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日本の旅の記録です・・!!

国内旅行をはじめハワイや沖縄、世界遺産など国内各地の旅の記録です。

世界遺産と熊野地方(8) 熊野三山・「那智大社」

2008年02月01日 10時40分49秒 | 世界遺産の熊野地方
世界遺産と熊野地方(8) 熊野三山・「那智大社」

大門坂を終えて、妙法山へ延びる主要道を横切ると那智大社への立派な階段がある。 階段のサイドには各種お土産店が立ち並び、真に賑やかでこれらを眺め、楽しみながらゆっくり登るのが良いだろう・・。
473段という長ーい石段を登り、標高約500mの地に朱色の華麗な社殿が鎮座している。 

階段下には真紅の鳥居が構えていて、いよいよ聖地へ分けは入る感がある。 
横に「熊野那智大社」と記したやや古ぼけた石柱があり、鳥居正面には名額には「那智山熊野権現」としてある。 
この刻字の「権現」を見ても、この熊野の地も「神仏混交」が行渡っていることが判る。現に社殿横には神社・神宮寺である「青岸渡寺」の寺院が並んでいるはずである。

手水舎で清めて二人は徐(おもむろ)に石段を上る、左側には各種の御土産、飲食店が賑やかに並んでいて退屈しない。
頂上にも同様の鳥居が屹立していた、そして、そこには煌びやかな朱色の社殿が並ぶ、拝殿、本殿、八社殿と・・。 
先ずは拝殿に額ずいて拝礼を致す・・、特別な祈願はないが、先ずは道中安全と家族平穏を祈った。


古来よりこの大社は、「熊野速玉(新宮)大社」、「熊野本宮大社」とともに「熊野三山」と呼ばれ多くの人々の信仰を集めている。 
社殿は六棟からなり夫須美神(ふすみのかみ)を主神として、それぞれの神様をお祭りして いる。 夫須美神はお馴染・・?の伊弉冉尊(イザナミノミコト)ともいい、万物の生成・育成を司るとされ、伊弉諾(いざなぎ)と共に黄泉の国で天照神(あまてらす)や素盞嗚尊(すさのお)を生じさせたと言われる日本神話の神、日本の国土を生んだ神世七代の最後の神である。
第一殿(瀧宮)には、大己貴命(大国主:飛瀧権現、千手観音)、第四殿(西御前)には、主神の熊野夫須美大神 (千手観音)、第五殿(若宮)には天照大神(十一面観音)、第六殿には八社殿が有り、主に瓊々杵尊(ニニギ: 龍樹菩薩)、彦火火出見尊 (ホオリ・山幸彦:如意輪観音)、鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズ:聖観音)等、日本国土創世記のそうそうたる神々が合わせて「十二神」祭れている。
十二祭神は熊野十二所神ともいわれる。 
これは今も尚、熊野那智大社を称して「熊野権現」あるいは「十二所権現」と呼び慣わしている由縁であり「神仏習合時代」に神々と仏が一体として祀られていた本地仏名も掲げてある。 括弧内の観音名がそうである・・。

これは「本地垂迹」(ほんちすいじゃく)による仏教が興隆した時代に表れた神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は実は様々な仏が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。
「権」とは「権大納言」などと同じく「臨時の」、「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示す。
「垂迹」とは神仏が現れることを言い、「本地垂迹」とは日本の神は本地である仏・菩薩が衆生救済のために姿を変えて迹(アト)を垂(タ)れたものだとする神仏同体説で、簡単に云えば日本各地に祭られている神々とは、仏教の仏たちが仮の姿で現われたものと説いている。
これを神社側の視点に立って説明すれば、神々はそのままでは俗世に姿を現すことができないので仮に仏の姿に変えて現れ、衆生の苦しみや病を癒してくれるのだという。 
こうした説は平安中期ごろから流布しはじめ、中世には概ね日本人の感覚として定着していった。

熊野三山に祀られる神は熊野権現(くまのごんげん)ともいい、又、熊野神、熊野大神とも言って神仏習合によって権現と呼ばれるようになった日本でも代表的な神域である。
熊野神は各地の神社に勧請されており、これらの神を祀る社宮を熊野神社、十二所神社とも言って日本全国に約3千社もあるという。

ここ那智大社は、次に述べる「青岸渡寺」とともに神仏習合の状態が三山でただ1つ現地で観られる貴重な地域でもある。
この神仏習合という思想形体は、平安初期に始まり明治初期の明治政府によって「神仏分離」政策が施行されるまで、実に1000年以上も続いたのである。


次回は、 「青岸渡寺」・「那智大滝」

世界遺産と熊野地方(7) 熊野古道・「大門坂」

2008年01月31日 10時29分50秒 | 世界遺産の熊野地方
            大門坂・・「振ヶ瀬橋」(上)、「夫婦杉」(中)

世界遺産と熊野地方(7) 熊野古道・「大門坂」

ホテル浦島から、先ずは那智山の名勝を目指す・・。
紀勢線と国道42号線を横断して那智川沿いの道を進む。 
屈曲しながら緩やかに上ってゆくと大門坂駐車場があったので、これより「上さんに」機嫌をを伺いながら徒歩で行くことにする・・、 所謂、「熊野古道」を辿る事になる。 
この更に上部には、「熊野那智大社、那智山青岸渡寺、那智の滝」という那智勝浦随一の名所がそろっている。 たぶん「世界遺産」第一の核心部であろう・・。
一般観光客である殆どの人々は車又は観光バスで「神社お寺前駐車場」まで上がってしまうのだろう・・、しかし、その手前には杉並木に囲まれた石段「大門坂」という熊野本来の古道・名所が残されているのである。 
我等は車を預けて、先ずここから訪ねることにした。

案内に従って少し行くと本道(県道)よりV状に分かれる、その角に「大門坂」「熊野道」などの案内と碑が立っていた。 数軒の民家があり、この民家の一角に大正期「南方熊楠」が定宿で滞在した旅館があったとか・・。 

南方熊楠はここの離れを寄宿として那智山中の植物調査を行い、那智原生林の伐採計画を耳にしたとき那智原生林の保護に尽力したという。 この時期、お役人は那智の滝を使って水力発電をする・・、何ていう計画があったとか・・、今思うとゾッとずる話であるが・・。

鳥居をくぐると小さな朱色の欄干の「振ヶ瀬橋」が架かっている、ここが聖地への架け橋、入り口であろう。 嘗てはここに関所があったそうで、不浄の人物でも取り締まっていたのだろうか・・?。 
大門坂茶屋という鄙びた造りの茶店があり、ここでは平安衣装の貸し出し(有料)も行っていて若い女性には人気があるこた・・。
間もなく「夫婦杉」が見えた、石畳の道の両側に一対を成し天に聳えている。 幹の周囲は8mもあり樹齢800年と推定される杉の巨木で周辺の歴史の深さが伺える。 

この先は石畳と石段が続く・・、素晴らしいの一言である。
ほどなく、熊野九十九王子の最後の王子「多富気王子」(たふけおうじ:王子については後述)がある。 大きな石碑が建てられており、地元の人は「幼児の宮」と呼び親しんでいるとか・・、「たふけ」は手向けの意味らし、傍らに庚申が祀られている。

どんどんと苔むした石畳の石段を登っていく、道の両側には数百年を経た巨大な杉並木が連なっている。 石畳の生した苔もそうだが、千年来の踏み跡であろう・・?石段は丸みを帯びて磨り減っているのが判る・・、これらも歴史の重みを感じる一様であろう。
古老の杉の大木の下に苔むした大石があり、「十一文関跡」とあった。 参詣人から多少の通行税を徴収していたのだろうか・・、十一文関というからには通行料は十一文だったのであろう・・?。
石段は全部で267段、約600mの道程はもうすぐ終わりる。 
上りきると開けた場所に出て、ここは既に那智大社の境内の一角でも有る。ここに嘗ては仁王像が立つ大門があって、即ち「大門坂」と名付けられたといわれる・・、尤も実際の社殿の境内はこれより更に石造りの階段を昇った上方にあるが・・。


「大門坂」は、熊野那智大社への参道で熊野古道・「中辺路」(なかへじ:熊野ではへんろと呼ばずへじと読む)の一部である。 
勿論、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の登録物件で、往時の面影をもっとも色濃く今に残している場所である。 
高低差約100mの苔むした石畳道と樹齢800年を超す老杉群に囲まれた古道は夫婦杉、古い関所跡や古跡もあり、尚且つ熊野霊場への入り口、参道と云うべき史跡でもある。


「熊野古道」とは、近畿・紀伊半島南部に在する熊野三山大社である本宮大社、速玉大社、那智大社への参拝の道である。
熊野詣の古道は平安期に開かれ始まったといわれ、紀伊半島の東西の両方向から参るようになっていて、其々参道に名称が付いている。 

先ず西側であるが・・・、
京・大阪から紀伊半島を西回りで大阪、和歌山から田辺に達するのが「紀伊路」と称し、更に、田辺から海道を串本そして新宮に至る道を「大辺路」と呼んでいる。
田辺から大辺路と分岐して内陸部を通り、本宮大社、更に那智大社、新宮へ至る道を「中辺路」と称した。 
東からの道は主に江戸時代にはじまったもので、伊勢からの熊野、新宮へ至る「伊勢路」がある。 
一般に紀伊路、大辺路や中辺路は京の都人が通ったのに対し、伊勢路は庶民の道であるともいわれる。
他に、熊野三山参拝後、高野山に抜ける「小辺路」、吉野・大峰山に抜ける「大峰奥駆道」がある。

この内、「世界遺産」に登録された「参詣道」は主に4箇所ある。
1つ目は、小辺路と呼ばれる高野山を中心とした石畳や本宮に到る約70kmの参詣道・・、
2つ目は、大峰奥駆道の全域で吉野から本宮にいたる140kmの参詣道・・、
3つ目は、熊野三山を中心とした中辺路、大辺路の大部分の参詣道
4つ目は、伊勢神宮から新宮へ到る伊勢路の主要部分の参詣道

因みに、京人の参詣の道筋を辿ってみると・・、
京都の上皇や皇族、公卿たちは京から淀川を船に乗って大阪・天満橋(当時の渡辺の津・八軒屋)で上陸。 先ず、熊野九十九王子の第一番である「窪津王子」(王子に関しては詳細後述)を参拝し、それから紀伊路の街道筋に点々と有る王子社を巡拝しながら長い、苦しい旅を続けた。
道はそこから一路海辺を南下し、紀伊の国の国境、峠そして紀ノ川を渡り更に田辺に到る。 ここから先は中辺路を通り熊野本宮の山中の道に入り、ようやく本宮大社に達して参拝を済ませる。
本宮からは熊野川を船で下り、新宮、那智を巡って後方に聳える妙法山に登り、雲の中を潜るような大雲取、小雲取の険路を越えて再び本宮大社にでて都への帰路につく・・。
これが熊野詣での一般的な順路だったらしい・・。

その内「大門坂」は、新宮・速玉大社から那智駅そばにある補陀洛寺(ふだらくじ)、「浜の宮王子」へ至り、那智川沿いの尼将軍供養塔などを経て那智へ到るルートで、「那智大社」直下にある最も古道らしい雰囲気を残した名所である。

次回は、 那智大社ほか・・、


世界遺産と熊野地方(6) 勝浦温泉・「ホテル浦島」

2008年01月30日 11時12分30秒 | 世界遺産の熊野地方



世界遺産と熊野地方(6) 勝浦温泉・「ホテル浦島」


南紀勝浦温泉(地元では特に“南紀”という言葉は使わない)は白浜温泉と並ぶ、和歌山県を代表する温泉地であり、世界遺産に登録された那智山や那智滝、熊野三山、吉野熊野国立公園への拠点となっている。
太平洋に面したリアス式海岸、南紀の景勝地である紀の松島一帯に大小のホテル、旅館が集まっている。中には島や岬にホテル、旅館がある。
温泉地として開けたのは大正時代からと、白浜の歴史有る古湯に比して新しい温泉場である。源泉の数は優に100を超え、各の旅館が自分の源泉を持っているという。
大正時代には、紀州徳川家15代当主である徳川頼倫(とくがわ よりみち)が訪れ、洞窟の温泉に入浴した際に「帰るのを忘れるほどである」と賞賛した。

その賞賛した温泉こそ南紀勝浦温泉にある大型ホテル「ホテル浦島」であった。
「ホテル中之島」、「かつうら御苑」等と同様、超大型観光ホテルの一つであり、周辺には名所・観光地が多い中このホテルだけを目的とする観光客も多いのである。
それは、ホテル浦島の中で、「六つの温泉を楽しむことができる」という魅力の為でもあり、その中に、同ホテルの目玉である「忘帰洞」(温泉の名前)を目的に・・。

H・浦島へは駐車場からバスに乗り、更に船に乗って向かう。 ホテル浦島の敷地は、勝浦港に張り出した狼煙山半島にあり、陸続きなのに客は船で向かう事になっている。 実際にはトンネルも存在し、業務用及び緊急用として使用しているが、これもホテルの演出の一つであろうか・・?。
まず、その駐車場の広さに驚く、イベント会場よろしく700台の広さで、ホテルより遠くはなれていて送迎はそのためである・・。 
ホテル浦島は、幾つものプランに分かれる。 部屋ごとのプランは本館、なぎさ館・日昇館、山上館の三つに分かれ、値段は当然段階に分かれる。 われらはツアー客の一員なので、「並」の段階であったが・・・。

先ず、何といっても名物温泉浴場に向かった。 目指すは、「忘帰洞」と「玄武洞」であり、この温泉に入らなければ浦島に泊った意味がないといわれる・・!。 
忘帰洞の一文字で、このホテルのイメージを作り上げてると言ってもいいうらいなのである・・。
「忘帰洞」は、まさに名前の通りで、『忘帰洞の湯に浸かれば家に帰るのを忘れてしまうほどの 名湯』という意味であり、この名前は紀州・和歌山藩の藩主が来遊されたとき「帰るのを忘れるほど」 と賞めて名づけられたものだという。 
頼倫公が賞めた理由は湯の良さは勿論、忘帰洞が天然の巨大な洞窟の中に天然の湯が満たされているということである。 
それは熊野灘の荒い風波に侵食されてできたものであり、間口 25m、奥行き50m、高さ15mにも及ぶ。 大洞窟の中の湯に浸りながら望む外洋の日の出、足下の磯をかむ荒波など、正にその名に相応しい美景であり、奇景と言われる由縁である・・。

いよいよ、その玄武洞・忘帰洞に入場である、否、入湯である。
物珍しさも手伝って、洞窟温泉へカメラを持ち込んでの入浴客も見える、当然、小生もその一人であるが・・。 
海岸沿いの洞窟のため波が打ち寄せているのだが、その波が岩場にあたり、飛沫(しぶき)があがる様子に驚嘆する。 高い波が打ち寄せる度に、「おおおっ」と思わず歓声をあげたくなる迫力で、絶えず、ザブン、ザブン、ザザザザザブンという音が聞こえてくる。  
湯船の外、波打ち際は一段高くなっていて鉄鎖が施してあるのだが、波が荒れてる時などは其処を乗り越えて飛沫がザーッとかかるときもあるという、この時は、飛沫をモロに被りながらの入浴になるという、何とも凄い自然の迫力を感じる事ができる瞬間であろう・・。

もちろん、それ以外の温泉も楽しい。
「滝見の湯」の樽風呂も楽しく、又、狼煙半島の山上館へは長―い、急なエスカレーターでハルバル昇って「狼煙の湯」(のろしのゆ)に辿り着く。 この屋上湯から眺望できる勝浦港が圧巻である。 
湯質もなかなかのもので、浦島の温泉に入って白いゴミが浮いている・・・と言う無かれ、それは湯の花と呼ばれる温泉の成分で、それが浮いている程温泉は上質なのである。 
この他にも温泉浴場があって、温泉スタンプ等も置いてあり又明日(連泊)、湯破(とうは)するつもりである。

さて次に食事であるが、所謂「バイキング方式」の多種量産セルフサービス方式である。 我々は余り「食」には拘らないほうで、蟹の食い放題だけでも十分であった。 
だが、一つだけ残念なことがあり、この件に関してはさすがに係員に申し付けたが、「土方の飯場じゃあるまいし、赤い丸箸を無造作に束ねて置いてあるのは戴けないネ・・!!」と・・・。

次回は、 熊野古道・・「大門坂」

世界遺産と熊野地方(5) 南紀勝浦・「那智勝浦」

2008年01月29日 10時59分57秒 | 世界遺産の熊野地方

世界遺産と熊野地方(5) 南紀勝浦・「那智勝浦」

勝浦であるが・・・、南紀勝浦、紀伊勝浦、那智勝浦と愛称、俗称をこめると色々な読み方があるようである。 

和歌山の古い地名は「紀伊」といって、紀南と紀北に分けられるという。 そして、和歌山にはもうひとつ、「南紀」という言葉がある。
「紀南」と「南紀」・・、 現在、ほとんどの和歌山の人がこの二つを、和歌山県(紀伊)の南部という意味で同意に使っているようだが、ところが厳密に言うと「紀南」と「南紀」は意味が違うという。
紀伊の南部にあたるのは「紀南」の方で、文字通り紀伊の南部地方であるという。 
一方、「南紀」という呼称は古来からあったらしい・・、
京の都を中心として、その南である紀北、紀南を含めた紀伊地方全体を指す言葉といわれる。 近畿地方南部の和歌山県や奈良県吉野地方の一帯を総称する俗名であり、南近畿(みなみきんき)とも言われた。 つまり、本来は紀伊の国自体を指し、それは紀伊の国が南海道の筆頭に挙げられた国でもあり、紀伊国が畿内(※きない、きだい、)から見て南に位置するからとも言われている。

現在は、和歌山県の地方区分としては北から紀北地方、紀中地方、紀南地方と三地方に区分し、正式な呼称としているようである。 
南紀というのは、固有名詞として「南紀白浜空港」とか、「南紀白浜」、「南紀勝浦」と呼ばれてはいるが、紀南地方を「南紀」と一般的な呼称として使用する場合が多くなっているようである・・。 

畿内(※)については・・、
本来は王や皇帝が住む都の周辺の地域を指し、畿内とはその五国である山城国(京都府南部)、大和国(奈良県)、河内国(大阪府南東部)、和泉国(大阪府南部)、摂津国(大阪府の大阪市と大阪府北部、兵庫県の神戸市以東)が近畿地方の中心で、今でいう「首都圏」である。 
「畿内」という呼称は、今では歴史・地理学用語としての色合いが濃くなっていが、いまでいう近畿地方とは「畿内」に近い地方とうことで、山陰から南の地方の紀伊の国(和歌山)までを指す。
関東地方に対して近畿地方(関西地方)であろう・・。 
古来、近畿が正式名称・雅称であるのに対して、関西は俗称とも言われるように、紀伊の「南紀勝浦」は俗称であろう。

勝浦町の駅の名称は「紀伊勝浦」という。和歌山南岸を走る「紀勢本線」(愛称・きのくに線)の駅の名称で各駅の頭に「きい・紀伊」と付く駅名が多い。 これは和歌山は「紀の国」「紀州」であり、「紀伊」というのに他ならない。

又、那智勝浦は1955年(昭和30年)、勝浦町、那智町、宇久井村、色川村の4町村が合併し「那智勝浦町」となる現在の町名が付いた。
那智(なち)の名称は難地に由来するともいわれるが、「那智山」から命名されたものが本来であろう、ただ那智山という単独の山は無く「那智山系」と言われる。 
山系は、北から南へ大雲取山(966m)、烏帽子山(871m)等が折りなし、那智大滝やその水源林である那智原始林(天然記念物)に見られるような深い自然の山と森林が残されている。 このように、稜線が並ぶ状態を「那智」とも称していた。

この地は古来、熊野三山を中心とする熊野信仰の原初の姿は自然信仰であり、那智大滝の崇拝から生じた滝行場(滝にこもって修行する場)の地であった。
今日でも熊野那智大社や、その別宮である本殿を持たない滝前の「飛瀧神社」は、この滝をご神体とし崇め奉っているのである。
現在でも、それらをとり囲む深い自然が自然信仰の姿を見ることが出来、そうした由来から、これら一帯の聖地を総称して「那智」と呼称している。


勝浦の港は、狼煙半島(のろしはんとう)が海を囲った入江の中にあり、更にその入口に「中ノ島」という島があるために奥にある港には海からの荒波がまったく来ない。 
こうした条件のために、南紀では随一といわれるほどの良港となっている。
港の勝浦漁業協同組合魚市場の埠頭では、生鮮マグロ水揚高日本一を誇るマグロの競りで賑わう。 
又、この勝浦の港の一帯には温泉も湧出していて、南紀白浜温泉と並ぶ和歌山県を代表する温泉地であり、温泉を源資とした港周辺には巨大なホテルが林立して一つの風景を成している。
那智勝浦は、こんな“世界遺産と温泉、そして生マグロの町”として 今、脚光を浴びているのである。


次回は、 勝浦温泉・「ホテル浦島」

世界遺産と熊野地方(4) 串本・「潮岬と橋杭岩」

2008年01月28日 10時24分26秒 | 世界遺産の熊野地方


世界遺産と熊野地方(4) 串本・「潮岬と橋杭岩」

「すさみ」の海岸は、変化に富んだ美景が続く。
国道42号沿いに「すさみ八景」と言われる穂積島、沖の黒島と陸の黒島といったに二つの黒島を含めた壮大な景観が広がる。 
激しい波頭が陸の黒島に当たり、真っ二つに裂けた波が再びぶつかり合う様子が夫婦の波の様だといい、合掌波または夫婦波とも呼ばれて枯木灘を代表する奇観である。 この展望地を「恋人岬」又は夫婦岬といい、なかなか洒落たネーミングである。 
われ等夫婦も綾かって記念撮影し、その波の様子も写真に収めることが出来た・・。

間もなく串本海中公園に着いたので立寄って見た。 
串本の海を再現した大水槽、水中トンネル式大水槽などの見所もある。 串本の海は遠くフィリピン沖から来る黒潮の影響を受け、カラフルな魚やサンゴ、エビ、カニなど熱帯、亜熱帯性の生物を豊富に見物することができた。 
「海中展望塔」は沖合の水深の海底にあって、自然の海の青く澄んだ世界が広がる。サンゴの間を泳ぎ回る熱帯魚が乱舞する様は、まさに青いメルヘンの世界であった。

国道42号線は、陸繋島(りくけいとう)である潮岬の付け根まで接近していて、そのまま先端の灯台へ向った。
「陸繋島」とは、砂州によって陸と島とが陸続きになった島のことである。 海岸近くに島があると沖からの波が島の裏側で打ち消しあい波の静かな部分ができる。 この部分には沿岸流などで運ばれてきた砂が堆積しやすく、やがて海岸と島を結ぶ砂州が成長し陸続きとなる。 潮岬は昔は浅瀬の島だったのである。

先端島部の岬は台地状で、海岸部は40~50mの海食断崖を呈している。 
南西端に「潮岬灯台」が立ち、周辺には潮岬タワーや、「望楼の芝」とかいう芝生の園地が広がる。 
白亜の灯台は表札の有る正門を構え、灯台小屋の奥に屹立していた。

この灯台は明治初期の「江戸条約」によって建設された八基の洋式灯台の一つで、「日本の灯台50選」にも選ばれる歴史的文化財的価値が高いAランク保存灯台だという。条約灯台とは:観音埼・神子元島・樫野埼・剱埼・野島埼・潮岬・伊王島・佐多岬などである。 
本州最南端に位置する灯台は参観もでき、灯台に関する資料展示室も併設し常時公開されている。 
眼下の磯小島が点々と連なり、視界の大部を占める太平洋の水平線は地球の丸みを感じるのである。 実際は「地球の丸み」ではなく視界の丸みであるが・・!ロマンが無くて失礼・・。

岬の突端に一人ポツンと立つ白亜の灯台は、「おふくろ」の姿に重なると誰かが言っていた。
灯台は何処へも行かず、雨の日も風の日も同じ場所で、着飾りもせず日没と共にピカッ、ピカッと静かに遠くまで光りを投げかけ、ひたすら船の航行の安全を願ってる。
それはまるで朝早くから夜遅くまで甲斐甲斐しく家事をし、夕暮れには灯りを付けて夕食を作り、家族の帰りをじっと待つ母の姿に似ていると・・。

因みに、隣の紀伊大島の樫野埼灯台(かしのざきとうだい)は、東端断崖に建つ灯台で、「日本の灯台の父」と呼ばれるリチャード・ヘンリー・ブラントンが日本で設計し、1870年に点灯した日本最初の石造灯台だと・・。 
日本最初の回転式せん光灯台でもあり、その初期の建物が現存している。 そしてこの地は、トルコの軍艦エルトゥールル号遭難地としても知られている。
こちらは白亜の無人灯台で、灯台内部へは入れないが外部階段から灯台上部に登ることができる。 灯台の周囲には、明治初期に灯台技師のイギリス人が植えた水仙が群れ、またトルコ記念館やトルコ軍艦遭難記念碑が徒歩圏内にある。

エルトゥールル号遭難事件とは、1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国(現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号が串本沖・紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難した事件である。
この時、地元・樫野埼住民は献身的な救助活動を行い、強いては国家ぐるみで援助支援を行ったことで、日本とトルコの友好関係の起点として記憶されている。

「串本節」  和歌山民謡
♪♪・・アラヨイショ ヨーイショ ヨイショ ヨイショ ヨイショ
♪♪・・「ここは串本 向いは大島 仲をとりもつ 巡航船」 (以下かけ声省略)
♪♪・・「潮の岬に 灯台あれど 恋の闇路は 照らしゃせぬ」
♪♪・・「一つ二つと 橋杭立てて 心とどけよ 串本へ」
・・・・                   

と歌われている大島であるが、今は串本と大島に「串本大橋」が架かる。 ループ状と半円形の橋の姿は名所の一つにもなっていて、袂に「四海兄弟」という碑が有り、並んで「串本節」の碑がある。 
民謡 串本節に歌われたような巡航船の姿は、今は無くなってしまったようである・・。

戻った先の国道42沿いに「橋杭岩」という名所が在る。
『昔、むかし、大島に住む人達は、本土に渡るのに、嵐の日には船が出せず困っていたそうな。「橋があれば、本当に便利だのになあ」と何時も思っていた。 伝承によると昔、南紀を修業しておられた弘法大師は、天の邪鬼(あまのじゃく)と串本から沖合いの大島まで橋をかけることが出来るか否かの賭けを行った。 島民の願いを元に一晩で橋を造ろうと決心した大師は、必死になって海の中に杭を打ち、もう少しで完了と言うところで天の邪鬼が邪魔をして朝が来たのを知らせる。それは鶏の鳴き声を真似て、高らかに響かせたものだった。 さすがの大師も朝が来たと思い橋を造るのを途中で止めてしまったそうな・・』 然るに今の姿になったと言う、「弘法大師と橋杭岩」話である。

小波が荒磯を洗う岩場に降りてみると、その巨大な岩の像が一列に並び、確かに大島に向って衝立しているのであり圧巻、奇観である・・。 
今は、弘法大師の願いも叶い立派な橋がつくられたが・・。
天の邪鬼は日本の妖怪の一種、人に悪戯をしかけるひねくれ者の子鬼というのが一般的であるが・・、 一方、仏教では人間の邪心を表している子鬼であり四天王に踏みつけられている像は有名である。

対岸の大島に向かってあたかも橋脚を並べたようにそそり立つ岩列が、これが橋を造る時の杭のようにみえるので「橋杭岩」と呼ばれている。
この岩列は太古の昔、紀伊半島の那智、熊野に至る地域で起こった火山活動の産物で、地層の割れ目に沿ってマグマが上昇し冷え固まった物であるという。 
橋杭岩を通して見る昇る朝日は絶景で、「日本の朝日百選」の認定され、国の名勝や国の天然記念物の指定も受けている。


紀伊南部の第一の清流と言われる古座川の「古座大橋」を渡る。
河口海面スレスレで、左は清流の流れ、右は潮岬が望まれ太平洋が無限に広がり、上流部は人家が少ないので自然が豊富、魚も豊富で川からの恵みは十分に受ける。
源流近くの川筋には狼やカワウソもいるとおいわれているが・・?、支流である平井川の上流は国の特別天然記念物のオオサンショウウオが増えすぎているとか・・・それほど綺麗で奥深い川なのである。
司馬遼太郎氏がこの川筋の渓谷美が気に入って別荘を購入したと聞いたことがある。

玉之浦という深く入り江を成した静かな海域を眺めながら「太地」の駅を通り越し、湯川地区を過ぎると今日の目的地である「那智勝浦」は真近である。
案内板に従って進むとホテル専用の大駐車場が在り、専用の送迎バスに送られると波止場に着く、更に専用の送迎船に揺られて、やっとこホテルに到着した。那智勝浦の名所・「ホテル浦島」である。 
七階の好展望の部屋に案内され先ずは一息入れた・・。

次回は、 「那智勝浦とホテル浦島」