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世界遺産と熊野地方(29) 「道成寺」

2008年03月01日 11時57分25秒 | 世界遺産の熊野地方


世界遺産と熊野地方(29) 「道成寺」

阪和道の御坊I・Cで降りて、安珍清姫も渡ったとされる「日高川」を渡り、案内にしたがって道成寺へ向った。 JR紀勢本線(きのくに線)「道成寺」駅からでも、道成寺石段下まで徒歩5~6分のところであろう。
突き当たりの道路を北の方向(右折)に進むと正面に道成寺の石段と仁王門の一部が見える。 正面に道成寺の石柱標識があり、ここから参道になっている。参道を更に北の方向に進むと、数軒の土産物屋や食堂があり、この前を通ると結構急な石段がある。

この石段を上がったところに、朱色模様も鮮やかな仁王門が建っている。 その正面には堂々とした本堂が建つ。 
本堂は、南側と北側の両面に正面がある珍しい構造で、「両正面裏無し堂」といわれ、南正面は通常の正面で、北正面は奈良に向かうように建てられているという。 
本尊は千手観音像が二体在って、南面の本尊は重要文化財として大宝殿(宝物殿)に移されたが、北面に安置されている観音像は北向観音とも呼ばれ、33年毎に開扉される秘仏として安置されているという。

本堂右手に「安珍塚」と書かれた石碑と、塚のしるしとされている「榁(むろ)の木」が植えられた一角がある。 その東側に「三重塔」が荘厳に天を指している・・、塔は県文化財に指定されている。 「本堂」前の広場の西側に朱色の「大宝殿」が建てられている。その南側に密接して「縁起堂」がある。
ここでは一日に数回「道成寺縁起」の写本を用いての「安珍清姫の絵とき説法」が行われている。 

縁起堂の中には数人の参拝者がいて、たまたま、その説法がこれから開始されるところであった。 住職による流暢なお話に、我等はすっかり聞き入ってしまい、まるで実際に有った如くに響いてきた・・。

安珍清姫の物語は先に記したが、道成寺をめぐる伝説はその他に二つ有るという。
二つ目は、鐘の再興供養の場に白拍子があらわれ、鐘に対する怨みを述べて蛇体となるものの、僧の供養で成仏する「鐘供養」物語で、これは安珍清姫物語の続編とも言えるものでもある。
もう一つは「黒髪縁起」・髪長姫(かみながひめ)の物語で、これは道成寺の創建に関する物語でもある。


『髪長姫の物語』

『 今から1300年前、九海士(くあま:現在の和歌山県御坊市湯川町下富安)の里に住む海女の夫婦は子宝に恵まれないことから、氏神の八幡宮にお祈りしたところ、可愛い女の子が生まれました。名前を「宮子」と名付けたが、大きくなっても髪の毛が全く生えませんでした。悲しむ両親であったがある日、母が海に潜っていると小さい観音様が光り輝いていました。命がけで海底から引き揚げ、仏壇に飾って、毎日拝んでいると、あら不思議、娘には髪が生え始め、みるみる長い美しい髪が生えてきた。村人から「かみなが姫」と呼ばれる美少女に成長しました。
その姿が都人の眼にとまり、かみなが姫は藤原不比等の養女として奈良に召し出され、「宮子姫」という名を貰い、宮中に仕えることとなりました。宮子姫は、その美貌と才能を見込まれ、飛鳥時代の697年に文武天皇(もんむてんのう)妃(きさき:夫人)に選ばれました。後に、奈良・東大寺を建立した聖武天皇の母ともなった。宮子姫は、黒髪を授けてくれた観音様と両親を粗末な所に残してきた事を悩み、その意を理解した文武天皇はご恩返しをするための寺を建てることを命じ、大宝元年(701)宮子姫の古里に「道成寺」が建てられたという。 』

道成寺は、新西国第五番の札所である。


次回は、  「紀三井寺」へ参ります。


世界遺産と熊野地方(28) 「安珍・清姫伝説」

2008年02月27日 11時48分48秒 | 世界遺産の熊野地方

世界遺産と熊野地方(28) 「安珍・清姫伝説」

国道311が富田川沿いに少し下ったところに、「清姫」の故郷と言われる地に来た。 
茅葺屋根の小店が立ち、山菜や川魚などの山の幸を使った料理が楽しめるスポットでもある。 この先に、清姫の墓や園地があって富田川の「澱んだ淵」が見渡せる。

この辺りは「真砂の里」といって清姫の故郷といわれる。 
「安珍清姫の物語」は、能や歌舞伎の「娘道成寺」などで有名である。 芝居では、裏切られた清姫は安珍を道成寺まで追いかけて焼き殺すということになっているが、この真砂の里に伝わる伝説では、哀しみの余り世を儚んでこの地の富田川に身を投げたということになっているらしい。 


『 昔々、熊野権現にお参りに来た男前の旅の僧「安珍」が、紀伊の国の真砂の庄の一家に一泊させてもらうことになった。 その家の娘・清姫が安珍に恋をし、夜半に寝床までいって迫った。驚いた安珍は「修行中の身なので、熊野参詣の帰り道もう一度ここに寄るので、それまで待っていてほしい」とその場を逃れた。参詣を終えた数日後、破戒を恐れた安珍は清姫のもとを素通りして逃げてしまった。それを知った清姫は後を追いかけ、やっと安珍に追いついて「主は、安珍か・・?」嘘の返事で人違いと言われ、清姫は激怒した。安珍は「南無金剛童子、助け給え」と祈る。祈りで目がくらんだ清姫、安珍を見失い更に逆上。追いつ追われつ、日高川に到った安珍は船で渡るが、話を聞いた船頭は清姫を渡そうとしない。
清姫遂に一念の蛇体となって川を渡り、更に、追い続ける。道成寺に逃げ込んだ安珍を寺僧が匿い、鐘の中に身を隠した・・。間もなく清姫もやって来てたが、その姿は完全に大蛇と化していた。安珍の隠れた鐘を見つけた清姫は、その鐘に巻きつき炎を吐いて鐘もろとも焼き払ってしまったという。その後、清姫は蛇体のまま入水してはてたという・・。安珍が焼死、清姫が入水自殺した後、住職は二人が蛇道に転生した夢を見た。そして法華経供養を営むと、二人が天人の姿で現れ、熊野の宮と観音菩薩の化身だった事を明かす 』

真砂の里、冨田川の淵は清姫が水垢離(みずこり:神仏に祈願するため、冷水を浴び身体のけがれを去って清浄にすること)をとり入水したという「清姫渕」、その時衣を掛けた「衣掛松」、安珍の帰りを待った「のぞき橋」、水鏡にした「鏡岩」、蛇となってその幹をねじた「捻じ木の杉」などの伝説がのこっている。 
尤も、二人が、熊野の宮(安珍)と観音菩薩(清姫)であったとすると、平安初期以降にみられた神仏集合、本地垂迹の思想、実践、つまり、神に仏が宿り、その内仏が神を呑み込んでしまった実情が、透けて見えてくるのであるが・・?。
次に、その「道成寺」を訪ねてみよう・・。


田辺市に出た・・。
和歌山県中部の中心地であり、熊野古道の中辺路ルート、大辺路ルートの分岐点で、「口熊野」(くちくまの)とも称される。
現在の田辺市(新制)は、2005年5月1日に、田辺市(旧制)、龍神村、中辺路町、大塔村、本宮町の新設合併によって発足した、中辺路町から本宮町まで広大な地域になって、面積的には和歌山県全域の約22%を有し、県内でも圧倒的最大の面積になったという・・。 尚、全国都市の面積順位では11位になっている。

国道311から、海道の国道42へ合流し、南部(みなべ)から阪和道にでて「御坊」へ向う。 


次回は、 御坊・「道成寺」

世界遺産と熊野地方(27) 熊野古道・「滝尻王子」

2008年02月26日 12時09分04秒 | 世界遺産の熊野地方
滝尻王子と乳岩のお地蔵さん

世界遺産と熊野地方(27) 熊野古道・「滝尻王子」

ところで、今日は南紀旅行の最後の日となった、本日の予定コースとしては、中辺路から田辺に抜けて御坊、和歌山から関西空港を経て、帰路を辿ることになるが・・、

昨日往来した国道311号線を再び西下する。 
小広のトンネルを抜けると「小広王子」で、ここからは古道、旧国道、新道が概ね並行している。 昨日見物した熊野古道の「中辺路」のハイライトともいえる格式の高い王子や旧跡が数多く残されていた地域であった。
熊野古道は、「道の駅・中辺路」付近の逢坂峠(国道はトンネル)で国道と交差し、再び北側の山中の地へ分け入る。 
国道は、冨田川の川沿いを走り栗栖川、中辺路の山あいの町から滝尻へ至る。 ここで再び古道と国道が接近し、ここに「滝尻王子社」が鎮座している。

滝尻王子は、周囲がやや開けた国道の富田川と、東から流れ込む石船川が合流する所にかかる滝尻橋の袂にある。 立派な鳥居と参道奥の森の中に、社宮が鎮座していた。 
又、小橋の向こうに八角とんがり屋根の「熊野古道館」があった。 古道館は、熊野古道を中心とした中辺路の観光案内や歴史紹介を兼ねた休憩施設がある。

滝尻王子の社宮は五体王子の一つとして尊ばれ、鎌倉・室町期の笠塔婆や宝篋印塔(ほうきょういんとう:供養塔・墓碑塔)があり、また奥州平泉の藤原秀衡奉納と伝えられる黒漆小太刀(国重文)を蔵しているという。
本宮参りで平安貴族・藤原宗忠が、「はじめて御山(熊野権現)の内に入る」と記していて、 滝尻王子に始まるこのコースからいよいよ熊野三山の神域に入るといわれる。 
又、富田川で禊(みそぎ)を終えると、この滝尻王子に参拝して、神道、仏教の宗教儀式の後、神楽や相撲、歌会などの奉納も行われたといい、特に、後鳥羽院が主催した歌会の折に、藤原定家など当時を代表する歌人が和歌を詠んだという記録も残っているという。 

滝尻王子社の左脇から、山中へ向かう熊野古道の階段が伸びている。 
サンダル履きの上さん(妻)をであったが、何とか無理して「乳岩」まで登ることにした。 急斜面であるが、道はシッカリしていて歩きやすい、凡そ20分ほどの登りで古道に沿って横たわる巨岩があった。
それは人一人がやっと通れる程の穴があいていて、これは「胎内くぐり」ともよばれている。 又、胎内くぐりの大岩の上方に、奥州平泉の豪族・藤原秀衡にかかわる伝説の乳岩があった。 
昨日の「継桜王子」の項でも記したが、藤原秀衡夫妻が熊野詣での途中、夫人がここで産気づいて男を出産し、この岩穴に残して参詣をすまして戻ってきてみれば男子は、オオカミに守られて、岩から滴る乳を飲んで成長していたと伝えられている。 
それにしても、赤子を置き去りにしたり、オオカミに育てられたり・・と現実離れした伝承であるが、これら裏側にある事実の説話は何なのか興味深いところでもある・・。


次回は、 「安珍・清姫物語」

世界遺産と熊野地方(25) 湯の峰温泉・Ⅲ「東光寺」

2008年02月22日 10時07分07秒 | 世界遺産の熊野地方
東光寺と「玄峰塔」石碑   

世界遺産と熊野地方(25) 湯の峰温泉・Ⅲ「東光寺」

翌朝、谷川のせせらぎで目が覚めた、昨日とは変わって眩しいくらいの好天である。
例によって上さん(妻)と朝飯前に一風呂浴びて、朝のシジマ(静寂)の中散歩へ出掛けた。 宿の近く、東光寺の裏手の丘の上に「湯の峰王子」がひっそりとあった。 
この王子は平安期の頃は未だ開かれてなく、鎌倉末期に新しく「熊野道・赤木越」が開発されて湯の峰王子社が開かれたという。 
北方の五体王子の一つ「発心門王子」(本宮大社・聖地への入り口とされた)から本宮までは二つのルートに分かれる。 この赤木越では本宮の手前になるため、湯の峰の湯で邪気を洗って参詣するようになったともいわれる。 
この王子は元は東光寺の境内・寺堂にあったが、明治中期の火災で東光寺の本堂ともに焼失、現在地に小さな社が再建されたという。

次に、その東光寺を訪ねた。 
湯の峰温泉・公衆浴場の手前にある寺院で、当地の温泉が最初に噴出した所に建っているといわれる「東光寺」である。
本尊・湯胸薬師如来座像は石仏のように見えるが、実際は噴出した温泉の湯の花が積もりに積もって石のようになり、高さ約3mの仏仏の形になったといわれている。胸の辺りに温泉が噴き出していた名残を示す穴があいている。 かつて湯の胸薬師と呼ばれており、湯の胸が転化して湯の峰温泉の名が生まれたとも云われている。
湯の峰温泉は古墳時代頃から開湯されたともいわれる。

古来、熊野三山が示すとおり水辺は神聖な場所とされてきたが、とくに温泉は病気や怪我を癒す不思議な水として利用され、人々は畏敬の念を以て接してきた。
それはやがて、神に対するものと同等の信仰の対象へと昇華されて、やがて温泉の神として大己貴命(オオナムチ:大国主)や少名毘古神(スクナヒコ)が祀られるようになった。 そして仏教が伝来し、更に仏教があまねく普及すると、国家が神仏習合を唱えだし、民間信仰の神は次第に整理されて医療の神である大国主命(オオクニヌシ)の化身と考えられた「薬師如来」の信仰が盛んとなった。 
従って、全国の温泉地の持つ仏堂・寺院は概ね、「薬師如来」を祀る様になっている。


「東光寺・玄峰塔」のこと・・、
境内の一角に自然石で「玄峰塔」と彫られた大きな石碑がある・・、当地、湯の峰生まれの昭和の名僧「玄峰老師」の塚である。

玄峰老師が生まれたのは慶応2年(1866)、青年の頃に目の病にかかり医師から失明の危険性があるとの宣告を受け、四国・八十八ヶ所の遍路を行おうと決心したのは、この目の病が動機だった。 
霊場巡りの時、高知の「雪渓寺」の門前で行き倒れとなったところを、山本太玄和尚に助けられ、その養子になった。 その後、雪渓寺の住職となり、得度(とくど)して、「玄峰」と号し始めた。
玄峰は、数々の臨済宗妙心寺派の寺院を再興し、後に駿河・三島の「龍沢寺」(りゅうたくじ)の住職となる。 この時周囲の人は「白隠の再来か・・!!」、はたまた「今白隠か・・!」と称されたという・・。 
龍沢寺(りょうたくじ)は臨済宗妙心寺派の名刹で、白隠(はくいん)禅師により開山されている。
龍沢寺住職は代々老師として称えられ、多くの雲水の修行を導くとともに日本全国から各界名士の来訪を受け、禅行を施し、仏法の教えを説いている名刹でもある。
因みに、白隠禅師は臨済宗の中興の祖として知られ、龍沢寺の隣町、沼津の「原」に生まれている。

『 駿河には、すぎたるものが 二つあり  一に富士山、二に原の白隠 』

とも言われた名僧であり、臨済宗十四派(京及び鎌倉の大本山寺院)は、全て白隠を中興としている・・。

私事ながら・・、
小生の田舎の寺は臨済宗妙心寺派.で京の妙心寺を本山に持つが、無論、白隠禅師が中興した寺院である・・。 
偶々(たまたま)昨年、これらが縁と恒例の秋の宝物開示を知った我ら二人(お上さん)は駿河路の「龍澤寺」を訪れた。 
寺には白隠や同寺院の高僧達が描いた禅画、禅筆が多数展示され、見入ったものである。 龍澤寺では文筆も修行の一つとされ、特に僧たちは「書」に励んだといわれ名筆者が多いという。 
時の龍澤寺の座主・玄峰老師の描いた書・画も当然有ったものと思われるが、当時は知る由もなかった・・。


次回は、 山本玄峰・『・・耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び・・』

世界遺産と熊野地方(24) 湯の峰温泉・Ⅱ「湯治伝説」

2008年02月21日 11時05分06秒 | 世界遺産の熊野地方

世界遺産と熊野地方(24) 湯の峰温泉・Ⅱ「湯治伝説」

熊野の地は弱者に温かい浄土の地といわれ、復活、そして再生の地とも云われることは先に記した・・。
湯の峰温泉には実際にそれらの伝説も有り、その一つの例として「小栗判官・蘇生の湯」というのが伝えらている。

その昔、常陸の国( 現在の茨城県真壁郡協和町)に城を構えていた「小栗氏」という一族が居た。今から凡そ600年前(室町前期)の戦乱の時代であった。
関東で上杉禅秀(ぜんしゅう:上杉 氏憲・うえすぎ うじのり、出家して禅秀:室町時代前期の関東管領)が乱を起こした際、小栗氏はその上杉方に味方したが、結果は足利持氏に敗れてしまう。 
城主・小栗判官満重とその子助重は、小栗一族の住む三河の国を目指して逃れようとして相模の国に潜伏していたが、その時、権現堂にてある盗賊に毒を盛られて苦難する・・。 しかし、居合わせた「照手」という遊女に救われ、馬に乗って藤沢まで逃れ「遊行上人」に助けられる。
だが、その後も病は良くならず、遊行上人の導きと照手をはじめ多くの人々の情けを受けて熊野に詣でることになる。 相模の国を出て444日の苦難の旅を経て熊野本宮大社に詣でることができ、約3km離れた湯の峰温泉に逗留、湯治の結果、見事に蘇生したという。 七日で両目が開き、14日で耳が聞こえ、21日で話せるようになり、49日で回復したという。 
熊野権現の加護と湯の峰の薬湯の効き目により全快したと語り継がれている。
遊行上人とは、時宗の祖師である「一遍上人」のことで、相模の国(神奈川)の藤沢に時宗の総本山である「遊行寺」を建てた。 その一遍上人も、この地・熊野に詣でていると古書に記されている。

「小栗判官」の「判官」(はんがん・ほうがん:検非違使尉・けびいしのじょう)とは、平安期における中央官の役職名で、犯罪・風俗の取り締まりなど警察業務や訴訟・裁判をも扱う強大な権力を持っていた。 
源義経の通称でもあり、裁判官の元になったものである・・。

小栗満重は桓武天皇の曽孫・高望王の末裔ともわれ、常陸国真壁郡小栗邑(現茨城県真壁郡協和町)の領主であったが、15世紀初期の頃、関東管領・足利持氏との戦に敗れ、後に城主・満重は鎌倉・八幡宮で自殺したとされる。これが、小栗判官満重に関する歴史的事実らしいが・・。 
満重は特に歴史の流れの上で 大きな役割を果たしたわけではないが・・、しかし小栗判官満重の名は照手姫とともに、浄瑠璃、歌舞伎、人形芝居などで庶民に親しまれている。
最近では、市川猿之助演じるスーパーカブキ・「オグリ」(小栗判官と照手姫の物語)でも有名である。 
満重は歴史上の人物でもあるが、伝説上の人物ということにもなるなのだろう・・。

小栗判官に関する伝説は、一遍上人の説く「時宗」の布教との関係もあるらしく、後に遊行寺に詣でた満重は、上人にお礼するとともに亡くなった家来達の菩提を弔っている。 
又、美濃の地で下女として働いていた照手姫を救い出し二人は夫婦になるが、満重が亡くなると弟の助重が領地を継ぎ、鎌倉に来た折には遊行寺に参り、満重と家来の墓を建てたという。 
又、照手姫も仏門に入り遊行寺内に草庵を営みながら、永享元年(1429)には「長生院」を建てたといわれる。 
これらは遊行寺・長生院に伝わる伝説でもあるが、小生の住む相模の地には藤沢を始め周辺各地には小栗判官に関する各種伝説が伝わっている・・。


熊野の地は古くから死霊の集まるところであり、また死者再生の聖域でもあった。 
男女の別、貴賎、淨・不浄を問わず何人とであっても受け入れ、熊野の参詣者の中には、病人や乞食などの姿も多くみられたという。 
彼らは熊野に詣でれば病苦から逃れられ、たとえ途中で行き倒れても来世で救われると信じ、また道行く人々と助け合うことが死んだ者への供養になると信じて長旅の苦しみを分かちあった。

実際に、昭和の代になっても差別と偏見で見られた「ハンセン病」(癩病・らいびょう:感染力の弱いらい菌による皮膚伝染病。昭和期まで誤解による偏見や差別で強制隔離や事件が発生している。)であるが、湯の峰温泉では大正時代までハンセン病を受け入れた宿もあったといわれる。 熊野では、昔から偏見や誤解はなかったのである。 
小栗判官の伝説は、こうした熊野の霊地が基盤になって語り継がれてきた、云わば「死と病の再生復活の物語」の中の一説なのであろう。


日本最古といわれる湯の峰温泉、その開湯は古く奈良期以前の古墳時代とも言われる。平安期の熊野御幸の時代には、皇族や貴人が参詣の傍ら、この地を休養として訪れている。 室町時代には、一般参詣人達は旅の疲れを癒す意味もあるが、参拝前に入浴し身を清めてから本宮参詣に出立したともいう。
この時期に、時宗開布のため全国を行脚していた一遍上人も熊野の地を訪れ、この地で修行に励んだといわれる。

江戸時代に作成された温泉番付では、「本宮の湯」として勧進元(興行主、事を発起してその世話をすること)に名を連ねている。
小栗判官も入湯したと言われる世界遺産にも登録された「坪湯」は、温泉街を流れる小川の河床にあり、岩盤が自然に抉(えぐ)られてできたという。 
二人がやっと入れるぐらいの小さな温泉場であるが、川下にある川湯温泉が川を堰き止めて作られる巨大な露天風呂「千人風呂」との対比が面白い。

1957年(昭和32年)熊野本宮温泉郷の一部として川湯温泉、渡瀬温泉とともに国民保養温泉地に指定され、共に毎年10月に「献湯祭」を開き、熊野本宮大社に献湯しているという。
2004年7月に「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産登録されたため、世界遺産の温泉になった。

次回は、 湯の峰温泉・Ⅲ「東光寺」