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日本の旅の記録です・・!!

国内旅行をはじめハワイや沖縄、世界遺産など国内各地の旅の記録です。

沖縄紀行(29)那覇 「那覇空港」

2009年01月23日 22時51分17秒 | 沖縄紀行


写真:上空から那覇空港(資料)と那覇空港


沖縄紀行(29)那覇 「那覇空港」

夜の那覇市内になった・・、
我等はまだ首里城周辺にいて、西に2kmの程の「おもろまち」のDFSまで戻ろうとしているが、ただ、首里城のどの位置にいて、どちらを向いているか、さっぱり見当がつかず、しばらくこの辺りを右往左往してしまった。 そうこうするうちに、「ゆいレール」の首里駅近くに出たので、どうやら目的地へ到達することができた。 カーナビも、地図も、自分の居場所と方角が判らないと何の役にも立たないことが改めて知った次第である。
さて、「おもろまち」で息子達と合流して、どうやら無事に「那覇空港」まで辿り着いた。お土産物を見繕って、食事を摂り4日間滞在した「沖縄」を後にすることになったが・・。

最後に「那覇空港」について、若干述べておこう・・、
那覇空港は、沖縄県の中心都市「那覇市」の西南西約6Kmと近くてアクセスには便利である。元々は、旧日本海軍「小禄海軍飛行場」としての使用された経緯があり、昭和47年5月の沖縄の本土復帰に伴い米軍から返還されて以来、第二種空港として民間利用されてきた。現在では周知のように民間航空便と陸海空の各自衛隊、海上保安庁が共用している空港でもある。 就航は県内の離島、本土、海外を合わせて30以上の路線が運行し、1日150便以上が離着陸する現状から、過密化がひどく、運用上の問題が発生しているともいわれ、平行滑走路の建設など拡張が計画されているともいう。

空港内施設の各フロアーは・・、
一階の到着ロビーには観光案内所やレンタカーカウンターなどがある。 滑走路に向かって左手の「A到着口」と右手の「B到着口」に分かれていて、A側は主にJAL系列、JAS系列、そしてB側はANA系列が使用しているようである。 ターミナルを出ると、右手がタクシー乗り場、真ん中がバス停、左手がレンタカー送迎となっている。タクシー乗り場は「遠距離乗り場」、「近距離乗り場」に分かれていて利用しやすい。
二階は主に出発ロビーとショッピングモールで、到着口と同じく左手の「A出発口(20番台搭乗口)」と右手の「B出発口(30番台搭乗口)」に分かれている。 到着口と同じく、概ね「A」がJAL系列で、「B」がANA系列の便となっていて、搭乗口が20番台と30番台に分かれているので、ただ、チケットカウンターが三階、搭乗口が二階にあるので、出発客は一旦三階に上がって搭乗手続きを済ませてから二階に下りて手荷物検査場を通過するという、チョット不便な構造にもなっている。
ショッピングモールは、本島内で売られている土産の殆どは空港で手に入り、青果、菓子類、酒類、アクセサリー類の類も揃っている。尚、書店、薬局、銀行も完備している。尚、モノレール(ゆいレール)は、二階から立体駐車場への連絡通路を通り、「動く歩道」でモノレール那覇空港駅へ直結している。
三階はチケットカウンターおよび、搭乗手続きカウンターとなっており、ここで手続きを済ませたあと、二階に降りて搭乗となる。 又、ファストフードを中心としたレストランや有料の観覧デッキがある。
4階部分は主に「レストランフロア」となっていて沖縄の郷土料理をはじめ和食・洋食などがあり、窓からは旅客機の離発着の様子が間近に見ることができる。又、待合所などにハイビジョンテレビが設置され、有償のインターネット端末も設置されている。

我等は、1月13日(日)21時00分、JAL0932にて那覇空港を無事、離陸した。

【終】


御拝読有難うございます。
「沖縄紀行」は終了しましたが、小生の旅行記録が
他のブログにも有りますので、宜しかったらご覧下さい。

日本周遊紀行(現在、投稿中の日本一周の記録です)
http://blog.goo.ne.jp/orimasa2005

小生の「旅」の記録です。(「沖縄」は共通です)
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今後とも御活躍を祈ります・・!!・

沖縄紀行(28)那覇 「首里城(2)」

2009年01月23日 22時51分02秒 | 沖縄紀行



写真:首里城・曲線の城壁2枚
写真:冊封使の儀式(模型)


沖縄紀行(28)那覇 「首里城(2)」

首里城、琉球そして中国との関係・・、

2000年12月「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として、日本で11番目の世界遺産・文化遺産に登録されたことは既に度々述べてきた。この首里城は中世の1400年代には建てられたが、1453年、「志魯・布里(しろ・ふり)の乱」により焼失、その後再建された。 
「志魯・布里の乱」とは、琉球王朝の第五代尚金福の死後、王位をめぐって世子・志魯と弟・布里が起こした争いで、この乱で当時の首里城は焼失し、志魯・布里の双方が傷付き斃れた。そのため王位は尚泰久(しょう たいきゅう:第六代国王)が継ぐ事となった。
その後、城は1660年、1709年に火災、再建と繰り返し、1945年アメリカ軍の侵攻により殆どの部分が破壊された。 1970年代になると城を再興しようという運動もはじまり、1992年に首里城公園(第一期開園部分)が開園し、そして他の城跡とともに、この一帯も世界遺産に指定されている。

琉球の「三山時代」についても先に記したが・・、
現在の首里城の形となるものは十五世紀の初め、三山時代を統一した尚巴志(しょうはし)によって造られた。 琉球王の姓となる「尚」(尚巴志)は、中国皇帝から頂戴したもので、琉球全体の王として中国に認められた人物である。
尚巴志は、臣下の中国人に中国の王宮・紫禁城の建築法を学ばせて首里城を建造したといわれ、即ち「紫」とは、天地をつかさどる天帝が住む宮殿、「禁」とは人民が近づくのを禁じることを意味するという。 首里城の正殿は紫禁城の太和殿を手本にして作られ、首里城は琉球・紫禁城ともよばれていたともいう。
国内でもそうだが国を統一した英雄は、自分の力を誇示するため巨大なお城や寺院を造った。「尚巴志」もまた首里城を造ることによって、誰が今世の琉球の主であるかを国内外に示し中国、朝鮮国、日本、東南アジアなどの諸外国に対して、首里城の持ち主が琉球国の代表者であることを明らかにしようとした。

城(グスク)について・・、
沖縄では「城」と書いて「グスク」と呼ぶことがある。 
グスクとは沖縄各地にある石積みの遺跡のことで、城塞跡や祭祀跡などいろいろいわれている。 ただ、現存するグスクの多くは、石積みや城壁に象徴される中で、古い時代の琉球を宿している。これら数多いグスクは何時頃、誰によって何の目的で造られたか・・?、そのグスクの歴史は未だにはっきりしない部分もあると言われる。
琉球思想では、神を祭る神聖な場所とされる岩場なども「城」(グスク)としての意味合いがあり、単なる戦いのための建物ではないともいう。つまり、本土の城のように権力の象徴や戦争のための砦では必ずしもない。日本国内の城は戦のために造られ大方の場合は町の中心にあるが、沖縄の城・グスクは首里城をはじめ小高い丘の上につくられているのが普通である。 それに沖縄のグスクは復元されたのは首里城のみで、それ以外は建物もなく、ただ石積みだけが残っているだけである。 本土の場合は、明治政府により多くの城はつぶされたのだが沖縄の城はそうではなく、群雄割拠の三山時代に築城されたものが、南山出身の尚巴志による琉球統一により、琉球王国の手によって各地のグスクは整理されていき、旧勢力のものは廃墟したという。

琉球のグスクと本土の城と比べると、大きな違いが三つあるという。
一つめは、グスクそれ自体が聖なる地域であり、王城であっても必ず地域の神様をまつる「イビ」という拝所、場所がある。
二つめは、琉球人は元来武器を持たず戦いを好まなかったといい、宮は政治の中心ではあっても、武力の中心ではなかった。そのため、グスクは海上からよく見える丘の上にあることで、これは島国・琉球が統一前から海外貿易が盛んで、武力を使うよりは人材交流などで対外関係を良好に保っていたことの現れでもある。しかし今で言う警察力は
もっていた。
三つ目は、日本の城が直線の石垣つくりに対して、グスクの石垣は曲線で作られている。高い丘の上に吹きつける台風の風力を分散させるために、抵抗が大きい直線より風を吹き分ける曲線を選んだともいう。 曲線は美しくみせるためではなく、自然とのたたかいの結果に生まれた「チナーンチュ」の知恵だったのである。気がつけば、先般訪れた今帰仁城(なきじん)やこの首里城、そして、本島中部の勝連半島にある勝連城(かつれん)の城壁はうねる様な曲線で覆われているのが判る。

そして、当時の琉球と中国との関係であるが・・、
14世紀半、琉球は中国の皇帝から琉球国王として認めてもらい、冊封国(さくほうこく:皇帝、天子から承認された国)として中国と交流をはじめる。当時、モンゴル、ベトナム、タイ、朝鮮国、日本、琉球国などアジアの国々も中国の冊封体制のもとで、リーダーの中国に貢ぎ物をとどける「朝貢貿易」をおこなっていた。
その朝貢品にたいして中国は、その数倍も価値のある陶器、鉄器や高級な絹織物などを「下賜品」として冊封国に授けたようである。 琉球国はその他にも、200名乗りの「進貢船(しんこうせん)」と呼ばれた中国の大船を毎年のように与えられたといい、特に、北京における琉球王国は他の外国が禁止されている商いも許され、さらに、明王朝が催す公式行事の時にも、琉球の使いは上座にすわる扱いを受けていたという。
琉球の新しい国王の即位式である「冊封の儀式」には、明王朝が冊封使(さくほうし)として琉球に遣わすときは3~500人にものぼる大勢の使節団を派遣したという。 しかも大臣クラスが出席し、儀式が終わった後も半年ほど滞在し、その間に中国の文化、文明を琉球に伝えたといわれる。
日本は中国の25分の1、琉球は中国の4175分の1の面積しかなく、本来なら忽ちにして属国になるのが普通であったが・・?、なぜ、こんな小国・琉球に命をかけてまで冊封使達はやって来たのか、それは琉球を中国が必要としていたからといわれる。 
中国への貢ぎ物の中には必ず「硫黄」が含まれていたといい、中国では良質の硫黄がとれず琉球の硫黄は炭、硝石とまぜると火薬になり、火薬は戦乱の続く中国では最新兵器として皇帝が常に必要とする品であった。
首里城が中国の紫禁城に似せて造営され、何かの行事があるたびに首里城内において盛大な儀式が行われた。その度に中国特使達を招待し、派遣された冊封使達は儀式が終わると直ぐ近くの「識名園」にて寛ぎ、この時、園内に設けられた「勧耕台」といわれる展望台では、九州並の巨大な島「大琉球」をイメージさせたと言われる。

1879年(明治12)春、首里城から国王が追放され「沖縄県」となった後、首里城は日本軍の駐屯地、各種の学校等に使われた。
1930年代に大規模な修理が行われたが、1945年にアメリカ軍の攻撃により全焼し、戦後の跡地は琉球大学のキャンパスとなった。 その後、園比屋武御嶽石門や守礼門が復元され、更に、主城である「首里城」の復元が国家事業として決定するに及んで大学は移転し、着工後3年経った1992年に完成している。 復元された首里城は、18世紀以降をモデルとしているといわれる。その後、2000年12月には首里城跡が世界遺産に登録されている。

次回は、沖縄最終・・、「帰路」



沖縄紀行(27)那覇 「首里城」

2009年01月23日 22時50分44秒 | 沖縄紀行
沖縄紀行(27)那覇 「首里城」

沖縄の最大の名所「首里城」を目指したが、既に日没となり辺りはスッカリ薄暗くなりつつあった。首里城は、識名園の北方・凡そ4~5kmの所であり、城址公園は確認できたが駐車場の所在ががどうしても判らず、夕方のラッシュ時にも重なって車が自由に走行できず仕方なく退散することになった。ここで、先年の沖縄観光で訪問した際(1999年:平成11年9月)の記憶を辿って、「首里城」の概要を述べたい・・。

沖縄の観光地で首都・那覇にも近く、一番の定番的スポットが「首里城」であろう。
ところで、「首里」というのは沖縄本島の旧都の名称で、かつては首里市(市制施行前は首里区)として存在し、さらに以前は琉球王国の王都として栄えた由緒ある名称なのである。
現在も首里城を中心に首里と付く行政施設や町名(頭に首里と付く町名)も多く、周辺は首里城をはじめとする歴史的遺産が多い。



写真:首里城概略図と守礼門

駐車場は公園西側に位置する公園管理センターの公営駐車場が首里城の入り口にも当たり便利でお勧めであろう、料金も300円前後で2時間駐車できるようだ。 順路通りに歩くと先ず有名な「守礼門」に着く、門上部には「琉球は礼節を重んずる国である」という意味の「守礼之邦」と書かれた扁額が飾られている。
最近余り見かけなくなったが、「二千円札」の表面に沖縄を代表する首里城の「守礼の門」が採用されていることは周知であろう。 何でも、西暦2000年の沖縄サミット開催を記念して発行(平成12年7月)されたらしい。ただ、二千円札の流通量がやや減少しているせいか、地元、沖縄の琉球銀行では流通増大に向け積極的に県内外にPRしているという。
守礼門の前には琉球衣装で正装した若き御嬢さん(ネーネー)が歓迎してくれる・・?と思ったが、実は観光客相手の写真屋さんのモデルであった。 



写真:園比屋武御獄、歓会門

守礼門をすぎると、園比屋武御獄(スヌヒャンウタキ)石門の前を通り歓会門、瑞泉門、漏刻門、広福門など重厚な城壁に囲まれた其々の華麗な門を潜る。 通路は緩い階段になっているが、そのわりに緩やかなので時間をかければお年寄りでも大丈夫。 間もなく「日影台」、「下之御庭」といわれる広い場所に出る、この辺りは既に相当な高所になり、見渡すと那覇の街並が一望できる。 

    
 
 
写真:瑞泉門、漏刻門、奉神門

下之御庭の「奉神門」は、城の中心的な広場・御庭(うなー)に通ずる派手な朱塗りの門で入り口は三つあり、中央の門は国王や身分の高い人だけが通るところで、左右は家来などが使ったらしい、この門から中が入城料・・?が必要な有料地区になる。
入口をくぐって正面に華麗な朱塗りの「正殿」が見られる。 龍の柱が左右にあり、堂々とした構えは中国の文化の息ずかい、雰囲気が充分に感じられるのである。事実、首里城・正殿は中国の「紫禁城」に似せて造ったとされているが、これらの首里城の概要、内容は後ほど・・。


 
写真:首里城正殿と玉座

見学コースはまず上の図、右端下側の建物・番所に入り、反時計回りに南殿、正殿1階、同2階、北殿の順にたどることになる。 正殿のハイライトは二階にある琉球王の「御差床」(うさすが)といわれる玉座で周囲を圧倒している。 この「御差床」は、日本建築の須弥壇 (しゅみだん・寺院の本殿の本尊仏像を安置する壇)形式に似て、国王専用の御座所すなわち「玉座」(ぎょくざ)のことである。
玉座の正面上方には大きく鮮明に描かれた「中山世土」(ちゅうざんせいど)の額縁が飾り付けてある。 中山世土とは、「この土地は何時の世までも琉球国王・中山の物」で有る事を永遠に保証する意味を現している。中山とは、琉球王朝の別称で通常は中山王府(ちゅうざんおうふ)とも云われ、首里城は中山城(ちゅうざんじょう)、琉球王は中山王(ちゅうざんおう)と呼ばれていた。
正殿をそのまま進むと学習コーナーなどがあり、スクリーンに映る映像を見ながら、琉球や首里城の歴史を知る事ができる。又、この周囲には、玉御殿(タマウドゥン)とか琉潭池、円鑑池、円覚寺跡、弁財天堂、 沖縄県立博物館など見所もいっぱいあり、全部見て回ると結構時間はかかりるので少なくとも半日程度の時間を取ってきて来たいものである。

引き続き、首里城と琉球そして中国との関係




沖縄紀行(26)那覇 「識名園」

2009年01月20日 10時37分01秒 | 沖縄紀行


写真:識名園の庭園2枚


沖縄紀行(26)那覇 「識名園」

「識名園」へ向かっている。
首里へ向かう国道の左側で、比較的判り易いところに在った。
夕刻も迫ってきていて、既に訪れる人も無く我等が最後の訪問者になったようである。 
琉球風の洒落た事務所兼入り口があり、その横に真新しい世界遺産の碑があった。
入口門から直ぐに、何故か通用門や正門というのが在り、当然、復元されてはいるだろうが往年の入場門なのであろう、王族一家や位のある人の正式の門だとか。
園内は熱帯性の植物であろう、先ず鬱蒼とした照葉樹林に覆われている。 それでなくとも夕刻迫る時間帯でもあり、辺りは薄暗くさえ感じる。
道中、古風であるが立派に石畳が敷かれてあって歩きやすいが、細いハイヒールの女性には如何かな・・?などと、変に気を回してしまうが。 両脇の石垣もいい雰囲気をだしている。間もなく石組みで造られた「育徳泉」という湧き水の出る所へ出た。
清冽な水をたくわえて池の水源の一つにもなっているらしい、小生は気が付かなかったが、なんでも「オキナワイモリ」が生息しているらしい・・?。 石組みは、琉球石灰岩を沖縄独特の「あいかた積み」という、巧みな曲線が美観を呈している。「シマチスジノリ」とかいう淡水藻の発生地として、国の天然記念物にも指定されているという。
井戸口の上にはふたつの碑が建てられていて、その一つ向かって右側が「育徳泉」の碑・・、

『 育徳泉の碑 』    
易曰山下出泉蒙君子  
以果行育徳
中山王新闢南苑有泉
出焉顔之曰育徳庶幾
王之進徳其猶泉之日
出乎 趙文楷

【意訳】
「易の蒙卦に“山下に出泉あるは蒙なり。君子もって行を果たし徳を育う”との文言がある。中山王はもてなしの場として、新たに南苑をおひらきになられた。そこにある泉からは滾々(こんこん)と絶え間なく清流がおこっている。ここをその易の一節から採って「育徳(泉)」と名付けよう。出泉の細流から遂にとうとうと流れる大河へと至るがごとく、徳を備えた立派な君子となられるよう、日々精進されますように。」  趙 文楷 

薄暗い樹林帯から、広大な明るい庭園に出た。
左手に琉球特有の赤瓦を載せた木造の建物が現れた。 表に面する箇所は、戸や扉など全てが取り払われて、開放感溢れる趣である。「御殿」・(ごてん)と書いているが、沖縄・琉球風に読むと「う・どぅん」と称するらしい。
建物は閲覧自由になっていて静々と入室し、中央辺りで庭園を伺うと石橋や六角道を配した輝くような大きな池が一望の眼前にあった。建物の面積は約160坪で、「冊封使」を迎えた一番座、それに連なる二番座、三番座、台所、茶の間、前の一番座、前の二番座など、15もの部屋があった。冊封(さくほう)とは、中国王朝の皇帝がその周辺諸国の君主と名目的な君臣関係を結ぶことで・・、中国皇帝の勅を奉じて周辺諸国に使わす使節のことを「冊封使」(さきほうし)というらしい。

「識名園」の造園形式は、池のまわりを歩きながら景色の移り変わりを楽しむことを目的とした「回遊式庭園」になっている。 回遊式庭園は、平安期の貴族が園遊会などを催すのが主であったが、江戸時代には大名によって造営された大名庭園として発達した形式であり、現代の日本庭園の集大成とも位置づけられる。大きな池を中心に配し、その周囲に園路を巡らして、築山、池中に設けた小島、橋、名石などで各地の景勝などを再現し、園路の所々に休憩所、展望所として茶亭、東屋などが設けらているのが普通である。
「識名園」の池に浮ぶ島には、中国風東屋の六角堂や大小のアーチ橋が配され、池の周囲を琉球石灰岩で積みまわすなど、琉球独特の工夫が見られる。

造園は、琉球の第二尚氏王朝時代の尚穆(しょうぼくおう:在位第14代国王)の時代に始まったと言われるが定かではないとも・・、1799年頃に完成したともいう。
首里城の南にあたるので別名・「南苑」とも呼ばれ、沖縄隋一の名園といわれる。王族の保養の場としてだけでなく、冊封使や実質的に琉球を支配をした薩摩の役人たちを接待する場としても使われ、交流によって琉球に与えた文化的影響は大きかったとされる。
「御殿」から導かれるように、回遊池を挟んだ反対側に小高い丘がある。園内に設けられた「勧耕台」といわれる展望台であるが、この展望台は見る者によって一種錯覚をさせるように造られているともいう。 
海が全く見えない形で、如何にも広大な陸地が存在するかの如く装い、農耕の豊かさを表現し、併せて国を富ませよとの尚王家の意向を示すものともいう。 これは「大琉球」のイメージを維持する為のトリックで、中国側に誤解を抱かせるように設えたとも言われている。 それ故に中国は、琉球を九州並の巨大な島・「大琉球」をイメージしていたともいう。
琉球王家は識名園以外にも17世紀の後半に完成した御茶屋御殿(うちゃやうどぅん)と呼ばれる別荘を持っており、こちらは首里城の東に位置していたため「東苑」と呼ばれていた。
識名園もまた太平洋戦争・沖縄戦で大きな被害を受けたが、1975年より復興と整備が進められ、ようやく現在のような姿を取り戻したという。 
復興後すぐの1976年には国の名勝になり、2000年には特別名勝になった。 そして2000年12月2日にはユネスコの「世界遺産」にも登録された。
夕刻迫る中、係員が戸締りや後じまいを始める中、既に訪問客は無く我等は追い立てられるように「識名園」を後にした。

次には、「首里城」を目指したが・・、





沖縄紀行(25)那覇 「漫湖」

2009年01月20日 10時36分16秒 | 沖縄紀行

沖縄紀行(25)那覇 「漫湖」

「漫湖」、マンコでひと騒動・・・、

一先ず国道329号線へ出て、首里城方面を目指した。
道路左手に大きな湖が見えてきて、地図を見ると那覇港から深く入りこんだ「入り江」の様でもある。 地図には「漫湖」としてあり、標識にも「漫湖公園」などとしてあった。
小生は一瞬、「うなぎこ」と読んで、湖には昔から大きな「うなぎ」でもいる名所なのかな・・?などと想像したが、「うなぎ」は「鰻」であって字が異なる。
本当の読みは「まんこ」というらしい・・!!、女性にはチョット気が引ける呼称であろうか・・?。
実は、3年前ぐらいに或る女性が、この名称について変更を希望する内容で新聞社に投書し、其の投書が記事になって沖縄市民の物議を起こした事例があった。
それは「沖縄タイムス」の夕刊に掲載された投書で、その内容の概略は・・、

『 沖縄に来て丸15年、ずーっと気になって仕方ないことがあります。それは「漫湖」「漫湖公園」の読み方です。実はこの発音は、内地では女性の性的な身体の部分を指す言葉なのです。 (中略) そのうち慣れるかも…と思って生活してきましたが、いまだにどうしてもなじめません。というか、この公園の名を1度も口にしたこともありません。ニュースで流れるたびに苦痛すら感じています。 (中略) 由来のある名前なのでしょうが、名前を変えてもらえないかしら、とすら思ってしまいます。 (中略) こんなこと気にしてるの、私だけでしょうか・・? 』 こんな具合である。
これに対して市民からは反論と云うべき意見が続出したという、その内容の一部・・、

『郷に入りては郷に従え・・!。 漫湖のある沖縄によその土地からわざわざ来たのは自分の方なのに、どうして名前を変えさせようという発想になるのか不思議だ。』
『マンコは東京地方の方言でしょう。沖縄まで来て関東の方言に縛られているのは変ですね。性的なことにとらわれ過ぎているのと違いますか。関東中心主義は止めにしたいですね。』
『これは酷すぎる話ですね。生活のためとか、家族の仕事のためなどという「きわめて自分勝手な理由」で引っ越してきたのであれば、遠慮すべきは自分であると認識すべきですね。』
『沖縄旅行中にラジオを聴いていたら、女性キャスターが連発して言うから楽しかったですよ。』
『かつて日産ホーミーという車がありましたが、沖縄ではアソコの意味なのでさっぱり売れず、同じスタイル日産キャラバンが売られていたそうです。』
縄文的琉球人の大らかさと、繊細な弥生的内知人の相違が表れていて、無責任な面白さを感じました。
因みに、「漫湖」はラムサール条約にも登録されている湿地帯で、近くの小学生などが写生に訪れるほど、都市部の中にあって野鳥が集まってくる那覇市のオアシスのような存在である。全国的にもいろいろな意味で知られる名称ではあるが、沖縄で「女性の性的な身体の部分」は、このように言わないのでテレビでもラジオでも名前が堂々と放送されているという。

次は、「識名園」