もったいない・ご恩返しの心を!太田清蔵の世界世直し運動

地位と名誉と資産と収入を一番大切にする自己中心主義を替えて、戦争とテロと貧乏と病気と麻薬撲滅に全力集中

加瀬俊一著『加瀬俊一回想録』(下)山手書房、1981年 PP.80-94より

2009年11月20日 17時43分29秒 | 君子ならずや
そんな加瀬先生はミズリー号の調印式のときマッカーサー元帥と対面されておられ、そのときのことが、自身の著書のなかで回想録として記されております。非常に印象深い内容ですので、以下、ご紹介させていただきます。


私は彼らの視線が鋭い矢になって、皮膚をつらぬき、肉を裂き、骨を刺すのを感じた。その矢は幾千本であり、幾万本だった。生れていまだかつて、人間の視線がこれほどの苦痛を与えるものだとは知らなかった。私は歯を食いしばって屈辱感と戦いながら、冷静を失うまいと必死に努力した。

ふと見ると、傍らの壁に小さな日章旗が描かれている。幾つもある。多分、ミズリー号が撃墜・撃沈した日本の飛行機・艦船の数に相当するのではあるまいか。一つ、二つ、三つ―数えているうちに、涙であろうか、目が曇ってしまった。花と散り急いだ特攻隊の青年たち、彼らの霊がこの旗にこもっているとすれば、今日この調印式の光景を、そも、なんと見るであろうか...。

私の瞑想は靴音で破られた。足早にマッカーサー元帥がテーブルに向かって歩いて来たのである。
マイクの前に立ち止まると、演説を始めた。演説はないはずだったから、意外だった。意外なだけに私は緊張した。 一語も聞きもらすまいと思って、全身を耳にして傾聴した。

意外である。まったく意外である。元帥はこの演説において、理想や理念の紛争はすでに戦場において解決されたから、改めて議論する必要はない、といって、我々は猜疑や悪意や憎悪の気持に促されて今日ここに相会するのではなく、過去の流血と破壊のなかから信頼と理解にもとづく新しい世界を招来しようと切に念ずるものであると説き、自由と寛容と正義の精神を強調したのである。そして、最後に、占領軍総司令官の義務を「寛容と正義によって」履行する決意であると結んだ。私は、“tolerance and justice”という言葉が反復されるのを聞いて、我れと我が耳を疑った。

私は外務省で米英関係の事務を多く主管し、在外任地もワシントン、ロンドンが長かったし、終戦当時は情報部長の職責にもあって、マッカーサー元帥の人物・識見については、ある程度の研究はしていた。だが、刀折れ矢尽きて無条件降伏をした敗敵を前にして、今日の場合、よもや、このような広量かつ寛厚な態度をとろうとは、まったく予期していなかった。彼さえ望むならば、鉄の鞭をふるって、満座のなかで、我々に痛烈な汚辱を与えることもできたのである。現に、戦勝国民の間には―米国民も―それを期待する世論が強かった。それなのに、自制して静かに、自由と覚容と正義を説くのは、まことに立派だと思った。勇気に富むクリスチャンだと思った。そして、日本はこれで救われたと思った。そう信じた。

私のみならず、艦上のすべての人は、ことごとく元帥に魅了されていた。彼は劇的センスが豊かであり、自己演出が巧みである。風はなかったのだが、元帥の手にする紙片は明らかにふるえていた。故意か偶然か―それによって劇的効果はさらに増し、世紀の歴史の瞬間は白熱昇華したのである。演説を終ると、元帥は厳しい口調で日本全権に降伏文書の調和を促した。
(加瀬俊一著『加瀬俊一回想録』(下)山手書房、1981年 PP.80-94より)


ミズリー号で加瀬俊一さんが発した言葉

2009年11月13日 16時59分42秒 | 君子ならずや
1929年(昭和四年)に世界恐慌が起こりましたが、そのときの恐慌はものすごくて、大半の人が死ぬんじゃないかと大変心配しましたが、アメメリカが第二次世界大戦を起こそうとし日本もそれに巻き込もうとして、いろんなことで儲け、戦争準備のために、第一次世界恐慌は自然に消えてしまいました。ところが、この度の世界大不況は、世界中で稼いでいるのは日本と中国くらいしかないのに、ちっとも稼ぐことのできないアメリカが日本の財政を全部取上げて、そうして戦争をやろとう言っているのですから、これは気が狂っているとしか思えません。
なぜ私がそういうことを言うかと言いますと、こういうことなのです。
三宅坂に加瀬英明さんという方がおられます。あの方には本当は外務大臣になってもらいたいと思っているのですが、あの方のお父様は加瀬俊一さんという方でございます。加瀬俊一さんは、終戦時の外務省の報道局報道部長で、当時の外務大臣が重光葵さんです。昭和20年の8月20日、降伏調印のため東京湾上にいる戦艦ミズリーに上がっていく重光外相に加瀬俊一さんは随行されました。そして、そのときのことを私はこんなふうに何度か聞かされました。
重光外相一行が船上に上がって行き、
「今日は終戦処理の問題について話し合いに来ました」
と言ったところアメリカ軍は、
「終戦処理じゃない敗戦処理だ」
と言い放ったそうです。
しかしこのとき加瀬俊一さんは、すかさず、
「敗戦なんかしてないです。日本の昭和天皇並びに山本五十六、東條英機も混ざって、御前会議でもって何を決議したかというと、日本は絶対にアメリカ・イギリスと戦争をしない。するだけの力もないし金もない。だから安心して見ていて下さいということを昭和天皇の名前でもって、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領に打電しているのです。これがないとは言わせません。日本側にちゃんと証拠が残っているのですから。しかもそれは一度や二度じゃない。何回もです。しかし、それを何がなんでも敗戦にしろという。そういうことをアメリカがもし無理に言うのであれば、アメリカは必ず近いうちに世界中から叩きのめされるぞ」
と毅然と仰ったということなのだそうです。
加瀬俊一さんは、私の自宅に何回も来て下さって、そんな話をよくして下さいました。
(太田清蔵勉強会『もったいないご恩返しの会』2009年9月17日スピーチより)

磯村英一氏が見抜いたヒトラーの真意

2009年11月07日 01時26分34秒 | 君子ならずや
 30年くらい前にNHKの朝の連続テレビ小説『はね駒』というドラマが放映されましたが、このドラマは東洋大学長・磯村英一さんのお母様がモデルになっています。磯村春子さんは、小さな赤ん坊を背中におぶって、浅草界隈を、いろいろなニュースをとりに取材してまわっておられました。日本で一番古い女性新聞記者ではないでしょうか。
 そしてその彼女の背中に背負われておられたのが、磯村英一さんです。磯村さんは、昭和3年に東大の法学部をトップで卒業されました。
当然、新聞記者になるだろうと思いきや、内務省と東京市の両方から、「君は二度と再び出ない逸材だから、是非とも私どもへ来なさい」と言ってきたそうです。
昭和十一年(一九三六年)にドイツのヒトラー政権のもとオリンピックが開催されております。当時、私は世田谷小学校の五年生でした。我々小学生並びに中学生はみんな、ドイツがつくったオリンピック映像を観ました。思わず「ハイル・ヒトラー!」と言わせるような、実に素晴らしいものでしたが、あれを観たらみんな「ハイル・ヒトラー!」になってしまう。日本中の青年がそうなってしまうものでした。
 当時、東京市の職員となっていた磯村英一さんは、内務省からの命令で視察官として、第九回オリンピック大会が開かれようとしていたドイツの首都ベルリンへ派遣されます。目的は、次期オリンピック開催を日本に招致するため、ベルリン大会の主催国の元首であったアドルフ・ヒトラーへ「貢物」を届けることが使命でした。東京市長の名代として磯村さんは「第十一回のオリンピックは東京へ」というメッセージを添えて「貢物」をてヒトラーに手渡し握手を交わしたといいます。
しかし、ここで磯村先生は、見抜きます。ヒトラーは世界中のユダヤ人を皆殺しにするために、第二次世界大戦を計画しているのではないか。これからそれをさせないためにはどうしたらいいかと。
 ちなみに、磯村英一先生はヒトラーとの握手についてご自身の著書に次のように書き記しておられます。

その時痛感したのは、握手したヒトラー自身の“手の冷たさ”である。正直言って、これが生きている人間かと思われたほどであり、私の生涯で“冷血”といえばすぐ彼を思い出す。(『昭和五十年の秘史』)

 磯村先生は終戦当時、東京都渋谷区長(当時の区長は任命制)を務められておられましたが、英語が堪能なことからGHQとの交渉役として渉外部長を命じられて担当を命じられ、今度は最高司令官のマッカーサーとも握手しておられます。そのときの手の感触について、「ヒトラーと違いマッカーサーの手は温かった」と周辺の人たちに語られています。
 さて、磯村英一先生はその後、「これからは戦争や原子爆弾に頼る時代をやめて、みんなが楽しく一緒にやっていく世の中にしようじゃないか」との思いから、国連大学をつくるのにご尽力されました。
(太田清蔵勉強会『もったいないご恩返しの会』2009年9月17日スピーチより)