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日本の旅の記録です・・!!

国内旅行をはじめハワイや沖縄、世界遺産など国内各地の旅の記録です。

日本周遊紀行(24)  能代・「能代駅と水運」

2009年11月21日 14時13分23秒 | 山形、秋田県


大都市のわりには、こじんまりした能代駅舎(五能線)



日本周遊紀行(24)  能代・「能代駅と水運」


大潟村から能代へ至った、序に駅舎の様子を窺った。 
秋田を代表する大都市・・?のわりには、JR能代駅の駅舎は1階建てのこじんまりしたもんであった。
時刻表を見ると、能代駅というのは奥羽本線ではなく「五能線」であることに気がついたのである。 

秋田県北部にある比較的大きな街というイメージの「能代」ことだから奥羽本線沿線の街かと思ったが、そうではなかった、隣駅の東能代駅が奥羽本線なのである。


奥羽本線は、福島駅から山形駅、秋田駅を経由して青森駅に至る路線で、東北本線に対比してそれより西側の主要都市を結ぶ幹線のはずである。
本線建設は、明治中期の1894年北の青森~弘前間が先ず開通している。 次に南部の福島~米沢間が開通して、その後、順次北と南から工事が進められ、1905年に全線開通している。

その能代であるが本来、奥羽本線は能代市街地を通すはずであった。
しかし、何故か地元民に反対されてしまい結局、地の利もあって本線は「東能代駅」のみに落ち着いたらしい。 
奥羽本線の東能代は1902年に開通し、そして、能代駅は少し遅れて1908年に能代~東能代間の一駅区間が貨物取り扱いとして能代線、言わば本線の「盲腸線」として開業したのである。 
奥羽本線の青森、福島の間は日に10数本の特急列車が往来しているのに、「能代駅」は特急には無縁の駅なのである。 ただ、能代・東能代間は特別に輸送頻度は多いという。


「奥羽本線には能代駅がない」・・!、
そう、能代市街地の能代駅とは、幹線鉄道・奥羽本線の駅ではなく、いわゆる地方線である五能線の駅であった。 
能代から先の北へ向かう五能線ダイヤは極端にすくなくなり、これはまさに「盲腸線」の状態であった。


能代住民は何故、能代駅という本線駅建設を反対したのか・・?
能代は、米代川流域つまり「野の代」が転じて呼ばれたものであると考えられ、即ち水運により発展したのが「能代」の町であり、川との結びつきが強いのである。

能代市街の北部を、ゆったりと「米代川」が流れる。
奥羽山地の八幡平付近を水源とするが、米代川の語源は「米のとぎ汁のように白い川」と言われている。 
10世紀初頭の十和田湖火山が大噴火を起こし、その火山灰で白く濁った川の色を表現したとも言われているという。 

米代川流域には鉱山地帯が多く尾去沢鉱山、小坂鉱山、大葛鉱山、阿仁鉱山、太良鉱山などが在って、鉱山から出る鉱石は米代川での舟運で運ばれたという。 
鉱山は約1200年の歴史があり、かつ ては金・銀を産出し、近代では銅を産出していたともいう。
また、この地区は優れた材木の産地でもあり、これらも米代川を使って運ばれた。 特に、丸太を筏にして川に流す筏流しは1964年まで続いたという。

明治中期に、鉄道敷設の話が持ち上がったが、地元民というより米代川に携わる水運関係者が、利益流出のための生活権を考えての反対だったといわれる。
水運は、鉄道や道路の整備がすすむとともにしだいに衰退し、いまは往時の面影はない。


その「五能線」は、東能代駅と南津軽郡田舎館村にある川部駅を結ぶJR東日本の鉄道路線である。
殆どが白神山地の西部、日本海沿岸を走るローカル線である。

歴史的には、南部地区は1908年に開業した能代の能代線より始まり、北部地区の青森県側においても、1918年、私鉄の陸奥鉄道が奥羽本線に連絡する川部~五所川原間に開業したのをきっかけに、順次延長されていった。 
昭和大恐慌の影響で、建設が一時スローダウンしたものの、1936年の陸奥岩崎~深浦間を最後に全通し、「五能線」と改称されている。

全通開通した五能線であるが・・、
岩館駅~北金ヶ沢駅間は海沿いを走るため、吹雪や強風、高波で運休することがシバシバ発生する。
このことから地元の人々は、「不能線」、「無能線」とか云って、有り難くないあだ名が付けられているという。
又、臨時列車を除けば岩館駅~鰺ヶ沢駅間では5~7時間も運行されない時間帯もあるとか。


ところで、ご当地ソングの女王と言われる「水森かおり」が、所謂、ご当地の『五能線』を唄っている。 
御蔭さまと言おうか・・!、
五能線の秋田-青森を走っている快速電車「リゾートしらかみ」について、それ以来の年間乗客数が倍増したという。 
JR東日本・秋田の関係者は「水森さんに唄ってもらって、五能線が全国区になった」と喜んでいるようである。


序ながら・・、

能代といえば、元バスケ選手(中学時代)であった小生にとって能代工業高校のバスケットボールでの活躍が思い起こされる。
特に、日本人初のNBAプレーヤーである「田臥 勇太」(たぶせ ゆうた)である。 

小生同県の神奈川県出身で、ポジションはポイントガード、身長1m73cm、体重75kg、靴のサイズ29cmと、小柄で小生と余り変わらない。


小さな体で大きな選手をすり抜けるスピード、類い稀なパスセンス、視野の広さとジャンプシュートがプレイの特徴で、日本人で初めて世界ジュニア選抜に選ばれるなど、日本人では抜きん出た実力の持ち主である。
速さという点だけで言えばNBAでも通用するレベルであるのは確かであった。

小学校2年生からバスケットボールを始め、神奈川県大道中学校では全国3位の成績を修めた。
名門・能代工業高校で入学後即スタメンとなり、3年連続で高校総体、国体、全国高校選抜の三大タイトルを制し、史上初の「九冠」を達成した。 
公式戦で敗れたのは、1年生の時の東北大会で仙台高校に敗れたわずか1回のみであるというから驚きである。


能代工業高校男子バスケットボール部は、史上初の三年連続三冠(インターハイ、国体、選抜大会)を獲得し、三冠獲得は9回目、その他にも全国優勝、連続優勝など、全国大会で50回を越える優勝を成し遂げている強豪である。 
「田臥」時代が全盛と言うのではなく、「歴史と伝統と指導」で稀に見る成績を残しているのである。 

尤も、能代市そのものが、特に、1989年度(平成元年度)以来から、バスケの街づくり事業に取り組んでいるので、地域性も含めねばなるまい。 

籠球王国・能代バンザイ・・!である。


次回は、岩崎村・「白神山地」



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日本周遊紀行(23)大潟村 「八郎潟干拓」(2)

2009年11月20日 13時46分56秒 | 山形、秋田県
日本周遊紀行(23)大潟村 「八郎潟干拓」(2)


八郎潟干拓について・・、

元々の八郎潟は、東西12キロ、南北27キロ、水深はきわめて浅く、最深4・7m、平均水深3m程度であった。
その湖底のほとんどは軟弱粘土におおわれ、最も深いところでは何と50mにも及んでいたという。

八郎潟の干拓計画は、世界の最新土木技術を導入して「ヘドロ」と呼ばれる超軟弱地盤の上に新生の大地を作り上げようと言う計画であり、その広さは、東京都で言えば国鉄の山手線に囲まれた区域の約三倍にも及ぶ面積であり凡人からみれば、とてつもない計画であった。

ところで・・、

八郎潟の開発計画は古くから立案、計画されてきたという。
江戸安政年間(1854年~1860年)払戸村(現在の男鹿市払戸)の渡部斧松による「八郎潟疎水案」に始まり、その後、大正期(13年)、(昭和16年、23年)と計画されたものの財政、その他の事情により、やはり実現することはなかった。

しかし八郎潟開発の構想はその後も消え去ることなく、昭和29年(1954年)にオランダのヤンセン教授等が来日、それを契機昭和32年ついに着工の運びとなった。
そして足かけ20年、総事業費約852億円の巨費を投じた世紀の大事業は、昭和52年3月をもって全ての工事が完了した。

ヤンセン教授によるオランダの技術は、堤防の下5mぐらいまでのヘドロを全部取り除き、幅130mの砂床に置き換えるという大掛かりな工法で、日本の技術陣がついぞ克服できなかった軟弱地盤での築堤が、100%可能になったという。


因みに、「オランダ」という国は、ご存知の通りの低地の国で、国土の4分の1が海抜0メートル以下という。 
そして、風車の国である。
オランダでは最盛期に約九千基の風車があり、主として干拓の排水用として多く用いられたが、風車は、動力源としてその他にも粉挽き、水くみ、菜種油しぼり、製材など、幅広く活用されていたと。

更に風車のすぐれた技術は「造船」などにも応用され、やがて17世紀、オランダは世界の海を制して黄金時代を迎えることになる。

しかし、蒸気機関や電気などが発明されると、風車は建設されなくなり、現在は昔ながらの風車が千基ほど、文化財的に保存されているという。


オランダ第二の都市ロッテルダムの南東10キロの地に「キンデルダイク」というところがある。
平原と運河のこの村には、19基の風車群がずらりと並び、18世紀の美しい風景をそのままに残しているという。
キンデルダイクの長閑な風車群の絶景は、ただ美しいだけにとどまらず、オランダが国土を確保・拡大し、大繁栄を遂げた歴史の象徴として、「世界遺産」にも登録されている。


さて、日本では・・、八郎潟では・・、

この壮大な未知への挑戦に、技術者たちは燃えた・・!!。
だが自然は、彼等をそのまま受け入れてはくれなかった。
悪いことに工事途中で青森県西方沖地震、新潟地震、十勝沖地震と立て続けに大きな地震に見まわれているのである。 
知恵と汗と涙の結晶である堤防に、亀裂や地盤沈下が入ったのであり、その原因は最も恐れていた堤防下部の「砂の流動化現象」によるものであったという。

苦闘の歴史に終止符をうった後は・・、
干拓に携わった人々の回顧録の主題には「崩れ落ちた自信」、「不敵な挑戦」、「冷汗、油汗」、「血を吐き骨を削る苦労」、「責任の重大さに天を仰ぐ」等などと記されているという。
それだけに湖底が、新生の大地に生まれ変わった当初、干拓工事に携わった全ての人々は万感迫るものがあったに違いない。


オランダのヤンセン博士は、日本の技術陣の能力を誉め上げている。
日本の土木技術の質の良さは、高額の費用を払って私を招く必要はなかった程である。なぜ日本は私らを招いたか真意がわからない」といったという。
この謙虚さが日本人技術者の心証をどれほどよくしたか計り知れないとも言われる。 


次回は、「能代」です。


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日本周遊紀行(23) 大潟村・「八郎潟」(1)

2009年11月19日 10時45分20秒 | 山形、秋田県

八郎潟の干拓前後(秋田農政局)


日本周遊紀行(23) 大潟村・「八郎潟」(1)


日本最大の干拓地で、地域名を「大潟村」と称している。 

大潟村は、田畑と集落地が分かれており、そこに、ユーモラスな日本一低い山・・ 「大潟富士」がある。高さ3.776mで、無論「三千・・」でなく「三点・・」である・・。
ただ、頂上が海抜ゼロmという貴重な・・?山でもある。
因みに、国土地理院の話では、「現状の小さく造られた山では、山とは認定できない。山とは歴史的認知度・・?も必要だ」とのことらしい。

村の全域が、かつて日本の湖で二番目の面積を誇った八郎潟で、昭和の干拓によって出来上がった人工の土地である。 
合併・分割などで新設されたのではなく、純粋に新しく造られた自治体としては日本最初で、そして最後であろう・・?、
大潟村の誕生は昭和39年10月で、歴史も40年程度しかない。 
村は、山手線よりも二周りほど大きいらしい・・。 

地域的にもキリがよく、北緯40度と東経140度の交点でもあり、日本でも緯経線が十度単位での交点がある地域はここだけであるらしい。    


湖(八郎潟)の中に堤防を造り、堤防で囲まれた中の湖水の排水場から、ポンプで掻き出し(干拓)てできた村である。 
土地は元々、湖の底だったところなので、その殆どが平らで村全体が海面より低く、もっとも低い所では約4~5メ―トルも低くなっているという。
つまり海抜マイナス5mの村である。

そのための周囲は堤防で囲み、村の中に水が入らないようにする大切な役目をしている。 
村の土地の約7割は、田や畑で、あとの3割は道路や水路や集落地となっていて、田畑は集落地の北側、東側、南側に広がっている。 


ここで、「エピソード」を1つ・・、

八郎潟の干拓が始まって初まってからの最初の入植者は、おそらく「ネズミ」だったと云われる。
野ネズミやどぶネズミで、それも、猫も逃げ出すほどの大きさであったそうな・・!!。
このネズミらに、農業を始めたばかりの大潟村では、それは頭を痛めていたという。

そこで思いついたのがイタチであった、
イタチはネズミの天敵で、昭和43年頃奄美大島から58匹のイタチが空輸された。
今度は、イタチの入植が始まったのである。

お蔭で“ねずみ算式”に増えたネズミは、イタチのためにグッと少なくなったといわれる。

巷間人が、「次にイタチが増えすぎたらどうするの?、イタチの天敵捜さなくちゃー。これがホントの『いたちごっこ』だね」と・・、
しかし、実際イタチが増えすぎることはなかったという。

今でも、奄美大島出身の子孫イタチが、運が良ければお目に掛かれる時もあるという。

次回は、八郎潟干拓について・・PartⅡ


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日本周遊紀行(22)男鹿 「なまはげ」

2009年11月18日 13時17分50秒 | 山形、秋田県

真山山頂付近に鎮座する赤神神社の「五社堂」



日本周遊紀行(22)男鹿 「なまはげ」


「999」の石段と五社堂の縁起伝説について・・、

昔、漢の武帝が五匹のコウモリを従えて男鹿にやってきた、コウモリは男鹿で五匹の鬼に変わった。
武帝は五匹の鬼たちを家来として使ったが、一年に一度だけ正月に休みを与えた。 
鬼たちは大喜びして里へ降り、畑作物や家畜を奪って大暴れし、しまいには娘まで浚(さらって)ってくるようになった。
困ってしまった村人は、鬼に賭けを申し入れる。 


あの山のてっぺんまで、一夜のうちに1000段の石段を築けば、一年に一人ずつ娘を差し上げる。だが、それができなければ、二度と里へ降りて来ないと約束してほしい」・・と。

鬼たちは、日の暮れるのを待って、さっそく石段造りに取り掛かった。
遠く離れた「寒風山」から空を飛ぶようにして石を運び、あれよあれよという間に石段を築いていった。
これに驚いた村人は、物まねのうまい「天邪鬼・アマノジャク」に鶏の鳴き声を頼んだ。 

999段を積み終え、あと一段というところで、アマノジャクが「コケコッコー」と叫んだ。 鬼たちは一番鶏が鳴いたことにびっくりし、約束どおり山の奥深くへと立ち去って行ったという。 

鬼が来なくなって、何か寂しい気持ちになった村人たちは年に一度、正月15日に、鬼の真似をして村中を回り歩くようになったという。 

これが「なまはげ」の始まりだともいう。


ここまでは民話風の空想伝記物語であるが、現実的な二番目の伝説について・・、

古く大陸の国の人々を見る機会のほとんどない時代、漂流民のように男鹿半島の海岸にたどり着いた異国人を「なまはげ」としたのではないか、というものである。 
大身肥満でしかも紅毛碧眼(こうもうへきがん)の異邦人は村人にとって、まさに、「なまはげ」に見えたというのであろう。 

それに彼らがもっていた技術や知識によって驚異的な石段作りが成し遂げられたといい、滑車や特殊な綱によるものであったとする伝えがある。

三番目には男鹿の真山、本山は古くからの修験道の霊場として知られていたことから、修験者は修業姿のまま里に下り、門付け祈祷をして回った。
修業の間の凄(すさま)じい形相や山中の修業後の姿などを「なまはげ」としてみたのが始まりともいうのである。

「なまはげ」の伝承、伝説については他にもあるようだ。



明治後半から戦前にかけて、ナマハゲ役は未婚の若者であった。 
役に当たった若者は,まず神社を参拝してお祓いをしてもらい、そして風呂に入って身を清め、肉、ネギ、ニンニクを断ち、つまり精進潔斎(しょうじんけっさい:肉食を絶つなどして身をきよめること)に勤めると。

現在、一般的に言われるナマハゲは・、
山の神様や正月の歳神様の化身といわれている。

大晦日の晩、赤と青の恐い仮面をかぶり、身には藁で編んだミノをまとい、大きな声で「泣く子はいねが、怠け者はいねが」と家中を探し廻ります。その荒々しさによって家の悪霊や災禍を祓い清めるといわれている。

又、ナマハゲは、お田植祭などに参加した子供たちに「食べ物を粗末にしないように」、「両親の言いつけをよく守るように」と約束させる場面の先導役ともなる。

ナマハゲは、人々を戒める役割を持つと同時に、春の到来を告げ、その年の実りをもたらす神様でもある。


次回は、「大潟村」




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日本周遊紀行(22)男鹿 「松枯れとなまはげ」

2009年11月17日 10時02分24秒 | 山形、秋田県
日本周遊紀行(22)男鹿 「松枯れとなまはげ」


それにしても、秋田県に入ると、新潟や山形とチョット様子が異なって見えた。

道路、民家の家屋、屋根は黒く光った瓦が数多く目立ち、人工物が新しく、綺麗に、大きく感ずるのである。 

秋田県・県民は、一段分裕福なのかなと私的に感じたが・・?、ただ、反対に自然物の荒廃が気になった。 
今年は台風の大当年なのである。 
これを書いてる10月の時点で実に10個の台風の本土上陸が有ったし、日本海側にも、かなりの影響があったのも承知している。 

そして、国道7沿いの山林を見渡すと、広葉樹の欅や紅葉類の大木から低木まで、今年の葉は殆ど落ちてしまっているのである。 更に、春先の様に新芽・新葉が吹き出ている、妙な光景である。 これは台風の強風、潮風による塩害であろう。

今年は台風は、現在時点ではや10個の上陸を数えるが、これは過去最高の有難く無い記録でもある。


この上陸した台風は今年の傾向として、殆ど勢力を維持したまま通過して、特に日本海・北海道側へ抜けた時に、東北・北海道は少雨強風の傾向が有るらしく、この時、大きな塩害をもたらすという。



ところで、塩分は糖分の凡そ10倍の浸透力があるといわれ、落葉樹はその名の通り、塩分により窒息状態になって、葉が落ちやすい様相になるという。 
生長しきった秋口に、強烈な潮風に吹かれると落葉樹はおおきなダメージを受ける。 この時、同時に大雨であったなら、塩分を洗い流してくれるのだが、今年の台風の特徴は、少雨強風の影響をモロに受けているのである。



余談(否・・そうではないかも)だが・・、

更に、台風・少雨強風の影響を受けた地域は、特に秋の紅葉シーズンには要注意だとか。

一般に、紅葉は始まってから凡そ2週間位で落葉するらしいが、しかし、これらの影響を受けた地域は、この期間が大幅に短縮されるか、あるいは殆どその期間が無くなってしまう恐れがあるといわれる。 そして色合にも変化が有るとか、 紅葉見物には、この点に留意が必要であろう。


ところで、針葉樹は広葉樹とは生態が異り、あまり影響を受けないはずであるが・・??、

ただ、ここの針葉常緑の杉、松も同様なくらいに軒並み白骨化し、丸坊主になっているのだ・・!。 この松の松枯れ現象は台風のセイばかりでは無いと思われる。 これが、見渡す限り延々と連なっているのであり、これが実に気になる風景でもある。


松食い虫の食害によるものというが・・?、

秋田県沿岸の「松枯れ」が爆発的に広がったのは2000年(平成17年)初頭からで、「所によっては4~5年で壊滅的な状態になった」ともいう。
原因は一般に「松くい虫」の仕業といわれているが、元より海外から持ち込まれた伝染病だという。


松を枯らすのは「マツノザイセンチュウ」という体長1mm程度の線虫で、元々、日本にはいなかったらしい。 米国、カナダから木材とともに運び込まれた線虫が、日本の松林に生息する「マツノマダラカミキリ」に寄生し、活動範囲を広げていったという。 
線虫が枯らした松は、カミキリの産卵場になるため、お互いが共生関係にあると。


今、この松枯れ現象は全国に広がっていると、これも地球温暖化の影響もあるのか・・?、ただ、先に記した山形庄内海道の深く濃い緑の松林を見て来ただけに、ヒジョウに気になった次第であるが、この違いは何処にあるのだろうか・・?。








国道沿いに立つ巨大な「なまはげ」像


そのうち「男鹿半島」へ到った、あの「なまはげ」で有名な半島である。


男鹿は、秋田県で最も早くから開けた地域であり、西部にある男鹿三山(本山・真山・毛無山)は古くから霊場として名高く、各地から多くの人の出入りがあったという。 
また、南岸の船川港は天然の良港で、そこにも各地から多様な文化が持ち込まれていたようである。
こうした様々な文化の影響が、「ナマハゲ」などの伝説・伝承に影響を与えたものと思われる。




潮瀬崎からすぐに男鹿市門前の船川の港、道路・左手に巨大な「なまはげの像」が在った。 

ここは「なまはげ」の故郷であった。

「男鹿のなまはげ」とは、 恐ろしい形相の鬼が、ケラミノやハバキ(地元でいう脚半、外出・遠出などの折、脛に巻きつけるもの)を着け、大きな出刃包丁を手に「ウォー、ウォー、泣ぐ子はいねがぁー」、「ウォー、ウォー、悪い子は、いねがぁー」、「”なまはげ”につれでいがれるぞ」と奇声を上げながら集落の各家々を練り歩く。


奇習「なまはげ」は、12月31日大晦日の夜、男鹿半島全域の約60地区において行われる伝統的な民俗行事である。
若者らが、鬼のような面をかぶり、素足にわらぐつをはき、手に木製の出刃包丁を携えて忽然とやってきて、なまけ者や、ぐずる子供を戒める。 
一年に一度訪れて、集落の各家々を巡り、悪事に訓戒を与え、災禍を祓い、祝福を与えて去るといわれる「なまはげ」は、年の節目としての年越しの夜にやってくる「神」ともいわれている。



「なまはげ」の語源は「なもみはぎ」で、「なもみ」は「火形・火斑」のことらしい。昭和53年、国の重要無形民俗文化財に指定されている。

名前も不思議だが、どうして「なまはげ」の様な物が発祥したかも、根拠として知りたくなる・・!。

もっと深く地元で語り継がれてきた神々の創造にもつながる伝説があろうし、伝説を探ってみると、この地に生きる人々の古い文化と歴史や偉大なロマンが読み取れよう。



日本海に突き出した男鹿半島・・、


断崖絶壁が連なり、海抜ゼロメートルから男鹿三山:本山(ほんざん)、真山しんざん)、毛無山(けなしざん)へと一気に競り上がっている。 
南の西目町付近から男鹿半島を眺めれば、陸というよりは海に山が突き出したように見え、その特異な景観に驚かされるという。 
この特異な半島地形と奇習「なまはげ」が生まれたのは、何か因果があるのだろうか・・?、今なお「なまはげ」には謎が多いという。


なまはげ伝説には諸説あるが定説は無いともいわれる。 
男鹿市では約60集落でなまはげ習俗が伝承されているというが、なまはげが神だとすれば、なぜ邪悪な鬼の形相をしているのか・・?。その謎を探るには、なまはげ伝説のルーツとされる半島・本山に祀る「赤神神社・五社堂」にあるという。




半島の南西部の突端・潮瀬崎の男鹿市門前に、山伏信仰の名残りをとどめる長楽寺(赤神神社の別当寺)と赤神神社の本殿がある。 
本殿横から、石段の登り口にある赤神神社の古刹・仁王門をくぐり、これから先が自然石を積み上げた999(ん・・?)の石段を登る。


急な石段の両脇には、日本海の強風に耐えてきたブナ林が覆われて、石段を一つ一つ登るたびに山岳信仰の匂いが漂ってきて振り返れば、遙か眼下に日本海の荒海が見える。 
樹木も疎らになり平坦地に達した辺りの隅に、忽然と曰く有りげな「赤神神社・五社堂」と言われる五つの社が横一列に鎮座している。 

ここには、五匹の「なまはげ」が祀っている、それは、なまはげの家族で「両親と子供三人」だともいわれる。



次回も「ナマハゲ」に続きます




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