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日本の旅の記録です・・!!

国内旅行をはじめハワイや沖縄、世界遺産など国内各地の旅の記録です。

沖縄紀行(14)名護 「名護城址・・?」

2009年01月14日 18時18分26秒 | 沖縄紀行


写真:名護の「ネオパーク・オキナワ」
写真:名護中央公園の桜橋


沖縄紀行(14)名護 「名護城址・・?」

名護城址は石柱に名が刻してあるが、そこには平坦な空き地があるだけで城址らしい跡形は無かった・・、

沖縄3日目が明けた・・、
一両日前は快晴の沖縄であったが、本日上空は色の濃い灰色の雲が大部を占めていた。しかし、今のところ雨の心配は無さそうである・・、ただ念の為雨傘をホテルより借り受け持参することにした。 昨日予定していたが、事情で取り止めてしまった名護の「ネオパーク・オキナワ」(名護自然動植物公園)へ向かうことにした。 きのう同様に58号線を名護方面へ向かう。
名護海岸を行くと、名護市中心部の海岸沿いには緑の公園が広がっている。 「名護21世紀の森公園」という多目的運動公園で、サッカー・ラグビー場、野球場、広場やステージ、市民会館もあり、海辺には21世紀の森ビーチという美しい人工ビーチが作られている。
そしてここはプロ野球・日本ハムのキャンプ地でもあるらしい。
今はすで2月に入っており日本ハム球団も基礎練習などで汗を流していることだろう。 日ハムといえば北海道・札幌がフランチャイズであることは周知であるが、一昨年のシーズンで「新城」などを中心に日本一に輝いている。 その年の暮れに近い時期、北海道旅行での帰り道、日ハムの「札幌ドーム」内を見物している。丁度、日ハム選手の練習中で、かの森本や稲葉選手が快く手を振ってくれたのが懐かしい。
因みに、既にTVやスポーツ紙等でお馴染みになったが、今年の新人で高校生ドラフトNo.1と言われる大阪桐蔭の「中田 翔」が入団している。 中田は、名護キャンプでの初めての実戦対決でやや不調だった、その彼のことをオリンピックの代表監督・星野氏が「今は我慢や、最初からポンポン打ってどうするんや」と笑い飛ばした。そして天性の飛ばす力があるのを知っていて「オレだったら30試合ノーヒットでも使うよ」と言い切った。
星野監督は近日、日本ハムの名護キャンプを視察に訪れ中田と初対面するというが・・。そして、今年より、あの「信じられなーい・・!!」のヒルマン監督から梨田昌孝監督(54)に代わっている。

この名護公園を過ぎた辺りで国道は二股に分かれる。左の海岸沿いは国道449で昨日訪れた「海洋博」に至り、我等は今度は国道58をそのまま進む。目的地の「ネオパーク」(名護自然動植物公園)はここより4kmほどのところ、概ね国道に面してあった。
入り口は、西部劇のセットみたいな模じモジに模じった大岩のトンネルが迎える。
孫達に、ゾウ亀や園内を巡るミニ列車に乗せるとのことで、息子家族4人が入園し、我等、老取(ロートル)組みは別行動、名護城址など他の施設を回ることにした。
ところで、この「ネオパーク・オキナワ」は沖縄の温暖な気候を生かして世界各地の自然を再現したテーマパークで、熱帯、亜熱帯諸国などに生息する動物たちが互いの生態系を壊すことないよう区分けされ、自然に近い状態で観察できるという。
今人気の北海道・旭山動物園の形態に類似しているが、どちらが先駆者か・・?。
又、園内を走るミニ列車のことであるが・・、過去に、沖縄に鉄道が走っていたことは露ぞ知らなかった。1914年(大正3年)12月、沖縄本島南部の那覇駅~与那原駅間を「沖縄軽便鉄道」というのが敷設されていたらしい、その後も嘉手納駅まで線路を延長し、更に北部の拠点名護市までの延長も計画もあったらしいが、第2次世界大戦の戦火で消失し、以降沖縄県から鉄道が消えてしまったという。
ネオパークでは、軽便鉄道で最初に導入された機関車を園内を1周するガイド機関車として再現したものであるという。 運行中には、公園の動植物について機関士が丁寧にガイドしてくれるとか・・。

我らは「ネオパーク」を後にし、すぐ近くを走る県道71号にて名護方面へ向かった。途中から名護公園方面へ、名護城址はこの名護中央公園の園内に在るのです。
最近舗装したばかりの道を山腹に沿って登っていくと見晴らし園地などもあり名護市街が見渡せる。 聞くところ、この先名護城址へは道路工事で車での通行は不可らしい、仕方なし徒歩で行くことにした。 公園は標高345mの名護岳の山腹に位置しているため上り下りが大変であるが、散策道も良く整備されていて歩きやすい。 
それにしても暑い・・!、出掛けには雨の心配もあったが、今はスッカリ晴れ渡っている。日差しも強く気温は24、5度位らしいので夏日である、暑いはずでさすがに沖縄である。園内は桜の木が多く、既にチラホラ咲きかけているのである。
今帰仁でもそうであったが、こちらの園内も何と2万以上の桜の木が植栽してあるという、今月末ともなると見事な緋寒桜(カンヒザクラ)が咲き誇り、さくら祭りが盛大に催されるという。こちらの桜はソメイヨシノなどと違って小ぶりの低木で、花は下向きに咲くようである。下るきった所にかなり大きな吊橋があった。 名前もそれらしく「さくら橋」と称する。こちらからも名護市街が一望できる。
この橋のすぐ上に目的地の「名護城址」が在った・・??、確かに石柱に名が刻してあり、高方へ向かう立派な階段も設えてあって期待をそそりながら上って行く。 しかし、そこには平坦な空き地があるだけで城址らしい跡形は無い、在るのは「拝所」と呼ばれる跡が点在するのと一件の立札のみだった。
名護城の起源については、本格的な発掘調査が行われていないので正確な年代は判らないが、これまでの遺物から少なくとも沖縄グスク時代の14世紀頃ではないかとも言われる。この頃、今帰仁城主の弟にあたる名護按司(あじ)が居城としていたとも言われる。
ところで名護城には首里城や今帰仁城のように石垣が張りめぐらした防御施設が見当らないが、深い山中が天然の防御になっており、特別な防御施設など必要無かったのかもしれない。

引き続き名護の観光施設・・、



沖縄紀行(13)今帰仁 「古宇利島」

2009年01月13日 11時44分29秒 | 沖縄紀行


写真:沖縄特有の墓地を背景に「古宇利島大橋」と墓所


沖縄紀行(12)今帰仁 「古宇利島」

古宇利島は周囲数kmの小さな島、そして集落も疎らなこの島に何年もの歳月と、何百億かの工費を注ぎ込んで「橋」を建設したことへの疑問も生ずるが・・?、

「今帰仁城址」を後にした・・、 
来た道を一旦戻り、国道505より東の方角を目指す。国道はこのまま進むとやがて国道58の名護バイパスより名護に戻る。 その途中に名護動植物公園(通称・ネオパーク)があるので、孫達のためにそちらへ向かおうとした・・が、お疲れの様子でスッカリ車中で爆睡中である。 あらためて相談の結果このまま向かって「古宇利島」へ向かうことにした。
町中に「北山」という施設や地名があって、昔の王朝の名称も多く残っているのが良い。
村役場(今帰仁)のほぼ1km手前、国道左側より斜めに分岐する松並木の広い未舗装の道が有る。一見あまり整備されていない神社の参道にも見えるが、ここは琉球王朝時代からそのままの形で残る馬場(ばんば:競馬場)の跡で、「今帰仁村仲原馬場」という史跡になっているという。 沖縄の各地にあった馬場の一つで、農村における民俗行事や畜産奨励のための競馬などが行はれたという。他の馬場は沖縄戦で破壊されてしまい、昔から有名なこの仲原馬場だけが往時の面影を残していると。
今帰仁村の役場から町並みを過ぎ、間もなくすると羽地内海(はねじ)と呼ばれる湾に面した風光な道に出る。湾の向こうに望めるのは一見陸続きにも見えるが、れっきとした島で「屋我地島」(やがじ)といい、このため内海は湖のように静かである。この島の更に向こう側に目的地の「古宇利島」」がある。
湾岸国道は、やがて再び58号線に合流し、ほどなく左折すると屋我地島である。 一走りで次の古宇利島へ向かう、屋我地島からはまっすぐ伸びた真新しい舗装の橋を進む。 それにしても立派な橋である。ただ島の人には申し訳ないが、周囲数kmの小さな島、集落も疎らなこの島に何年もの歳月と何百億かの工費を注ぎ込んだことへの疑問も生ずるが・・?。偶々現在、国会で「ガソリン暫定税」や「道路特定財源」など道路に関する諸問題で与野党紛糾しているらしいが・・、果たしてこの橋は誰の為の、何の為の橋なのであろうか・・?、些か疑問符を感じたのである。
橋下に見える海が、美しいエメラルド色に変わっていたのに気が付き、変な空想はいつしか消滅した。島に着くと左手に大きな公園が出来ていた、一休みしながら立派な橋に見入る。
島の外周を走っていて気が付いたが、道路両側は広大なサトウキビ畑が広がる。丁度収穫時期であろう島の人のサトウキビ刈に余念が無い、車を止めて小話をしながら少量戴いてしまった。齧る(かじる)とホンノリ甘い味がする、黒糖の材料なのである。思えば、こちらへ来る途中、那覇方面へ向かって古木、薪・・?を積んだ何台かの大型トラックと何台か擦れ違った。あれはサトウキビだったのである、今になって気が付いた次第である。
そして、 サトウキビ畑の端っこ美しい海、大橋を見下ろす丘の上に沖縄特有の形をした巨大な墓地、墓稜が所々に並んでいる。 
沖縄では元々風葬が主流で取り敢えず墓室内に遺体を安置し、数年後に洗骨をして壺に納め、墓室内奥の棚に納めているといい、そのため、墓全体が大きいのだといわれている。沖縄では墓地のことを「カメヌクー」と呼ばれ、内部は小さなものでも6~8畳もある。沖縄の春には清明祭(シーミーサイ・旧暦3月に行う祖先供養の行事で、中国から伝わった祖先供養の行事)と呼ばれる行事があり、それぞれの墓地の前庭で“墓参り”と“宴会”が繰り広げられるという伝統があるので前庭も広くとられているという。 形も近年では多様になってきているが、独特で伝統的な墓は「亀甲墓(きっこうばか)」と呼ばれるものらしい。これは女性の子宮を模したものといわれ、墓の入り口はちょうど産道に当たり、人は母の胎内から生まれ、死ぬとまた帰って往くという琉球特有の「母体回帰」の思想からくるものという。 因みに、琉球王朝時代には庶民が亀甲墓をつくることは許されず、現在数多く見られる亀甲墓は明治以降につくられたものが殆どであるとか・・。

島の主要な道路から集落の中に向かう小道の所々に「自動車進入禁止」の看板が見られる。無論、集落や個人宅へ普通の観光客の侵入を防ぐものと思われる。新しい橋が出来て大勢の観光客が押し寄せ、結果、自分達の生活の場に入り込んでほしくないと思ってのことだろう。判ってはいるが高価な橋で生活の利便性を確保した今、島民挙って歓迎するのも一つの手だと思うが、それとも過去に何か問題でも起きたかな・・?。美しい島に、やや水を指された感じであった。
帰路、大橋から観る屋我地地区の島々が景観を造っている、この辺り一帯は「愛楽園」といって昔のライ患者の療養所だったとか。ちなみに古宇利島は今帰仁村だが、屋我地島は名護市に所属するらしい。


写真:慶佐次湾のマングローブ林を「ヒルギ林」

さて次に向かうのは東村方面・・、つまり西海岸から東海岸へ到るのである。
沖縄県道14号線で本島を横断して慶佐次湾へ向かう。「ヒルギ林」と称して慶佐次湾のマングローブ林のことで、沖縄本島では最も広くマングローブ植物を見ることができるところである。
慶佐次湾に流れ出る慶佐次川河口に架かる橋の袂から、早速そのタコ足のように地面に吸い付くマングローブ林が見渡せる。 時折、TVの映像などでお馴染みであるが、実物は全くの初めてで、興味深々である。橋の袂のすぐ横には見学用の駐車場と広い園地になっていて園地から川岸、マングローブ林に沿って観察用、見物用の桟橋が渡してある。 夕刻とあって他の客は無く、悠々と観察できた。今は干潮期なのであろう、干上がった砂地には無数の穴があって、特有のマングローブカニ(シオマネキ類やコメツキガニなど)が出入りしている。
一般にこのマングローブ林を「ヒルギ林」と称している。ヒルギは「蛭木・紅樹とも書き、
ヒルギ科でオヒルギ・メヒルギ・オオバヒルギなどの種類がある、総称してマングローブと称しているようだ。常緑の低木または高木で呼吸根をもち、耐塩性など特異な生理的・形態的特徴がある。 一帯は、1972年に沖縄の祖国復帰と同時に国の天然記念物に指定されている。

帰りに同じく東海岸に面して「カヌチャベイホテル」のイルミネーションを見物したが、予想に反して大した事は無く、そのまま再び名護へ戻って夕食を摂ることにした。
名護市大東の少し繁華街から離れた場所にあり偶然見つけたもので、「新風料理 風 kaji」という和風居酒屋に立寄った。 沖縄では「風」のことを「かじ」と呼ぶのであろうか・・?座敷でユッタリ腰を落ち着け、今日の疲れを癒しながら冷たい「生」を流し込む。 地元食材を品のある盛り付けで目を楽しませ、値段もマズマズで皆さん身も腹も満足したところで帰路についた。

次回は「名護」



沖縄紀行(12)今帰仁 「今帰仁城」

2009年01月13日 11時42分17秒 | 沖縄紀行


写真:今帰仁城壁と世界遺産の銘盤

沖縄紀行(11)今帰仁 「今帰仁城」

グスクのなかでは最大級の規模を誇っている今帰仁城・・、

公園から北方の沿岸に向かい、5,6kmいった今帰仁村の「今帰仁城址」へ向かった。
丘の上には信じられないような巨大な石垣が延々と連なっている。 正面入り口には右に「史跡・今帰仁城址」と石柱で、左に新装な刻印で「世界遺産・・・・・」として八箇所の遺産を紹介している。そうなんである沖縄には世界遺産が八つも有り、その内の一つがこの巨大な今帰仁城(なきじんじょう)なのだ。
ところで、今帰仁・「なきじん」という地名は文字も、読みもずいぶん変わっていて通常ならならとても読めそうにない地名である。 小生もなかなか読めなくて、来る途中息子に聞いたり、道路標識のローマ字表記でnakijinと記してあるのを何回も見直しては覚えようとしたが、それでもすぐ忘れてしまう始末であった。
何故、「今帰仁」を「なきじん」と読むか・・?、又、何故、「なきじん」で「今帰仁」と書くのか・・?。 昔は「いまきじん」だったり「みやきせん」だったりと様々に発音されていた時期もあったようであるが。
ところで、北海道のややこしい地名については大半がアイヌ語から和語にされたらしいが、この時、アイヌ語の発音を聞き、当て字をしたのが「音訳」、アイヌ語の意味から付けたのが「訓訳」とされている。 琉球沖縄も同様らしく江戸期末期、明治期に「琉球処分」(日本国に併合)にあい、この時に琉球語が和名の漢字に置き換えられたとも言われている。 それにしても琉球語の「なきじん」が何故「今帰仁」になったのか・・?やはり疑問は残る。 ネットでも方々調べたが鮮明な解決はなかった。
城址は東側を川、西側を谷、南側を崖に囲まれた丘の上にあり、1500mにおよぶ見事な石垣城壁に囲まれている。
今帰仁城は琉球王国の城で、沖縄では城と書いてグスクと読む。
王府・「首里城」に匹敵する面積をもち、グスクのなかでは最大級の規模を誇っているが、実は、誰が造りはじめたのかは全く判っていないという、築城は13世紀頃(日本の鎌倉期)といわれている。 

琉球に統一王朝が樹立される直前の三山時代(1322年ごろから1429年で北山・中山・南山の時代)の北山を治めた王の居城でもあり、当時は三王朝とも中国の明帝国に献上物を送りながらも交易、交流を深め貿易も盛んに行われていたようである。
北山からは、中国製の陶磁器が完全な形で数多く出土し、今帰仁城の規模等から北山王の強大な勢力が伺えるともいう。しかし、攀安知王の頃(はんあち・北山最後の王であり、居城の今帰仁城にて自刃する)、自身の武力に頼り、栄華を欲しいままにしていたが長くは続かず、やがて統一を目指す尚巴志により攻め滅ぼされてしまう。
城そのものは三山時代から薩摩藩の琉球侵攻まで使用されていたらしいが、侵攻後は放棄され地元の聖地とされていたらしい。 
聖地といえば、琉球時代は国王が神職(ノロと称した)を任命し、国家の安全、五穀豊穣、航海安全などの祈願をしたようで、つまり「祭政一致」の王国だったようである。 城内には神の降り立つウタキ(御嶽:沖縄ではこのような地域が数箇所あり神が降り立った神聖な地とされている)という神域も在り、神職以外の者が入ることを禁じ、特に男子禁制の地ともなっていた。現在でも信仰の拠点として大切に受け継がれているとのこと。
それが証拠に・・?、今帰仁城には一昔前までは鳥居があり、鳥居の在った場所は現在の世界遺産の表示の辺りったと云われる。 しかし、鳥居が示す神と琉球の神々とは全く異質のものであり、それは、日本政府によって今帰仁城を神社にしようという計画があったらしく、この鳥居は第2次大戦を目前にした皇民化教育による名残ものだったらしい。
鳥居は終戦後、日本の国内制度が変わってからは無意味の物となり破棄されたのだろう・・?。城址は、今は公園になっている。
七、五、三の奇数の階段が城門まで、緩やかな参道が一直線に延びている。 拝みに来る人や見学者のために参道として昭和期に造られたらしい。城壁の上まで登ると海も見えて眺めがよろしく、晴れた日には遠く東シナ海から伊是名島までを見渡せる。
ここは又、桜の名所として有名らしい。この桜は寒緋桜(かんひざくら)の名所としても有名とのこと。面白いことに、こちらの方では桜前線は北から南に下がるという。 気が付くと、付近のヒガン桜がチラホラ咲きかけている。 又、グスクを訪れる際には、「ハブ」に十分ご注意をと地元のひとは注意を呼びかけている・・、時に石垣の隙間に潜んでたりしているという。

次回は、古宇利島へ・・、





沖縄紀行(11)本部 「国営沖縄記念公園」

2009年01月12日 13時06分18秒 | 沖縄紀行


写真:海洋博公園への正面ゲート、
美ら海水族館の巨大水槽で泳ぐ「ジンベイザメ」


沖縄紀行(11)本部 「国営沖縄記念公園」

巨大な国営沖縄記念公園内の、巨大な「美ら海水族館」に、巨大な水槽で、巨大な「ジンベイザメ」が泳ぐ・・、

国道は本部町中心部へと向かう。 入江になっている渡久地港を横切る本部大橋を渡りと間もなく標識に従って左折すると海岸線に沿って緑の園地が大きく広がる。 目的地の「海洋博公園」である。 公園のグリーン地帯になってからは、車をソロリソロリと進ませる。克って、息子が新婚旅行でこの地を数年前に訪れていているが、聞くところ様子も変わってしまったらしく水族館はどの辺りか、駐車場はどこらへんか覚えていないと言う。
しかたなし車をそのまま前進させるとサッパリした広場が見えてきたので寄せてみた。案の定、其処は正面玄関らしく、すぐ横に立派な駐車場も空いたスペースを持ちながら存在していた。そこは公園のほぼ中央に位置する中央ゲートで、広々とした石畳のスペースには花で着飾ったイカとヤドカリ(カニ・・?)の巨大なモニュメントが出迎えてくれた。
こちらの公園は入場無料であるが公園内の各施設に入るときには、それなりの入場料がかかる様である。息子家族は、孫を乗せたベビーカーでゆったりした坂道を降り、我らは広ーい階段を下りてゆく。 途中でオッチャン連が「園内を自由に乗れる券だよ・・」といって我等4人分の乗車券を渡してくれた。園内は徒歩では無理な様な、広大な広さをもつ、従って、園内遊覧用バスが巡回しているのである。因みに、乗降自由券は1枚200円であった。
公園中央センターエリアには円形の巨大な噴水が水を勢い良く吐き出していた。 ノズルからは噴水の高さ7メートルまで上がり、それをとりまく大小のノズルからはアーチ状、きり状、あるいはガラス棒のような噴水が見られる、孫たちは大喜びであった。
丁度、園内遊覧の電気自動車がやってきたので、例の券を見せて全員貸切で乗り込んだ、ガイドつきの車はなかなかの乗り心地であった。

国営沖縄記念公園は昭和50年に開催された「沖縄国際海洋博覧会」を記念して、昭和51年8月に博覧会跡地に設置された国営公園である。
「沖縄国際海洋博覧会」、通称「沖縄海洋博」は、1975年7月19日から1976年1月18日の半年間にわたって世界初の「海洋」や「海」そのものをテーマとした海洋博で、沖縄が日本本土への復帰した記念として、又同時に沖縄の復興と経済振興の促進を目的としていた。
日本政府や沖縄県をはじめ外国政府35、国際機関3、民間企業7グループが出展し、入場者は約348万人を記録したという。会場のメインとなったのは未来の海上都市をテーマにした「アクアポリス」というもので、本部半島を望んで浮かぶ白亜の建造物は、長蛇の列ができる程の人気を博したという。その会場中では「沖縄館」や県内初の水族館、会場内を走る電気自動車が人気を呼び、又、アクアポリス下の海中に作られた海洋牧場も未来型の漁業として注目を集めたという。
我等は今、その電気自動車に乗って生まれ変わった「海洋博公園」を見物しているのである。広大な公園は西側の海に面して南北へ「く」のように細長く延びていて、広さは約77ha(広大さの比較は東京ドーム17個分に相当する)ある。
公園は主に三つのエリアに分かれていて、南側が「花と緑のエリア」といい、一年を通じて花が観れるよう世界的な規模の温室を設け、ランや熱帯果樹・花木等熱帯性の植物が植生する「熱帯ドリームセンター」や亜熱帯都市緑化植物園などがある。
海に面した部分を「海のエリア」といい、公園内でも最も人気の有るメイン地区で目玉のジンベエザメ、マンタなど大型のサメ・エイ類を飼育している世界最大級の「沖縄美ら海水族館」があり、マナティーがいるマナティー館、ウミガメの産卵から成長まで観察できるウミガメ館、イルカの能力や人工尾びれのイルカを観察できる「イルカラグーン」、そして白砂を敷きつめた人工ビーチで日本の水浴場八十八選に認定された「エメラルドビーチ」(4月から10月末)などがある。海辺には木製の「海岸遊歩道」があり、沖縄のコバルトブルーの海や島々を眺められる。
そして北部が「歴史、文化エリア」で、総合案内所の有る中央ゲートをはじめ、噴水広場を含む東南アジア諸国の「海洋文化館」や琉球列島古来からの民家群及び民家庭園を再現した「おきなわ郷土村」、沖縄の植物のうち代表的な種類を展示植栽した「おもろ植物園」等がある。
又、広大な公園のゲートは南端の南ゲート、北ゲートと我等が駐車している中央ゲートがあり、駐車場は概ね中央ゲート付近に6箇所程度ある。

我等は電気自動車で遊覧した後、水族館とイルカラグーンの位置で降りて、先ず、孫のためにもイルカを見物することにした。
大小円形の水槽が3個あって、数頭のイルカが泳ぎまわっている。11時過ぎからはイルカのショーもあり、イルカについての解説、浅瀬プール(深さ50cm)でのイルカとふれあいながらの解説、トレーナーのえさやり体験そして輪跳びの跳躍や曲芸で我等を楽しませてくれた。聞く所、イルカラグーンにいる尾びれが壊死(えし)して泳げなくなった「フジ」というイルカが人工尾びれを装着、再びジャンプが出来るようになったという。このことはNHKの「にんげんドキュメント」で2005年2月に「ヒレをもらったイルカ」として放送されたようでもある。
尚、イルカラグーンの近くには、「オキちゃん劇場」や「イルカスタジオ」などもあり、イルカの能力などを実演するとともに科学的に解説などもしているようである。

ショーが終了後、我等はすぐ隣に有る「美ら海水族館」へ向かった。
割安の入場券をこちらへ来る途中既に購入していたので、そのまま入場した。
各種の水槽で各種の魚類やサンゴや深海魚、珍しい魚やカニなども見ることもでき楽しめる。これらを見物した後、劇場風の空間に出た、この水族館のメーンエリアで正面には映画館の大型スクリーンのような巨大水槽があり、そこで魚たちは悠々と泳ぎまわっている。
この水槽は世界最大のアクリルパネルで高さ8m、幅22m、厚さ60cmを使用した「黒潮の海」と命名している。 そこには7mを越すジンベイザメやマンタが優雅に泳ぎ、対照的にマグロやカツオはせわしげに力強く泳ぎ周っている。
目玉の「ジンベイザメ」は水槽の端をグルグルと泳いでいるので、巨大アクリルパネルの前でしばらく待っていると同じ風景を何回も見ることができる。 劇場空間の横には軽食レストランもあり、同じエリアを縦長の水槽でジョッキを傾けながらノンビリ観察できる。ジンベイザメが目の前に現われた時などはスパゲティを頬張り、生ビールを流し込みながらワーキャーキャーと大騒ぎであった。
館内見物の所要時間はゆっくり歩きながらで1時間程、写真を撮ったり食事をしながらじっくり見てると2,3時間から半日は必要かもしれない。
我等は2時間もいたのだろうか・・・、そんなこんな思いを寄せながら水族館を後する、
尚、公園には、その他色々な施設があるようだが、多少の未練を残しながら海洋博公園を後にした。

次回は、世界遺産である今帰仁村の「今帰仁城址」・・、



沖縄紀行(10)部瀬名 「本島の主なビーチ」

2009年01月12日 13時03分39秒 | 沖縄紀行


写真:ぶせなビーチの海中展望塔と瀬底島の大橋


「ぶせなビーチ」で、第26回主要国首脳会議(サミット)が行われた・・、

さて、沖縄の空も明けて2日目である。
孫殿2人(1歳と4歳)もすこぶる元気で、元気すぎて手にあまる程でもある。 今日の予定は本島北部方面で、主たる目的地は本部の「海洋博公園と美ら海水族館」である。 その他に時間の許す限り数箇所巡るつもりであるが。 今日も沖縄の天気はまずまずであるが、陽気はチョット暑そうで25度以上の夏日になることうけあいであ。ホテルバイキングの朝食(朝食付きの宿泊)を済まして、早速出発である。

先ず、目の前の国道58号線を名護方面に向かう・・、
「タイガービーチ」から、ホテルのテラスから見えた「サンマリーナビーチ」を横に見る、次に「万座ビーチ」で白い砂浜を挟んでの左は「万座毛」」の大絶壁と右端の台形型のANA万座ビーチホテルが対照的で面白い。 次に現われたのは「みゆきビーチ」である、こちらのホテルは全室和室ということで当初宿泊地の第一希望に上がったが、主たる客層が修学旅行生が対象ということで遠慮した経緯があった。 「かりゆしビーチ」を過ぎると間もなく明るく開けた部瀬名の岬が延びている。
「ぶせなビーチ」の丘陵にはザ・ブセナ・テラスリゾートという瀟洒なホテルが建つ。沖縄でも第一級のホテルで一度は泊まってみたいが、なんせ費用は桁違いに高いのである、今回は遠慮して次回、上さんと(妻)と悠々旅行の時にでも世話になろう。 因みに、このホテルは1997年7月にオープンしたばかりで2000年に開催された「九州・沖縄サミット」の主会場となった万国津梁館(ばんこくしんりょうかん・国際交流館)に隣接し、会期中は森首相をはじめとする日本政府代表の宿舎となったところでもある。 三方を海に囲まれた美しい景観のブセナ岬に建ち、光と風をふんだんに取り入れた沖縄における最高のリゾートとを追求したホテルともいわれる。
第26回主要国首脳会議は2000年7月に名護市(ぶせなビーチ)の万国津梁館で開催された主要国首脳会議で、20世紀最後のサミットであり日本初の地方開催のサミットでもある、通称:「九州・沖縄サミット」と称した。
尚、そもそも「サミット」というのは何か・・、
サミットとは「先進国」といわれる欧米+日本の7か国の首脳が集まり、開催国が議長となって、これらの国々を主軸に置いた世界戦略を会議する場である。最近では「世界平和」や「環境問題」、「経済格差の是正」といったものを審議するところで、「先進国」が先頭に立って努力をしながら、世界規模の問題に対処していこうという目的を持った会議である。
尚、2008年7月、「北海道洞爺湖サミット」が開かれる予定である。
この岬一帯は沖縄海中公園となっていて、洒落た遊歩道を行くと先端が名所の「海中展望塔」が建つ。海上桟橋を行くと円筒形のタワーが海中へ沈みながら伸びている。
沖縄唯一の海中展望塔で、水深4mの海中展望塔の窓を覗けば40種類以上の熱帯魚が自由に乱舞する幻想的な世界が広がる。またここでは、くじら型グラス底ボートが就航してて、南国の心地よい潮風にあたりながら海中探訪が満喫できる。
実は、先般沖縄を訪れたとき、この岬公園で存分に遊覧した記憶が蘇ったのであった。

この岬の裏側が「喜瀬ビーチ」である。 国道沿いに喜瀬ビーチパレスというホテルが建つ。このホテルは我等が泊まっている「恩納マリンパレス」と同系のホテルで、金秀リゾートという会社が経営しているようだ。無論、我等のホテルの方が規模も大きく、内容も充実していて満足であるが。
ここを過ぎると間もなく沖縄高速道の終点である「許田」で、名護の市外も近い。右手には沖縄には珍しい「道の駅・許田」」があった。県内には五箇所の道の駅があるが、ここ道の駅・許田が第一号らしい。駅内には「やんばるる物産センタ-」というのが併設されていて、北部市町村の特産品コーナー、青果コーナー、鮮魚コーナー、園芸コーナーなどがあり、やんばる(沖縄本島北部の豊かな自然を持つ山原地域の通称)のココでしか手に入らないもの、美味しいものや珍しいものが満載だとか。

名護市街の賑やかな海岸通りを抜けると、道は大きくYの字の二股に分かれる。 「本部」(もとぶ)方面はその左手で国道449号線の海岸道を行くようになる。
住宅地を暫く走るとリゾートホテル・「リゾネックス名護」の豪奢な建物があり、その先は海岸沿いの快適な片側2車線の道路になる・・か、と思ったが道沿いに琉球セメントの採石場がありチョット艶消しであるが、再び東屋も有る好適地の海岸線を走る。
歴史が有るといわれる海岸線の「塩川ビーチ」を過ぎると、間もなく「瀬底島」が大きく横たわり、その美しい瀬底大橋を横目に見る。 沖縄本島の北端、東シナ海に浮かぶ瀬底島は周囲約8km小さな島である。 島の西側に白い砂浜が広がる静かな瀬底ビーチがある・・、先般、沖縄を訪れた時このビーチまで来てみたが、目の前に広がる離島ならではの静けさの中、エメラルドグリーンの海が広がっていたのを思い出した。昭和60年に開通したという、まだ新しい全長762mの瀬底大橋を渡り、反対側の位置するのがこのビーチで、ビーチから「伊江島」や「水納島」の情景も美しく眺められる。
因みに、瀬底大橋が完成するまでは、米軍の上陸用舟艇の渡し船が行き来してたらしい、このあたりいかにも沖縄らしい。 渥美清主演の映画「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花」で、リリーが東京に帰ったと聞いて寅さんがあわてて飛び乗るのが、この浜のこの船であったという。
「水納島」であるが・・、クロワッサンアイランドとも呼ばれているらしい。 水納ビーチの浜、入江が島の内部を抉る(えぐる)ように広がっていて、この島が三日月形のクロワッサンに似ていることからこの名が付いたらしい。
島へは渡久地港から高速船「みんな」で約15分、水納島ツアーも実施しているらしくホテルも在り人気の島となっている。次回にはプライベートな気分で是非訪れたい。

次回は、本部町の「国営沖縄記念公園」です・・、