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2017年2月からこのブログを始めました

沖縄旅行 2024年3月22日~29日⑲ 28日、祖父の墓地へ行くタクシーの中で

2024-04-26 17:44:28 | 日記


守礼門からしばらく行きますとバス通りに出ました。そこにタクシーが停車していて、それに乗ることにしました。運転手さんは私と同年配ぐらいでしょうか、何がきっかけになったのか瀬長亀治郞さんの話になりました。いや正確に言いますと亀治郞さんのおつれあいの「フミ」さんについてです。

運転手さんはご自身のお母さんから聞いた話として、
「フミさんはお店をしていて、お金を払えないひと誰にも『いつでもいいよ』と言って持ち帰らせていました。母親は、そんな瀬長さんの家族のファンでした」
と、うれしそうに話してくれました。(つれあい育子さんの記憶から)

*フミさんはいつ、どこで、そんなお店をしていたのか、調べてみました。

1947年亀次郎さんは社長業(うるま新報)と並行して政治活動に取り組み、沖縄人民党結成に参加します。この年の末から那覇市楚辺で暮らします。

「うるま新報」は48年7月、石川から現在の那覇市三原に移りました。楚辺の瀬長家の後ろには社宅が設けられたといいます。新聞社の給料だけでは生活できず、フミさんは行商などをして生活を支えました。その頃から亀次郎さんの政治活動に対し、米軍は圧力をかけます。亀次郎さんはやむなく49年8月3日、社を去ります。

1949年8月6日付「うるま新報」に載せた「退社声明書」で、亀次郎さんは「私は民族解放運動の一兵卒として琉球民族戦線結成のため全身全霊」を打ち込む覚悟を表明しました。

そして1952年、瀬長亀治郞さんは立法院議員選挙に立候補し、当選しました。同じ年、フミさんは楚辺の自宅のそばに雑貨店を開きます。開南小学校に通っていた千尋さんは店番を任されました。

娘で今年78歳になる千尋さんはこう言います。
《この地で小さな雑貨店を開き、生活を支えていました。私も学校から帰ると店番をするのが日課でした。》(琉球新報2023年9月15日)

偶然に乗ったタクシーで瀬長亀治郞のさんに関わる話を聞くことができたこと、うれしくもこのことは偶然のことなのか、それとも瀬長亀治郞さんについては今も広く沖縄の人たちに語り継がれていることなのか、そんなことを考えているうちに「識名霊園」に着きました。
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沖縄旅行 2024年3月22日~29日⑱ 28日(木)首里城

2024-04-24 19:05:19 | 日記
不屈館を出て、旭橋駅までもどりゆいレールで首里に向かいました。首里駅で降りたものの首里城がどの方向にあるのか見当が付きませんでした。

28年前に兄、姉、つれあい、三男の息子と首里城に来たことがあって、その道すがらを記憶していたものの周りの様子が全く違うのでした。このことは後で分かりました。前回来たときと180度違う地点に私たちは立っていたのです。その結果、首里城の外周をほぼ半分を歩き2019年に焼失した本殿にたどり着きました。



城壁は曲線を成し、想像していた以上に広大です。そして城壁そのものが今帰仁城のような野面積みでなく、インカの遺跡のように精緻に積み上げられたものです。ヤマト本土の城とは、おもむきが随分違います。

本殿は2026年完成をめざして再建工事中でしたが、その現場はガラス張りでしたが見ることができました。工事の様子を見学することがこの首里城の観光ポイントになっています。


それらを見学しながら、私は無責任かもしれませんが、再建しなくてもいいのではないかと思っていたのでした。

太平洋戦争中、日本軍は首里城の下に地下壕を掘り陸軍第32軍総司令部を置きました。そのため、首里城は1945年5月25日から3日間に渡りアメリカ軍艦ミシシッピなどから砲撃を受け、27日に焼失しました。そして日本軍は沖縄南部へ撤退、その時、歩行不能の重傷兵約5000名が首里城の地下陣地で自決したと言われているのです。その軍司令部壕は首里城地下に現存しています。しかし、陥没のおそれなど安全性で一般公開はされていません。

軍司令部地下壕跡に安全性を確保する工事を行って、一般公開をする方が首里城の歴史、沖縄戦の歴史を語る何よりの遺跡になると私は思うのでした。

本殿から出て、守礼門にやって来ました。ここが28年前兄姉たちとやって来て首里城見学の第一歩になったところです。
https://1drv.ms/v/s%21Ao2WPeMKzJdJgdRBsaod0JM7es8KuA?e=i6aymE(動画です。リンクをクリックしてください)

首里城からそう遠くないところに識名園という王の庭園があります。王はそこに憩うため石畳の道を通っていきました。その識名園に隣接する霊園が識名霊園です。祖父「有善」の墓はその一角にあります。さあ、祖父の墓参りに出かけます。
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沖縄旅行 2024年3月22日~29日⑰ 不屈館の2

2024-04-23 18:23:57 | 日記
今回は言葉少なくして画像多し、にします。「瀬長 亀次郎」さんを語るには、私には荷が勝ちすぎるからです。

一つだけ瀬長さんのスピーチを紹介します。瀬長さんの闘いの思想が凝縮されていると思うからです。




この瀬長ひとりが叫んだならば、50メートル先まで聞こえます。

ここに集まった人々が声をそろえて叫んだならば、
全那覇市民にまで聞こえます。

沖縄70万県民が声をそろえて叫んだならば、
太平洋の荒波を超えてワシントン政府を動かすことができます。


(1950年、群島知事(奄美、宮古、八重山諸島などの自治政府)選挙に出馬、首里中学校の校庭での立会演説会に臨んだ時の演説の一部)



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沖縄旅行 2024年3月22日~29日⑯ 不屈館の1

2024-04-22 16:46:28 | 日記


午前9時にJALシティホテルをチェックアウトして、国際通りを東へ向かい西南観光ホテルに荷物を預けました。そしてゆいレール(モノレール)に乗り旭橋駅で降りました。駅とバスターミナルは陸橋でつながっています。バスターミナル内に琉球バスの事務所があります。きのうバス内で忘れていた一脚(ストック)をもらいました。沖縄にはモノレール以外鉄道がありません。このバスターミナルが沖縄各地を結ぶ一大拠点なのです。


それから、今日最初の目的地、不屈館(瀬長亀治郞と民衆資料)に向かいました。タクシーにしようかとも思いましたが、午前中で元気です。それに見知らぬ街を歩くのも楽しい、歩いて行きました。










20分ほど歩いて、着いたと思ったところは「対馬丸記念館」でした。


ここにも入ってみたいと思いましたが後の予定からして時間がありません。諦めました。なっちゃん、さきちゃん、ちかちゃん、「対馬丸事件」とはどんな事件であったのか調べておいてください。今度会ったとき質問します(笑)

この立派な記念館を見てしまったために、「不屈館」を探しあぐねました。港の公園でゲートボールをしていた人たちに聞いて、ようやく「不屈館」にたどり着きました。


私たち以外には来訪者はいませんでした。受付にいた人は今思うと瀬長亀治郞さんの次女・千尋さんではないかと思います。ここ「不屈館」で買い求めた「米軍が最も恐れた男 その名は。カメジロー」のDVDを観て「そうだったのか」と気づいたのです。

1Fのそう広くないフロアーに瀬長さんに関する資料が満載です。それらを見渡していたら千尋さんがビデオ上映の準備をしてくれました。ビデオ内容は瀬長さんの生涯、活動の要約ですが、それで初めて知ったのがつれあいさんの「フミ」さんの存在と果たした役割です。フミさんあって亀次郎さんあり、です。


今回のブログ投稿は「不屈館」紹介前段とします。この次の投稿では不屈館に展示されている資料を画像で紹介します。不屈管内部の撮影は千尋さんの許可を得ています。
https://1drv.ms/v/s%21Ao2WPeMKzJdJgdQ0o1MFNcBc1Awa8g?e=Ccbxxc(動画です。クリックしてください)
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沖縄旅行 2024年3月22日~29日⑮ 27日夕刻 牧志祖父の墓のあったところから桜坂劇場

2024-04-21 16:46:49 | 日記
7年ほど前、墓があったとされる場所を那覇市から届いた地番地図を元に探しに行ったことがあります。今回はその時の記憶が頼りです。記憶が頼りと言っても泊まったホテルが違うので経路が違います。複雑な那覇市内の道をたどって見つけることができるでしょうか。20分近く歩いたでしょうか、予想していたところにたどり着けません。


「まっ、いいか。明日は霊園にある墓に行くのだから」と諦めかけて喫煙できるベンチに座りました。そして周りの景色を見渡したのです。すると古びたコンクリート塀とその中に雑草が繁茂した荒れ地が眼に入りました。

「あそこだ!」と確信しました。いやまだいくらか不安がありました。近づいていきました。間違いありません。祖父が呼んだのか、見つけたときはとにかくうれしかった、です。


公園造成のために、私たちが権利放棄した墓地はまだそのままでした。造成されていたら気づかないで通り過ぎていたところです。

気分爽やかにゆいレール(モノレール)の牧志駅まで戻りました。その直ぐ近くにある「西南観光ホテル」に入り、明日28日宿泊ができるかどうか、宿泊代はいくらか確かめました。部屋の空きあり、宿泊代は11000円(二人で)、予約をしました。

次に、この近くにあると踏んだ「桜坂劇場」を探しに行きました。桜坂劇場は趙博さんや川口真由美さんらがライブをしたり、沖縄に関わる映画を上映しているなどその存在は知っていました。途中、道路測量をしている技師さんに「桜坂劇場へはどう行けばよいか」声をかけました。正確にわかりやすく、その場所を教えてくれました。さすが測量士です(笑)

こんもりと丘のような公園がありその公園のすそ野に桜坂劇場がありました。ちょっと拍子抜けです。もっと場末のひなびた劇場と思っていたのに、コンクリートビルの近代的な劇場です。






中に入りました。桜坂劇場は何本も映画上映ができるシネコンです。そして上映中だけでなく過去の映画、イベントにかかわるポスター等が張り巡らされ、映画資料も所狭しと並べられています。マイノリティ文化の発信地なのです。これはうれしい。
https://1drv.ms/v/s%21Ao2WPeMKzJdJgdQwxv53U4VSDqd9YQ?e=MdLYfQ(動画です。クリックしてください)

映画館を出たら公園の丘を降りてくる女性に出会いました。女性は桜の花がまだ残っていますよ、と教えてくれたのでした。それで丘を上がり桜を観賞しました。そして那覇の街を見渡したのでした。壮観です。






公園を下って牧志市場近くの裏通りを歩いていますと、花が咲いたようにかりゆしウエアーのお店が並んでいます。つれあいは目を輝かせお店のかりゆしを物色しています。そして、孫の海生君、結生チャンのかりゆしを買いました。そして近くのレストランで夕食、何もかもおいしかったです。身も心も満足でした。







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