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日本の旅の記録です・・!!

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古都鎌倉(26) 「鎌倉編まとめ・・Ⅱ」

2009年07月09日 18時42分28秒 | 鎌倉編
長らくの御精読有難う御座いました。
「古都鎌倉めぐり」は本稿で一先ず終了しますが、機会があれば他の寺社をも巡って再度記載したいと存じます・・、その節は宜しく。
尚、当「ブログ」にて、『日本一周』の記録を掲載しております、宜しかったらご覧ください。


『日本周遊紀行』 http://blog.goo.ne.jp/orimasa2005 
 



引続き、鎌倉創世記の主な武将について・・、

『北条 時政』(ほうじょう ときまさ)
桓武平氏の流派、伊豆北条庄を拠点とした北条氏の当主。
源頼朝が伊豆に流されその監視役となり、初期の勢力は、伊東や大庭に囲まれていたことから勢力的には不安定であった。
頼朝の登場により家運が上昇し、娘の政子が頼朝の妻となった縁から、幕府が創立されると重用され頼朝の外戚として勢力をふるう。 源平合戦の間はつねに鎌倉にあり、幕府創設に尽力した。 北条幕府・初代執権
1199年、頼朝が死ぬと北条氏の権力強化を図って、有力御家人であった梶原景時や比企能員らを誅殺、さらに1205年には有力御家人の畠山重忠父子を謀反の罪で滅ぼす。
その後は子の北条義時と政子に強制的に出家させられ、隠居の身分となって以後、政治の表舞台に立つことなく生涯を終えた。

『北条 政子』(ほうじょう まさこ)
鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室である。 北条時政の娘、源頼家、源実朝の母で「尼将軍」と称された。
鎌倉では頼朝の良き理解者、協力者、意見者であり、幕府創立の陰の功労者であった。
1199年に頼朝が死去すると、落飾して尼御台と呼ばれ、2代将軍の源頼家を補佐し、父時政や弟の北条義時とともに北条氏による合議制を確立する。
1203年には頼家を修善寺へ幽閉して殺害し、外戚として勢力を持った比企氏を滅ぼす。さらに義時とともに父時政を失脚させる。
1221年(承久3年)には、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して倒幕の兵を挙げた「承久の乱」では、動揺する御家人を前に頼朝以来の恩を説き鎌倉方をひとつにまとめる等、政治的辣腕を振るう。
義時の没後は甥の北条泰時を執権に据えて、1225年に死去、享年68。
墓所は神奈川県鎌倉市の寿福寺

『三浦義澄』(みうらよしずみ)
桓武平氏の流派、三浦半島に根拠をもつ名門で、平安中期奥州の乱(後三年の役)で源義家と共に活躍。 この時「義」の字を賜り、以降三浦家は「義」の名称が多く、同時に源氏方に成る。
平安時代末期~鎌倉時代初期の武将・御家人で、三浦義明の次男、三浦家当主、子は三浦義村。
1180年、源頼朝が石橋山の合戦で挙兵した際には悪天候のため参戦できず、引き返す途中で父・義明を討ち死にさせてしまう結果となったが、その後房総半島へ渡ってきた頼朝に味方し、平家方の畠山重忠を破って頼朝と共に鎌倉に入る。
義澄は千葉常胤・上総広常・土肥実平らと共に頼朝の宿老となり、その後も、一ノ谷の合戦や壇ノ浦の合戦、奥州征伐に参戦して武功を挙げる。
1199年、頼朝が亡くなった後には2代将軍源頼家を補佐する十三人の合議制の一人となる。翌年、梶原景時の鎌倉追放に加担し、梶原一族が討たれた3日後に病没。享年74

『和田義盛』(わだ よしもり、)
鎌倉幕府の御家人 三浦氏の一族であり、子は和田常盛、和田義直、朝比奈義秀。
鎌倉幕府侍所初代別当(長官)。三浦一族とともに1180年に挙兵した源頼朝に属し,同年の鎌倉幕府成立後に侍所別当に任ぜられた。
その後,平氏追討,奥州藤原氏征伐にも従軍して活躍。
九郎義経の首実検に梶原景時とともに立ち会った際には、そのむごたらしさに涙する人情家の一面もあった。 幕府成立後は幕政の中枢にあって北条時政・義時らとともに1199年の梶原景時の弾劾・追放,1203年の比企能員の乱の制圧などで主要な役割を担った。
しかし次第に義時との対立が高じ,1213年に義時の執拗な挑発に乗って鎌倉府内で挙兵。当初は味方を約束していた三浦義村らが離反したため敗北,討死した(和田合戦)。
享年67、尚,木曾義仲の愛妾・巴御前を後妻に迎えていたとする説もある


    《 京・公家出身の鎌倉事務官衆 (50音順) 》        

『一条 能保』(いちじょう よしやす)
平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての政治家で、妻は源頼朝の同母妹。
頼朝の縁者に当たったことから、左馬頭・右兵衛督・参議・左兵衛督・検非違使別当・権中納言・従二位と異例の栄進をする。
能保自身は後白河天皇(法皇)に仕えて重用され、妻や娘は後鳥羽天皇の乳母となった。さらに頼朝から京都守護に任命されるなど、頼朝からの信任は厚い。
頼朝の義弟であるため代官的役割を担い、京と鎌倉をつなぐパイプラインとして活躍した。京都守護にあたっては謀反人九郎義経の探索に精を出した。
頼朝にも、後白河法皇にも重用されたエリート官吏だった。

『大江 広元』(おおえ の ひろもと)
鎌倉幕府の政所の初代別当(長官)。
源義家(八幡太郎義家)に兵法を教えたとされる大江匡房(おおえ の まさふさ)のひ孫で、広元には兄の中原親能がいた。
親能は源頼朝と親しく、その縁から1184年に広元も召しだされて頼朝の家臣となり、政所の前身である公文所の別当として辣腕を振るった。
1185年に頼朝が守護・地頭を設置したのも、全ては広元の献策によるものであると言われている。 むしろ政治方針のほとんどは頼朝ではなく彼が決めていたとも言われる。
頼朝の死後は、北条義時や北条政子と協調して幕政に参与し、承久の乱のときも、政子に協調して幕府軍を勝利に導いた影の功労者のひとりとなった。
広元の死後、大江氏は鎌倉幕府の幕政になおも参与したが、1247年の宝治合戦で三浦泰村に協力したために、一族のほとんどを誅殺されて衰退してしまう。
しかし、このときに生き残った広元の子孫が、後の戦国大名となる安芸国や出雲国の毛利氏(わが町、厚木の毛利の庄の出身・広元の子・季光)や、三河国の海東氏や酒井氏、備後国の長井氏、越後国の北条氏(きたじょうし)、出羽国の寒河江氏などの祖につながることになるのである。

『三善 康信』(みよし やすのぶ) 
鎌倉幕府の初代問注所執事。 元々は、公家で算道(平安時代の大学寮の四科の一。数を計算する法。算法。算術。)の家柄の出身。
源頼朝の乳母の比企尼が母の姉であった関係で伊豆国に流された頼朝に、京都情勢や朝廷、平氏の動向を逐一報告した(京都定期便)。 後に頼朝に呼ばれ、大江広元と共に下向、幕政の屋台骨として頼朝をよくサポートし、政務を担当した。初代問注所執事として裁判事務の責任者となった。
頼朝死後、二代将軍源頼家の独裁ぶりに不安を抱いた御家人の代表による十三人の合議制にも参加。
1221年(承久3年)の承久の乱に際しては病身の身で会議に参加、大江広元の即時出兵論を支持した。同年、承久の乱後に没した。
 

文部省唱歌   「鎌倉」  作詞 芳賀 矢一   作曲 不 詳

1  七里ヶ浜の いそ伝い      2  極楽寺坂   越え行けば
   稲村ヶ崎 名将の           長谷観音の  堂近く
   剣投ぜし 古戦場           露坐(ろざ)の大仏  おわします

3  由比の浜辺を 右に見て     4  上るや石の  きざはしの
   雪の下村   過ぎ行けば       左に高き    大銀杏
   八幡宮の   御社(おんやしろ)   問わば遠き  世々の跡

5  若宮堂の  舞の袖       6  鎌倉宮に   もうでては
   しずのおだまき くりかえし      尽きせぬ親王(みこ)の みうらみに
   かえせし人を しのびつつ       悲憤の涙   わきぬべし

7  歴史は長き  七百年      8  建長円覚   古寺の
   興亡すべて  ゆめに似て       山門高き    松風に
   英雄墓は  こけ蒸しぬ        昔の音や    こもるらん


  『終』



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古都鎌倉(26) 「鎌倉編まとめ・・Ⅰ」

2009年07月09日 18時42分10秒 | 鎌倉編
巡った寺社、史跡の順番・・。
鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮・護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院>⇒東慶寺⇒常楽寺⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎>⇒満腹寺⇒龍口寺⇒⇒常立寺⇒「鎌倉まとめ」

古都鎌倉(26) 「鎌倉編まとめ・・Ⅰ」


  相模湾に南面し、四方を山に囲まれた、この地鎌倉に源頼朝が入ったのが1180年、1192年には武家政権・鎌倉幕府を創生した。以来150年の間、鎌倉は日本の政冶の中心となり、それに伴なって鎌倉文化も華開いている・・。
 現在、古都鎌倉を巡るとき、神社仏閣70数箇所、古跡名所を含めると実に300ヵ所以上と言われる。小生今回巡ったのは20箇所程度にすぎないが、各箇所においての歴史や文化の背景を探る時、若干でも往時の鎌倉が垣間見え、その時代の息吹きが感じられた・・、やはり鎌倉は凄かった・・。
 尚、鎌倉開府の折、頼朝に伴なった創生人(家人衆)達を列記してみた。
 そして往時の鎌倉を唄った、小学校唱歌「鎌倉」を付してみた・・。
 


《 関東御家人衆  (50音順) 》

『安達 盛長』(あだち もりなが)
出身は陸奥国安達郡(福島県安達郡)・・?通称は藤九郎、妻は源頼朝の乳母比企尼の娘丹後内侍(宮中の女官)。 奥州藤原の氏流、 源頼朝が伊豆の流人であった頃から仕える。1180年の頼朝の挙兵以来、これを援け関東武士の糾合に活躍。
石橋山の戦いの後、頼朝とともに安房に逃れる。
頼朝が再挙して、鎌倉に本拠を置き関東を治めると、奉行人として重用される。
1189年、奥州合戦に従軍。頼朝亡き後、有力御家人となっていた安達氏は、執権北条氏に自分の娘を嫁がせ、執権の外戚として権力を振るった。
また、同じ御家人で勢力を持っていた三浦氏との戦い(宝治合戦)に勝利するなど、一時は北条氏と並ぶ権力を持っていた。
安達盛長の屋敷は現在の甘縄神社であった。 神社の前に「安達盛長邸址」の石碑が建っている。

『梶原景時』(かじわら かげとき)
鎌倉幕府初期の有力御家人。
家系は桓武平氏の流れで、三浦家流派。頼朝の曽祖父 八幡太郎義家の家人として「後三年の役」で活躍した鎌倉権五郎景政の末裔・・、子に景季がいる。教養があり、和歌を好み、武家百人一首にも選出されている。
1180年の石橋山の戦いで平氏に属し、敗軍の頼朝を見逃してその危機を救い、後に重用される。 頼朝の命により上総広常を謀殺。 源義仲追討軍に従軍。 平家追討に参加し義経の参謀、戦況を常時頼朝へ報告(一部、讒言ととられる)、その功で播磨、美作守護職を与えられる。 源義経が後白河法皇に頼朝追討の院宣を出させると、これを頼朝に知らせる。
頼朝の死後は、源頼家を補佐する。1200年、所領の相模国一ノ宮より上洛の途中、幕府軍と戦闘、嫡子景季と共に討たれる。

『千葉上総介広常』(ちばかずさのすけひろつね)
千葉の豪族、千葉常澄の子、源頼朝挙兵の際は当初これに加担せず,同族の常胤が頼朝に加勢するに及んで,兵2万騎を率いて参陣した。 しかし彼の遅参を頼朝は怒り、会おうとしなかった。
広常はその仕打ちに「これこそ大将の器」とかえって感じ入り、あらためて忠誠を誓った。富士川に参戦。坂東有数の大豪族という自負から驕慢なふるまいが多く、頼朝に勢力の強大化を恐れられ,1183(寿永2)年に謀反の嫌疑をかけられて梶原景時により殺害された。

『河越 重頼』(かわごえ しげより)
現、「川越」の豪族、平氏方。石橋山の戦いで敗れた頼朝が安房国で再挙して、武蔵国に入ると参陣・・、御家人として重く用いられる。
一ノ谷の戦い後、頼朝の命により、娘(郷御前)を義経に嫁して舅となる。
1185年、頼朝と義経が対立し、義経が後白河法皇から頼朝追討の宣旨を受けると、重頼も頼朝から敵対視されるようになった。
同年11月、重頼は所領を没収され、間もなく嫡男の重房と共に誅殺された。しかしさすがに「あんまりだ」と思われたのか、その所領の大半は重頼の老母に譲渡された。なお妻は頼朝の乳母比企禅尼の娘である

『熊谷直実』(くまがい・なおざね)
通称、次郎直実・・、武蔵熊谷郷(現在の埼玉県熊谷市)の出身。
源頼朝の挙兵の時、初め平氏側についたが、のち源氏側についた・・、「平家物語」に述べられる一ノ谷の戦いでの平敦盛との対戦は有名である因みに。
子孫は京都と東京で鳩居堂(銀座鳩居堂は地価日本一の所)という和文具・香道具屋を営んでいるといわれる。

『佐々木秀義』(ささきひでよし)
近江源氏嫡流、平安末期の武将。近江の佐々木庄を地盤、伊豆で流人生活をしていた頼朝を世話するべく、息子定綱・盛綱らを派遣した。
頼朝旗挙げの際にも、定綱、盛綱のみならず次男の経高や当時京にいた四男の高綱をも呼び寄せてサポートした・・、その功により本領を安堵され佐々木庄へと戻る。
平家の残党狩で近江権守を贈られる。

『土肥 実平』(どい さねひら)
生年不詳 ・・、実平は相模国西部の有力豪族・中村氏の出で、土肥郷(神奈川県湯河原町)を本領とし、源頼朝が挙兵すると嫡男の遠平ら中村一族を率いて参じている。
石橋山の戦いで敗北すると、頼朝と共に落ちのび、頼朝主従が「しとどの窟」に隠れていたのを梶原景時が見逃した逸話はこの時のこと。 この後、実平の用意で真鶴から房総半島の安房国へ脱出した。
一ノ谷の戦いでは源義経に参軍。壇ノ浦後には平宗盛の護送もつとめた。
義経都落ちのあとは、京都の治安維持を任され、疑り深い頼朝にすら終生信頼され続けた稀有な武将である。
1189年、奥州合戦に参加・・、この記述を最後に実平は史料から姿を消している。 しかし、実平の子孫は着実に有った、孫は安芸国(広島県)に移り小早川を名乗った。
後に毛利家の筆頭家老となる小早川家の祖となる。
また4代目は富山郷(富山県)に移り、土肥称を名乗り、戦国期、江戸期を生き抜いて、実平から800年以上土肥氏は今も繁栄を続けているという。
富山周辺地域は今も土肥称が多い・・。

『土佐坊昌俊』(とさのぼうしょうしゅん)
渋谷重家(東京・渋谷地方の領主)の子。
頼朝の父、義朝に小姓として仕えていたが,1159(平治元)年の平治の乱で義朝が敗れて横死した後は出家、その後,土肥実平の仲介で源頼朝に仕えた。
1185(文治元)年に頼朝の命を受けて京の源義経邸を襲撃(いわゆる「堀河夜討」)するが敗れ、斬首されたという。(義経が許して放免したとする説もある)

『那須 与一』(なすの よいち)
栃木・下野国の生まれ、与一は通称で本名は宗隆、妻は新田義重の娘。
「平家物語」には弓の名人で、源平合戦では源氏・源義経に属し、1185年の屋島の戦いで扇の的を射抜いた話が記されている。 80メートル先の的にでも当てることのできたとされる弓の名手。
源平合戦後、鳥取城初代城主に任命される。

『畠山重忠』(はたけやましげただ)
桓武平氏の一党、 武蔵国男衾郡(おぶすまのこおり)畠山郷(現・埼玉県大里郡川本町)生れ。
源頼朝の挙兵に対し、重忠は当初、平家側につき、祖父の三浦義明を討ち取った・・が、しかし源頼朝が鎌倉入りした際、重忠は先祖が八幡太郎義家(源義家)より賜った家宝の白旗(源氏の軍旗)を持って帰参し、頼朝の為、各地の戦線に参戦、忠勇無双の士として名高い。
頼朝に九郎暗殺を頼まれて、これをきっぱりと拒んだという、九郎に理解を示していた数少ない坂東武者のひとりであった。
頼朝の二度の上洛には、いずれも先陣を務めた。その後、北条時政から謀反の疑いを掛けられ、武蔵国二俣川(現・神奈川県横浜市旭区)において鶴ヶ峯の戦いに敗れ討死。

『比企能員』(ひき よしかず)
鎌倉幕府の有力御家人。 源頼朝の乳母の比企尼の養子で、当初、藤四郎と称した・・、平氏追討に従軍。
1189年(文治5年)義経の奥州征伐には北陸道大将軍に任命。
源頼朝とともに上洛、右衛門尉に任ぜられる。頼朝の信任が厚く、上野国・信濃国守護に任命される。
1199年十三人の合議制の1人に加えられ、梶原景時排斥にも荷担。 娘の若狭局が源頼家に嫁して、子、一幡を生み、外戚として権勢を振う。
威力権勢を振るう北条時政の追討密議が事前にもれ、時政の自宅で謀殺された。 さらに比企の屋敷(現:妙本寺)にも兵を送られ、若狭局や一幡ら一族を滅亡させられた。


続いて、Part Ⅱをどうぞ・・。


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古都鎌倉(25) 蒙古ゆかりの「常立寺(じょうりゅうじ)」

2009年07月02日 09時42分15秒 | 鎌倉編
「ジェームズ」さん、有難う・・、写真拝借しました。
(「常立寺」にてモンゴル勢関取一同:白鵬は当時大関・・「2006・4月」)

巡った寺社、史跡の順番・・。
鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮・護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院>⇒東慶寺⇒常楽寺⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎>⇒満腹寺⇒龍口寺⇒⇒常立寺⇒
(鎌倉まとめ)

古都鎌倉(25) 蒙古ゆかりの「常立寺(じょうりゅうじ)」



「江ノ電」で江の島駅、丁度モノレールの江ノ島駅の裏側に「常立寺」がある。
寺院は、近くの龍ノ口刑場で処刑された人達を 弔うために建立されたお寺で、尚、モンゴルに所縁のあるお寺である。 知る人ぞ知る「枝垂れ梅」の名所でもある。

現在、大相撲界においてモンゴル勢(旧元)が数多く活躍していることは大抵の人はご存知であろう・・。
小生も微々ながら大相撲ファンの一人で・・、モンゴル力士といえば、先ず横綱・朝青龍 関脇・白鵬(当時・・、現横綱) 旭鷲山(現、引退)、旭天鵬、朝赤龍、安馬、時天空等・・。
この4月(2005)大相撲地方巡業として神奈川・藤沢場所が開催された・・、これに先立って、横綱・朝青龍以下、モンゴル出身の幕内・十両力士20余人が、場所前日に 片瀬の「常立寺」を訪問、境内にあるモンゴルゆかりの「元使(現モンゴル)・五人塚」へ参拝したという・・。


鎌倉期、蒙古(現モンゴル国)の 国王・「フビライ」は、大軍をもって日本に襲 来したが失敗した。
翌年の建治元年(1275年)今度は、五人の国使を日本に送り 降伏を要求してきたが、しかし時の鎌倉幕府はこれを拒否 、国使 五人を9月7日龍ノ口刑場で処刑し、死骸をこの常立寺に埋葬したという・・。
ここに五基の五輪塔が建てられ「五人塚」と呼ばれている。

鎌倉期、大陸の王国「元」はアジア内陸をほぼ制圧し、その後、朝鮮半島の「高麗」、中国南部の「南宋」を落とした。当時、日本(鎌倉幕府)と南宋は交易関係にあり、黄金の国・日本の情報を得て、いよいよ日本に食指を延ばしてきたのである・・。
国王クビライは日本に通商を求めるべく使者を派遣するが断られる。 クビライは、その後も何度か日本に使者を出したが全て無視された。
この間、朝廷と幕府で話し合いをもち、朝廷内では「元の要求に屈するべきではない」という強硬論が強かった事から、国書を黙殺する事になったといわれる・・。 
クビライはこれを機に、武力侵攻を決定した・・、「元寇」である。 「寇」とは外から侵攻することで、侵略する敵のことをいう・・。

先ず「文永の役・・」 である・・、
文永11年(1274)高麗を出航した元軍は対馬、壱岐を襲撃し平戸の松浦党を全滅させた・・、そして遂に博多に上陸する・・。

戦役で、外国軍が日本本土へ直接上陸したのは、この時と、後年、太平洋戦争で米軍が沖縄へ上陸したのと2度だけであったが・・。
日本側は少弐氏(しょうにし:武蔵国の武藤氏が大宰府の次官である大宰少弐に任命されたことから始まるという)や大友氏をはじめ九州の御家人を中心として大宰府に集結していた。
日本の武士は、当初は名乗りをあげての一騎打ちや少人数での先駆けを試みるだけで、たた一方的に損害を受けた。 
しかし直後には集団戦術にも慣れて対応することができ、また増援の到着により反撃に転じた。 海岸付近で激しい矢戦となり戦線は膠着し内陸への侵入を阻止した。 やがて日没とともに戦闘を解き、日本軍は「大宰府」に帰った。
一方、元軍は日本軍の抵抗のため海岸へ上陸したものの前進できず、終日の激戦で矢が尽き、日本軍に大損害を与えたものの「元」の損害も大きく、軍の編成も崩れた。
元軍は、戦況を不利とみて大宰府攻略を諦め、博多に火をかけて焼き払い、船団へ撤退していった。
その後は日本軍の夜襲もあり、我先にと錨を上げて撤退し、おまけに、風雨激しき玄海灘で多数が遭難した。
翌日、元の船団は姿を消しており、「文永の役」は終結する。 元・高麗軍の不還者は1万3500余人とされる。

日本軍は、初めて異国軍と戦い、武士達は面食らったらしい・・。
「やあやあ、我こそは・・・」と言って一騎ずつ戦う武士に対し、大男が集団で喚声を上げながら襲いかかり・・、又、兵器の面でも元軍は火薬を使い、その轟音と閃光には肝を冷やしたという・・。

さて次に「弘安の役」であるが・・、 
翌年(1275)クビライは再び日本に使節を送った。 時の執権・北条時宗はこの使者を全員斬首に処したという。 これは、使者が日本の国情を詳細に記録・偵察し、即ち、間諜(スパイ)としての性質を強く帯びていたためと言われる・・。
元は使者が殺されたことを知らないままに新しい使者を送り、再び殺されている。(総計、5名という説が有力)
再度にわたる使者を処刑されて激怒した「クビライ」は、日本への再度の攻撃を計画した。
そして、文永の役から7年目(1281、)高麗軍を主力とした東路軍四万と、旧南宋軍を主力とした江南軍十万、計14万の軍が日本に向けて出発した。
しかし日本側は既に、海岸一帯に防衛体制を整えていた。
博多沿岸に約20Kmにも及ぶ防塁を築いてこれを迎えたのである。 いち早く到着した東路軍は防塁のない「志賀島」に上陸するが日本軍の「切り込み」を受ける。

小生、西日本周遊で「志賀島」に立寄っている・・。
福岡市(博多)の北部に、東西10kmにも及ぶ細長く延びた半島で、通常「海の中道」と呼ばれている。 ここへ上陸して内陸へ攻め込もうとしても、難攻好守の地であることは明らかで、地形を知らない元軍は日本軍の餌食になった。
今ではこの地は主に海のレジャー基地になっているが・・。

「文永の役」によって元軍の戦法を承知していた日本軍は優勢に戦い元軍を海上に追い落とし、更に積極的なゲリラ戦術により、大いに元軍を悩ませたという。
大陸育ちの精悍な荒くれも、こと海上では要らぬ時間を費やし、士気は全く衰えていたし、飲食料の調達も大変なはずであった・・。 
そこへまたまた暴風雨が襲来し、元の軍船は浮いているだけの必死の状態となっていて、これを好機と見た武士らは勇躍して元軍に襲い掛かり、元軍を殲滅したという。
元軍で帰還できた兵士は後に開放された捕虜を含めて全体の1、2割だとも言われる。
尚、日本軍は高麗人とモンゴル人、および漢人は捕虜として捕らえずに殺害したが、かって日本との交流のあった「南宋人」だけは捕虜として助命したという。
それ以降、博多の唐人町は「南宋人」の街であるともいわれる。

この戦いによって元軍の海軍戦力の七割以上が失われ、残った軍船もかなり破損されたという。
近年の調査では、博多湾の底で見つかった元の軍船から農業用の鋤(すき)や鍬(くわ)などが見つかり、このため、戦争に勝利した後には入植を目的とし、明確に侵攻侵略を意図したものと見られている。
通説では14万人という過剰な人員も、そのために必要だったと考えられているし、実際の「戦闘員」はかなり少なかったのではないかとも云われる・・。 
この時の日本軍は10万人を超え「元」よりも兵力は多かったともいわれるし、元よりこの時期は、北条・鎌倉幕府の絶頂期でもあった・・。

この時、「元」の使者を斬首したのがこの地「龍の口刑場」で、後の世、この地に「常立寺」を建立し彼等を弔っている・・。 
日蓮宗の龍口山・常立寺は、總寺院・龍口寺を護る寺の一つになっていて周囲に八ヵ寺(本蓮寺・常立寺・東斬寺・勧行寺・本龍寺・妙典寺・本成寺・法源寺)があり、明治時代まで順番で龍口寺の行事などを行ったことから「輪蕃八カ寺」と呼ばれていたという。

本稿案内は終了しました。 序ながら、「鎌倉のまとめ」をしてみました。
又、次回の「ブログ」もお楽しみに・・。


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古都鎌倉(24) 「法難の寺・龍口寺」

2009年07月01日 09時40分24秒 | 鎌倉編


写真:龍口寺本堂と鎌倉唯一の「五重塔」

 巡った寺社、史跡の順番・・。
鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮・護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院>⇒東慶寺⇒常楽寺⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎>⇒満腹寺⇒龍口寺⇒常立寺⇒(鎌倉まとめ)

古都鎌倉(24) 「法難の寺・龍口寺」

満福寺を江ノ電の路面に沿って行くと、間もなく大きな十字路に出る・・、この辺り「江ノ電・江ノ島駅」や湘南モノレールの「江ノ島駅」に近く、かなりの賑わいを見せている。往時とはいえ、この地に、おどろおどろした龍ノ口刑場が在った事等、想像に難い・・。「龍口寺」(りゅうこうじ)はこの十字路にあった、階段の正面に堂々たる本堂があり、境内には立派な日蓮上人の墓廟と立像がある・・。
また鎌倉唯一にして県内最古の五重の塔も聳える・・。
山号を寂光山と称する、これは法難に際して上人が「龍の口に日蓮が命をとどめおくことは、法華経の御故なれば、寂光土(仏のいる極楽のような所)ともいふべきか」と申したことに由来しているという。
鎌倉時代、日蓮聖人が幕吏の手によって処刑寸前のところを奇跡により危うく難をのがれたという龍の口刑場跡に建立され た「霊跡寺院」という変わった名が付いた寺院でもある。
五重の塔、大本堂は「神奈川建築物百選」に選定されている。


「法難」・・仏教国の日本にとって、法難という用語がある・・。
広義には仏教に対する弾圧事件のことであり、仏法にとっての災難あるいは難儀であるため、仏教側からの用語として、このように呼ばれる。

弾圧する当事者側からでは、廃仏という用語がある。
端的な例は、戦国時代の織田信長による「比叡山焼き討ち」や、明治新政府の神仏分離政策によって起こった「廃仏毀釈」運動(明治初年の仏教排撃運動。1868年に神仏分離令が出されたのをきっかけに、神道家などを中心に各地で寺院・仏像の破壊や僧侶の還俗強制などが起きた。)である。
狭義に解すると「仏師が、仏法教法を布教する際に受ける迫害」のことでである・・。

「日蓮」が各地で日蓮宗の布教活動を行う際、数々の法難を受けている・・。
主なものに松葉ヶ谷法難、伊豆法難、小松原法難、龍ノ口法難、佐渡法難がある。
日蓮が鎌倉にきて初めて道場として庵をむすんだのが松葉ヶ谷の岩窟(現、材木座、安国論寺)で「立正安国論」が書かれた地という。 この立正安国論は鎌倉幕府に治世の建白書として提出された。 その約一ヶ月後、念仏宗の僧および信徒が徒党を組み、松葉ヶ谷の草庵を襲撃した、この事件を松葉ヶ谷の法難という。
その後も日蓮は布教活動を続け、幕府および関連者にも建白の意義を申し立てるが聞き入れられず、遂に捕らえられ、ここ腰越の龍ノ口刑場にて処刑される破目になる(龍ノ口法難)・・、しかし天運によって一命はとりとめ、佐渡へ流される(佐渡法難)・・。

余計だが・・日蓮は佐渡への途中、小生・住地の近く厚木・「依知」の妙純寺、蓮生寺に滞在していたといわれる・・。


鎌倉期になって、「鎌倉仏教」と言われるほど多くの仏教宗派が創生している。
それ以前は奈良朝においては聖徳太子を中心に、社会秩序の確保と国家の安泰に向 けられる国家仏教の性格が強く、この時期、国分寺の造営など盛んに行はれた・・。
平安仏教では,最澄の天台宗は比叡山,空海の真言宗は高野山など,主要寺院が山岳に営まれ、政治から一定の距離を置くことを意味した。 仏教教団が国家からある程度の独立性を確保したといえる。 

そして鎌倉仏教は法然の浄土宗 親鸞の浄土真宗 一遍の時宗 栄西の臨済宗 道元の曹洞宗 日蓮の日蓮宗と多彩であるが・・、いずれも各々の特徴が有るが、総じて、これら仏教の教義目的は「個人や民衆の救済」を主としたものであった・・。 
ただ、日蓮の日蓮宗は仏教では珍しく他の宗派に対して排他的性格を持ち、特に念仏仏教(浄土宗)を激しく攻撃した。

彼の著に代表的な「立正安国論」がある・・、
これは「法華経」のみが末法(仏の教えがすたれ、修行するものも悟りを得るものもなくなって、教法のみが残る時期、日本では1052年(永承7)に末法に入ったとされる)における絶対の救いであり、「南無妙法蓮華経」(全身全霊を尽くして法華経に従うという意味)という題目のみを唱えるだけで仏になることができると説いた。
又、打ち続く天変地異や社会不安が起きた結果、正法である法華経によって国が救われ、安泰になると確信して書かれている・・。 そしてこの著書は時の執権・北条時頼に建白(政府・上役などに自分の意見を申し立てること)の意味を込めて上呈された。 この時期、幕府、北条家は主に禅宗(臨済宗)を教義とし、大衆も浄土宗をはじめ自由宗派を信仰していたが、日蓮の排他的独善性の教義には戸惑い、曰く、法難を浴びる結果になっていった・・。


小生、昨秋東日本周遊の際、千葉の安房小湊(現、鴨川市)を訪れている。
旧国道沿いに名所「鯛の浦」や「誕生寺」がある・・、この地が日蓮大聖人の誕生の地である・・。

12歳のとき、すぐ近くの清澄寺へ入り、16歳前後のとき出家得度している・・。
比叡山や高野山で勉学に勤しみ、その際全ての仏経典を読破し研鑽した結果、妙法蓮華経(法華経)が釈迦の本懐であるとの結論に至っている。
清澄寺に帰山後、「南無妙法蓮華経」の題目を唱え始め、立宗開教(現;日蓮宗)を確立した・・。
鎌倉へ入って松葉ヶ谷に草庵をむすび、伝道活動を開始する・・が、この時期、他宗徒によって法難をあびている。(松葉ヶ谷法難)。
弘長元年(1261年)幕府によって伊豆の伊東へ流罪(伊豆法難)。
文永元年(1264年)房州小松原(現在の千葉県鴨川市)にて法難・・。
文永8年(1271年)、幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、腰越・龍ノ口刑場(現在の龍口寺)にて処刑されかける(龍ノ口法難)。しかしこの時、刀が段々に折れ曲がるという怪異現象が発生し中止・・、そのまま佐渡へ流される(佐渡法難)。
3年後、文永11年(1274年)春に赦免となり、すぐに幕府評定所へ呼び出され、蒙古来襲の予見を聞かれると、日蓮は「よも今年はすごし候はじ」と予言し答えたという・・。
その後身延山を寄進され身延山久遠寺を建立した。(今の身延山久遠寺)。
日蓮が予言した5か月後に蒙古襲来(文永の役)・・、 弘安4年(1281年)兵力を増した蒙古軍が再び襲来(弘安の役)。 
1282年、武蔵国池上(現在の池上本門寺)61歳で死去(入滅)。入滅の際に大地が震動し晩秋から初冬にかけての時期にもかかわらず桜の花が咲いたと伝えられている。立正安国論・・他、著書多数。波乱万丈の大宗教人といえる・・。

次回は、 「常立寺」


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古都鎌倉(23) 満腹寺・・Ⅱ「義経の腰越状」

2009年06月29日 10時13分52秒 | 鎌倉編
古都鎌倉(23) 満腹寺・・Ⅱ「義経の腰越状」

肉親であり、兄弟である頼朝、義経が何故不仲になったのか・・?、その理由として、世間では諸々言われてはいるが・・、それらの諸説について列記してみた・・。

『讒言(ざんげん)説』 :頼朝は、突然奥州から現われた義経に疑念を抱き、代官・梶原景時にその行動を監視させた。一の谷の合戦以降、梶原景時の讒言(人をおとしいれるため、事実を曲げ、また偽って、目上の人にその人を悪く言うこと)が義経に対する憎悪をさらに強めたといわれる。

『藤原隠密説』 :西の平家と北の藤原家に挟まれた鎌倉・頼朝にとってはどちらも脅威であった。そこへ藤原家の家人「佐藤忠信・継信」を引き連れて義経がやって来た、義経はもしや藤原家の隠密では・・?と疑念を持つ・・。

『戦功嫉妬説』 :余りの戦技、戦術、戦略(本当の意味の戦略があったかどうかは疑問・・、戦略は施策、政策、政治が絡む幅の広い意味で、むしろ頼朝にあった・・)上手に、ねたみ、恐れをなした・・。

『任官嫉妬説』 :京にあって公家、法皇と頻繁に接触し、勝手に任官した・・。

『私情公情説』 :これは、お互いの思想、思考或いは哲学の相違であって、義経は身内、知人、周辺人に親しく、現実温情主義であった。頼朝は近隣御家人の組織均衡を重視し、未来志向主義で、遠く将来を注視していた・・。

『兄弟不感説』 :義仲、義経、範頼と次々兄弟を抹殺してゆく、ここには兄弟という肉親の情は無く、善悪功利要不要の原理が先行する。この時代は親子といえども平気で争う時代であったのだ・・。

『義経脅威説』 :義経の行動思考に劣等感を抱き、次第に脅威に感ずるようになる・・。又、奥州藤原氏が原因かもしれない・・。

『御家人謀略説』 :特に北条氏は義経抹殺を望んだ。頼朝の係累がいなくなればなるほど、北条氏の天下が 近くなる……。現に二代頼家、三代実朝は北条氏による謀殺説がつよい・・。

『源氏不称説』 :義仲 討伐以降、頼朝は身内、親類、係累に対して公式な立場では「源・源氏」を称えることを禁じていたようだ、これに対して義経の文面は度々「源」を用い、現に「腰越状」には末尾に「源義経」の署名がある。 これには頼朝は相当に不快感を示したらしく、さらに彼自身、源氏称には余りこだわってなかったようだ・・。

『後白河法皇』 :平清盛の京での実権から、東国・鎌倉での頼朝の覇権に到るまで後白河法皇は院政を満足に執り行う事が出来ず、不満が生じていた。こんな時期、義経に官位を授けたことから、兄の頼朝と軋轢が生じているのを知り、間に入って更に策術を弄し、兄弟の溝を深くしていった。義経はその術中に完全にはまってしまった。 頼朝に云わせれば、後白河法皇は「天下の大天狗」とやらであろう・・。
 

義経、頼朝は育った環境も違っていた、義経は幼少には京・鞍馬寺にあり、成人して遠方の地・奥州藤原家にあって人情の機微に触れ、現世に依存してゆく・・。
一方、頼朝は伊豆の蛭ヶ小島で捕虜の身であるが、勉学、信仰に勤しみ、時には都の情報等を耳にしながら平家の状況など覗っている。 


近江の佐々木庄を地盤とする近江源氏嫡流の佐々木氏は伊豆で流人生活をしていた頼朝を世話するべく常時派遣し、頼朝旗挙げの際にも参画している。 
頼朝を育てる乳母の関係からも、何にかと知らせが入ってくる。武蔵野国比企家からは比企能員が通っている。
又もう一人の乳母の関係は京の公家・三善康信である、康信は流人の頼朝へ毎月三度も手紙を出し、そこには京の情勢が豊富に書かれていたという。 
又、流人の生活を過していた頼朝を京の僧・文覚が訪ね(伊豆に流されてきたらしい)、平氏打倒の挙兵を勧めている、当時、頼朝は無視しているが・・、腹に一物はあったろう・・?。 

頼朝は伊豆の空の下で、常に情報を得ながら、頭の中は遠くを見つめ、未来の構図を描いていたし・・その中から確乎たる信念が芽生えていたに違いないのである・・。


義経は温の人、頼朝は冷の人と言われるが・・、しかし、新たな時代を切り開くには冷徹さが必要なのである。 上に立つものは己の権力を強固なものにしないと、凡そ近世以前の政権など成立するはずもない。
何事も話し合いで仲良く、などというのは現代人の妄想に過ぎないのである。
後の世に下り、新しき時代を切り開いた人物、織田信長、徳川家康、明治新政府を磐石たるものにした大久保利通、いずれも冷徹さを持ち合わせていた。

頼朝が義経を生かしておけば、必ずや義経を利用して叛乱を企てるものが現れただろうし、また義経自身が叛乱を起こしたかもしれない、つまり、このような時代なのである。
それに何よりの誤解は「義経に落ち度が無く、無実の罪で一方的に死に追いやられた」と、いくら本人に悪気が無かろうと、彼自身の思い込みや官位を勝手に受けたことは、頼朝や関東武士団が苦労を重ねて築き上げつつあった鎌倉幕府を一挙に瓦解しかねない危険な行為、罪深い行いだったのである。 

嘆涙の「腰越状」を読むに当たって、頼朝は情に流されず、確乎たる信念のもとに冷徹な『断』を下したのであった・・。


次回は、 「瀧口寺」


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