットでもお会いし、いつも地球市民としての環境の大切さを誇り、励ましあっている」