世界遺産と熊野地方(8) 熊野三山・「那智大社」
大門坂を終えて、妙法山へ延びる主要道を横切ると那智大社への立派な階段がある。 階段のサイドには各種お土産店が立ち並び、真に賑やかでこれらを眺め、楽しみながらゆっくり登るのが良いだろう・・。
473段という長ーい石段を登り、標高約500mの地に朱色の華麗な社殿が鎮座している。
階段下には真紅の鳥居が構えていて、いよいよ聖地へ分けは入る感がある。
横に「熊野那智大社」と記したやや古ぼけた石柱があり、鳥居正面には名額には「那智山熊野権現」としてある。
この刻字の「権現」を見ても、この熊野の地も「神仏混交」が行渡っていることが判る。現に社殿横には神社・神宮寺である「青岸渡寺」の寺院が並んでいるはずである。
手水舎で清めて二人は徐(おもむろ)に石段を上る、左側には各種の御土産、飲食店が賑やかに並んでいて退屈しない。
頂上にも同様の鳥居が屹立していた、そして、そこには煌びやかな朱色の社殿が並ぶ、拝殿、本殿、八社殿と・・。
先ずは拝殿に額ずいて拝礼を致す・・、特別な祈願はないが、先ずは道中安全と家族平穏を祈った。
古来よりこの大社は、「熊野速玉(新宮)大社」、「熊野本宮大社」とともに「熊野三山」と呼ばれ多くの人々の信仰を集めている。
社殿は六棟からなり夫須美神(ふすみのかみ)を主神として、それぞれの神様をお祭りして いる。 夫須美神はお馴染・・?の伊弉冉尊(イザナミノミコト)ともいい、万物の生成・育成を司るとされ、伊弉諾(いざなぎ)と共に黄泉の国で天照神(あまてらす)や素盞嗚尊(すさのお)を生じさせたと言われる日本神話の神、日本の国土を生んだ神世七代の最後の神である。
第一殿(瀧宮)には、大己貴命(大国主:飛瀧権現、千手観音)、第四殿(西御前)には、主神の熊野夫須美大神 (千手観音)、第五殿(若宮)には天照大神(十一面観音)、第六殿には八社殿が有り、主に瓊々杵尊(ニニギ: 龍樹菩薩)、彦火火出見尊 (ホオリ・山幸彦:如意輪観音)、鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズ:聖観音)等、日本国土創世記のそうそうたる神々が合わせて「十二神」祭れている。
十二祭神は熊野十二所神ともいわれる。
これは今も尚、熊野那智大社を称して「熊野権現」あるいは「十二所権現」と呼び慣わしている由縁であり「神仏習合時代」に神々と仏が一体として祀られていた本地仏名も掲げてある。 括弧内の観音名がそうである・・。
これは「本地垂迹」(ほんちすいじゃく)による仏教が興隆した時代に表れた神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は実は様々な仏が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。
「権」とは「権大納言」などと同じく「臨時の」、「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示す。
「垂迹」とは神仏が現れることを言い、「本地垂迹」とは日本の神は本地である仏・菩薩が衆生救済のために姿を変えて迹(アト)を垂(タ)れたものだとする神仏同体説で、簡単に云えば日本各地に祭られている神々とは、仏教の仏たちが仮の姿で現われたものと説いている。
これを神社側の視点に立って説明すれば、神々はそのままでは俗世に姿を現すことができないので仮に仏の姿に変えて現れ、衆生の苦しみや病を癒してくれるのだという。
こうした説は平安中期ごろから流布しはじめ、中世には概ね日本人の感覚として定着していった。
熊野三山に祀られる神は熊野権現(くまのごんげん)ともいい、又、熊野神、熊野大神とも言って神仏習合によって権現と呼ばれるようになった日本でも代表的な神域である。
熊野神は各地の神社に勧請されており、これらの神を祀る社宮を熊野神社、十二所神社とも言って日本全国に約3千社もあるという。
ここ那智大社は、次に述べる「青岸渡寺」とともに神仏習合の状態が三山でただ1つ現地で観られる貴重な地域でもある。
この神仏習合という思想形体は、平安初期に始まり明治初期の明治政府によって「神仏分離」政策が施行されるまで、実に1000年以上も続いたのである。
次回は、 「青岸渡寺」・「那智大滝」
大門坂を終えて、妙法山へ延びる主要道を横切ると那智大社への立派な階段がある。 階段のサイドには各種お土産店が立ち並び、真に賑やかでこれらを眺め、楽しみながらゆっくり登るのが良いだろう・・。
473段という長ーい石段を登り、標高約500mの地に朱色の華麗な社殿が鎮座している。
階段下には真紅の鳥居が構えていて、いよいよ聖地へ分けは入る感がある。
横に「熊野那智大社」と記したやや古ぼけた石柱があり、鳥居正面には名額には「那智山熊野権現」としてある。
この刻字の「権現」を見ても、この熊野の地も「神仏混交」が行渡っていることが判る。現に社殿横には神社・神宮寺である「青岸渡寺」の寺院が並んでいるはずである。
手水舎で清めて二人は徐(おもむろ)に石段を上る、左側には各種の御土産、飲食店が賑やかに並んでいて退屈しない。
頂上にも同様の鳥居が屹立していた、そして、そこには煌びやかな朱色の社殿が並ぶ、拝殿、本殿、八社殿と・・。
先ずは拝殿に額ずいて拝礼を致す・・、特別な祈願はないが、先ずは道中安全と家族平穏を祈った。
古来よりこの大社は、「熊野速玉(新宮)大社」、「熊野本宮大社」とともに「熊野三山」と呼ばれ多くの人々の信仰を集めている。
社殿は六棟からなり夫須美神(ふすみのかみ)を主神として、それぞれの神様をお祭りして いる。 夫須美神はお馴染・・?の伊弉冉尊(イザナミノミコト)ともいい、万物の生成・育成を司るとされ、伊弉諾(いざなぎ)と共に黄泉の国で天照神(あまてらす)や素盞嗚尊(すさのお)を生じさせたと言われる日本神話の神、日本の国土を生んだ神世七代の最後の神である。
第一殿(瀧宮)には、大己貴命(大国主:飛瀧権現、千手観音)、第四殿(西御前)には、主神の熊野夫須美大神 (千手観音)、第五殿(若宮)には天照大神(十一面観音)、第六殿には八社殿が有り、主に瓊々杵尊(ニニギ: 龍樹菩薩)、彦火火出見尊 (ホオリ・山幸彦:如意輪観音)、鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズ:聖観音)等、日本国土創世記のそうそうたる神々が合わせて「十二神」祭れている。
十二祭神は熊野十二所神ともいわれる。
これは今も尚、熊野那智大社を称して「熊野権現」あるいは「十二所権現」と呼び慣わしている由縁であり「神仏習合時代」に神々と仏が一体として祀られていた本地仏名も掲げてある。 括弧内の観音名がそうである・・。
これは「本地垂迹」(ほんちすいじゃく)による仏教が興隆した時代に表れた神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は実は様々な仏が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。
「権」とは「権大納言」などと同じく「臨時の」、「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示す。
「垂迹」とは神仏が現れることを言い、「本地垂迹」とは日本の神は本地である仏・菩薩が衆生救済のために姿を変えて迹(アト)を垂(タ)れたものだとする神仏同体説で、簡単に云えば日本各地に祭られている神々とは、仏教の仏たちが仮の姿で現われたものと説いている。
これを神社側の視点に立って説明すれば、神々はそのままでは俗世に姿を現すことができないので仮に仏の姿に変えて現れ、衆生の苦しみや病を癒してくれるのだという。
こうした説は平安中期ごろから流布しはじめ、中世には概ね日本人の感覚として定着していった。
熊野三山に祀られる神は熊野権現(くまのごんげん)ともいい、又、熊野神、熊野大神とも言って神仏習合によって権現と呼ばれるようになった日本でも代表的な神域である。
熊野神は各地の神社に勧請されており、これらの神を祀る社宮を熊野神社、十二所神社とも言って日本全国に約3千社もあるという。
ここ那智大社は、次に述べる「青岸渡寺」とともに神仏習合の状態が三山でただ1つ現地で観られる貴重な地域でもある。
この神仏習合という思想形体は、平安初期に始まり明治初期の明治政府によって「神仏分離」政策が施行されるまで、実に1000年以上も続いたのである。
次回は、 「青岸渡寺」・「那智大滝」