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日本の旅の記録です・・!!

国内旅行をはじめハワイや沖縄、世界遺産など国内各地の旅の記録です。

新・日本紀行(30)長島 「三川合流地の因縁」(Ⅲ)

2015年02月25日 18時05分35秒 | 静岡、愛知県





 新・日本紀行(30)長島 「三川合流地の因縁」(Ⅲ) 





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平田靭負とヨハネス・デ・レーケのレリーフと刀を鍬に持ち替えて~薩摩義士像(治水神社内)





近代土木技術によって、さらに木曽三川の分流工事を押し進め完成させたのが、ヨハネス・デ・レーケ(1842~1913年)でした。

明治政府に招かれて明治6年(1873年)に来日したオランダ人技師で、木曽三川分流工事をはじめ、多くの河川・港湾の設計や工事の指導をした。 

「治水は治山にあり」という理念の下、分流工事だけでなく、山林の保護や砂防工事も提案した。


明治11年2月、木曽三川流域を調査し、結果を『木曽川概説(がいせつ)』にまとめ、内務省に報告しました。

これに基づき、明治20年(1887年)から木曽三川分流工事が開始、4期25年におよぶ大規模工事を経て、明治45年(1912年)に完成しました。この工事が終わってから、水害はいちじるしく少なくなったといわれます。

滞在30年、日本の河川改修に一生を捧(ささ)げたデレーケは、明治36年(1903年)に日本を離れました。





ところで、平成17年に合併して成立した海津市は海津町と南濃町、そして平田町が合併してできた市である。 

平田町は昭和30年に今尾町(大字平原を除く)と海西村が合併して成立した新しい町だが、その平田の名は当然ながら平田靱負正輔に由来している。 

地名をとって名字にする例はよく聞くが、功績のあった人物の名をとって地名とする例もないわけではないが珍しいという。

ここからも長きにわたってこの人物が地元の人々から慕われていた事を窺い知ることができるだろう。
しかし、平成の大合併で又しても歴史に名を残した由緒ある地名が消えてしまったのは残念である。 せめて、平田海津市くらいにはして欲しかったが・・?。


尚、遠く離れた鹿児島県と岐阜県とは、苦難を極めた薩摩義士の偉業を讃えるとともに、この絆を深めるため、昭和46年7月、姉妹県の盟約を結んでいる。




木曽川、揖斐川を渡ると桑名である。
平成16年12月、海岸温泉の長島町と歴史の町・多度町が桑名市と合併し、新桑名市に成っている。
この辺りから右手に鈴鹿の山並が遠く望める、あの頂きは御在所岳であろうか・・?、麓に湯ノ山温泉があるはだが。 

左は四日市の石油コンビナートが目に入る、中京工業地帯有数の工業地域で、名古屋港にならぶ貿易港でもある。
1960年代にかけて発生した大気汚染による公害・「四日市喘息」は世間の注目をあびた。
硫黄酸化物による集団喘息障害であり、日本の四大公害病水俣病=熊本・有明湾の有機水銀による生体異変、第二水俣病=新潟・阿賀野川の有機水銀中毒、イタイイタイ病=富山・神通川下流域でのカドミウム汚染・骨の異変、)の一つとされて、現在における大気汚染防止法等、日本の環境政策の拡充に大きな影響を与えたといえる。

四日市の南に日永という地区がある。
ここは京に向かう東海道と伊勢に向かう伊勢街道の分岐点にあたり「日永の追分」といわれる処である。 
追分とは道が二またに分かれるところで、伊勢神宮への桑名の一の鳥居に対して、この地に、二の鳥居が建てられている。 

市名は四のつく日に市がたったことに由来すると言われる。 御在所山麓の湯ノ山温泉は四日市の奥座敷といったところか。


次回からは近畿道で、先ず「関の鈴鹿峠






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新・日本紀行(30)長島 「三川合流地の因縁」(Ⅱ)

2015年02月25日 17時51分34秒 | 静岡、愛知県





 新・日本紀行(30)長島 「三川合流地の因縁」(Ⅱ) 





http://www5.ocn.ne.jp/~suiken/kbr/chisui/mapchisui.jpg




http://washimo-web.jp/Trip/Chisui/chisui01.jpg
千本松原; ;木曽三川公園センター内にある高さ65mの展望タワーから南を眺めた光景。南にのびる松林が千本松原で右が揖斐川、左が長良川、さらに左端にわずかに見えるのが木曽川。




木曾三川の治水工事は、豊臣の時代に木曽川の尾張藩側に先ず堤防が造られ、慶長年間には尾張・徳川家によって50kmにも及ぶ堤防が築かれた。
この堤防は、尾張藩を囲む形であったので「お囲い堤」と呼ばれ、洪水対策とあわせて西国大名の侵入に備える軍略上の意味あいが強かったともいう。 
そのため、美濃地方の諸藩の堤防補強は尾張藩の過酷な使役条件に縛られるし、地理的な要素も加わり輪中地帯は洪水のたびに水害に苦しめらた。

1753年(宝暦3年)12月の大洪水の後、徳川幕府、並びに同御三家の尾張藩は水害に苦しむ人々の声を聞き、幕閣の間で合議の結果、三川分流計画を基本にした一大治水工事の実施することを決定した。
そして、この木曾三川下流治水工事を、九州・薩摩藩一藩で行いよう命じたのである。

この工事は西国大名の筆頭である薩摩藩の勢力を弱めるという他の目的もあったようで、それは薩摩藩は関が原合戦において西軍に付き、徳川藩祖の家康を不安に落しいれ、尚且つ70万石の領土を安堵してしまったことでもあった。 
尚、幕府の放つ「薩摩飛脚」の情報では、薩摩は琉球との密貿易で資金を溜め込んでいると思われたためともされる。

薩摩藩では賛否両論の飛び交う大評定の結果、1754年(宝暦4年)2月、平田靱負(ひらたゆきえ)を総奉行として、この難工事に着手することになった。
薩摩側から出した人数は家老以下947名、これに土地の人夫等を加えると2000人にも及び、この費用は約40万両の巨費に達する大工事であった。

幕府の資金は1万両のみで、当初見積もりは10万両とされたが、工事は幕府の方針変更によって計画がたびたび変更され、また大雨により工事のやり直し等が発生したりで、工事は困難を極め、併せて費用も嵩み20、30、そして40万両という多額の出費を余儀なくされたのであった。 

この間、同地の尾張藩に至近で常時見張られ、幕府からの嫌がらせもあり、又、薩摩は幕府方に専門職人を雇うよう依頼したが一切受け付けられず、資金も全額薩摩負担となり藩は困窮を極めたという。 
平田靱負は御用商人らに多額の借受を藩ではなく、平田個人名義で行い返却できるはずの無い借金を重ねた。 平田は自らの死を担保にしたのでる。

工事の最中、特に油島新田締切堤(千本松原の北部地区)と大榑川(おおぐれがわ)の堰工事は予想を越えた難工事となり病死者も33名を数えたという。 
工事期間中に幕吏からの度重なる嫌がらせや妨害工作にもあって、幕府に対する抗議の自害者、自殺者は53名にのぼったという。

そして2年越しの1755年3月(宝暦5年)遂に完成するに至った。
この治水工事は、幕府の役人も「 日本の内は申すに及ばず、唐にも是ほどのことは有るまじく候 」と賞賛し、諸国からの見学者が後をたたなかったといわれる。 
工事完了後、総奉行の平田靱負は、53人の自刃者と33人の病死者を出し、多額の借金を残した責任を一心に負って、同年5月25日早朝・・、

 『 住みなれし 里も今更 名残にて 
           立ちぞわずろう 美濃の大牧
 』

の時世の歌を残し自刃している。


平田靱負という人物も水と戦った一人であるが、この人は治水に関する技術・能力を買われて招かれたのではなく、どちらかといえば命令されて仕方なく赴いたという背景がある。

現在の「千本松原」(岐阜県海津町油島)は、油島堤ができあがった後に、その堤の上には地元薩摩のシラス台地に育った「日向松」を持ち運んで植えたものと伝えられている。 

昭和13年、長くその精神と偉業を尊び称えるため地元の人々によって、平田靱負と薩摩義士84名を祭る治水神社(岐阜県海津町油島)が建立された。治水史上、最大の難工事といわれたこの工事を称して「宝暦治水」と呼んでいる。

岐阜県海津町、平田町は、その木曽川、揖斐川に挟まれたやや上流部にある。 
輪中の町として小学生の社会科の教科書に出てくる有名どころであり、昔から、木曽川・揖斐川・長良川が流れ、風光明媚な土地柄であるが、昔から水と戦い、水害に悩まされ続け、そして、壮絶な人間模様が展開された地域でもあった。


次回も 三川合流地の因縁







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新・日本紀行(30)長島 「三川合流地の因縁」

2015年02月25日 17時50分36秒 | 静岡、愛知県
.





 新・日本紀行(30)長島 「三川合流地の因縁」 





壮絶な「治水工事」の歴史的事実

名古屋城からは都市圏の高速道を利用し、そのまま湾岸道から三重方面を目指す。
弥富を過ぎると「木曽川」の長い橋梁を渡り、中州の・・?の長島地区から今度は揖斐川(長良川)の大河を過ぎる。

長良川、揖斐川は一体のようであるが、実際は中州の仕切りがしてあり、この中州は、この辺りから上流へ向って「千本松原」が緑豊かに延びている。
昨日通って来た駿河の原海岸に在る「千本松原」もそれなりの歴史があったが、こちらはそれのも増して過酷な重い歴史を背負っていた・・!!。


この三つの大河川は、濃尾平坦地で複雑に絡み合っているのが実情のようだ。
先ず、木曽川は長野県木曽郡木祖村の鉢盛山(2,446メートル)南方を水源とし、南西に流れている。  下流域ではかつて揖斐川、長良川と急接近し、合流・分流しながら伊勢湾に注ぐ。
長良川(ながらがわ)は、岐阜県郡上市の大日ヶ岳に源を発し、三重県を経て揖斐川と合流している。
又、揖斐川は岐阜県揖斐郡揖斐川町の冠山に源を発し、おおむね南流しながら、途中一部木曽川、長良川と平行して流れ、河口附近の三重県桑名市で長良川と合流、そのまま伊勢湾に注ぐ。

揖斐川及び長良川とも、河川法上では木曽川水系に包括されていて、水系全体の流域面積は全国5位の広さに相当し、長野、岐阜、愛知、三重、滋賀の5県にまたがっている。
なお、揖斐川と長良川は河口直前で合流し、揖斐川の名称で木曽川とは別に伊勢湾に注いでいる。 

河川は、江戸期以降何度となく改修工事が繰り返され、現在では分離・分流されて伊勢湾に注いでいるが、その中で所謂、輪中(水災を防ぐため一個もしくは数個の村落を堤防で囲み、水防協同体を形成したもの。岐阜県南部の木曾・長良・揖斐の三川の下流平野に形成されたものは有名)と呼ばれる集落も発達した。
輪中の代表格が三重県の長島輪中、他に上流部・岐阜県側の高須輪中、大垣輪中、墨俣輪中などがある。


この木曾三川と言われる大河川は、下流部においては急接近して流れていたため洪水が絶えなかった。 そのため、江戸時代から明治時代にかけ歴史に残る大掛かりな治水工事が行われたことは歴史上有名である。
特に、「宝暦治水」と「明治の改修・三川分流」の改修工事が有名で、「宝暦治水」というのは、歴史にその名を残した壮絶な工事であったという。


次回も 三川合流地の因縁






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新・日本紀行(29)名古屋 「地球博と小牧・長久手」

2015年02月18日 18時07分08秒 | 静岡、愛知県




 新・日本紀行(29)名古屋 「地球博と小牧・長久手」 





http://homepage3.nifty.com/naza/expo/img/20060325naga_b.jpg
地球博・長久手会場



http://network2010.org/contents/files/mado/aichi_mado_photo/1594_00.jpg
小牧・長久手の古戦場図




名古屋:愛・地球博と小牧・長久手

名古屋市街の東方に長久手町がある。
長久手町は家康、秀吉の両雄が戦った「小牧・長久手の戦い」の舞台となった場所で、日本三大古戦場の一つとされる。

1584(天正12)年、尾張の小牧・長久手で戦われた豊臣秀吉と徳川家康の戦いは織田信長の死後、秀吉の勢力増大に対抗し、家康が信長の子、織田信雄(信長の次男)を味方にして起こした戦いである。
家康は小牧山に本陣を構え秀吉軍と対峙、三河への侵入をはかった羽柴秀次(豊臣秀吉の甥(姉日秀の子))軍を長久手にて破る。

又、秀吉方の部将池田信輝(勝入)・森長可らが長久手で討死にするなどしたが、大勢は動かず膠着状態となる。
翌年、信雄と秀吉が和睦、家康はお義丸(結城秀康・家康次男)を秀吉のもとに人質として送り講和を計った。


この戦いは、戦術的(実戦)には家康の勝利であったが、戦略的(政治、政略)には秀吉の勝利といわれる。

小牧・長久手古戦場」の東側が、本年行われている愛知万博会場である。 
2005年日本国際博覧会、開催地の名から「愛知万博」、愛称は「愛・地球博」と称している。
人と自然が如何に共存していくか、というテーマを掲げたうえで、「環境万博」を目指しているという。 2005年3月25日から同年9月25日までの半年間、愛知瀬戸市(瀬戸会場)および同県愛知郡長久手町(長久手会場)2会場で開催されている。



入場者は当初は主催者側の各種規制があったりして、暫くは伸び悩んだようだが、これらの規制も緩和され、5月のG・Wあたりからは相当盛り返し、8月には博覧会協会の当初の目標総入場者数である1500万人を突破、想定より1ヶ月以上も早い達成となったらしい。

その後も客数は順調で9月のの閉会時点では200万人突破も夢ではないかも・・?と嬉しい予想もしているとか。



会場ではリニアモターカーが大人の人気とすれば、子供達には(大人も・・?)宮崎駿監督のアニメ映画「となりのトトロ」に登場する、昭和30年代の家を忠実に再現した。 あの真っ黒クロスケが出てくる「サツキとメイの家」が超人気だとか。 

又、地元のトヨタグループ館、日立館、三菱未来館、三井東芝館とお馴染み企業グループ、地球市民村、アフリカ共同館、長久手日本館等人気があるらしい。



小生も折あらば訪ねてみたいと思っているが果たして・・?
名古屋は東京、大阪の中間に在り、地理的にも日本の中心に近い。 世界に誇るトヨタ(小生はニッサン系の地域にいる)を筆頭に製造的な業種は日本一らしい、もっとも製造業は世界に誇る日本であるから、その中心はやはり名古屋と言える。 
近頃のニュースで「トヨタ」が、自動車製造世界一、製造産業世界一になる日も近いのでは、といわれているが・・?。


名古屋に関する面白いH・Pを発見したので紹介しよう。

キーワード 「名古屋はええよ!やっとかめ

youtube;  :https://www.youtube.com/watch?v=nwxxtYCVOR4


いずれにしても「セントレア」といい、「愛知万博」といい、近年は尾張中京地区が日本の景気のリーダー的役割を果たしている事は疑いもない。


次回は、長島 「宝暦の治水工事







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新・日本紀行(29)名古屋 「名古屋城」

2015年02月18日 17時59分46秒 | 静岡、愛知県





 新・日本紀行(29)名古屋 「名古屋城」 





http://www.ryoko.info/kabegami/kokunai/1024768-001/kokunai00028.jpg



http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/00/ef/kpgcm339/folder/1496621/img_1496621_57953281_0?1250253880




名古屋城は大阪城、熊本城と並ぶ日本三大名城の1つで、伊勢音頭にも・・、
『 伊勢は津(港)で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ 』
と歌われた名城でもある。

戦国期、駿河の今川氏親が尾張進出のために築いたのが最初といわれ、現在の名古屋城二の丸一帯にあったとれる。 
織田信長が勢力を得ると清須城として改築している。 江戸時代、清洲城の地形の悪さ(水害に弱い等)から那古野の台地に、徳川家康が九男義直の尾張藩の居城として城を築くことを指令する。 

普請奉行(室町・江戸幕府の職名。基礎、石垣や上水などの土木関係を管掌)は加藤清正、作事奉行(鎌倉・室町・江戸幕府の職名。幕府関係の建物の造営・修繕などを統轄した)は小堀政一、縄張(縄を張って境界を定めること。建築の敷地に縄を張って建物の位置を定めること、実際には軍事的意味合いを含めて、地勢や地形を計り、城郭の基本形を決める主要な業務)は藤堂高虎によるとされる。 

慶長17年(1612年)には大天守が完成する。

築城成った新装の名古屋城へ清洲から移る時は、名古屋城下の地割・町割を徳川義直が直接実施したといわれ、この移住は「清洲越し」と称され、家臣、町人はもとより、社寺3社、城下の町並み、清洲城小天守も移るという徹底したものであったという。 

明治維新後、14代藩主の徳川慶勝が新政府に対して、名古屋城の破却と金鯱の献上を申し出る。 
しかしドイツの公使マックス・フォン・ブラントと陸軍第四局長代理の中村重遠大佐の訴えにより、山縣有朋が城郭の保存を決定し、天守閣は本丸御殿とともに保存された。 

この名古屋城は戦国期より昭和初期まで、戦乱による直接的、破壊的攻防は無かったが、昭和20年5月の太平洋戦火の名古屋空襲の際、本丸御殿、大天守、小天守、金鯱などに焼夷弾が被弾して焼失してしまった。 
現在の天守閣は昭和34年に再建され、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなっている。
又、この尾張地方は、戦国期の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の出身地で、お互い群雄割拠し覇権を争った地柄であることは周知で、名古屋は、関東、関西の中央地であるが、この地から日本の代表的人物達が輩出したことは良く知られている。


次回、地球博と長久手







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「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   南アルプス・鳳凰三山   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   日光の山々   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「山旅の記」   「山の歌」   「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」   「日光の自然」