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日本の旅の記録です・・!!

国内旅行をはじめハワイや沖縄、世界遺産など国内各地の旅の記録です。

沖縄紀行(24)豊見城 「旧海軍司令部壕」

2009年01月19日 11時45分04秒 | 沖縄紀行


写真:旧海軍司令部壕内略図と壕内

沖縄紀行(24)豊見城 「旧海軍司令部壕」

次に、北上しながら豊見城方面を目指した。目的地は、「旧海軍司令部壕」という元の海軍施設であったが・・、確か、那覇市と豊見城市の境界に位置しておるようだが、カーナビで追っていっても中々判りにくい所であった。 
それは閑静な住宅地に囲まれた高台の一角に立地していて、近隣の那覇市街が一望できる場所であった。この地に太平洋戦争末期、旧日本軍の司令部が置かれ、縦横に掘り巡らされた広大な壕において、多数の将兵が玉砕しているのである。
「海軍壕戦没者慰霊之塔」の横に円形の透明なサッパリした建物がある、だがここは何も無いエントランスに過ぎなかった。 ここからエレベーターで下ると始めて「壕」の入り口に達する。
受付より地下に向かって真っ直ぐに伸びた昇降階段の階段があり、冷たい風が吹き上がって来る中に靴音が響き、暗黒の闇に吸い込まれそうな感じで降りていく。 コンクリートで固められたドーム状の通路が不気味に延びていて、通路横の各所には当時の兵員たちの部屋や設備施設が設えてあった。
「下士官兵員室」は、彼らが十分に休息を取れるようなスペースは無く、地下水に膝まで浸かりながら、立ったままで寝ていたと言われている。彼らの暗い目つきや暗闇に響き渡るうめき声が聞こえてくるようである。 又、「司令官室」は、大田司令官が最期に爆死を遂げた部屋で、爆風で砕けた壁の跡が生々しく残っている。その白壁には、大田司令官の辞世の句が鮮やかに描かれたままで、彼の無念さが心を締め付ける。



写真:内部司令室と地下壕を掘ったとされる「ツルハシ」


戦争と言う無残さ・・!!、沖縄戦の悲惨さ・・が壕の中から伝わってくる。
1944年(昭和19年)、太平洋戦争において南西諸島の領土各島(サイパン島、テニアン島、グアム島など)では、日本軍の敗色が濃厚となり戦線が後退したため、最前線となった沖縄本島の軍備が強化されることになった。
沖縄における重要な軍事拠点の一つであった小禄飛行場(後の那覇空港)を守るための防空壕を建設することになり、飛行場を南東から見おろす標高74メートルの丘が選定された。
司令部壕は1944年8月10日に着工され同年12月に完成している。
掘削工事は、海軍第226設営隊(山根部隊)の約3000名が設営にあたり、殆どの工事は「ツルハシ」などを用いた手作業で行われたという。 海軍司令部壕は最高軍事機密であったため民間人は近付くことも許されず、工事は軍隊の手のみによって行われたという。
全長450mの壕に4,000名もの兵士が収容されていたらしい。
沖縄戦は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)、沖縄本島に上陸した米軍と日本軍との間で行われた地上戦である。これは民間人を巻き込んだ日本国内での最大規模の地上戦であり、また日米最後の組織的戦闘となった。
沖縄戦は1945年3月26日から始まり、日本軍は惨憺たる敗北の結果、組織的な戦闘は6月23日に終了した。 海軍司令部壕では6月6日、大田司令官が『 沖縄県民かく戦えり、県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを・・・、 』という電文を発信している。 
それは、沖縄国民が戦闘で悲惨な目にあっているので、後々、県民に配慮してあげて欲しいという内容のものだった。その後の6月13日、大田司令官以下、多くの将兵が壕内で自決している。
この壕はしばらく放置されていたが昭和45年になって整備され、見学施設として公開された。
やや陰鬱な気持ちになって壕から外へ出ると、過去に壕内で起った悲劇が嘘の様に、夕刻の斜めに射す光が眩しいくらいである。 気が付くと、あちこちに沖縄特有の墓地が見えている、又、中央には階段も設えている程の立派な「慰霊碑」が鎮座していて、碑文には『海軍戦没者慰霊の碑』と刻してあった。 丁度、高校生らしき或るグループが「慰霊碑」に向かって正装し、経本を片手にお経を読みながら合掌していたのが印象的であった。


沖縄戦とは・・・、
太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)、沖縄本島に上陸した米軍と日本軍との間で行われた地上戦で、3月下旬から終戦の8月までの戦いをいう。 正確には1945年3月26日から始まり、組織的な戦闘は6月23日で終了したとしている。
米軍本隊は沖縄本島・宜野湾の読谷、北谷の海岸に上陸を開始した。 宜野湾の海域は米軍の艦船で埋め尽くされ、黒々としていたという。 地上戦闘部隊18万3千、艦船約3千、補給部隊を合わせると54万の超大部隊であった。
第32軍 司令官 牛島満中将以下日本陸軍は、浦添丘陵に主力部隊を配置して米軍を待ち受けた。そして日本軍は地下陣地から迫撃砲や機関銃で応戦し、夜になると闇にまぎれて肉弾攻撃などを行う。この血で血を洗う激しい攻防戦は米軍の上陸地・北谷から首里城までの10キロを進むのにおよそ50日間繰り広げられ、5月下旬まで続いたという。この戦場で日本軍の戦死者約6万4千名、全兵力の八割を失い壊滅した。
因みに、日本軍の第32軍司令部は首里城壕に在り、現在はコンクリートの残骸として旧壕の痕跡だけが残っている。 案内板も説明板も無く、戦闘による落盤の為、入口からは入る事ができないといい、草場の中に埋もれようとしている。
浦添丘陵に残る「嘉数の塔」(かかずのとう:現、宜野湾市)の碑文は次のように伝えている、『 物量を誇るアメリカ軍の大軍、宜野湾に上陸す。迎え撃つ日本軍は兵器甚だ劣勢にして唯日夜肉弾、また肉弾。ここ嘉数の丘に玉砕す 』
日本陸軍はあくまで持久戦で臨む作戦をたて、ひとまず本島南端の喜屋武半島まで撤退した。この時、海軍部隊は南部への撤退作戦に同調せず、海軍陸戦隊1万名が小碌飛行場(那覇飛行場)に立てこもって米軍を迎え撃ち、6月3日から10日間激戦の末、大田司令官以下将兵は海軍司令壕で自決し玉砕している。
喜屋武半島での最後の戦いは、まさに地獄絵図さながらであった。
日本軍司令部が移った「摩文仁の丘」(まぶに)は、丘陵全体が砲弾と炎につつまれ、まさに「鉄の暴風」が吹き荒れる丘となった。6月23日、司令部壕に立て篭もる将兵が最後の切り込み攻撃をかけ、ほぼ全員玉砕して沖縄の戦いは終わった。
日本側の死者・行方不明者は18万8000人で、その内、沖縄県出身者が12万2000人、その中で9万4000人が民間人であり、負傷者数は不明だという。アメリカ軍側の死者・行方不明者は1万2500人で、負傷者7万2000人。ただし、日本側の死者数は戸籍が焼失したり一家全滅が少なくないなどの事情により全面的な調査は行われていないため、実数はこれを大きく上回るという指摘もある。
1945年3月末の時点、沖縄戦が始まる以前での内地本土は廃墟と化していて、既に敗北状態にあったとも言われている。 もし半年前(終戦の日から)のこの時、終戦を迎えていたら沖縄の悲劇は起こらなかったのである・・!!。
現在、「摩文仁の丘」である沖縄戦終焉の地は、緑いっぱいの平和祈念公園になっていて、沖縄戦犠牲者の「平和の楚」をはじめ、戦争の悲惨さを物語る遺品や戦禍の中での人々の生活、体験談を紹介する資料館等がある。

我等は、この小山を下り那覇市内へ向かう、次の行き先は「識名園」である。



沖縄紀行(23)玉城 「おきなわワールド」

2009年01月18日 10時56分51秒 | 沖縄紀行




写真:玉泉洞の入口付近、鍾乳洞内部
写真下:珍々洞の珍々・・?、女性が羨むような形ですね・・!!、


沖縄紀行(23)玉城 「おきなわワールド」

「おきなわワールド文化王国」・・、

おきなわワールド・・に着いた。
沖縄北部の主要行楽地である「海洋博公園」に対するのが、こちら沖縄南部の観光施設・「おきなわワールド文化王国」であろう。 その内、なんと言っても楽しみなのが我が国でも有数と言われる鍾乳洞である「玉泉洞」である。
多くの人で賑わっているド派手な入場口の施設から、すぐ左手に玉泉洞の入口がある。
下り坂をしばらく下りると、鍾乳石がいっぱいの鍾乳洞になる。
一方、こちらは駐車場の奥にある「珍々洞」という。 左手の小さな明かりのところに赤いボタンを押すと周りが明るくなり「珍々」のその姿を現す。 長さは3メートルほどで、その太さは大人が手を回しても届かないほどだと・・!、珍々洞に触れながら拝むと、子宝に恵まれると言うことで、毎年多くの方がここを訪れるという。
実は、洞窟の入り口付近には満々洞という岩の割れ目もあるそうだが、どうも落石があったらしく近づくことが出来ないという。 沖縄、万歳である・・!!。

地球年齢的・永年のサンゴ礁から生まれた鍾乳洞・「玉泉洞」は、おきなわワールド文化王国の主役であろう。 洞内は全長5kmのうち凡そ900mを観光用として公開しているらしく、それでも洞内を全部をゆっくり見てまわると少なくとも1時間はタップリかかる。前半は鍾乳石や石筍を中心とした洞窟であったが、後半は地底の渓流や水溜り、池を配したバリエーションが楽しめる。 
無数の大石筍が林立する「東洋一洞」、「銀柱」、「昇龍の瞳」、「岩窟王」、「龍神の池」や黄金色に輝く「黄金の盃」は幻想的な光景である。 変わったところでは「化石の広場」など、30万年の年月が作り上げたという壮大な造形美を堪能することができた。
「おきなわワールド文化王国」は、玉泉洞の他にも熱帯フルーツ園、ハブ博物公園、エイサーが実演されるエイサー広場、築100年以上の古い民家を移築し、町並みを再現した琉球王国城下町、沖縄を代表する伝統工芸の数々が体験できる琉球ガラス王国工房等々・・。沢山の見所が多いが、先の予定のある我等にとっては一先ず退場することにした。

次回は、元海軍施設の「旧海軍司令部壕」




沖縄紀行(22)具志頭(ぐしかみ) 「港川人」

2009年01月18日 10時55分55秒 | 沖縄紀行

沖縄紀行(22)具志頭(ぐしかみ) 「港川人」

次に、「おきなわワールド・・」に向かう。
国道は、山の端に沿って道ができているので、町並みに入ってもカーブの連続であるが、緑に覆われた快適なロードでもある。 旧玉城村に入り、「奥武島」を眺めながら雄樋川の立派な大橋を渡ると、案内に従って右折することになる、「おきなわワールド・・」はもう近いはずである。

その前に、この辺りは港川地区といって、冒頭でも記したが太古の原人といわれる「港川人」が発見された地域である。 港川の石灰採石場跡にある旧石器時代の遺跡で、1967年~1972年にかけて那覇の実業家だった大山盛保氏等によって港川石と呼ばれる石灰岩の内から約1万8000年前のものと推定される化石人骨が発見され、地名を取って「港川人」と名付けた。
国内で発見されている更新世(こうしんせい:地質時代の区分の一つで、180-160万年前から1万年前までの期間で、この時代の殆どは氷河時代であったといわれる。残りの年代から現代までが完新世ともいう。)の化石人骨の中でも保存状態に恵まれ、全体の形がよくわかるのは、港川人だけといわれる。
身長は約153~155cmで体つきは全体的に小柄で腕は細めなのに対して手は大きく、腕力もかなり強かったようである。頭骨は現代人よりもやや大きめで、頬骨が張り、鼻筋が高く、掘りの深い顔つきを持っている。その身体的特徴から南方系で、広義のインドネシアなど東アジア海岸域の海洋集団に属していたという見解もみられる。
いずれにせよ「港川人」は、日本人のルーツを探るうえで重要な存在といい、「港川人」は、縄文人とほぼ同じ特徴をもっていることから、港川人が琉球列島から本土へ渡り、縄文人になった、つまり日本人の祖先として現在のところ位置付けられている。 しかし、琉球沖縄人は国内からの北方ルートも考えられていて、港川人が琉球の祖先になったかどうかは、まだ明らかにされてはいないともいう。

ところで、日本人の元祖については昔から南方系か、北方系かとの議論がある。 或いは両方からやってきてお互いが融合し、1万年以上もの長い間で日本人の原型となる縄文人が形造られていた・・、と想像することも出来る・・?!。
数千年前に至った縄文期では日本は既に温暖化に入っており、縄文人は東西の文化、物資の交流が日本海を中心に行われていた事実もある。 例えば、青森の「三内丸山遺跡」(縄文前期)から北陸越後の装飾用の「翡翠」(ヒスイ)が大量に発見されているという歴史的事実もある。又、これは考古学的裏づけがない神話、伝承に過ぎないが、古代出雲王朝の大国主が「翡翠」を求めて、能登地方を巡りながら越後へ達しているのである。
日本では縄文時代から丸木舟が広範囲に使用されていた事実もあった。
京都・舞鶴市の浦入(うらにゅう)遺跡からは、凡そ5300年前の縄文時代前期の丸木舟が出土している。推定だが全長が8メートルで、出土地点が舞鶴湾に面していることから、外海航行用の丸木舟であることが想定されているという。
北海道・蝦夷でも東北との繋がりがあり、まして、琉球人が南方系とすると、これは海洋民族であり、本州との交流は易かったはずである。
こうして、一万年以上にも及ぶ永い永い縄文時代は北海道の北部地域から、琉球南方地域まで、ほぼ同一系の旧来の縄文人が出来上がっていたのではないかとも想像できる・・??。

だがしかしである・・、ここで時代と文明が一変するのである。
これも神話の世界(日本の古事記、日本書記)であるが・・、出雲王朝(大国主)が「国譲り」という大革命が行われるのである。 これは縄文人と弥生人の一大紛争であったのだが、現実的には紀元前3世紀から紀元7世紀まで大陸や半島からの渡来人である弥生人(大和王朝)が九州や出雲地方にやって来て、従来の出雲の民である縄文人を駆逐し、ないしは同化していったともいわれる。
具体的には、冒頭にも記したが神話時代の日本武尊(ヤマトタケル)が九州南部から東国まで遠征し、熊襲、蝦夷(何れも縄文人)を征伐する。又、史実上の平安初期においては、かの「坂上田村麻呂」が東北の果てまで遠征に出かけて蝦夷を平定している。 これらはいずれも「弥生文化の覇権」のためであって、云わば、武装した農業集団、稲作キャンペーン集団ともいえるのである。このことは文化面は云うに及ばず、宗教面においても全国に一大革命を起こしたことになり、つまるところ旧来の日本人(縄文人)の姿から精神まで変えてしまったともされている。このように2000年にわたる、集団で定住化された米が主食になる稲作農業が規定化された弥生人は、旧来の縄文人の姿、形まで変えてしまったことになると云えるのである。

ところが、この様な弥生文化の駆逐は北海道と沖縄には全く及ばなかったのである。両地域とも本土と並立した「弥生時代」というのは存在しないと言われ、縄文時代の次の時代は、沖縄では「貝塚時代」(新石器時代)、東北北部から北海道では「続縄文時代」と呼ばれている。
琉球の新石器時代は本土のそれよりも長く、平安の頃までが新石器時代であったという。
本土が弥生時代を迎えていた頃、南西諸島の人々は、九州の人々と貿易を行っていたと見られるが、しかし琉球には弥生時代の特徴である稲作農耕は伝わらなかった。 琉球の人々は縄文の文化を残す生活を続け、漁獲採集の時代、貝塚の時代が長く続いたのである。なぜ水田農耕が伝わらなかったのか、という点については琉球人にとって動植物は神であり、「農耕」という行為を受け入れがたかったのではないかともいわれる。そして平安後期の11世紀頃になってやっと、それまで入ってこなかった水田農耕や鉄器が仏教の布教とほぼ同時に琉球地方に伝わり、農耕生活が始まったとされている。

蝦夷・北海道においては更に極端で、明治になり人々の北海道開拓移民制度が確立されてから集団稲作営農というのが一般化してくるのである。 江戸期までは“石高のない松前大名”とわれる松前藩は稲作が無いため、何万石という所謂、米石高の表示さえ出来なかったのであった。 言いかえれば北海道も、画一的な弥生文化から免れることができ、アイヌとその文化という非稲作的要素を近代に到るまで残すことになった。
従って、本州を跨ぐ遠く離れた蝦夷・北海道のアイヌと琉球・沖縄の琉球人は共通した古代の日本民族の原型をいまでも見ることができるのである。
昨今、琉球沖縄人が芸能やスポーツで大活躍しているようだが、男女おしなべて身体的特徴が内地人と比して少々なりとも異なって見えるのは小生のみではあるまい・・!。
琉球人は、背丈は小ぶりで眉毛などが毛深く、色黒、顔が角ばって彫りが深い、ガッシリしてることなどがあげられる。 我等内地人は黄白色で、顔形もうりざね顔で全体にノペッとし、その違いが一目でわかる。北に目を転じてみると、アイヌと呼ばれた人々もまた、沖縄人とよく似た身体的特徴があると言わる。つまり琉球人=アイヌ人=縄文人ということになるが・・。

沖縄南部で発見された「港川人」は、縄文以前の石器時代の人型といわれ、それは日本における1万年もの縄文時代の縄文人を創り上げた、日本人の原人であるともいわれる由縁である。
アフリカでサルとヒトとが別れてから現代人に至るまで、凡そ500万年~700万年にも及ぶとされている。 この壮大な人類進化の過程で、東アジアで唯一といわれる全身の骨格が残る1万8千年前の「港川人」をはじめ、更に琉球諸島では3万2千年前の日本最古の人類化石といわれる「山下町第一洞穴」(那覇市山下町)や下地原洞穴(久米島具志川村)、ピンザアブ(宮古島上野村で発見)などから、更新世に遡ると考えられる人骨が出土している。
沖縄からは、世界的にも注目される貴重な人類化石が発見されているのである。

次回は、「おきなわワールド」



沖縄紀行(21)知念 「斎場御嶽」

2009年01月17日 11時20分46秒 | 沖縄紀行



写真:斎場御嶽の主要聖地「三庫裏」、「御門口」と入り口の名碑と世界遺産の碑


沖縄紀行(21)知念 「斎場御嶽」

世界遺産の斎場御嶽(せいふぁうたき)とは・・、

道路標識が「南風原」という地名を盛んに指している。
「なんぷうはら」・・?、北の方には北風原があるのかな・・?などと独り言を言ってると、ローマ字式の文字に「haebaru・はえばる」と記されている。 「原」を「ばる」と読むことは承知していたが、「南風」は「はえ」か・・、如何にも沖縄、琉球らしい読み方である。
町並みが続く「南風原町」は那覇の隣町で6市町に囲まれており、現在沖縄県では唯一、海に面していない自治体であるとという。王都時代には首里に隣接する地域特性から文化的な影響を直接受け、人の流入も多く首里から移住した士族によって形成された屋敷集落も多数あったという。
沖縄戦中、南風原は司令部のある首里の後方陣地として、20余の日本軍部隊が村内各地に配備されていた。だが、その沖縄戦によって南風原は住民の40%以上が戦死するなど壊滅的な被害を受けている。現在は、那覇市のベッドタウンとして都市化が急速に進んでいるという。

海岸に近ずくに従って家並みも少なくなり、開放感あふれる道になっている。両脇の広い歩道には南国特有の色々な種類の街路樹が植え込んであり、目を楽しみながらのドライブである。 気が付けば国道は331号に代わっていた、そして地域名も「南城市」となっている。だが、建物や施設名には左敷、知念といった名称が多い。 実は、南城市(なんじょうし)は2006年1月、佐敷町、知念村、玉城村、大里村が合併して誕生した地域名であった。
国道は知念半島(・・?)沿いを巡るように延びている。 沿岸は丘陵、山岳地となっているため、屈曲上下しながら忙しげに走るようになり、丘の上からは沖縄特有の紺碧の海が常時望まれる。
半島の東端に位置するところに、派手なモニュメントがあって「知念海洋レジャーセンター」を示している。そのすぐ近くに沖縄の霊場といわれる「斎場御嶽」があったので寄ることにした。
知念岬公園を超えた先にある道を右手に入り、くねった山間の道をほんの少し上るとサッパリした無料駐車場と管理棟があった。観光客もちらほらと見えていて、管理費用らしき賽銭ほどの料金を払って入場した。すぐ前に、斎場御嶽(せいふぁうたき)と世界遺産の碑が迎えてくれる。その先は、御門口(ウジョウグチ)と呼ばれる神聖な入り口があり、参道は石畳が敷かれている。 
霊場は、各神域であるウジョウグチ、大庫理(ウフグーイ)、三庫裏(サングーイ)、寄満ユインチ)などといった参拝所がある。ここには社宮といった構造物は一切無く、あくまで全くが自然であり、太古(縄文期)の様式がそのまま現代に引き継がれ、残されている感じである。中でも、斎場御嶽の中で最も見応えのあるのは三庫裏といわれる拝所で、巨大な大岩を合わせた二つの石で構成され、三角形をした洞門の奥に光が射し込んでいるその様子はここが聖域であることを実感させる。その洞門をくぐると、そこは久高遙拝所と言い、琉球開闢に登場する「アマミキヨ」という女神が降臨したという神話の島「久高島」(くだかじま)を望むことができる。
尤も、この洞門は約1万5千年前に起った地震の断層のズレから出来たと言われているが・・。

「斎場御嶽」は、様式は異なるが国内の「伊勢神宮」に喩えられるともいう・・?、
琉球開闢(かいびゃく・天地の開けはじめ、世界のはじめ)は、「アマミキヨ」という女神が降臨したという神話の島「久高島」から始まるという。
国内においての国土開闢は、古事記によると「イザナギ」、「イザナミ」とされ、その子である「アマテラス」一族が九州・「高天原」(九州宮崎の山地)に降りて国土を形造ったとされる。
アマミキヨもアマテラスも女性の神であることも共通類似しているのである。
ところで、「斎場」の意味は我等も馴染み深い「さいじょう」のことであるが、古事に言う「斎」は、内地では「いみ」といわれ、「神事に慎むこと、心身を清浄に保ち慎むこと」とされる語であり、沖縄でも共通する意味合いを持つ。 日本の古代の氏族の一つに「斎部」(いんべ:忌部)という、朝廷の祭祀を専門に奉仕する一族があった。
斎場(せいふぁ)は、琉球でも「心身を清浄し、神に慎むこと」なのであり、御嶽(うたき)は、神が降臨し鎮座する聖域のことを指している。

琉球は七つの御嶽から出来上がったと伝えられ、そのうちの一つがここ「斎場御嶽」であり、その歴史から七御嶽のなかでも琉球王国最高の聖地とされて、王族以外はその神域には入れないとされていた。併せて、御嶽は聖域として近年まで男子禁制であったという。
斎場御嶽では庶民は入口の「御門口」を越えて進入することは許されず、国王、主官であっても、御門口より先に入るには袂の合わせを女装に改める必要があったという。
今は観光地化されてメジャーになり、世界遺産として登録されてからは沖縄外からもより注目される場所となっている。 その内、観光バスがぞろぞろやって来るのだろうか・・?。今のところ、佇まいには特に変化はないように思われるが・・。
ところで沖縄には現在も聖地を巡拝する行事「東御廻り(あがりうまーい)」というのがあるようで、当地はその代表的参拝地として現在も御願(うがん)に来る「おばあ」達が絶えないという。 
尤も、敬虔な「おばあ」達の御願は、世界遺産とは何の関係も無い・・!。


斎場御嶽の近場に、特に足は向けなかったが「知念城址」がある。自然石を野積みにした石垣で囲まれた「古城」と、その下に切石積になった「新しい城」の両方からなっているという。古代・琉球の歌集に『おもろさうし』というのがあるらしい、この歌の中に古城のことを、

『 知念もりぐすく、神降り始めのぐすく、アマミキヨが、のだて始めのぐすく 』
と言うのがある。
「知念城は、天孫氏の代のアマミキヨが築いたものと」と詠っているのである。
「天孫氏」とは、琉球最初の王統で、天孫氏王統(天孫王統)と伝えられる。
天帝の使として下界に降った女神・アマミキヨは三男二女をなし、長子及びその子孫が歴代の国王になったという伝承で、天帝の子孫にあたることから天孫氏と呼ばれる。この辺りも、内地の天照一族の「天孫族」と極めて類似している。
又、知念新城は琉球歴代の王朝である「尚真王」(しょうしんおう)の時代に築かれたという。尚真王は、三山時代の後の統一王朝、第二尚氏王朝の第3代国王(15世紀後半~)とされている。

次回は、縄文原人・港川人





沖縄紀行(20)那覇 「沖縄尚学高」

2009年01月17日 11時19分47秒 | 沖縄紀行

沖縄紀行(20)那覇 「沖縄尚学高」

我らは、沖縄旅行は2度目であるが・・、奇しくも、その年の2度とも選抜高校野球は「沖縄尚学」が優勝している・・、

手続きを終えて那覇市内から南部沿岸方面へ向かう。
DFSギャラリアのすぐ前、おもろまちを南北へ縦断する330号は、ゆいレールが立体となって並行している。この道を南下しながら次に507号線を東へ辿る。
途中、「国場」という交差点があった。
息子が1年間沖縄在学の頃、この辺りで下宿していたのを何となく思い出す、すぐ近くには沖縄大学や沖縄尚学高が在るはずである。丁度その時期に、かの沖縄尚学高が春の選抜高校野球大会で全国優勝したのを息子が大変喜んでいたし、そして、我らが始めて沖縄を訪れた年でもあった。 息子の下宿先から道路を挟んだ向こう側に尚学高があって、優勝旗を持った生徒たちが帰校した時は、歓迎する市民で大騒ぎであったらしい。
沖縄の高校が全国優勝というのは、全国の高校野球ファンならずともある種の悲願であった。 小生も高校野球ファンの端くれで大変嬉しいことであった、あの時の決勝戦は記憶に無いが準決勝のPL学園との激烈な試合内容は今でも記憶の隅にある。

第71回選抜高校野球大会(平成11年)

準決勝(延長12回)
沖縄尚学 200 100 200 012=8
PL学園 010 100 300 010=6

決勝(全国優勝) 
水戸商  020 000 000=2
沖縄尚学 020 021 20x=7


【追記】
そして本年(平成20年)春、嬉しい便りを追加することになった。
本年の選抜大会において「沖縄尚学」の3年ぶり4回目出場を記載しようと思ったが、その戦績結果について吃驚仰天してしまったのである。この年、我らは再び沖縄旅行を果たし終えて、そのまとめの記事、文章を書いている最中、沖縄尚学がすいすいと決勝まで進み、遂に、選抜大会で2度目の全国制覇を果たしてしまったのである。
第80回記念選抜高校野球大会の決勝が4月4日行われ、3年ぶり4回目出場の沖縄尚学(沖縄)が初出場の聖望学園(埼玉)を9-0で圧勝、9年ぶり2回目の優勝を果たしたのである。当校は無論、沖縄勢として選抜優勝は2回目であるが・・。
沖縄尚学のエース東浜巨(3年)が聖望学園を6安打完封に抑え、3連投のエースを助けようと打線が奮起。初回から先制し、今大会でチーム最多の15安打、9得点を挙げて大差で聖望学園を突き放した。
沖縄尚学は4回、一気に畳み掛けて4点を奪いほぼ試合を決めた。 唯一のピンチとなった七回2死満塁でも適時打を許さず、「完封を狙っていたが、思った以上の投球が出来た」と東浜投手は言う。主将の西銘も「僕たちはウソの練習はしてこなかった。比嘉先生からスキのない野球、深い野球を学んだ」と言う。
現監督の比嘉公也氏(26)は、初優勝した第71回大会(1199年)でエースだった投手で、就任2年目で投打ともに優れたチームを育て上げ、母校を再び優勝に導いた。彼は今大会の最年少監督であり、史上14人の『優勝選手&優勝監督』は「不思議な気持ちです」と微笑でいた。因みに、「沖縄尚学」は県内でも有数の文武両道の進学校であり、難関国公私立大学への進学者も多いという。 地元では「沖尚」または「尚学」として親しまれている。

第80回記念選抜高校野球大会 【決勝】
聖望学園(埼玉)  0 0 0 0 0 0 0 0 0 = 0
沖縄尚学(沖縄)  1 1 4 0 3 0 0 0 x = 9

次回は、沖縄の聖地・「斎場御嶽」(せいふぁうたき)・・、