
守礼門からしばらく行きますとバス通りに出ました。そこにタクシーが停車していて、それに乗ることにしました。運転手さんは私と同年配ぐらいでしょうか、何がきっかけになったのか瀬長亀治郞さんの話になりました。いや正確に言いますと亀治郞さんのおつれあいの「フミ」さんについてです。
運転手さんはご自身のお母さんから聞いた話として、
「フミさんはお店をしていて、お金を払えないひと誰にも『いつでもいいよ』と言って持ち帰らせていました。母親は、そんな瀬長さんの家族のファンでした」
と、うれしそうに話してくれました。(つれあい育子さんの記憶から)
*フミさんはいつ、どこで、そんなお店をしていたのか、調べてみました。
1947年亀次郎さんは社長業(うるま新報)と並行して政治活動に取り組み、沖縄人民党結成に参加します。この年の末から那覇市楚辺で暮らします。
「うるま新報」は48年7月、石川から現在の那覇市三原に移りました。楚辺の瀬長家の後ろには社宅が設けられたといいます。新聞社の給料だけでは生活できず、フミさんは行商などをして生活を支えました。その頃から亀次郎さんの政治活動に対し、米軍は圧力をかけます。亀次郎さんはやむなく49年8月3日、社を去ります。
1949年8月6日付「うるま新報」に載せた「退社声明書」で、亀次郎さんは「私は民族解放運動の一兵卒として琉球民族戦線結成のため全身全霊」を打ち込む覚悟を表明しました。
そして1952年、瀬長亀治郞さんは立法院議員選挙に立候補し、当選しました。同じ年、フミさんは楚辺の自宅のそばに雑貨店を開きます。開南小学校に通っていた千尋さんは店番を任されました。
娘で今年78歳になる千尋さんはこう言います。
《この地で小さな雑貨店を開き、生活を支えていました。私も学校から帰ると店番をするのが日課でした。》(琉球新報2023年9月15日)
偶然に乗ったタクシーで瀬長亀治郞のさんに関わる話を聞くことができたこと、うれしくもこのことは偶然のことなのか、それとも瀬長亀治郞さんについては今も広く沖縄の人たちに語り継がれていることなのか、そんなことを考えているうちに「識名霊園」に着きました。