

写真:名護の「ネオパーク・オキナワ」
写真:名護中央公園の桜橋
沖縄紀行(14)名護 「名護城址・・?」
名護城址は石柱に名が刻してあるが、そこには平坦な空き地があるだけで城址らしい跡形は無かった・・、
沖縄3日目が明けた・・、
一両日前は快晴の沖縄であったが、本日上空は色の濃い灰色の雲が大部を占めていた。しかし、今のところ雨の心配は無さそうである・・、ただ念の為雨傘をホテルより借り受け持参することにした。 昨日予定していたが、事情で取り止めてしまった名護の「ネオパーク・オキナワ」(名護自然動植物公園)へ向かうことにした。 きのう同様に58号線を名護方面へ向かう。
名護海岸を行くと、名護市中心部の海岸沿いには緑の公園が広がっている。 「名護21世紀の森公園」という多目的運動公園で、サッカー・ラグビー場、野球場、広場やステージ、市民会館もあり、海辺には21世紀の森ビーチという美しい人工ビーチが作られている。
そしてここはプロ野球・日本ハムのキャンプ地でもあるらしい。
今はすで2月に入っており日本ハム球団も基礎練習などで汗を流していることだろう。 日ハムといえば北海道・札幌がフランチャイズであることは周知であるが、一昨年のシーズンで「新城」などを中心に日本一に輝いている。 その年の暮れに近い時期、北海道旅行での帰り道、日ハムの「札幌ドーム」内を見物している。丁度、日ハム選手の練習中で、かの森本や稲葉選手が快く手を振ってくれたのが懐かしい。
因みに、既にTVやスポーツ紙等でお馴染みになったが、今年の新人で高校生ドラフトNo.1と言われる大阪桐蔭の「中田 翔」が入団している。 中田は、名護キャンプでの初めての実戦対決でやや不調だった、その彼のことをオリンピックの代表監督・星野氏が「今は我慢や、最初からポンポン打ってどうするんや」と笑い飛ばした。そして天性の飛ばす力があるのを知っていて「オレだったら30試合ノーヒットでも使うよ」と言い切った。
星野監督は近日、日本ハムの名護キャンプを視察に訪れ中田と初対面するというが・・。そして、今年より、あの「信じられなーい・・!!」のヒルマン監督から梨田昌孝監督(54)に代わっている。
この名護公園を過ぎた辺りで国道は二股に分かれる。左の海岸沿いは国道449で昨日訪れた「海洋博」に至り、我等は今度は国道58をそのまま進む。目的地の「ネオパーク」(名護自然動植物公園)はここより4kmほどのところ、概ね国道に面してあった。
入り口は、西部劇のセットみたいな模じモジに模じった大岩のトンネルが迎える。
孫達に、ゾウ亀や園内を巡るミニ列車に乗せるとのことで、息子家族4人が入園し、我等、老取(ロートル)組みは別行動、名護城址など他の施設を回ることにした。
ところで、この「ネオパーク・オキナワ」は沖縄の温暖な気候を生かして世界各地の自然を再現したテーマパークで、熱帯、亜熱帯諸国などに生息する動物たちが互いの生態系を壊すことないよう区分けされ、自然に近い状態で観察できるという。
今人気の北海道・旭山動物園の形態に類似しているが、どちらが先駆者か・・?。
又、園内を走るミニ列車のことであるが・・、過去に、沖縄に鉄道が走っていたことは露ぞ知らなかった。1914年(大正3年)12月、沖縄本島南部の那覇駅~与那原駅間を「沖縄軽便鉄道」というのが敷設されていたらしい、その後も嘉手納駅まで線路を延長し、更に北部の拠点名護市までの延長も計画もあったらしいが、第2次世界大戦の戦火で消失し、以降沖縄県から鉄道が消えてしまったという。
ネオパークでは、軽便鉄道で最初に導入された機関車を園内を1周するガイド機関車として再現したものであるという。 運行中には、公園の動植物について機関士が丁寧にガイドしてくれるとか・・。
我らは「ネオパーク」を後にし、すぐ近くを走る県道71号にて名護方面へ向かった。途中から名護公園方面へ、名護城址はこの名護中央公園の園内に在るのです。
最近舗装したばかりの道を山腹に沿って登っていくと見晴らし園地などもあり名護市街が見渡せる。 聞くところ、この先名護城址へは道路工事で車での通行は不可らしい、仕方なし徒歩で行くことにした。 公園は標高345mの名護岳の山腹に位置しているため上り下りが大変であるが、散策道も良く整備されていて歩きやすい。
それにしても暑い・・!、出掛けには雨の心配もあったが、今はスッカリ晴れ渡っている。日差しも強く気温は24、5度位らしいので夏日である、暑いはずでさすがに沖縄である。園内は桜の木が多く、既にチラホラ咲きかけているのである。
今帰仁でもそうであったが、こちらの園内も何と2万以上の桜の木が植栽してあるという、今月末ともなると見事な緋寒桜(カンヒザクラ)が咲き誇り、さくら祭りが盛大に催されるという。こちらの桜はソメイヨシノなどと違って小ぶりの低木で、花は下向きに咲くようである。下るきった所にかなり大きな吊橋があった。 名前もそれらしく「さくら橋」と称する。こちらからも名護市街が一望できる。
この橋のすぐ上に目的地の「名護城址」が在った・・??、確かに石柱に名が刻してあり、高方へ向かう立派な階段も設えてあって期待をそそりながら上って行く。 しかし、そこには平坦な空き地があるだけで城址らしい跡形は無い、在るのは「拝所」と呼ばれる跡が点在するのと一件の立札のみだった。
名護城の起源については、本格的な発掘調査が行われていないので正確な年代は判らないが、これまでの遺物から少なくとも沖縄グスク時代の14世紀頃ではないかとも言われる。この頃、今帰仁城主の弟にあたる名護按司(あじ)が居城としていたとも言われる。
ところで名護城には首里城や今帰仁城のように石垣が張りめぐらした防御施設が見当らないが、深い山中が天然の防御になっており、特別な防御施設など必要無かったのかもしれない。
引き続き名護の観光施設・・、