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湘南地方の歴史と観光(6) 小田原・「小田原城」

2008年01月23日 10時58分17秒 | 湘南編

湘南地方の歴史と観光(6) 小田原・「小田原城」

小田原市は、酒匂川の流れる肥沃な足柄平野を擁し、西部は箱根の連山に連なる日本でも有数の観光の拠点、南は相模湾に面した漁業の地であり、丘陵地帯は曽我地区の梅の大産地でもある・・。
又、小田原は「小田原城」に象徴する、歴史の町であり・・、一時代は関東地方を支配した要衝でもあった・・。

中世の頃、「小田原城」は元々は相模国の豪族・土肥氏一族の居館であった。 土肥氏の棟梁は実平(さねひら)で近隣の湯河原に本館を構えている・・。
平安末期の治承4年(1180)石橋山合戦で頼朝の危機を救ったのが土肥氏一族である。

伊豆で平氏打倒の旗を挙げた源頼朝は関東へ進出し、石橋山(小田原市石橋)に陣を張った。 この時土肥実平は郎党と共に参戦している。
頼朝蜂起の報に接した大庭景親は武蔵・相模の平家方の武士に出陣を呼びかけ、両軍は石橋山の谷を隔てて対陣した。
平家方は三千余騎、頼朝方はわずか三百騎、数の上でも圧倒的に勝る平家方に惨敗した頼朝は地元地域に詳しい土肥実平の案内で大洞(しとどのいわや)に一時、身を潜めた。
敵将・梶原景時に発見されたが、彼の温情的配慮により一命を得た頼朝は、その後真鶴岬より安房に脱出した。 
開戦時、三浦の庄を支配する三浦一党が馳せ参じるが、酒匂川の増水で参戦出きず、頼朝敗戦に繋がったといわれる・・。 その後頼朝は千葉・安房で陣を立て直し、再び反平家の旗を挙げる・・、そして鎌倉開府へと導く・・。
土肥次郎実平の嫡男遠平が、この時父に劣らぬ功績を上げ、戦後、早川荘の総領所になって小早川村(小田原市)に築城したのであった。

室町時代には、この地方に大森氏が登場する。
大森氏は鎌倉後期の戦乱時、箱根関所などを実質的に采配し、更に地域経済を掌握する支配者としての立場を鮮明にしながら小田原に根拠を持ち、小田原城の築城を開始し、当初の小田原城の輪郭が出来上がったといわれる・・。

1495年、伊豆を支配していた北条早雲(後北条の始祖)の奇襲によって大森氏から小田原城を奪う。
以来、北条氏政、北条氏直父子の時代まで戦国大名・後北条氏(鎌倉期の北条家とは異なり、関連性はなさそう・・、まぎらわしいので、あえて戦国期の小田原・北条を後北条と称している・・。)の5代95年にわたる居城として南関東の政治的中心地となった。

この時代つまり戦国期、小田原城の攻防は2度起きている。
永禄4年(1561)に上杉謙信の攻撃を、更に同12年(1569)には武田信玄の攻撃を受けるが、いずれもこれを防いでいる。 小田原城が難攻不落の名城の名をほしいままにした事件であった。

この内、小生の住む厚木市郊外から愛甲郡愛川町にかけて戦乱が生じた武田信玄との攻防について述べてみる。
当時、関東の小田原周辺では武田、北条、今川の各氏が覇権を争っていた・・。 そして「武田信玄」は小田原本城を攻略すべく作戦をたてていた・・。
永禄12年(1569)9月、碓氷峠を越えて上野国(こうずけ・群馬県、この時期この地域は武田方の勢力圏であった))に入り、武蔵国の支城・鉢形城(埼玉県寄居町)の北条氏邦、さらに滝山城(八王子市)の北条氏照を攻め、10月には2万の軍勢をもって相模国の小田原に到り、北条氏の本城である「小田原城」を包囲した。 
武田軍は北条軍を城から誘き出して野戦に持ち込みたかったが、小田原城では城の堅固さを活かし、徹底した籠城作戦をとった。
これにより武田勢は攻めあぐねて数日を費やし、遂には力攻めを諦めて撤退することにしたのである。
武田勢によって領内を荒らされた北条氏照・氏邦の兄弟は撤兵する武田勢が、退路として三増峠(小生住地の隣町・愛甲郡愛川町)を通ることを知って追撃奇襲戦(さきまわり)の計画を立てた。
武田勢が三増峠にかかったところで、峠道周辺に布陣して待ち伏せしていた北条勢が武田勢に対して一斉攻撃を始めた。 一時劣勢だった武田軍は陣形を立て直し、両翼から北条勢に襲いかかった。
野戦に長けた武田軍によって北条勢は大崩れし、氏康・氏政父子の援軍を待たずして敗走を余儀なくされた。
その犠牲者は3200余人という。武田勢にも900人ほどの犠牲者が出た。
この戦を「三増峠の合戦」と呼んでいる。

当時の小田原城は、八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9kmの土塁と空堀で取り囲んだ惣構えを持ち(總構・これは後の豊臣氏大阪城の惣構えよりも広大であるという)、それまで類を見ない大規模な城郭へと拡張され、戦国時代屈指の堅城ぶりを誇っていた。
さすがの武田信玄もこの堅城を誇る小田原城を落とすことは出来なかった・・。
尤も信玄は、この上野の国からの武蔵、相模の国への侵入は威力偵察が主たる目的だったともいわれ、三増峠の合戦でお互い損失はあったとはいえ勝敗は双方痛み分けが妥当ともいわれる。 


時代はやや下って戦国末期、織田信長に代わって豊臣秀吉が天下を掌握しようとしてた最終時期、遂に北条方と豊臣方は対立する・・。 
大阪城の秀吉は小田原北条の当主氏政に豊臣政権下に納まるよう説得し、大阪城に登城して配下の礼を尽くすよう数度にわたって要求したが氏政は聞き入れなかった・・。
秀吉は、その「意」無しと見ていよいよ戦線を開く・・。

天正18年(1590)豊臣軍は水軍1万余を含めた、総勢22万人を超えるという空前絶後の大軍に加えて米20万石を確保し、更に黄金1万枚を用意し、兵糧面においても万全な態勢で臨んだ。
それに対する北条軍は5万6千ほどの兵力でしかなかった。 軍勢的には全く相手にならないほどの違いである。 
秀吉軍は東海道を下り箱根湯元に到着、いよいよ小田原城の包囲にかかるのである。

その小田原城であるが・・、先の上杉、武田氏の攻防でも落とすことが出来なかった極めて堅牢なこの大外郭の効果はやはり絶大で、さすがの秀吉軍も包囲はしたものの容易に城を落とすことができなかった。
そこで秀吉は得意の長期戦、即ち兵糧攻めをすることにした。
小田原城の背後に、あの一夜城と言われる「石垣山城」の築城にかかり、自らは愛妾の淀殿を呼び寄せ、諸大名にも妻を呼ばせるなどして長期戦に臨み、小田原城中の兵糧の減少、戦意の喪失を待ったのである。
更にその一方で秀吉はそつなく、各地に散らばる北条氏方の50にも及ぶ支城を各個撃破にかかった。
機は熟したと見た秀吉は参謀・黒田官兵衛孝高らを使者として送り降伏を勧告させ、その一方では総攻撃を命じるなど、硬軟とりまぜた戦術で北条氏を揺さぶったのである。 
城内では徹底抗戦か、降伏かを評議したが中々結論が出ない、(このことが一般に「小田原評定」という語源になった)しかし、周辺情勢が次第に悪化する中、遂に降伏に至ったのである・・。
秀吉は氏政と氏照の2人を主戦派と見なし切腹を命じ、これにより初代の北条早雲以来およそ百年にわたって関東に覇を唱えた戦国大名・小田原北条氏は滅亡したのである。

戦後、後北条氏の領土は徳川家康に与えられ、江戸城を居城として選んだ家康は側近・大久保忠世を小田原城代に置いた。
以後、一時期の中断を除いて明治時代まで大久保氏の小田原藩が小田原城を居城とした。

現在の小田原城址の主郭部分は、大久保氏時代に造営されたものである。
小田原城址は小田原城址公園として公園化され、復興天守が戦後に建築されている。
城内は主に北条家の博物館になっていて、天守閣の頂上からは太平洋や笠懸山の石垣山城祉がよく見える。

「湘南地方の歴史と観光」はこれで終了しますが、尚この後、近年「世界遺産」に認定された「紀州・熊野地方」を巡ります・・、御期待ください。

湘南地方の歴史と観光(5) 二宮・「二の宮神社」

2008年01月22日 11時29分48秒 | 湘南編
            二宮「川勾神社」

湘南地方の歴史と観光(5) 二宮・「二の宮神社」

全国に一の宮、二の宮など宮の付く地域名が多い。
この相模の国(神奈川県)にも一の宮、三の宮、四之宮とある。
神社は、昔から概ね一郷一村に在して郷民の心の拠り所であり、日本民族の魂の「ふるさと」であるとも云われる。
又、克っての主な神社は政事(政治)の中心的存在でもあった・・。 

平安期、その国(地域)の神社の格式や祭政に基ずいて朝廷(天皇が政治を行っていた場所)がその神社の挌位(序列)を決めた。
これは(927年)延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)というのが作成されたことによるもので全国の神社の名称や格式が記載され、公式に神として格付けされた神社であることを示し、その選定には政治的色彩が強く反映されていたという。
これらを「式内社」といい、その格式に応じて、その地域の一の宮、二の宮、三の宮・・と称していた・・。
しかし、朝廷の勢力範囲外および独自の勢力を持っていた神社(熊野那智大社など)は選定から除外されており、これらは故意に選定から外されたという意味で「式外社」ともいう。 

国司(中央・朝廷から地方・諸国へ派遣された地方長官)が赴任したときは、一の宮、二の宮、三の宮と巡拝しなければならなかったといわれる・・。
因みに相州では一の宮は「寒川神社」(寒川町宮山)、三の宮は「比々多神社」(伊勢原市三ノ宮)、四の宮は「前鳥神社」(平塚市四之宮)であって、二宮の如く地域住所名に「宮」と付くのは注目される・・そして相州内で延喜式神名帳に記載されているのは、これらを含めて13社あるという。
その中郡二宮町は、その町名がこの地方の氏神である二の宮である「川勾(かわわ)神社」から由来していることは言を待たない・・。

4世紀中頃、この地域は『師長(しなが)国』のと呼ばれ、川勾神社が師長国の一宮であったという。
大化の改新(645年)により、師長国は相武(さがみ)国と合併して相模国となり、従ってそれまで師長国の一の宮であった川勾神社は、相模国の二の宮になり一の宮の地位を「寒川神社」に譲ったといわれている。
以来、相模国の二の宮である川勾神社の存在するこの地域を「二宮」と称するようになった・・。
毎年5月5日に大磯町の六所神社で行なわれる国府祭には二の宮として参加し、一の宮・寒川神社と上席を争う「座問答」を行なうことで知られ、この神事は平安末頃の地方武士団と在庁官人の勢力争いに起源を置くといわれるが、更に以前の飛鳥時代の「大化の改新」における「宮譲り」にも起源がありそうである。
いずれにしても一の宮、二の宮の歴史の古さを示すものといえよう。

川勾神社は町の仲ほどの西端に位置し、入口に「延喜式内社相模国川勾神社」と大きな看板があり、奥まった階段上の高台に立派な社殿がある・・。 
この神社の祭礼の一つに夏越大祓式があり、その神事に「茅の輪くぐり」というのがある。6月に夏を越す為に行われるお祓で、竹を軸にし茅(チガヤ)を巻いた大きな輪を作り、人々がこれをくぐり越す(左、右、左)。この輪を越すことがお祓であり、罪、穢(けがれ)を祓い清め、招福・除災になるという。

次回は、 「小田原」で今編の終わりとします。

湘南地方の歴史と観光(5) 大磯・「湘南大磯」

2008年01月21日 11時39分58秒 | 湘南編
湘南地方の歴史と観光(5) 大磯・「湘南大磯」

花水川を過ぎると丘状の山が迫り出してくる・・、「湘南平」である・・。 
湘南海岸の西の端に位置して標高僅か180m程度の山であるが、海岸から一気に立ち上がるので、そのわりに高度感がある。 
山頂からは、湘南海岸、大島、富士、箱根、大山などの眺めが素晴らしい。 
子供が幼少の頃、数度訪れてことがあったが最近はトンとご無沙汰である・・。

近年、山頂付近は大分様変わりしたようで・・山頂には東京タワーをミニ化したようなテレビ塔ができ、湘南周辺の家庭のテレビ電波はここから発信している、否、中継しているらしい。 
このテレビ塔に昨今、珍しい現象が起きているという。 テレビ塔展望台の金網に無数の南京錠が掛けられていると・・。
湘南平の名を一層顕著にしたのは、何時の頃からか「好いた同士の二人の名前を書いた南京錠をここに掛けると一生離れない」という噂が若者達の間に広まっているとのこと・・。


麓の海岸が「大磯町」で、湘南平の一角をも占める緑豊かな町並みである・・。 
この大磯駅を基点に高麗山、湘南平と続く丘陵地帯の緑豊かな自然のハイキングコースも整っている。
海岸沿いには国道1号線が走る。この喧騒の国道にも旧東海道の面影である松並木も現存している・・。

「湘南」という地域名は、既に述べたように大磯の「鴫立庵」の石碑がその原点であったといわれる。大磯町役場の隣地に茅葺屋根の瀟洒なその「鴫立庵」がある・・。

西行法師が・・・、
『心なき 身にもあわれは 知られけり 鴫立澤の 秋の夕暮れ』
と詠んだ場所としても有名で、その庵において西行法師の遺徳を偲びながら俳諧道の振興を目的として毎年句会が行われているとのこと・・。

そもそも「湘南」の名を持つ自治体はないが、しかし陸運局に「湘南地域・・・」なるものが在り、その所管地域は平塚・藤沢・茅ヶ崎・秦野・伊勢原の5市および寒川町、大磯町、二宮町の3町で逗子、鎌倉、葉山は横浜ナンバーに決定している・・、この件に関しては異論もあったようであるが・・。
「湘南」という地域名は名前の持つ響きの良さもあり、一種のステイタス化していて最近では車のナンバープレート「湘南」を巡る地方自治体の攻防、紛糾もあったようだ。

又、湘南市構想というのがあって、現在平塚市主導で「湘南市」と銘うった合併話が進んでいたようである。 
その構想とは平塚市、藤沢市、茅ヶ崎市、寒川町、大磯町、二宮町の6市町が合併し、人口約100万人の政令指定都市「湘南市」を設立する構想であったが、しかし主導権争いなどで頓挫したようであるが・・?。
「地名は歴史.文化が凝縮された過去からのメッセージであり歴史の証人である」とも言われるが、湘南発祥の地「大磯」は、さしずめ「庇を貸して母屋を奪られ」の 感さえある。湘南というイメージは、むしろ大磯にある種の優位性があるとも思われるが・・。


かっての大磯は明治以来別荘地として有名で、構えた政・財界人の主だった人物として林薫、後藤象二郎、、徳川義禮,山内豊景、陸奥宗光、伊藤博文、酒井忠道、徳川茂承、鍋島直大、大隈重信、渡辺千秋、西園寺公望、加藤高明、真田幸正、等々壮々たる人物が居を構えていたのである・・。 
おっと肝心なのを一人忘れていたヨ・・、 そう昭和の宗相・吉田茂である。
又、中村吉右衛門(歌舞伎役者)、島崎藤村といった文化人が住んでいたようである。

これらの別荘は、江戸時代まで東海道の一宿にしか過ぎなかった大磯の地が、明治の早い時期から臨海別荘地として発展して行ことになる・・。
その要因として湘南の海もさることながら、自然景観として富士山や伊豆の眺望に恵まれて大きく・・、「湘南」の別称を生んだ所以でもあった・・。 
加えて大磯町の巨大で重厚な別荘建築は、近代日本建築史の上でも重要といわれ、現存する遺構の幾つかは我が国の別荘建築史上貴重な文化遺産だともいえるという・・。

次回は、 二宮町・・、

湘南地方の歴史と観光(4) 平塚・「中原御殿」

2008年01月20日 11時02分56秒 | 湘南編

湘南地方の歴史と観光(4) 平塚・「中原御殿」

先の寒川神社の項でも述べたが・・、
国道134号が相模川を渡る手前、柳島の信号を右に曲がったところの1号線と新湘南バイパスが交差する辺り・・、国指定史跡の「旧相模川橋脚」がある。
関東大震災とその翌年の地震によって突然橋脚が水田の中から姿を現したという。
往時は、ここが相模川の本流であったが、氾濫を繰返しながら相模川がその流れを現在の地である西に移動していった。 
この橋は1198年に、源頼朝の重臣稲毛三郎重成が亡妻供養のために相模川に架けたといわれている。 そして、源頼朝はこの橋の竣工式に出席した帰途、義経や弁慶の亡霊に遭い、驚いた馬から落馬してその怪我が元で死んだという通説がある。
国道1号線の鳥井戸橋の南側にある御霊神社は、この義経の霊をまつったものといわれ、北側の鶴嶺八幡社参道入口にある弁慶塚・供養塔が在る。

また俗説によると頼朝の乗っていた馬が雷の音に驚き一散に走り出したため、頼朝は河原に投げ出され石にあたって絶命したと・・、馬は尚も走り止まらず相模川に入水してしまったとされ、以来この川を通称「馬入川」と呼ぶようになった・・と。
確かにこの川は、小生の住む厚木市までは「相模川」と称しているが、平塚市に入ると「馬入川」と名称が変わっているのである。そしてR1号線に架かる橋は「馬入橋」と名付けている・・。


この馬入川を渡ると「平塚市」である。 
湘南平塚で有名なのが「七夕祭り」がある・・、毎年7月7日の七夕の日に催される夏の星祭である。
七夕とは、元来中国伝来の星を祭る行事だが、それがロマンチックな七夕伝説として日本に伝わり、日本の年中行事となったもの・・。
日本で代表的な七夕祭りは、ここ平塚と仙台が有るが特に平塚の七夕祭りは規模が大きく、2005年の七夕祭りでは7月6日から10日までの5日間で天候やや不順にも関わらず全国から270万人が訪れたという。
湘南平塚七夕祭は、大きな竹装飾が街一杯に立てられ、沢山の屋台が軒を連ねる。昼はイベントやアトラクション等が平塚駅前のメインストリートで繰り広げる。
また、夜は竹装飾が美しくライトアップされ、七夕祭りをより一層豪華なものにしている。

平塚市は、Jリーグで活躍しているサッカーチーム「ベルマーレ平塚」(中田英寿が出身)の本拠地としても知られてる。


さて、湘南平塚の街道についてであるが・・、
近世、江戸幕府開府以来、江戸への往来道の整備が急がれた・・。当時、平塚は平塚宿及び中原御殿といわれる交通の要所があった。
徳川家康が東海道を中心に宿駅・伝馬制度を定めてほぼ400年、平塚宿は御存知旧東海道53次の江戸よりの七つ目の宿場にあたり、慶長六年(1601)に成立している・・。 
平塚宿の宿場内には、加藤本陣跡(江戸時代の宿駅で、大名・幕府役人・勅使・宮門跡などが宿泊した公認の宿舎)、高札場跡(法度=法令・掟書・禁止令などを記し、また、さらし首・重罪人の罪状を記し、人目をひく所に高くかかげた板札。立札、箱根宿を除く八つの宿場すべてが江戸から京都に向かっていずれも右側に高札場が設置されていて、これはある種の目的があったのでは・・といわれる)、江戸見附跡(見附は元々城下に入る門を示す場所で城門のこと、ここでの見附は宿境を示し見附から見附までが正式な宿内であることを示す目印であった、京見付跡は花水川付近にある)などが、平塚駅付近に見られる・・。

さて、「中原御殿」は徳川家康が江戸に開府して間もなく、家康が駿府と往来する際の休息や宿泊、又、将軍の巡遊や鷹狩に使われていたといわれ、さらには幕府の代官陣屋としての機能も果たしていたという。 
ここから江戸へ向かう街道を「中原街道」と今でも呼んでいる。
中原街道 (なかはらかいどう)は中世以前から続く古道で、1590年に豊臣秀吉が小田原の北条氏(後北条・北条早雲が祖)を倒し全国統一なった時、家康に江戸・武蔵野国を賜った・・。
その家康が江戸入りした際もこの街道を利用したと言われ、その後東海道が整備されるまでは江戸に向かう主要な街道であった。
街道沿いの小杉(現在の川崎市中原区小杉御殿町)と平塚中原に御殿が作られると、江戸時代には江戸虎ノ門(現在の東京都港区虎ノ門)から平塚中原(現在の神奈川県平塚市御殿)をつなぐ街道であったため中原街道と呼ばれるようになった。 
東海道が整備されると幹線道としての役割は東海道に譲るが、この街道は江戸-平塚間をほぼ直線につなぐ最短道路であり、脇往還として沿道の農産物等の運搬や旅人の最速ルートとして利用されたという。 別称を相州街道、小杉街道とも呼んでいる。

現在の中原街道は、江戸虎ノ門(日比谷公園付近)から五反田、平塚橋(平塚という地名、建物名もある)、洗足、丸子橋、小杉(中原、御殿、陣屋といった地名が残る)、佐江戸(横浜市都筑区佐江戸町、左方向が江戸という標識からの地名・・?)、川井、瀬谷、桜ヶ丘、用田、寒川、田村を経て終点として相模平塚の中原で東海道に繋がる・・。
凡そ60k程の街道であり、江戸時代のルートと多少異なるが主要地方道(幹線道路)として多いに利用されている。

序ながら、中原街道の北側を「矢倉沢往還」道が古来より通っていた・・、現在の国道246号線で通称「東京沼津線、246・ニーヨンロク」と呼んでいるのは周知である。
矢倉沢往還(R246で一部異なる))は、江戸城の「赤坂御門」を起点にして多摩川を二子で渡り荏田、長津田、国分(相模国分寺跡)を経て相模川を厚木(小生の住む町)で渡り、大山阿夫利神社の登り口の伊勢原に行く。更に西に善波峠を経て秦野、松田、大雄山最乗寺の登り口の関本、矢倉沢の関所に行く。その後足柄峠を越え、御殿場で南に行き沼津で東海道と合流する。

日本武尊が東征する時、足柄峠を通って矢倉沢から厚木まで矢倉沢往還を行ったという逸話は有名で古代、中世から公用の道、物資流通の道、信仰の道と様々な機能を持っていた。 
この「信仰の道」とも云われるのは、江戸時代中期以降庶民の大山信仰が盛んになり各地から大山詣での道が拓け、その道のまたの名を「大山道」とも呼ぶようになった。
この頃の大山道の代表的な「厚木宿」は、交通の要衝として多いに賑わい「小江戸」と呼ばれていた・・。

次回は、 湘南・「大磯」・・。 


湘南地方の歴史と観光(4) 茅ヶ崎・・Ⅳ「寒川神社(2)」

2008年01月14日 17時18分49秒 | 湘南編

湘南地方の歴史と観光(4) 茅ヶ崎・・Ⅳ「寒川神社(2)」

ところ変わるが、神代の地・伊勢神宮の伊勢市の西隣である玉城町は、約2000年前の伊勢神宮の鎮座のときより神宮に奉仕し、神宮を中心とした歴史と文化が培われてきた地域である。
町内には内宮・摂社8社と末社3社が鎮座している。 
その中の一つ外城田地区(ときたちく)に伊勢神宮の摂社「御船神社」がある。
社地は外城田川(別名、寒川といわれる)の上流地にあって、 この外城田川が御船神社の東の辺りを流れている。

この神社の由緒は垂仁天皇の頃、 倭姫命(やまとひめのみこと:垂仁天皇の皇女で日本武尊の叔母と位置づけられ、神託により大和の国から天照大神を伊勢の地に遷宮され、伊勢神宮、伊雑宮を建立したとされる。伊勢神宮最初の斎宮)が坂手の国(鳥羽市坂手町、伊勢神宮の御厨・みくりや)から外城田川を遡ってこられたとき、 このあたりで水が尽き、 その水が大変冷たく周囲は荒んでいたため、 この川を「寒川」と名付けられ、ここに「御船神社」を祀り定められたという。 
倭姫命がこの辺りを見た地形は、伊勢山地から流れ落ちる急流が平地に至って土砂とともに幾筋にもなって暴れ川となり氾濫を繰り返す荒涼たる風景を呈し、寒々しい様相であったので寒川と呼んだのであろう・・?。
尚、倭姫命が名付けられたという寒川の故事により、 田丸町(現、玉城町)は明治4年、 この地域を「寒川村」と改名するよう命じら、一時、「寒川村」と命名したが明治7年、再び田丸町に復しているという。

「御船神社」は皇大神宮の摂社で、祭神は水の神、船路交通の守り神である。
このあたりが外城田川(ときだがわ)で、倭姫命が遡られたとき御船をとどめられた終点地といわれる。
御船神社の社殿の内に「牟弥乃神社」(むみのじんじゃ・皇大神宮・末社)が同座されている。 
この社宮は同じく倭姫命により祭られたもので、こちらの祭神は御馴染みになった寒川比古命、寒川比女命であるり、大水上神の御子で「川の守り神」といわれている。 
寒川の里(外城田川の上流地区)には、その他に、大水上神(おおみなかみのかみ)と天須婆留女命(あめのすばるのみことの)と大歳神(おおとしのかみ)等の神々が祭られ、いずれも神格は水神や農神である。

この地域は地理的には外城田川、宮川、櫛田川などの上流域にあたり、周辺は斎宮池をはじめ無数の池、沼があり、やはりというか低地で水難地帯であるようだ・・。 今でこそ青田の里になっているが遠い昔は、やはりというか水難の地相と想像できるのである・・。 斎宮・倭姫命は、この地の洪水、水害を嘆かれ「牟弥乃神社」を創建し、大水上神の子で兄妹を「寒川比古命」、「寒川比女命」と命名して奉ったと推察できるのである・・。
斎宮・倭姫命が、外城田川を寒川や寒川村と称しているように寒川比の両神、そして各地の「寒川」と称する社名、地名は、この地が大元、発祥地であると想像できるのである。

詰まるところ、伊勢の「皇大神宮・伊勢神宮」をこの地に求めた倭姫命によって、その縁起が求められるようである・・。 
水を治める神、水を渡る神として伊勢の地から讃岐の寒川へ、そして相模の寒川、房州の寒川、その他の各地へ分社されていったのだろう・・。
それらに共通しているのは、伊勢の宮地の御船神社に「牟弥乃神社」、讃岐の寒川町・大蓑彦神社に「牟弥神社」、相模の寒川神社に「牟彌乃神社」に其々、相殿として祀られているのであり、これらは無論同一神で、何れも「川の守り神」なのである。


話は長くなったが・・、
茅ヶ崎の海岸「浜降祭」に戻すと、残念ながら浜降祭の詳細な史料は乏しと言われるが、寒川神社は、古くは戦国時代の永禄4年に長尾影虎(上杉謙信)が小田原の北条氏を攻め込んできた戦乱(1561年:関東地方侵攻から小田原城攻撃)で神社社屋が消失したといわれる。
その時、江戸時代までは寒川神社の別当寺であった薬王寺に書類が残り、その書類が整理された時「浜降祭」の始まりについてはいくつかの伝承が記載されていたという。

その第一は、浜降祭日記に「神事は千有余年間継続し、執行して来た由緒ある最重要な神事」として、実際に古代から千有余年以上続いているとしている。
第二に、「往古相模川洪水のため、氾濫せし際、神輿もこの厄に罹りて流れ下りたるを、南湖(湘南)の漁民が拾いあげたるに始まる」としている。ここでは寒川神社の神を漂着神の信仰として捉えているである。
これと似たような話が茅ヶ崎市芹沢にも伝わっている・・、「昔、寒川神社のミタマが6月15日に相模川に流されてしまったが、7月15日になってミタマが浜に打ち上げられ南湖の人が拾ってくれたので、そのお礼として海岸に神輿を出す」というものである。

「浜降祭」は海に分け入り、禊ぎ(みそぎ)を行なうため海の中へ輿を入れをもみあう祭事である。 「川の守り神」である水の神・寒川両神は、この茅ヶ崎の海岸に上がってきて寒川の地に宮入したが、年に一度磯に出て禊ぎをし、清めをし、お祓いをする祭事なのである。


これらは、あくまでも小生独自の仮説であるガ・・、歴史というものは、事実に元ずいているものが理想であるが、事実を集合させて一つの仮説を組み立て想像するのも、歴史の面白さであろう・・。

余計だが、72年毎に行われるという、一生に一度遭遇できるお祭りがある。 茨城県の「金砂神社大祭礼」というお祭りである。
茨城の日立市水木浜に「金砂の神」が上陸し、内陸の地(金砂郷町、水府村)に鎮座した。この神が、72年毎、上陸した地の水木浜の磯に出て行う祭事で、「磯出大祭礼」ともいう。 平安期の仁寿元年(851年)に第1回目を執行して以来、一度も途絶えることなく続けられてきたとされる祭礼で、総勢500有余人にも及ぶ渡御行列と各種祭事が行はれる。
近年では、第17回目の大祭礼が平成15年3月に執り行はれ、小生もこの時、孫たちと一緒に参加し祈願したもので、その壮大さと歴史の重みに感じ入ったものであった・・。

次回は、 「平塚」です