長らくの御精読有難う御座いました。
「古都鎌倉めぐり」は本稿で一先ず終了しますが、機会があれば他の寺社をも巡って再度記載したいと存じます・・、その節は宜しく。
尚、当「ブログ」にて、『日本一周』の記録を掲載しております、宜しかったらご覧ください。
『日本周遊紀行』 http://blog.goo.ne.jp/orimasa2005
引続き、鎌倉創世記の主な武将について・・、
『北条 時政』(ほうじょう ときまさ)
桓武平氏の流派、伊豆北条庄を拠点とした北条氏の当主。
源頼朝が伊豆に流されその監視役となり、初期の勢力は、伊東や大庭に囲まれていたことから勢力的には不安定であった。
頼朝の登場により家運が上昇し、娘の政子が頼朝の妻となった縁から、幕府が創立されると重用され頼朝の外戚として勢力をふるう。 源平合戦の間はつねに鎌倉にあり、幕府創設に尽力した。 北条幕府・初代執権
1199年、頼朝が死ぬと北条氏の権力強化を図って、有力御家人であった梶原景時や比企能員らを誅殺、さらに1205年には有力御家人の畠山重忠父子を謀反の罪で滅ぼす。
その後は子の北条義時と政子に強制的に出家させられ、隠居の身分となって以後、政治の表舞台に立つことなく生涯を終えた。
『北条 政子』(ほうじょう まさこ)
鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室である。 北条時政の娘、源頼家、源実朝の母で「尼将軍」と称された。
鎌倉では頼朝の良き理解者、協力者、意見者であり、幕府創立の陰の功労者であった。
1199年に頼朝が死去すると、落飾して尼御台と呼ばれ、2代将軍の源頼家を補佐し、父時政や弟の北条義時とともに北条氏による合議制を確立する。
1203年には頼家を修善寺へ幽閉して殺害し、外戚として勢力を持った比企氏を滅ぼす。さらに義時とともに父時政を失脚させる。
1221年(承久3年)には、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して倒幕の兵を挙げた「承久の乱」では、動揺する御家人を前に頼朝以来の恩を説き鎌倉方をひとつにまとめる等、政治的辣腕を振るう。
義時の没後は甥の北条泰時を執権に据えて、1225年に死去、享年68。
墓所は神奈川県鎌倉市の寿福寺
『三浦義澄』(みうらよしずみ)
桓武平氏の流派、三浦半島に根拠をもつ名門で、平安中期奥州の乱(後三年の役)で源義家と共に活躍。 この時「義」の字を賜り、以降三浦家は「義」の名称が多く、同時に源氏方に成る。
平安時代末期~鎌倉時代初期の武将・御家人で、三浦義明の次男、三浦家当主、子は三浦義村。
1180年、源頼朝が石橋山の合戦で挙兵した際には悪天候のため参戦できず、引き返す途中で父・義明を討ち死にさせてしまう結果となったが、その後房総半島へ渡ってきた頼朝に味方し、平家方の畠山重忠を破って頼朝と共に鎌倉に入る。
義澄は千葉常胤・上総広常・土肥実平らと共に頼朝の宿老となり、その後も、一ノ谷の合戦や壇ノ浦の合戦、奥州征伐に参戦して武功を挙げる。
1199年、頼朝が亡くなった後には2代将軍源頼家を補佐する十三人の合議制の一人となる。翌年、梶原景時の鎌倉追放に加担し、梶原一族が討たれた3日後に病没。享年74
『和田義盛』(わだ よしもり、)
鎌倉幕府の御家人 三浦氏の一族であり、子は和田常盛、和田義直、朝比奈義秀。
鎌倉幕府侍所初代別当(長官)。三浦一族とともに1180年に挙兵した源頼朝に属し,同年の鎌倉幕府成立後に侍所別当に任ぜられた。
その後,平氏追討,奥州藤原氏征伐にも従軍して活躍。
九郎義経の首実検に梶原景時とともに立ち会った際には、そのむごたらしさに涙する人情家の一面もあった。 幕府成立後は幕政の中枢にあって北条時政・義時らとともに1199年の梶原景時の弾劾・追放,1203年の比企能員の乱の制圧などで主要な役割を担った。
しかし次第に義時との対立が高じ,1213年に義時の執拗な挑発に乗って鎌倉府内で挙兵。当初は味方を約束していた三浦義村らが離反したため敗北,討死した(和田合戦)。
享年67、尚,木曾義仲の愛妾・巴御前を後妻に迎えていたとする説もある
《 京・公家出身の鎌倉事務官衆 (50音順) 》
『一条 能保』(いちじょう よしやす)
平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての政治家で、妻は源頼朝の同母妹。
頼朝の縁者に当たったことから、左馬頭・右兵衛督・参議・左兵衛督・検非違使別当・権中納言・従二位と異例の栄進をする。
能保自身は後白河天皇(法皇)に仕えて重用され、妻や娘は後鳥羽天皇の乳母となった。さらに頼朝から京都守護に任命されるなど、頼朝からの信任は厚い。
頼朝の義弟であるため代官的役割を担い、京と鎌倉をつなぐパイプラインとして活躍した。京都守護にあたっては謀反人九郎義経の探索に精を出した。
頼朝にも、後白河法皇にも重用されたエリート官吏だった。
『大江 広元』(おおえ の ひろもと)
鎌倉幕府の政所の初代別当(長官)。
源義家(八幡太郎義家)に兵法を教えたとされる大江匡房(おおえ の まさふさ)のひ孫で、広元には兄の中原親能がいた。
親能は源頼朝と親しく、その縁から1184年に広元も召しだされて頼朝の家臣となり、政所の前身である公文所の別当として辣腕を振るった。
1185年に頼朝が守護・地頭を設置したのも、全ては広元の献策によるものであると言われている。 むしろ政治方針のほとんどは頼朝ではなく彼が決めていたとも言われる。
頼朝の死後は、北条義時や北条政子と協調して幕政に参与し、承久の乱のときも、政子に協調して幕府軍を勝利に導いた影の功労者のひとりとなった。
広元の死後、大江氏は鎌倉幕府の幕政になおも参与したが、1247年の宝治合戦で三浦泰村に協力したために、一族のほとんどを誅殺されて衰退してしまう。
しかし、このときに生き残った広元の子孫が、後の戦国大名となる安芸国や出雲国の毛利氏(わが町、厚木の毛利の庄の出身・広元の子・季光)や、三河国の海東氏や酒井氏、備後国の長井氏、越後国の北条氏(きたじょうし)、出羽国の寒河江氏などの祖につながることになるのである。
『三善 康信』(みよし やすのぶ)
鎌倉幕府の初代問注所執事。 元々は、公家で算道(平安時代の大学寮の四科の一。数を計算する法。算法。算術。)の家柄の出身。
源頼朝の乳母の比企尼が母の姉であった関係で伊豆国に流された頼朝に、京都情勢や朝廷、平氏の動向を逐一報告した(京都定期便)。 後に頼朝に呼ばれ、大江広元と共に下向、幕政の屋台骨として頼朝をよくサポートし、政務を担当した。初代問注所執事として裁判事務の責任者となった。
頼朝死後、二代将軍源頼家の独裁ぶりに不安を抱いた御家人の代表による十三人の合議制にも参加。
1221年(承久3年)の承久の乱に際しては病身の身で会議に参加、大江広元の即時出兵論を支持した。同年、承久の乱後に没した。
文部省唱歌 「鎌倉」 作詞 芳賀 矢一 作曲 不 詳
1 七里ヶ浜の いそ伝い 2 極楽寺坂 越え行けば
稲村ヶ崎 名将の 長谷観音の 堂近く
剣投ぜし 古戦場 露坐(ろざ)の大仏 おわします
3 由比の浜辺を 右に見て 4 上るや石の きざはしの
雪の下村 過ぎ行けば 左に高き 大銀杏
八幡宮の 御社(おんやしろ) 問わば遠き 世々の跡
5 若宮堂の 舞の袖 6 鎌倉宮に もうでては
しずのおだまき くりかえし 尽きせぬ親王(みこ)の みうらみに
かえせし人を しのびつつ 悲憤の涙 わきぬべし
7 歴史は長き 七百年 8 建長円覚 古寺の
興亡すべて ゆめに似て 山門高き 松風に
英雄墓は こけ蒸しぬ 昔の音や こもるらん
『終』
【小生の主な旅のリンク集】・・・
《日本周遊紀行・投稿ブログ》
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《旅の紀行・記録集》・・・
「旅行履歴」
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北海道・知床・・ 白神山地 ・・ 紀伊山地の霊場と参詣道・・ 安芸の宮島・厳島神社・・ 石見銀山遺跡とその文化的景観・・
ハワイ旅行2007・・沖縄旅行2008・・北海道道北旅行・・北海道旅行2005・・南紀旅行2002・・
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「山行履歴」・・
白馬連峰登頂記(2004・8月)・・八ヶ岳(1966年)・・南ア・北岳(1969年)・・北ア・槍-穂高(1968年)・・谷川岳(1967年)・・丹沢山(1969年)・・西丹沢・大室山(1969年)・・八ヶ岳越年登山(1969年)・・西丹沢・檜洞丸(1970年)・・丹沢、山迷記(1970年)・・上高地・明神(2008年)・・
《山のエッセイ》・・・
「上高地雑感」・・「上越国境・谷川岳」・・「丹沢山塊」・・「大菩薩峠」・・
《スキー履歴》・・・
「スキー履歴」・・
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「古都鎌倉めぐり」は本稿で一先ず終了しますが、機会があれば他の寺社をも巡って再度記載したいと存じます・・、その節は宜しく。
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引続き、鎌倉創世記の主な武将について・・、
『北条 時政』(ほうじょう ときまさ)
桓武平氏の流派、伊豆北条庄を拠点とした北条氏の当主。
源頼朝が伊豆に流されその監視役となり、初期の勢力は、伊東や大庭に囲まれていたことから勢力的には不安定であった。
頼朝の登場により家運が上昇し、娘の政子が頼朝の妻となった縁から、幕府が創立されると重用され頼朝の外戚として勢力をふるう。 源平合戦の間はつねに鎌倉にあり、幕府創設に尽力した。 北条幕府・初代執権
1199年、頼朝が死ぬと北条氏の権力強化を図って、有力御家人であった梶原景時や比企能員らを誅殺、さらに1205年には有力御家人の畠山重忠父子を謀反の罪で滅ぼす。
その後は子の北条義時と政子に強制的に出家させられ、隠居の身分となって以後、政治の表舞台に立つことなく生涯を終えた。
『北条 政子』(ほうじょう まさこ)
鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室である。 北条時政の娘、源頼家、源実朝の母で「尼将軍」と称された。
鎌倉では頼朝の良き理解者、協力者、意見者であり、幕府創立の陰の功労者であった。
1199年に頼朝が死去すると、落飾して尼御台と呼ばれ、2代将軍の源頼家を補佐し、父時政や弟の北条義時とともに北条氏による合議制を確立する。
1203年には頼家を修善寺へ幽閉して殺害し、外戚として勢力を持った比企氏を滅ぼす。さらに義時とともに父時政を失脚させる。
1221年(承久3年)には、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して倒幕の兵を挙げた「承久の乱」では、動揺する御家人を前に頼朝以来の恩を説き鎌倉方をひとつにまとめる等、政治的辣腕を振るう。
義時の没後は甥の北条泰時を執権に据えて、1225年に死去、享年68。
墓所は神奈川県鎌倉市の寿福寺
『三浦義澄』(みうらよしずみ)
桓武平氏の流派、三浦半島に根拠をもつ名門で、平安中期奥州の乱(後三年の役)で源義家と共に活躍。 この時「義」の字を賜り、以降三浦家は「義」の名称が多く、同時に源氏方に成る。
平安時代末期~鎌倉時代初期の武将・御家人で、三浦義明の次男、三浦家当主、子は三浦義村。
1180年、源頼朝が石橋山の合戦で挙兵した際には悪天候のため参戦できず、引き返す途中で父・義明を討ち死にさせてしまう結果となったが、その後房総半島へ渡ってきた頼朝に味方し、平家方の畠山重忠を破って頼朝と共に鎌倉に入る。
義澄は千葉常胤・上総広常・土肥実平らと共に頼朝の宿老となり、その後も、一ノ谷の合戦や壇ノ浦の合戦、奥州征伐に参戦して武功を挙げる。
1199年、頼朝が亡くなった後には2代将軍源頼家を補佐する十三人の合議制の一人となる。翌年、梶原景時の鎌倉追放に加担し、梶原一族が討たれた3日後に病没。享年74
『和田義盛』(わだ よしもり、)
鎌倉幕府の御家人 三浦氏の一族であり、子は和田常盛、和田義直、朝比奈義秀。
鎌倉幕府侍所初代別当(長官)。三浦一族とともに1180年に挙兵した源頼朝に属し,同年の鎌倉幕府成立後に侍所別当に任ぜられた。
その後,平氏追討,奥州藤原氏征伐にも従軍して活躍。
九郎義経の首実検に梶原景時とともに立ち会った際には、そのむごたらしさに涙する人情家の一面もあった。 幕府成立後は幕政の中枢にあって北条時政・義時らとともに1199年の梶原景時の弾劾・追放,1203年の比企能員の乱の制圧などで主要な役割を担った。
しかし次第に義時との対立が高じ,1213年に義時の執拗な挑発に乗って鎌倉府内で挙兵。当初は味方を約束していた三浦義村らが離反したため敗北,討死した(和田合戦)。
享年67、尚,木曾義仲の愛妾・巴御前を後妻に迎えていたとする説もある
《 京・公家出身の鎌倉事務官衆 (50音順) 》
『一条 能保』(いちじょう よしやす)
平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての政治家で、妻は源頼朝の同母妹。
頼朝の縁者に当たったことから、左馬頭・右兵衛督・参議・左兵衛督・検非違使別当・権中納言・従二位と異例の栄進をする。
能保自身は後白河天皇(法皇)に仕えて重用され、妻や娘は後鳥羽天皇の乳母となった。さらに頼朝から京都守護に任命されるなど、頼朝からの信任は厚い。
頼朝の義弟であるため代官的役割を担い、京と鎌倉をつなぐパイプラインとして活躍した。京都守護にあたっては謀反人九郎義経の探索に精を出した。
頼朝にも、後白河法皇にも重用されたエリート官吏だった。
『大江 広元』(おおえ の ひろもと)
鎌倉幕府の政所の初代別当(長官)。
源義家(八幡太郎義家)に兵法を教えたとされる大江匡房(おおえ の まさふさ)のひ孫で、広元には兄の中原親能がいた。
親能は源頼朝と親しく、その縁から1184年に広元も召しだされて頼朝の家臣となり、政所の前身である公文所の別当として辣腕を振るった。
1185年に頼朝が守護・地頭を設置したのも、全ては広元の献策によるものであると言われている。 むしろ政治方針のほとんどは頼朝ではなく彼が決めていたとも言われる。
頼朝の死後は、北条義時や北条政子と協調して幕政に参与し、承久の乱のときも、政子に協調して幕府軍を勝利に導いた影の功労者のひとりとなった。
広元の死後、大江氏は鎌倉幕府の幕政になおも参与したが、1247年の宝治合戦で三浦泰村に協力したために、一族のほとんどを誅殺されて衰退してしまう。
しかし、このときに生き残った広元の子孫が、後の戦国大名となる安芸国や出雲国の毛利氏(わが町、厚木の毛利の庄の出身・広元の子・季光)や、三河国の海東氏や酒井氏、備後国の長井氏、越後国の北条氏(きたじょうし)、出羽国の寒河江氏などの祖につながることになるのである。
『三善 康信』(みよし やすのぶ)
鎌倉幕府の初代問注所執事。 元々は、公家で算道(平安時代の大学寮の四科の一。数を計算する法。算法。算術。)の家柄の出身。
源頼朝の乳母の比企尼が母の姉であった関係で伊豆国に流された頼朝に、京都情勢や朝廷、平氏の動向を逐一報告した(京都定期便)。 後に頼朝に呼ばれ、大江広元と共に下向、幕政の屋台骨として頼朝をよくサポートし、政務を担当した。初代問注所執事として裁判事務の責任者となった。
頼朝死後、二代将軍源頼家の独裁ぶりに不安を抱いた御家人の代表による十三人の合議制にも参加。
1221年(承久3年)の承久の乱に際しては病身の身で会議に参加、大江広元の即時出兵論を支持した。同年、承久の乱後に没した。
文部省唱歌 「鎌倉」 作詞 芳賀 矢一 作曲 不 詳
1 七里ヶ浜の いそ伝い 2 極楽寺坂 越え行けば
稲村ヶ崎 名将の 長谷観音の 堂近く
剣投ぜし 古戦場 露坐(ろざ)の大仏 おわします
3 由比の浜辺を 右に見て 4 上るや石の きざはしの
雪の下村 過ぎ行けば 左に高き 大銀杏
八幡宮の 御社(おんやしろ) 問わば遠き 世々の跡
5 若宮堂の 舞の袖 6 鎌倉宮に もうでては
しずのおだまき くりかえし 尽きせぬ親王(みこ)の みうらみに
かえせし人を しのびつつ 悲憤の涙 わきぬべし
7 歴史は長き 七百年 8 建長円覚 古寺の
興亡すべて ゆめに似て 山門高き 松風に
英雄墓は こけ蒸しぬ 昔の音や こもるらん
『終』
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