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日本の旅の記録です・・!!

国内旅行をはじめハワイや沖縄、世界遺産など国内各地の旅の記録です。

ハワイの旅(12):「真珠湾のメモリアル・・、」

2008年08月30日 09時47分15秒 | ハワイの旅
ハワイの旅(12):「真珠湾のメモリアル・・、」  


記念館より沈没船「アリゾナ」へ向う連絡船と海上のアリゾナのメモリアルホール


沈没船「アリゾナ」の残骸、中央排気筒付近・・?


海上にある「戦艦アリゾナ」のメモリアルホール


フォード島と「戦艦・ミズーリ号」(左)


「戦艦・アリゾナ」  
次に船で「戦艦・アリゾナ」が沈んでいる場所へ向かった。 そこは「アリゾナ記念館」といい、パールハーバーの海上に建設された白亜の慰霊塔である。
壁一面に書かれた戦没者の名前、海中に見える船の遺影等、悠々と泳いでいる魚を見ると、長い時間を経ていることを実感させてくれる。

その場所に立つとすぐ足の下の海の中に、巨大な戦艦アリゾナが水没しているのをハッキリ見ることができる。 
1941年12月7日(日本時間8日)早朝、日本軍の奇襲攻撃によって、戦艦アリゾナは大勢の乗組員とともにパールハーバーにおいて轟沈された。
その後、日本とアメリカはその後4年間にわたり、数十万人に及ぶ犠牲者を出す壮絶な戦争に突入することになる。

「アリゾナ記念館」は、太平洋戦争の火蓋を切ることになった歴史的場所でもある。
日本軍の不意打ちにより米軍兵士が戦艦もろとも海の中に沈んだ。 戦死したとされる1177名の遺体が、今も、この戦艦アリゾナと共に水の下に沈んでいるのである。
海面には現在も、撃沈されたそのままの様子で時代と風波に晒されながら、その姿・残骸を留めている。
そして、この戦艦から、当時の積載重油が断続的に海面に浮き出てくる。 それは死者の魂が、今も一つずつ昇天するがごとく・・。
日本人として、その真上に立つことはとても勇気のいることでもあろう。そして、このツアーは日本人にとって“戦争反省の見学会”とでも言えるようなものでもあった。
確かに、戦争の悲惨さや歴史の現実がここには有った。
合掌・・!!。

帰路、フォード島に停泊する「戦艦・ミズーリ号」の横を通りながら、それなりの説明を受けた。
艦名は当時のトルーマン大統領の出身州ミズーリ州に因んで命名された。 太平洋戦争での日本の降伏調印式場となったことは周知であろうが、現在、パールハーバーで記念艦として保存され、艦内見学も可能である。(別ツアーに有り)
ミズーリ号は太平洋戦争では主力艦として活躍、硫黄島や沖縄戦に出撃、戦艦大和の撃沈にも絡んでいる。 又、湾岸戦争では改良復役され、巡航ミサイル「トマホーク」を搭載して合計28発発射したという。


次回は、 あの“気になる木“・・



ハワイの旅(11)「日本軍と真珠湾・・、」

2008年08月29日 10時02分08秒 | ハワイの旅


ハワイの旅(11)「日本軍と真珠湾・・、」  


太平洋戦争における日本軍の米国・真珠湾攻撃・・、 
真珠湾攻撃は、日本時間1941年12月8日(ハワイ現地時間12月7日)に日本海軍がハワイ真珠湾のアメリカ海軍の太平洋艦隊と航空基地に対して奇襲攻撃を行った。
そして、世界史的にはこの攻撃によって太平洋戦争/大東亜戦争が始まり、日本とアメリカが正規に第二次世界大戦に参戦したことになる。

軍事上では従来海軍の主力と見なされてきた戦艦部隊を航空機攻撃によって壊滅させたことになり、作戦は成功し、戦艦アリゾナなどアメリカ軍の戦艦8隻を撃沈または損傷などの大戦果をあげたとされる。
当時、航空機では戦艦などの主力艦の撃沈は不可能であると信じられていたが、空母(航空母艦)の集中使用による大規模空襲はその神話を見事に打ち砕いて見せたのであった。こうして大艦巨砲主義時代は完全に終焉を迎え、時代は航空主兵時代へと移っていったのである。

そして、この時、アメリカ海軍の主力空母は真珠湾外で輸送など任務に従事していたため無傷であり、その後のアメリカの作戦において大きな力を発揮したとされる。
又、沈められた戦艦の中にも後に引き揚げられ再生されたものもあり、最終的にアメリカが失った戦艦はたったの2隻であったともいわれる。
太平洋戦争中において、この時以外はアメリカ戦艦の喪失はない。

当初から日本とアメリカの国力差から、日本海軍は山本長官(山本五十六)をはじめ短期決戦を想定していた。 
しかし、攻撃目標に含まれていたアメリカ主力空母が真珠湾に停泊しておらず、撃沈できなかった事は、緒戦で何とかアメリカが持ちこたえる原動力となり、日本海軍は短期決戦戦略が頓挫する一因ともなったとされる。
そして、被害はあくまで艦船だけであり、人的被害は小さかった(艦船の乗組員の多くは上陸していた)事であり、乗るべき戦艦を失った乗組員の多くは、新たに建造された空母へと配置転換され、むしろアメリカ海軍の航空主兵への転換を手助けする結果となったともいわれる。

更に、宣戦布告なしにハワイ真珠湾を攻撃したとされる日本に対して、米国民は激昂し、これ以来、「リメンバー・パール・ハーバー」の合い言葉によって、米国民は一致団結してゆくことになる。
この言葉は、「卑怯・卑劣なこと」の代名詞としても使われたともいう。

以後、日本、日本人をJapan, Japanese(ジャパン、ジャパニーズ)と呼ばず、Japジャップと侮蔑的に呼ぶようになり、この事が、戦争の最終段階において広島、長崎の原爆にも繋がったともいわれるが・・?。


記録映画の鑑賞は約25分程度・・、だが、この僅かの時間が日本人として重く感じられるのは当然であった・・。

次回は、 「戦艦・アリゾナ」



ハワイの旅(10) 「追憶の地・パールハーバーへ・・、」

2008年08月28日 08時54分12秒 | ハワイの旅


ハワイの旅(10) 「追憶の地・パールハーバーへ・・、」  

さて、「ハワイ」の2日目である。 
今朝は先ず最初に「パールハーバー・アリゾナ記念館」という観光ツアーに出掛ける予定である。 
起床がやや遅れ気味であったが、AM5:30分に目覚めて、あたふたと朝食を摂ってホテルを後にした。 間際に貴重品ロッカーの暗証番号にトラブルが発生したが、何とか治まったのであるが・・。

小型の乗り合い車が、シェラトン・Hより「パールハーバー」へ向う・・。
予定通りAm6:45分の出発で、我らも含めて三組の男女という少人数にドライバー兼任ガイドと伴に・・。
ワイキキの北側のアラワイ運河からカラカウア通りを経て幹線高速のH1道に出る。ホノルル空港の北を過ぎると大きく入江を成している「真珠湾・パールハーバー」に着いた。


「パールハーバー・アリゾナ記念館」
パールハーバーとアリゾナ記念館の見学ツアーである・・。
ここに訪れる日本人は観光客全体の1%くらいともいわれ、確かに少ないようであるが・・、しかし、しかしである、既に長蛇の列なのであり、駐車場は車で溢れているのである。
朝から炎天下での行列であるが、列は意外と速く進んでいる。
ガイドの説明を聞きながら、やがて入場口に到達した。
右手に、奇麗に塗装され、保存された戦艦アリゾナの巨大な錨が展示してあった。
若干の説明を聞きながら日本語通訳用のレシーバーと5番の整理券を渡された。
整理券は、8時45分に映画を鑑賞し、その後沈没している「戦艦アリゾナ」を船で渡って見学するのである。

間があるので屋外の説明パネルと館内の戦闘当時の展示物を見学する。
展示の一つ一つに重みを感じながらも、特に、作戦の司令艦だった「空母・赤城」のミニチュアながら、その巨大さと迫力に感心する。
この当時の日本の姿をかいま見て、その技術力、精神力を改めて思い起こすのである。
現代の若い人には是非見てもらいたい所でもあるが・・、実際、日本人は少ないようであった。

入江の向いにあるフォード島には、岸壁に接岸されているグレー色の戦艦ミズーリ号が望める。
ミズーリは、現役でもまだ機能すると云われる戦艦であり、それなりの大きさがある。大砲や操縦室、高官の部屋、そして船員たちの部屋が生で見られるという。
戦艦ミズーリは、1945年8月29日、第二次世界大戦終結のため、東京湾の艦上で行われた日本軍と連合軍との降伏文書調印式が行われた戦艦である。
当初、戦艦「ニュー・ジャージー」を使用する予定であったが、ハリー・S・トルーマン大統領がミズーリ出身であったために、この艦が選ばれたらしい。
戦艦ミズーリは、第2次世界大戦の後、朝鮮戦争や湾岸戦争を歴戦していて、引退後、ここフォード島に戦艦歴史博物館として真珠湾に係留しているのである。 

さて、定刻がきたので、いよいよ館内入場である。
早速映画(記録映画)の上映が始まった。主な内容は、当時の日米の国内事情を踏まえながら戦争に突入する、日本軍の奇襲攻撃といわれる「真珠湾・パールハーバー」を克明に描いている。真珠湾攻撃を前に、日本海軍は真珠湾に形状が似ている錦江湾(鹿児島県)を訓練場としたのだが・・。

次回は、太平洋戦争での日本軍真珠湾攻撃



ハワイの旅(9);ワイキキ(Waikiki)について・・、」

2008年08月27日 09時51分23秒 | ハワイの旅


「ハワイの旅(9);ワイキキ(Waikiki)について・・、」  


ワイキキビーチとホテル群

その前に「ワイキキ(Waikiki)」について・・、
ハワイ州は、太平洋の中間に位置するハワイ諸島にあるアメリカ合衆国の州であり、漢字では「布哇」と書くらしい。
ハワイ島、マウイ島、オアフ島、カウアイ島など主要な八つの島(内、ニイハウ島は個人所有)と100以上の小島からなる諸島が丸ごとハワイ州に属していて、州都はオアフ島のホノルル市である。
ホノルルはハワイ州の政都であるが、観光の中心はやはりワイキキであろう・・。

ワイキキはハワイ州・オアフ島のホノルルにあるハワイ観光の中心地で特にビーチが美しいので知られている。
場所は、オアフ島南部に位置し、南のビーチ、西と北はアラ・ワイ運河に挟まれ東はダイヤモンドヘッドまでの地域を指している。 
ワイキキはハワイ語で「水が涌く」の意味で、元々、この辺り一帯は湿地帯であり、18世紀末まではハワイ王朝の保養地でもあった。

1898年にハワイがアメリカの自治領として併合された3年後、1901年に、モアナホテル(現シェラトンモアナサーフライダー)がワイキキ初のホテルとして開業以来、リゾート地として開発されることとなり現在の隆盛に至っている。 
なお、ワイキキ・ビーチはカリフォルニアから白砂を運んで作られた人工の砂浜であるという・・?。 

近年は、メインストリートのカラカウア通り、クヒオ通りを中心に多数のリゾートホテルやショッピングセンター、飲食店が建ち並び、多くの観光客が訪れている。
中でも日本人観光客が多く、新婚旅行や挙式をするカップルもいるのは周知である。 特に、近年では若い人、特に女性のグループが目立つという。
ワイキキ周辺での移動の便宜をはかるためワイキキ・トロリーという路面電車風(チンチン・バス)のバスが一帯を巡っている。


ワイキキ・トロリー


さて次回「ワイキキ」です

ハワイの旅(8);「カラカウア通・・、」

2008年08月26日 10時35分50秒 | ハワイの旅

ハワイの旅(8);「カラカウア通・・、」  



ワイキキ・カラカウア通り
ワイキキビーチとシェラトンホテル

「ワイキキ・カラカウア通り」
カラカウア通り、ロイヤルハワイアンショッピングセンターの向い側に「インターナショナルマーケッテングプレイス」・・?がある。 


マーケッテングプレイスにあるバニアン・ツリー(ガジュマルの木)

路地沿いに小物アクセサリーなどのショッピングゾーンが並ぶが、その通りの正面に巨大な変わった樹木が聳える。 幹が、大小・多種多様に複雑に絡み合って天を覆っているのである。 
バニアン・ツリーという樹木だそうで・・、 幹の部分は何なんだ・・!!、というような複雑な形状をしている。


公園にある「ガジュマル」の木

バニアンの樹の種類には、Chinese BanyansとIndian Banyanの2種類があって、前者は日本にもある「ガジュマル」だといわれる。
クワ科イチジク属に属しているのでイチジクの仲間であるが、バニアンには「主幹」と呼ばれるような幹がないらしい・・。

ガジュマル(漢名:榕樹、Chinese Banyan)は、熱帯地方に分布する常緑高木で、日本では沖縄県や屋久島など南西諸島に、世界では台湾やインドからオーストラリアなどにかけて自生している。 小笠原諸島では植栽がなされている。
樹高は20m、幹は多数分岐して繁茂し、囲から褐色の気根を垂れる。 垂れ下がった気根が自分の幹にからみつき、派手な姿になる。
気根は当初はごく細いが、太くなれば幹のように樹皮が発達する。 地面に達すれば幹と区別が付かなくなるという。
この特異な樹木を見るにつけても、南国ハワイへ来たんだなーという実感がこみ上げる。
 

尚、ハワイのコンビニといえば「ABCマート」といわれるが、さすがにここワイキキは特に多そうで100m歩けば「ABC・・」にぶつかるほどである。
ホテル近くの「ABC・・」で今夜の夕食分を設えてホテルに戻った・・。
ビールとささやかな簡単食事で、機中での寝不足や明日の早朝予定を考慮して、早々にベット・インとなった。
第1日目終り。


次回は、 第2日目:「パールハーバー・アリゾナ記念館」からスタート・・、