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日本の旅の記録です・・!!

国内旅行をはじめハワイや沖縄、世界遺産など国内各地の旅の記録です。

沖縄紀行(9)嘉手納 「リトル・アメリカ」

2009年01月11日 10時15分22秒 | 沖縄紀行


写真:ホテルは恩納村にある「恩納マリンビューパレス」と部屋


沖縄紀行(9)嘉手納 「リトル・アメリカ」

沖縄では琉球語で城を「ぐすく」、谷を「たん」と読む・・、

北谷町を過ぎると嘉手納に入る。御存知「嘉手納基地、飛行場」の町で、時折その広大な別世界が見え隠れしている。因みに、嘉手納町の八割以上がこの基地と嘉手納弾薬庫が占有しているらしい。
嘉手納飛行場は東京羽田空港の約2倍の広さがあるそうで、4,000m級の滑走路2本も有し、200機近い軍用機が常駐する極東最大の空軍基地である。 尚現在、成田空港と関西空港には4000m級の滑走路が1本ずつしかないため、2本ある嘉手納基地は日本最大の飛行場ということになる。 嘉手納は基地の県・沖縄の象徴でもある。
この基地から朝鮮戦争やベトナム戦争、湾岸裁争そして近年のイラクでの軍事作戦などフルに活用されたという。 尚、沖縄上空は全面的に嘉手納基地(嘉手納ラプコンともいう)の管制下にあり、民間機は不自然な低空飛行を強制されているという。 我等が那覇空港にて乗降し、離着陸する民間機は低空を飛ぶことになり、これは別に沖縄の観光サービスでも何でもないのである・・、念のため。
周囲20kmの基地の大きさの中に米人住宅はもとより保育所から大学・教会・劇場・銀行・病院・ゴルフ場・野球場・軍属専用の民間機も格安の料金で運航されている。 一歩基地内に足を踏み入れれば、道路には米名が冠せられ、黄色のタクシーが走り回っている。又、沖縄県民の子供たちを基地内の六大学へ留学させようという話すらあり、但し、入学の際には基礎的な英語力が必要だとか・・、基地はまさに、彼らがよぶ「リトル・アメリカ」なのである。
序に、この基地の経緯について・・、 
1944年頃から旧日本軍によって建設された「中飛行場」が前身で、全島から住民が動員され、その中には子供達までが芋(いも)を持参して飛行場建設に動員されたともいう。 基地は1945年4月の米軍本島上陸地点でもあり、上陸後結局、日本軍は誘導路を自ら爆破して、飛行場として使用することなく南部へ撤退している。現在の第1ゲートを入って左手奥の「ウカマジィー」という丘には当時野砲陣地などが築かれ、そのため地元の女子青年団が砲弾運びで20名程動員されたらしいが、その内17名が集団自決でな亡くるという悲劇も起きている。

嘉手納の次は読谷である。 「よみたに」でなく「よみたん」と読む・・、尤も、北谷と書いてこちらは「ちゃたん」と読む。
北海道もそうだが沖縄の地図を開くと、これは何て読むんだ??、という読み方不明の地名がたくさん出てくる。 「谷」は「たん」であったが、他に「城」という文字は地名になると「ぐすく」と読み、宮城は「みやぐすく」、兼城は「かなぐすく」となる。他にも「原」は「ばる」と読むことが多く、南風原(はえばる)、与那原(よなばる)となる。尚、九州地方も「原」を「ばる」と呼んでいるようである。因みに、「沖縄言葉」を「うちなあぐち」という。
一般に、北海道は元々アイヌ民族の地であったから、現地のアイヌ語言葉を無理やり日本語に変換したのであり、沖縄も同様で元々は琉球王国の言葉であった。従って、国内漢字の音をアイヌや琉球などの言葉に置き換えた為に外国語のように難解になったようである。
だが、始めは国内漢字に置き換えて現地の読みをしていたが、次第に難解なので日本語読みに変化しつつあるのも事実のようである。
尤も、日本の漢字そのものも「漢の字」の如く北方大陸からやって来たもので、その後、本来の「大和言葉」が次第に「漢の字」に置き換えられたものでもあった。

沖縄生活の経験ある息子と、車内で琉球語やその読みについて論議しているうちに恩納村のホテルに着いた。ホテルは「恩納マリンビューパレス」という。
国道58号線沿いのやや高台にあり、どの階からもそうだが当方は13階であり正面に東シナ海の太洋、沖縄ブルーが一望の下である。 眼下には先回訪れた懐かしの「ムーンビーチホテル」が海に面して横たわっていた。
こちらのホテルを選んだのは特別の理由があって・・、
実は、大人4人の他に幼児が2人(4歳と1歳)いたのでどうしても和室が欲しかったのである。宿泊した部屋はツインベットの部屋に4.5畳の和室(和洋折衷の部屋)が付いていたのでまっ事都合が好かったのである。 他にキッチン付、バストイレに独立した洗面台、下駄箱付で十分すぎるほどの広さで充分満足であった。最上階はパノラマレストランになっていて水平線からの朝日や夕日が望まれ絶景である。
その他にもホテル内には売店コンビにの他、コインランドリー、プール、ダイビングショップなどがあり長期滞在や家族連れにはいい感じで、選択は大成功の部類であった。
夕・朝食はバイキングで和洋の種類も多く、味もまずまず美味しく、特に夕食は沖縄の食材を使ったメニューもあり見た目より以外とボリュームがあって満足であった。
ドリンクサービスのビールと地元・泡盛をあおって、程よい気分になり沖縄の第1日は過ぎていった。

次回は、本島中央部の各ビーチ・・、




沖縄紀行(8)那覇 「出発から・・、」

2009年01月11日 10時13分37秒 | 沖縄紀行

写真:沖縄名物・「ブルーシールのアイスクリーム」


沖縄紀行(8)那覇 「出発から・・、」

羽田発のJAL0915便(11時25分)は2階席の在るジャンボといわれる「ボーイング747-400(D)」であった。 500人を越える旅客を一度に輸送可能な世界最大の超大型旅客機であり、最新のエレクトロニクス技術とシステムの自動化により、わずか2名の乗員で運航できる747型機の最新機であるという。
諸元は全長・70.7m、全幅・59.6m、標準座席数・568人、巡航速度・916km/h、最大離陸重量・269.9t、航続距離・4,170kmなどと着ない説明書に記載されていた。

那覇空港・・、
沖縄の復帰に伴い日本に返還され、現在では民間航空便と陸海空の各自衛隊、海上保安庁が共用しているのが、那覇市街地から南西に位置する那覇空港である。 滑走路は3000m×45mの1本のみであるが1日300回以上の離着陸があり、年間の発着回数では関西国際空港を上回っているという(2006年度)。 1999年に現在の国内線ターミナルが完成したものの、乗り入れ便の増加を受けてその後も増築を繰り返しているという。
施設として1階の到着ロビーには観光案内所やレンタカーカウンター、クレジットカードラウンジがある。 2階~4階の吹き抜けが大きくとられ、この広さを利用して空港や飛行機関連のイベントがここで行われることもある。 3階にはファストフードを中心としたレストランと有料の観覧デッキが、4階には郷土料理などのレストランがある。又、沖縄優遇措置の一環として、国内唯一の国内線ターミナル内に免税店である「DFSギャラリア」がある。

先ず、北谷へ・・、
空港でレンタカーを手配してもらった後、国道58号線から恩納村方面へ向かった。
那覇市内の混雑を抜け、浦添辺りまで来ると南国沖縄の紺碧の海が時折姿を現す。 煩雑な那覇市内を抜けて、北谷の町に入りホッとしたとこるでチョット一服・・!!。
沖縄の今日は気温25度と夏日である。出発地の東京地方は5~6度であったから、その差に先ずビックリである。 早朝起床と出発の慌しさもあって旅の疲れも出る頃、こんな時はやはり冷たいアイスが恋しい・・?、「チョット一服」は、実は沖縄名物「ブルーシールのアイスクリーム」であった。その場所は国道直ぐ横にあった。
紫色の「紅芋」のアイスは絶品であったが、他にも沖縄のアイスクリームには通常品種の他に「シークワーサー」や「ゴーヤー」や「サトウキビ」・・・「マンゴー」などもあるようだ。
沖縄名物のアイスクリームといえば「ブルーシール」と言われるが、それにはそれなりの訳があったようだ。 ブルーシールは実はアメリカ生まれであった。
1948年、沖縄の米軍基地に従事するアメリカ人向けに、アメリカ人の日常食である乳製品を供給するための施設としてフォーモスト社という会社が基地内で創業した。 ブルーシールは初めは基地の中でしか手に入らない貴重なアイスクリームだったのであったが、1976年に当社は那覇市内にも誕生し、一般の沖縄の人々にも供給できるようになったという。
「ブルーシール」の名は・・、
アメリカで優れた酪農製品に与えられるブルーリボン賞というのがあり、その賞をフォーモスト号という牛が受賞した。その受賞したブルーリボンのシールにあやかって名付けられた名前だそうである。 因みに、我が厚木市の隣町・海老名に「ブルーシール・海老名店」がオープンしたらしい、是非一度訊ねてみようと思う。

ブルーシールでお好みのソフトアイスを買って、すぐ近くの美浜公園にある「サンセットビーチ」へ出かけ、ここで暫く休息を入れた。目の前に沈む美しい夕陽を堪能できる絶好のロケーションとしてその名が付けられたのであろう・・、白い砂浜を観ながら蕩けそうなアイスを頬張る、何とも爽やかな気分である。
砂浜の向こうには沖縄一高層の「ビーチタワーホテル」が聳える。そう云えばこの辺り一角は「美浜アメリカンビレッジ」といって、大観覧車や映画館・レストラン・個性的なショップなどが集まるに人気スポットでもある。 おまけにタワーホテルに隣接して、沖縄では数少ない「テルメヴィラちゅら~ゆ」という天然温泉の施設もある。 この地は後日訪れる予定だが・・、この浜は、2006年9月公開した映画 『涙そうそう』の1シーンでも使われたそうな。

次回は、恩納村のホテルへ・・、



沖縄紀行(7)沖縄 「沖縄の歴史(3)」

2009年01月10日 10時37分18秒 | 沖縄紀行

沖縄紀行(7)沖縄 「沖縄の歴史(3)」


引き続き、「沖縄の歴史」について・・、

【近世琉球】(1609年~1879年)
江戸幕府開府以来、琉球への圧力はますます強くなり、幕府は琉球が「異国」であることを主張している。だが薩摩は鎖国中のも拘わらず、その異国である琉球と貿易は行われていたという。
だが、幕府は明や琉球と交易を巡って対立状態になり、尚且つ、琉球を属国化するため遂に薩摩に出兵を命じる。 島津軍3,000名余りを乗せた軍船100隻が薩摩の山川港を出帆し本島北部に上陸、今帰仁城を落として首里城へ迫った。琉球側は4,000名以上の兵を動員したが日本国内の戦国時代を経験し強兵であった薩摩軍の本格的侵攻に対し、琉球軍は抵抗及ばず首里城は陥落する。翌1610年、当時の王・尚寧王(しょうねいおう)は首里城を離れて薩摩藩主・島津氏と共に江戸へ向かい、徳川家康、徳川秀忠にに謁見している。1611年、尚寧は琉球に戻され、重臣に島津氏への忠誠を誓う起請文を提出させられた後、国家の存続が認められた。また、琉球の貿易権管轄などを書いた「掟十五条」を認めさせられ、琉球の貿易は薩摩藩が監督することとなった。こうして薩摩藩は第二尚氏を存続させながら、琉球を間接支配するようになり、一応、琉球はともかくも安泰ではあった。

幕末の1853年、開国を要求するために日本へやって来た米国のペリーは、日本との交渉の前に琉球に立ち寄っている。 米国は琉球が日本に隷属され、その支配下にあることを知り、日本との交渉が失敗した時には琉球を占領する計画だったともいう。だが、日本との開国に成功したペリーは再び琉球に戻り、日本が「日米和親条約」を結んだのと同じく琉球も米国と「琉米修好条約」を結んでいる。

幕末の動乱によって日本に明治政府が誕生すると、廃藩置県により琉球は鹿児島県の管轄下におかれ、1872年(明治5年)、明治政府は「琉球藩の設置」をすすめ、更に、日本国土の一部として琉球王国の解体を考えていた。説得による解体(琉球処分)が無理だと知った政府は軍隊を持って琉球を鎮圧し、琉球藩に変わり沖縄県を設置した。琉球処分後、日本の領土であることを明確化するため、琉球から沖縄に呼称が改められ、今日ではこの呼称が一般化している。 「沖縄」とは、琉球に対する日本本土側の呼称なのである。

【近代沖縄】(1879年~1945年)
富国強兵を目指していた明治政府は1885年(明治31年)に沖縄にも徴兵制を適用した。
軍隊内では未開人と言う差別を込めて「琉球人」と呼び、そのため国民として認知されるためにも戦場で戦う決意をした人も多かったという。このあたりは、蝦夷地・北海道の「アイヌ統治」と著しく似ているのいである。
1942年(昭和17年)、ミッドウェー海戦で壊滅的打撃を受けた日本軍は沖縄に飛行場を作り始める。これは沖縄が他国からの防波堤となることを意味しているものでもあった。
1944年(昭和19年)、日本政府は沖縄から本土へ10万人の疎開計画を緊急決定したが、同年8月22日、疎開者を含む1700人の乗った「対馬丸」が米国潜水艦の攻撃を受けて沈没し、1500名が亡くなる事件も起きている。同年10月米軍機B29による激しい空襲(10・10空襲)は早朝から午後4時まで行われ那覇市の90%を焼失、琉球王朝時代の貴重な文化遺産も数多く失っている。
1945年(昭和20年)3月26日、米軍が遂に沖縄に上陸、遂に日本国内で唯一の地上戦となる「沖縄戦」が始まる。 使用された銃弾の数はアメリカ軍側だけで270万発、このほか、砲弾6万18発と手榴弾40万発、ロケット砲弾2万発、機関銃弾約3,000万発弱が発射された。 また、地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため、この戦闘を沖縄では「鉄の雨や鉄の暴風」などと呼んでいる。
軍人軍属、島民合わせて死者は20万人を超え、当時の沖縄県の人口は約45万人と推計されており、少なくとも県民の約4人に1人が死亡したことになる。
広島と長崎に原爆を落とされた後の同年8月15日、日本国は「ポツダム宣言」を受諾し戦争が終了した。

【戦後の沖縄】
占領軍の米国は、沖縄の土地を接収するために安い賃貸契約を結び土地提供を求めた。だが1953年(昭和28年)には、「土地収用令」により強制的に土地を収用する。
1960年から15年間のベトナム戦争では沖縄は米軍の出撃・後方支援基地となり、米国と沖縄の人々の間には次第に溝が深まり、反戦・反基地運動なども高まる。

施政権返還後(1972年から現在)・・、
1972年(昭和47年)5月15日、遂に沖縄住民の悲願であった「祖国復帰」の日が決まる。
その結果、本土復帰後の最初の知事選では「国の政策と直結した経済優先」を唱えるよりも「基地撤去による平和な島作り」を目指した候補者が選ばれる結果ともなった。本土との経済格差を解消するために「国体や海洋博」等のイベントも盛んになり、多面にわたる優遇制度も生まれている。
琉球では昔から、「海の彼方のニライ・カナイ(琉球列島各地に伝わる他界概念のひとつ、理想郷の伝承)の世界には豊かな実りと幸せをもたらしてくれる理想がある」と言う信仰があり、念願かなった本土復帰も大歓迎だった。だが住民は本州から押し寄せる土地の買い占め、それに反映する物価高、そして何よりも自然環境の破壊が進んだことに大きなショックを隠せなかったともいう。

近年、日本への復帰を記念して1973年(昭和48)には「若夏国体」、1975年(昭和50)には「沖縄国際海洋博覧会」も開催され、又、2000年(平成12)には「主要国首脳会議」(サミット)が行われた。
文化面では、具志堅用高などのボクシング選手が出身地としているほか、1990年代に沖縄から多数の歌手を輩出して全国的な人気を博し、その後も若手の女優、芸能人が次々と人気を獲得するなど、芸能面での強さを見せている。
一方、現在も相変わらず在日米軍の基地が多くあり、日本にある在日米軍基地の75パーセントが沖縄に集中するという歪んだ構造の現実もある。 これらの基地の騒音・移転問題が解決されておらず、また米兵による沖縄県民への暴行事件などがしばしば起きている。2006年(平成18)には普天間飛行場の移転や那覇港湾施設の返還を含めた米軍施設再編が決定したものの、実現には更なる課題も少なくない・・。

次回から、沖縄紀行「本編」です・・、





沖縄紀行(6)沖縄 「沖縄の歴史(2)」

2009年01月10日 10時36分29秒 | 沖縄紀行

沖縄紀行(6)沖縄 「沖縄の歴史(2)」


【沖縄の古琉球時代】(12世紀~1609年)
長い貝塚時代の後、琉球は農耕社会を基盤としたグスク時代(12~15世紀)を迎える。
グスクとは、沖縄県を中心に奄美諸島から八重山諸島にかけて多数存在する古琉球(グスク)時代の遺跡で、地域により形態や呼び方に違いがあるともいう。
標準語でグスクは城(しろ)と訳されるようだが、しかし、グスクの全てが軍事拠点として使われていたわけではなく、そのグスクの起源については様々な説があり主に「聖域説」、「集落説」、「城砦説」に分けられるという。ただ、琉球王国が三山時代を迎えると、鮮明に戦略的意味合いも持ち、グスクははっきりした城郭の意をもつようになる。其のグスクは王や按司の居城となった。

琉球三山時代は古代琉球の時代区分の一つで、1300年代年から1400年代をいうらしい。
沖縄本島では13世紀に入ると、各地で城(グスク)を構えていた按司(あじ、あんじ:古琉球時代の階級の一つ、諸侯に相当する)を束ねる強力な王が現れ、14世紀には其々三つの国に纏まったといわれる。それは南部の南山(なんざん)、中部の中山(ちゅうざん)、北部の北山(ほくざん))であり、三つの王統が並立する時代が約100年の間続いたという。 いずれも三山、三国とも其々に中国、明王朝との交流を深め、朝貢(外国人が来朝して貢物を奉ること)外交を繰り広げたが、その中から中山の尚巴志(しょう はし)氏が次第に勢力を増し、1416年には北山を、1429年に南山を滅ぼして琉球を統一し琉球王国が形成されたとされる。そして、1872年には薩摩の侵攻によって実質的に琉球王国は滅亡し、更にその後、1879年の明治政府による琉球処分が行われ琉球藩になるまで、約450年間続いた琉球列島に存在した国家である。

【沖縄の世界遺産】
沖縄といえば基地やリゾートに注目されがちでであるが、過去には日本本土とは全く異なる固有の文化や歴史があり、そして、沖縄にも数多くの遺跡が存在した。未だ発掘されていないものや基地の中に埋もれたままのものも含めると、膨大な数の遺跡が存在するといわれる。その中で保存状態の良いもの、或いは当時の状態が復元されたものなど全部で9箇所の遺跡が確認され、それらは2000年12月『琉球王国のグスク及び関連遺産群』として世界遺産に登録された。
沖縄の世界遺産の多くは、ある特定の年代に作られたもの、またはその時代に繁栄した拠点とされているもので、特定の年代とは、三山時代と呼ばれる群雄割拠の戦国時代から、琉球王によって琉球が統一され、平和と安定がもたらされるまでの比較的短い期間である。
沖縄にある多くのグスク(城)及び遺跡の中から、五つのグスク(首里城、中城城跡、座喜味城跡、勝連城跡、今帰仁城跡)と、その関連遺産の四つの遺物(園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園、斎場御嶽)が、第24回世界遺産委員会会議で2000年(平成12年)に世界遺産登録された。これらの公式名称は、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」といい、沖縄本島北部、中部、南部と本当全体に亘って分散しているのである。

尚、沖縄の世界遺産についての詳細は、本稿で順次述べることにする。
次回は、引き続き「沖縄の歴史」について・・、





沖縄紀行(5)沖縄 「沖縄の歴史」

2009年01月10日 10時35分31秒 | 沖縄紀行

沖縄紀行(5)沖縄 「沖縄の歴史」


【琉球・沖縄の神話】
沖縄には様々な神話・伝説・昔話が伝えられていて、しかも何万何千という数の神話・伝承・言い伝えが各地域、各地方に伝わっているという。
1745年の尚敬王時代(しょう・けいおう:グスク時代の第13代国王)には、王府における民話集ともいうべき「遺老説伝(いろうせつでん)」が発刊されており、民衆の中に伝承されている説話を記録していたという。 現在でも民話集の発刊は多く、沖縄県下の殆どの市町村で民話集が編纂され、市町村史の中の民話編として特別に編集、所収しているところもある。
例えば、沖縄の代表的な神話の一つに、「アマミキヨ」という神様が琉球を作ったという話が残っているが、そのアマミキヨが作ったものが世界遺産に登録されている「斎場御嶽(セーファウタキ)」とされている。また、古宇利島(こうりじま)をはじめとする幾つかの島には、アダムとイブの神話に似た男女二人を始祖とする神話も残っているという。

久高島の神話伝承・・、
琉球の創世神アマミキヨが天からこの島に降りてきて国づくりを始めたという、琉球神話の聖地の島である。(国内における「天孫降臨」)
琉球王朝時代に沖縄本島最高の聖地とされた斎場御嶽(せいふぁうたき)は、この久高島に巡礼する国王が立ち寄った御嶽であり、久高島からの霊力(セジ)を最も集める場所と考えられていた。島内には御嶽(うたき)、拝み所(うがんしょ)、殿(とぅん)、井(かー)などの聖地が散在しており、中でも島中央部にあるクボー御嶽は久高島の第一の聖域といされて女人のみが許された男子禁制の地でもある。
久高島には琉球王朝に作られた神女組織「祝女、ノロともいう」制度を今でも継承し、12年に一度行われる秘祭・「イザイホー」と呼ばれる祭事を頂点とした、女性を守護神とする母性原理の精神文化を伝えているといい、民俗学的に重要な島であるらしい。
史的には黒潮民族の中で、沖縄の久高島に渡来してきた海洋民族・「アマミキョ」(遠い海から来た人の意)の集団は航海する時、上陸した島で食糧を確保するために穀物の種子を持って移動してきたとも云われ、これが久高島が琉球・沖縄での五穀(稲・麦・粟・豆・黍または稗)の発祥地となった理由らしい。
琉球王府は、この久高島を神の島として崇めることによって国を治めようと考えたのかも知れない。「斎場御嶽」については、後ほど・・。

【沖縄の先史時代】
先ず琉球人、日本人の祖先と言われる「港川人」が、琉球列島に住んでいたという。
港川人(みなとがわじん)とは、凡そ1万7000年前に生存していたとされる人類で、
1967年沖縄県具志頭村(現在の八重瀬町字長毛)港川の海岸で人骨が発見された。この人骨は約1万7000年から8000年頃もので石器時代のものとも推定され、原日本人のルーツとされ、発見された地域名をとって「港川人」と名付けている。

沖縄の最も古い土器が九州の縄文文化に類似していることから、沖縄諸島以北には九州・奄美に住んでいた人々が何らかの理由で南下してきたものと考えられ、これらの人々が作り出した文化のことを沖縄では特に「沖縄貝塚文化」と呼んでいる。
又、琉球民族・「沖縄人」の源流を辿っていくと、今から5~6千年前に南太平洋から黒潮に乗って琉球列島に北上してきた黒潮民族・漁労集団に当り、南太平洋から北上してきた古いアジア人・モンゴロイド人とも云われる。
故郷の南太平洋島を出た一族は、黒潮に回流する豊富な魚群を追って北へ北へと進み、東南アジア・琉球列島・日本列島まで北上し、上陸して住み着くようになったともされる。
黒潮民族の沖縄漂着から紀元後1,000年ぐらいまでを沖縄では「貝塚時代」と呼び、沖縄諸島沿岸浅瀬の貝類を蛋白源食材としたらしく、沖縄の貝塚時代は縄文時代中期から弥生・平安時代まで長く続いたと云う。

一方では、日本民族の起源と流れについては、よく南方系か、北方系かと議論が盛んであるが、最近の遺伝子工学やDNA鑑定の発達によって日本人の起源が概ね明らかになりつつある。一つの方向として、「日本民族は北方型蒙古系民族に属し、その大元の起源はシベリアのバイカル湖畔と推定できる」と言う説がある。 これは日本民族は北海道から沖縄に至るまで、こと遺伝子に関する限り驚くほど等質であること。しかも、日本人集団と幾分の相違を示すアイヌと沖縄琉球の人々とがまったく等質であるとのこと。 
そして、日本人の等質性DNAを海外に辿ると朝鮮半島から北方型蒙古、さらには北方大陸からシベリアに到っているという見解なのである。つまり、人の流れはシベリヤ付近から次第に南下し北海道から琉球に到ったという北方系の人種が混在したとも言われる。
等質性のあった日本人は、弥生時代に到って変化を見せ始める・・、
縄文後期ともなると、大陸から稲作を含めた大陸文化(弥生文化)が押し寄せ、縄文文化を駆逐しながら全国に広まった。 例えば稲作は約200年足らずで北海道、沖縄を除く列島全土に広まったとされている。
古くは神話時代のヤマトタケルが九州南部から東北まで遠征し、熊襲、蝦夷を征伐する。史実上の平安初期においては、かの「坂上田村麻呂」が東北の果てまで遠征に出かけて蝦夷を平定している。 これらはいずれも弥生文化の覇権のためであって云わば、武装した稲作キャンペーン集団ともいえるのである。
このことは文化面は云うに及ばず、宗教面においても全国に一大革命を起こしたことになり、つまるところ旧来の日本人の姿まで変えてしまったともされている。
ところが、この様な弥生文化の駆逐は北海道と沖縄には全く及ばなかったのであり、本土と並立した弥生時代というのは同時期において両地域には存在しないのである。従って、遠く離れた蝦夷・北海道のアイヌと琉球・沖縄の琉球人は共通した古代の日本民族の原型を今でも見ることができるといわれる。
ただ、琉球における古代の文化の流れも、日本の文化の影響を受けていたのは確かなようだが、ただ、当時の「大和朝廷」政権下に服属していたという確証はないともいわれる。
琉球列島のうち宮古島と八重島を総称して先島と呼んでいるが、特に、この地方の文化は、フィリピンやインドネシアなどの南方文化の影響を深く受けているともいわれる。

次回も沖縄の歴史、「古琉球時代」・・、