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日本の旅の記録です・・!!

国内旅行をはじめハワイや沖縄、世界遺産など国内各地の旅の記録です。

世界遺産と熊野地方(3) 南紀白浜・「千畳敷と三段壁」

2008年01月27日 12時23分10秒 | 世界遺産の熊野地方
            三段壁と千畳敷(右)


世界遺産と熊野地方(3) 南紀白浜・「千畳敷と三段壁」

次に、白良浜とはうって変わったような真反対の風景が名物「千畳敷」や「三段壁」である。白浜半島・・?の最西端に位置していて、特異な岩盤海岸風景を呈している。

「千畳敷」は、その名のとおり広い岩畳を思わせる大岩盤で、瀬戸崎の先端から太平洋に向けて突きだしている。 スロープ状になった白く柔らかい岩は地球の古代層の砂岩からなる大岩盤で、打ち寄せる荒波に浸食され壮大な景観を造っている。
よくよく見ると、千畳敷は砂岩でできているため容易に削ることができるのである・・、硬貨ででも削ったのだろう、岩肌の面々はどこを見ても落書きだらけで、その内容は珍妙なものも有る。 
地元の人は千畳敷をその程度のものとは考えてはいないだろうが、天から与えられた自然の景勝であり、もっと大切にしたいものである・・!!。
岩盤中央に、カメラマン用の専用台であろうか・・?、赤錆びた鉄製の架台が潮風に吹かれて置かれているのが妙に印象的であった。 我々もここで一枚パチリ・・!。

銀砂の白良浜から、波濤が岩盤を洗う千畳敷、そして今度は更に極端な「三段壁」といわれる断崖絶壁の海岸である。
御土産屋の大きな駐車場に車を置かせてもらって松林の間をくぐってゆくと、視界がパッと広がって大洋に面した大断崖の様相が目に飛び込んできた。 
展望台に立つと 尚その圧倒的な迫力に息を呑む・・。 高さ50mもの断崖絶壁が約2㎞にわたって大平洋にせり出した奇観が続いている。 
はじめは好奇にかられて延々続く絶壁の際を歩き回ったが、覗く度に肝が冷えるところである。 聞けばここは投身自殺の名所だとか・・、絶壁近くには立ち入り禁止の柵もあって、一角に「投身自殺者海難の碑」が有り、何方かによる供物が供えてある。

この断崖の下部、海面に近いところに「三段壁洞窟」なるものだある。
その地までは岩盤をくり抜いたエレベーターで行くことも出来るらしいが、波の荒い時は大平洋の波濤が壁面に叩き付け、大きな飛沫をあげながら吹き込んでくるときもあるとか・・。
この洞窟内は、往時は「熊野水軍」の船着場或いは船隠し場の跡とされた。 又、旧帝国海軍の特殊潜水艇「回天」の基地だったという噂もあるとか・・。
深い洞窟内には、南方熊楠が天皇に献上するための生物標本を採集をしたという地でもあるとか。

ところで昔でいう水軍とは警固衆、海賊衆、船手衆などと呼ばれていて、海上の武力を買われて船舶往来の護衛などに雇われていた集団の意味でもある。 
中世期には彼らは熊野社を背景に次第に組織化され、軍事集団である「熊野水軍」の元となった。
平安末期の源平合戦たけなわの頃、熊野の別当・湛増は強大な戦力である熊野水軍を配下に収めていた。 源氏と平家の双方から加勢を頼まれた湛増は、戦況を冷静に見守りながら源氏への加勢を決めたといわれる。
「三段壁洞窟」の船倉から百隻の軍船を引き出し、田辺浦から出陣して壇ノ浦で源氏に加勢、平家軍を壊滅させて熊野水軍の武勇を天下に知らしめた。 
一説によるとこの湛増は、武蔵坊弁慶の父であるといわれている。(平成17年、NHK大河ドラマ「義経」から・・)

戦国期は、九鬼 嘉隆(くき よしたか)が志摩国の国衆の一員として大名までに身を起こし、織田信長や豊臣秀吉のお抱え水軍として活躍して3万5千石の禄を得ている。 
信長が嘉隆に命じて鉄甲船の製造を指示し、毛利の水軍を打破ったのは有名な話である。


これから先は紀伊半島の南端の海道を暫く走る。海道といっても紀伊山地が海岸まで迫り出し、決して平坦安楽の道ではないが・・。
勿論、太平洋の怒涛が直に押し寄せる地域でもあるが、今日、この陽気ではさすがに穏やかなようである・・。 
又、この道は古来は「熊野古道・大辺路」といって、中世以降の熊野詣でへのメインルートであり、海に面した海岸縁を串本を経て那智に至るルートであった。
又、田辺から中辺路を通り本宮を経て熊野川沿いに新宮・那智まで下る山の道を「中辺路ルート」という。
熊野古道・大辺路は、田辺から串本までの枯木灘海岸(潮岬西部、周参見・すさみの海域)や串本から新宮までの熊野灘に面した海岸道であるが、海辺のわりに険しい山々が海岸まで迫り、通行に際しては数多くの難所が待ちかまえていた。 
俗に四十八坂とも呼ばれ富田坂、馬転坂、長井坂といった険しい峠道が旅人を苦しめたといわれる。 ただ、あちこちに残る古道の峠道からは太平洋・熊野灘の眺望が今も変わらず旅人の心を癒してくれたともいう・・。

次回は、 串本・潮岬と・・、

世界遺産と熊野地方(2)  南紀白浜・「白浜温泉」

2008年01月26日 15時45分31秒 | 世界遺産の熊野地方


世界遺産と熊野地方(2) 南紀白浜・「白浜温泉」

南紀、熊野方面は以前より是非行ってみたい希望の地であり、この度やっとその目的が達せられた。
南紀白浜空港は、和歌山県南部の海岸に面した高台にある。 和歌山県の空の玄関口として昭和43年に開港したというが、瀟洒な田舎の空港って感じである。 田舎の空港といっても南紀地方の玄関口でもあり観光・リゾート資の宝庫である。 一大観光地である白浜町の中心部に位置していることから、利用者に占める観光客の割合は高い空港であろう・・。

空港ロビーでレンタカーの受付を終える。 
この辺り、すでに白浜の南の入り江に面しているところであり、長閑な風景が眼前に広がる、左手にかの古賀の井ホテルの勇姿・・?が見えている。  
霊泉橋という洒落た名前の橋を渡りながら、いよいよ南紀観光へ出発である。

暫く海岸を走り、南方熊楠記念館や京大白浜水族館のある小さな半島を横断すると、西側の外海海岸にでる。
正面に白浜第1番目のスポット「円月島」が飛び込んできた。
南北130m、東西35m、高さ25mの小島で、島の中央に円月形の海蝕洞がぽっかり開いていることから「円月島」と呼ばれている。 ほぼ左右対称形で上部に緑の林がコンモリとしている、まるで、眼鏡をかけた睫毛のようで、俗名、めがね島とも言うらしい。
日の沈む夕景の美しさは格別で、夏は6時30分頃、冬は4時30分頃、島の中央穴の付近に太陽がさしかかるという。

すぐ近くに「白良浜」の弓なりの美景な浜が広がる。 
南紀白浜町とはこの浜の様子から命名したのであろう、名前が示すとおりの真っ白な砂浜と青く澄んだ海、その美しさと華やかさは、おもわず沖縄かハワイの南国リゾート地にいるかのような感覚、錯覚させられる。 
実際に、ハワイ州ホノルル市のワイキキビーチとは友好姉妹浜『Goodwill Beach City Relationship』提携を結んでいるという。

周辺は「湯崎」といって白浜温泉の中心街として、温泉街、旅館・ホテル、温泉場、露天風呂などが犇めき合っている。
古来、白浜は日本三古泉は白浜・有馬・道後といわれるが、よく間違える日本三名泉は有馬・草津・下呂、これに別府・熱海が混じっていることもよくあるが、まあ我々にすればドチラデモよろしいことで、名湯、古泉には違いない・・・。

白浜・湯の崎は「万葉集」等、古書の文献に「牟婁(むろう)の湯」、「武漏の湯」と呼ばれ登場している。
奈良期、有間皇子は心の病を装って「牟婁の湯」に療養に行き、飛鳥に帰った後斉明天皇に自分の病気が完治した事、そして、その土地の素晴らしさを話して聞かせたところ、今度は斉明天皇が中大兄皇子と共に療養のための「紀の湯」に行幸した。
その時、皇子は謀反を企る為天皇を白浜へ追いやったと冤罪をかけられ、19歳の若さで処刑(658年)されたといわれている。

その発端となったのがこの白浜・湯の崎温泉であり、現在も道ばたの海岸に湯が湧いている「崎の湯」(日本最古の露天風呂)や、そのすぐ近くにその名も「牟婁の湯」がある。
今から1400年前からここに温泉が湧き、歴史の重大事件にも
なった場所である。

泉質は、食塩泉・重曹泉など41~83℃位で、無色・透明。効能は、一般的適応症のほかに、美肌・神経症・不眠症などに良いとされる。 「湯崎」の辺りは、硫黄のような臭いがして、いかにも温泉場らしく独特の風情があって良い。
因みに、千葉県の房総最南端の白浜は、この地南紀白浜の人々が遠洋漁業などで住み着き、望郷の地として命名したという。

次回は、 白浜・・Ⅱ「千畳敷、三段壁」

世界遺産と熊野地方(1) 「熊野の世界遺産について」

2008年01月25日 14時51分00秒 | 世界遺産の熊野地方
世界遺産と熊野地方(1) 「熊野の世界遺産について」

【紀伊山地の霊場と参詣道】として、2004年(平成16年)7月、「世界文化遺産」に登録された・・。 
長い歴史を誇る社寺や自然が織りなす文化的景観が文化遺産として登録され、その内容名称は「紀伊山地の三つの霊場(熊野三山、吉野・大峯、高野山)とそれらを結ぶ参詣道」として推薦、指定された。そしてそれらの地域は奈良県、和歌山県、三重県にまたがる29市町村と合わせて日本最大の文化遺産である。
参詣道として「道」が世界遺産として登録されたのは、スペイン⇔フランスにまたがる巡礼道「サンディアゴ・デ・コンポステラへの道」についで二件目であるという。

【紀伊山地の霊場と参詣道】に該当する登録基準、その要旨については・・、
★ある期間を通じて又は、ある文化圏において建築、技術、記念碑的芸術、町並み計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。(文化遺産登録基準2)
★紀伊山地の神社と寺院は、それらに関連する宗教儀礼とともに1000年以上にわたる日本の宗教文化の発展を示すたぐいまれな証拠である。(文化遺産登録基準3)
★人類の歴史上重要な時代を例証する或る形式の建造物、建築物群、技術の集積または景観の顕著な事例であること。(文化遺産登録基準4)
★顕著な普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰、または芸術的、文学的作品と直接に又は明白に関連するものとしている。(文化遺産登録基準6)

因みに、ユネスコについては次のように記されている。
「ユネスコ」とは国際連合の一専門機関で、国際連合教育科学文化機関(こくさいれんごうきょういくかがくぶんかきかん)正式には、United Nations Educational, Scientific and Cultural Organizationという。
頭文字をとって「UNESCO」、通称ユネスコと称している・・。


過去に、熊野神域が危機に瀕したことがあった・・。
明治39年(1905年)に施行された「神社合祀令」(不分明な神社を整理・合併し、合祀するもの、 明治政府・政令による)によって全国で五万もの神社が潰され、熊野でも神社や森が潰されるという危機に瀕した。
この危機に対し、和歌山県出身の博物学者・南方熊楠(みなかたくまぐす)は、「神社をつぶすということは自然と人間社会を破壊するもの」として、日本で初めてエコロジー(生物と生物の関係、生物とそれを取り巻く無機的環境との関係を研究する科学)の考えを提唱し、「神社合祀令」に反対して「熊野の森を守れ・・!!」と、立ち上がり、那智の滝の原生林や樹齢500年をこえる熊野古道の杉木立を守ったという。
南方 熊楠(みなかた くまぐす:和歌山県和歌山市城下出身、)明治・大正期の博物学者、民俗学者。動物の特徴と植物の特徴を併せ持つ「粘菌」(下等菌類の一群で、植物分類上の一門)の研究で良く知られている。
熊楠の「熊」は熊野本宮大社、「楠」はその神木クスノキにちなんで命名したという。(詳細後述)
 

過ぐる2002年9月、我等夫婦は「南紀地方」を3泊4日の日程で旅行した。 
勿論、南紀・熊野地方には由緒ある地域が多数在って、これらを参詣、見学、観光するのが目的であった。直後に、これらの地域が「世界遺産」に指定される事など露知らず・・。 
そして、本年(2005年)偶々(たまたま)「日本外周一周」の旅に出て、この地方を再確認する機会に恵まれた。
これらと合わせて、当時の「旅の様子」を記したい・・。

巡った主な地域、名称は次の通り・・。
★南紀白浜(円月島 千畳敷 三段壁) 串本海中公園  潮岬(灯台) 大島  橋杭岩 那智勝浦温泉 ホテル浦島
★熊野古道「大門坂」 青岸渡寺  那智大社  那智の滝  補陀洛山寺  熊野速玉大社 紀の松島(観光船) 太地  ホテル浦島  
★瀞峡めぐり(瀞峡和船) 本宮大社  熊野古道「中辺路」  湯峰温泉(旅館 よしのや)
★滝尻王子(古道舘) 清姫塚  御坊道成寺  紀三井寺  和歌山城  関西空港


次回は、 本題に入って・・、「南紀白浜」

小生、若年よりの『旅』の記録です。
宜しかったらどうぞ・・。
http://www.geocities.jp/orimasa2001/