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日本の旅の記録です・・!!

国内旅行をはじめハワイや沖縄、世界遺産など国内各地の旅の記録です。

世界遺産と熊野地方(13) 新宮・Ⅲ「熊野大神開祖の宮・・?阿須賀神社」

2008年02月07日 10時29分39秒 | 世界遺産の熊野地方

世界遺産と熊野地方(13) 新宮・Ⅲ「熊野大神開祖の宮・・?阿須賀神社」

「熊野速玉大社」の位置を地理的に見ると、熊野川の流れが大洋・熊野灘にさし掛かる頃、千穂ヶ峰・神倉山の大岩山塊に阻まれて山裾をS字状に蛇行しながら熊野灘に達している。 
大社は、そのS字状の河口側に鎮座していることになる。 即ち、大社は神倉山の峻険な神岩の地から清冷の水辺の里に降りたことになる・・。


これはさておき大社の鎮座する川の畔から河口へ向って更に1kmほど降りると「阿須賀神社」(あすかじんじゃ:飛鳥社)がこじんまりと鎮座している。 社殿は朱色と白漆喰が眞新しく小ぶりながら豪奢な造りである。 
この神社の境内は深い緑に覆われた50m足らずの小山が川岸に突き出ていて、駅からも近く新宮市街の中心にあっても異境の自然を保っている。
この小山を「蓬莱山」と称して、阿須賀社宮の御神体とされている。

弥生時代の頃には蓬莱山は海に囲まれた小島だったらしく、それが海岸線の後退に伴って、平野部とくっついたものといわれている。 
近年(昭和中期)この山腹の自然岩の裾、社宮の境内から弥生時代の竪穴式住居跡が発見され、多くの土器等が同時に出土したという。 遺物群は生活主体の物具であるが、併せて平安~室町時代の遺物は悉く仏教系祭祀遺物も発掘され、中世の神仏習合化した熊野信仰に関わる祭祀遺物ではないかとも云われている。 その中には「御正体」(鏡の表面に神像・仏像・梵字などを線刻し、社寺に奉納、礼拝したもの、神仏習合による本地仏ともされる)といわれる神仏鏡像も出土している。
これらは弥生期において、蓬莱山における岩山祭祀の存在を示す発見として興味深いといわれる。

又、この蓬莱山である小山が河口にあるということも重要な点で、阿須賀の「須賀」は砂洲、砂丘、砂浜など砂がたまるところを意味する古語の「すか」から来ているという。
「蓬莱山」という名は徐福伝説とも関連があり、又、ここ阿須賀に徐福が上陸したという伝説がある。 神社境内には「徐福の宮」も祀られている。
元来、蓬萊とは古代中国で東の海上にある仙人が住むといわれていた五神山(仙境)の内の一つとされている。 実際に中国・渤海湾に面した山東半島にこの山は存在し、不老不死の仙人が住むと伝えられている。
伝承として、中国では蓬莱のことを「日本」と言う意味を指すと言われる。
蓬莱山は現在、全山禁足地・入山禁止になっていて、山中岩石群の詳しい調査などは素人筋では出来ないという。


さて阿須賀神社の祭神であるが・・・、
事解男命(コトサカノオ)が主祭神で、この神は伊邪那岐命(イザナキ)、伊邪那美命(イザナミ)の夫婦神から生み出されたという・・。 
現在、熊野三山に付属する摂社として位置付けられているが、神倉神社同様に熊野三山とは深い繋がりが有り、それ以上に熊野三山の開祖に関係するのではないかとも言われる。

阿須賀神社は熊野川河口に鎮座している。 次に速玉大社はこのすぐ上流にあり、更に遡って中流域には本宮大社(明日、参拝予定)が鎮座する。 では那智大社は・・?、那智川上流である那智大滝の袂に在る。
つまり、家都御子大神は熊野本宮大社の主祭神、熊野速玉大神は熊野速玉大社の主祭神、熊野夫須美大神は熊野那智大社の主祭神であり、何れも熊野川の中州、河口そして水源脈としてつながる那智の滝など水流を神格化したもので、「水神」を象徴している。

一般に、山の神が川を伝って里の神となるのが通例であるが、神を祀る人間は概ね川下から上流へ、神々と共に入植していくものといわれる。
熊野三神は、基本的には熊野の濃い山々と山から流れ出る豊浄な水への祈念から生じた神々であり、また眼下には太平洋が広がり太陽は海から昇り海へと沈む・・、まさに常世への接点に祀られた神々なのである。

阿須賀神社は「古事記」、「日本書紀」にも印されていて伊邪那岐、伊邪那美が熊野に参られて神々を生みおとされ、祭祀したとある。 主祭神が事解男命(コトサカノオ)であることが頷ける。
因みに、伊邪那美命の墓所は三重県熊野市「花の窟神社」に残る。 花の窟神社は、この浜通り沿い凡そ20km先の鬼ヶ城の近くに在し、自然磐屋の神社になっている。


蓬莱山はあの秦の国(斉の国)の徐福伝説にまつわる山名であり、命名されたと考えられる。 徐福伝説については前述したが、徐福が本当に新宮にやってきたという根拠は伝説以外はないという。ただ、鎌倉期、中国の元王朝の支配を嫌い日本へやってきた仏僧・「無学祖元」が、この新宮で徐福を偲ぶ詩歌を残しているという。
しかし、無学祖元が徐福の何を想い、何を根拠に歌を詠んだかは判らないという。

蓬莱山の遺跡が、もしかしたら徐福一行の生活跡・・?、熊野三山の開基の大元・・?、などと想像するのは面白いが、実はこれらの遺跡は弥生後期(紀元1世紀~2世紀)以降から古墳時代に至るまでとされ、徐福一行が上陸したとされる年代は更に遡ること紀元前2世紀以前とされているのである・・。即ち時代のギャップは300~400年ということになるが・・?。

いずれにしても熊野の大海と大山地にまつわる伝承は、伊邪那岐、伊邪那美の熊野参来から始まり、徐福一行の伝説、神武天皇熊野上陸などと相まって、果ては平安期の那智の補陀洛山寺における南海の観音浄土を目指した渡海上人の物語等々・・多彩である。


再び「熊野速玉大社」のことであるが・・、
大鳥居横、表参道の側に「八咫鳥神社」が鎮座している。 
ここも真紅の鳥居と社が印象的であるが・・、尤も、熊野の各社に参ると三本足のカラスの幟が目に付く。この絵を八咫烏(やたがらす)と称していて、三つの神社ではこの八咫烏が神の使いとして祀られている。

日本神話では、八咫鳥が神武東征の際に天皇の元に遣わされ、熊野から大和への道案内をしたとされる鴉である。 
熊野三山において烏(からす)は、ミサキ神(死霊が鎮められたもの、神使)として信仰されており、日本神話に登場する八咫烏は単なる烏ではなく太陽神を意味する神聖の象徴と考えられ、信仰に関連するものと考えられている。
近世以前によく起請文として使われていた熊野の牛玉宝印(神社や寺院が発行するお札、厄除けの護符のこと)には烏が描かれている。 
鳥は一般に不吉の為とされているが、方向を知る能力があり未知の地へ行く道案内や遠隔地へ送る使者の役目をする鳥とされている。

神武天皇(磐余彦命)が熊野から大和国へ侵攻するとき、深く険しい山越えを天照大神が遣わした3本足の八咫鳥の案内で、無事大和にはいることができたという。 

「三本足」とは熊野三党(宇井、鈴木、榎本:熊野地方の有力者)を表すとも云われ、智・仁・勇、また、天・地・人の意を表すとも云う。 
戦国時代には、紀伊国の雑賀党を治めた鈴木家(全国の鈴木姓の発祥とされる)の旗ともなっている。
つまり、神武天皇が東征で熊野へ上陸した際、熊野三党が支援、先導したと考えられるのである。


「八咫烏」は現代では、日本サッカー協会のシンボルマークにも用いられ、サッカー日本代表のマークとして認知されている。(協会では八咫烏であるとは表明していないが・・) 
これは、日本に初めて近代サッカーを紹介した中村覚之助に敬意を表し、出身地・那智勝浦町にある熊野大社の八咫烏をデザインした物であるという。 

終わりに、前にも記したが中国では「日本の神武天皇は中国の徐福である」という伝承が根強くあるという・・。併せて、熊野三山開基の元になったのでは・・?、と推測するのは論外とは言い難いと思うが・・?。


次回は、 「熊野川・・」

世界遺産と熊野地方(12) 新宮・・Ⅱ「神倉神社と熊野速玉大社」

2008年02月06日 10時30分25秒 | 世界遺産の熊野地方
      神倉神社(ごとびき岩)と速玉大社(拝殿、鈴門、本殿)
      



世界遺産と熊野地方(12) 新宮・・Ⅱ「神倉神社と熊野速玉大社」

前に紹介した鳥羽一朗の演歌の「徐福夢男・虹の架け橋」の三番目の一節に
「・・神倉建てて 幸を呼ぶ・・」という歌詞がある・・。

国道42が新宮市内に入った頃、左手に緑の山が見えてくる「千穂ヶ峰」(神倉山)である。 南端に500段の急峻な石段を登ると大きな「ごとびき岩」という巨大な岩塊が有って、この絶壁を成すような大岩が古くからの御神体とされ、古代の神の依代、磐座(いわくら)とされている。 この神社を「神倉神社」という。 
祭神は高倉下命(タカクラジノミコト)で、命は高天原に天孫降臨された瓊々杵尊(ニニギ)の兄で、早くから熊野を統治せられ後に熊野三党、三山祀官の祖(八咫烏・ヤタガラスの元・・?)となった神である。

神武天皇がこの地に上陸した伝説があり、八咫烏(ヤタガラス)の案内でこの地から奈良に攻め上ったといわれる。 
神倉山は古代から永く熊野の祭礼場として神聖視されてきた霊山であり、特に源頼朝が寄進したという自然石を積み重ねた「鎌倉積み」という急斜面の石段は、参拝人が登り降りするのに相当のの難儀を強いられるという。

この急な石段で行われる例大祭が「お燈明祭り」といわれる大祭で、例年2月6日に行われる夜の壮観な火祭りで知られる。 
1800年以上の伝統をもち、白装束に荒縄を巻いた2000人前後の「上り子」達は御神火を授かっ た松明をかざして、このとんでもない不揃いで急な石段を一斉に駆け下りるという・・、誠に壮観な炎の祭典が繰り広げられる。 

神倉神社は、今は熊野権現・「熊野速玉大社」の摂社であり、熊野三山の主神降臨の霊地として熊野信仰の根本といわれる霊所である。
この神倉山の磐座に祀られていた「神」は何時の頃からか北側の山麓、熊野川がS字の曲がりくねる地に遷宮され祀られるようになったといわれる、それが現在の「熊野速玉大社」である。 
神倉山にあった神倉神社を元宮に対して、現在の社殿の「熊野速玉大社」を「新宮」と呼ぶようになり、これが新宮市の起こりでもある。


その「熊野速玉大社」は、神倉神社から北方1kmの熊野川に面したところ、国道42号線の速玉大社前という信号から既に宮参道になっている。 
正面、深緑の木立の手前に真紅の大鳥居が天を指し、「下馬橋」という弧橋が前に控え、両サイドに熊野大権現、熊野速玉大社と刻した石柱が立つ。
参拝記念の撮影に適したスポットであろう・・。

右手参道横の駐車場に車を止め、参道へ出るとすぐに「梛(ナギ)の木」(亜熱帯性のマキ科の常緑高木)という樹齢千年の大木が天を貫いていて、余りの大きさに圧倒される。 
周囲6m、樹高20メートルで高さ日本一の「ナギ」の木は真冬でも濃い緑を絶やさず、夏には大きな木陰をつくる。 
平安末期の武将・平重盛が植えたと伝えられるが、実際はもっと古く樹齢は千年以上といわれる。 
強い生命力から平家、その他の武将の信仰も厚かったという、国の天然記念物である。

これよりすぐに重装な神門を潜ると煌びやかな大社殿が現れた・・。赤と白壁を基調とした社殿群が左右横幅いっぱいに鎮座している。
先ず、左側の拝殿に額ずいて拝礼・参拝を致す・・。 
右のほうに真紅の社殿をバックに写真撮影用の長椅子が置かれてあったので両人で記念の撮影である・・、時に平成14年9月7日と熊野速玉大社と丁寧に看板まで設えてあった。

立派な神門をくぐると目にも鮮やかで煌びやかな各社殿が横一列に配されている。
尤も、正面に「鈴門」というのが構えていて、御霊を祀る各種本殿や主要社殿は直接的には伺えないが・・、左方に一段と華麗な拝殿が鎮座していて我等参拝者はここで額ずくことになる。 

拝殿の後方の其々の社殿は、第一殿(結宮)で熊野夫須美大(クマノフスミ:伊弉冉尊・イザナミ)、第二殿(主本殿:速玉宮)には熊野速玉大神(ハヤタマ:伊弉諾尊・イザナギ)、鈴門の後方に第三殿(証誠殿)には家津御美子大神(ケツミコ)、第四殿(若宮)・天照皇大神(アマテラス)と(神倉宮)高倉大命等が祀られ、他の社殿には天忍穂耳命(アメノオシホミミ)、瓊々杵命(ニニギ)、彦火々出見命(ヒコホホデミ)、鵜茅草葺不合命(ウガヤフキアエズ)といった九州地方へ降臨した主神々が合わせて、那智大社と同様に「十二神」祀られている。

那智大社が主神・伊弉冉尊(イザナミ)に対して、速玉神社は主神に伊弉諾尊(イザナギ)を祀り、両者は夫婦神である。
そしてその夫婦神から生まれ出たのが家津御子大神(ケツミコノオオカミ)こと素盞嗚尊(スサノオ)で、大国主の父祖であり、出雲開祖の神である。

次回は、 熊野大神開祖の宮・・?「阿須賀神社」


世界遺産と熊野地方(11) 新宮・「徐福伝説」

2008年02月05日 10時25分18秒 | 世界遺産の熊野地方
       新宮市「徐福公園・中華楼門と徐福像」

世界遺産と熊野地方(11) 新宮・「徐福伝説」

国道42号線を北上する、宇久井の浜を右に見ながら新宮へ向う。市街地から県境であり、熊野川を渡る直前の左手奥に「新宮速玉大社」が鎮座しているが、その前に・・、

お隣の県(とは言っても、目の前の熊野川の向側であるが・・)・三重県出身の『兄弟舟』で知られる演歌歌・手鳥羽一朗が、演歌『徐福夢男・虹の架け橋』を歌っている。余りヒットしなかったらしく、正直小生も知らない歌だが・・!。
実は、この熊野灘に関わりの有る「新宮」のことを唄った歌であるが・・。

「徐福夢男・虹の架け橋」 鳥場一朗  星野哲郎(詞) 中村典生(曲)
♪♪・まぼろしの まぼろしの    徐福は秦の 夢男
不老長寿の 薬を求め        夢こそは 夢こそは
蓬莱めざして 船出した       若さ支える 天台烏薬
三千人の 大ロマン         三国無双は 那智の滝
一つに束ね 舵おとる         大空駈ける 竜に似た
徐福 徐福              姿をいつも 仰ぐたび
                     徐福 徐福・♪♪


新宮駅から東口すぐ、中国風の楼門が一際鮮やかに「徐福公園」がある。 
新宮市内の観光名所の一つで、境内は楠木の巨木と天台烏薬(※ てんだいうやく)に囲まれ、徐福の墓や徐福像、不老の池、徐福が亡くなった時殉死したと伝えられている七人の重臣の墓が建立されている。

徐福は、秦の始皇帝の命を受け不老不死の霊薬を求めて倭の国・熊野に渡来したと「徐福伝説」は伝えてる。 2千年以上も前のことで日本はまだ神代の時代(実質は弥生時代)の事である・・が、既に、中国や台湾をはじめとした多種多様な異文化との交流などが既に行われていたことは知られている。
徐福は、秦に国を滅ぼされた斉国(※中国の戦国時代の七雄とよばれた国の一つ)の人だった。 
彼は蓬莱島(山東半島の東方海上にあり、不老不死の薬を持つ仙人が住む山と考えられていた)に行って長生不老の仙薬を求めて差し上げますと秦の始皇帝を騙し、3000人の人民と五穀百工(各種工業技術者)を率いて、東方の日本に向かって出航したといわれている。 これは、今で言う一種の集団亡命である・・?。

中国を船で出た徐福が日本にたどり着いて永住し、その子孫達は「秦」(はた)と称した・・、とする「徐福伝説」が日本各地に存在する。
もともと徐福は、不老不死の薬を持って帰国する気持ちなどなく、万里の長城の建設で多くの人民を苦しめる始皇帝の政治に不満をいだき、東方の島へ新たな地への脱出を考えていたという。 徐福らの大船団での旅立ちは一種の民族大移動かもしれない。

中国においては徐福=神武天皇とする説もあって興味深い。
徐福は中国を出るとき稲など五穀の種子と金銀・農耕機具・技術(五穀百工)も持って出たと言われる。 
一般的に稲作は弥生時代初期に大陸や朝鮮半島から日本に伝わったとされ、殆ど同時期に銅・鉄器製品や製法が伝わったとされる・・。  
これらは、実は徐福が伝えたのではないかと想像も出来るのであり、徐福が日本の国造りに深く関わる人物にも見えてくるのである。
日本と中国は、文化の交流だけではなく血でつながり骨肉を分かちあった民族の交流もあったことになる。 さらに日本の文化の根底を成すものが、徐福の渡来のよってもたらされ、徐福その人とその同伴の童男童女の血がわれわれの体の中にながれていることにもなる。

数多い伝説地の中で佐賀県,鹿児島県,宮崎県,三重県熊野市,和歌山県新宮市,山梨県富士吉田市,京都府与謝郡,愛知県などに痕跡が残されている云われる。
現実的に想像しても、数千人の人々が一気に一点に上陸することは不可能であり、各々の責任者の下に各地に分散して上陸したのではないかとも思われる。それが上記の地域だったのではないか・・?。

徐福=神武天皇説は歴史のロマンか・・?、 
天皇が東征の折、この熊野地区に上陸して大和に都を開いたとされている。尤も、こちらも伝説の域を出ないようだが・・。
徐福の国(斉の国」から伝わった日本で御馴染みの諺がある・・最近は余り使われなくなったようが、「恙無き・・」(つつがなき)という言葉である・・。 
唱歌『故郷』の一節、二番に・・
♪♪・如何に在(い)ます父母  
恙なしや友がき  
雨に風につけても  
思い出ずる故郷・♪♪ 

・・・である。

斉の国の王が、北方の「趙の国」に人質にとられている皇后が無事かどうか使者を遣わしてその安否を確かめさせた。 
到着後、皇后は直に使者に尋ねた「歳亦た恙無きや、民亦た恙無きや、王亦た恙無きや」(斉国の穀物は無事に収穫できたか? 国民は無事に過ごしているか? また王はお変わりないか?)・・と。 すると使者は皇后に「その質問はけしからんのでは・・?」と問う。 何故ならば斉王の無事をこそ真っ先に確認すべきで、それを最後に尋ねるとはおかしいのではと・・?。 
しかし、皇后が使者を嗜めて(たしなめて)言うには「穀物の収穫(歳:一般に年齢や時間のことであるが、収穫をも意味している)あっての民、民あっての王である。 本(もと)を差し置いて末(すえ)を問うことこそこそ間違った質問ではなかろうか」と・・、つまり「本末転倒」をいさめたという。

「恙」は「憂」(うれい)という意味であり、「恙」が「ツツガ虫」と関連付けられた俗説で「恙は人を嚼(か)む虫なり。善き人の心を嚼み、人、毎(つね)に之に患苦す」という文意に由来するそうである。

※ 天台烏薬(てんだいうやく):クスノキ科の常緑低木、幹・枝は細い、雌雄異株、4月ごろ、淡黄色の小花を多数つけ、実は楕円形。根は連球状で香気があり、漢方で胃健薬、鎮痛薬に用い・・。


次回は、 「神倉神社と熊野速玉大社」


世界遺産と熊野地方(10) 補陀洛山寺・「浜の宮王子」

2008年02月03日 11時15分01秒 | 世界遺産の熊野地方

「渡海船を復元した模型」
世界遺産と熊野地方(10) 補陀洛山寺・「浜の宮王子」

定期循環バスで一旦駐車場の場所まで引き返し、次に「熊野速玉大社」へ向うが、その前に勝浦の浜の一角にある「補陀洛山寺」へ立寄ることにした。
ヘアーピンカーブの急な坂道を下っていくと、こんもりした杉の大立ちが列を成して延びている・・、先ほどの「大門坂」である。 
来た道をそのまま下ってやがて国道へ出ると、その左角に「補陀洛山寺」が在った。
広い境内は庭園らしい創作は無く、芝生を敷き詰めた単調な広場であった。 奥まった所に室町様式の「高床式四方流宝形型」といわれる品の良い造りのお堂・本堂が構えて在った。比較的新しいと思われるほぼ正方の造りである。
正面拝所の上部に右書きで「補陀洛山寺」(ふだらくさんじ)と記してある。 
お堂内正面須弥壇(しゅみだん:仏像を安置する台座)には本尊の十一面千手観音像が安置されているのが判る。

創建は那智山・青岸渡寺の開祖で、仁徳天皇の御世(4世紀)にインドから熊野の海岸に漂着したといわれる「裸形上人」によって開山されたと伝える古刹である。 今は、那智大社や青岸渡寺のような賑やかさは全く無く、静寂の中にヒッソリと佇んでいる。
しかし、寺院の歴史は青岸渡寺と同様に古く、宗教儀礼である「補陀洛渡海」で全国的にも有名で、尚且つ世界遺産にも登録されている物件なのである。

境内の一角に「熊野古道・浜の宮王子」と記した石柱が建つ。
又、境内右手には、ここは大木に囲まれて「熊野三所大神社」として、やや粗雑な社殿が鎮座していた。 熊野三所社とは本宮、那智、速玉の各大社の意味である。この神社は、元は熊野九十九皇子の一つで「浜の宮王子」だったため、浜の宮大神社(はまのみやおおみわしゃ)とも呼ばれている。

浜の宮王子は中辺路、大辺路、伊勢路の分岐点であり、那智山参拝前にはこの王子で「潮で垢離」(こり:神仏への祈願や祭りなどの際、冷水を浴び身を清めること)を行って身を清めたといわれている。 

補陀洛山寺は浜の宮王子の守護寺でもあり、那智山の末寺の一つである。
明治初めに那智山で神仏分離が行われたとき、那智山の仏像仏具類が一斉にこの補陀洛山寺に移されたという。 寺院は寺の本堂は平成2年(1990)に建て替えられたということで、本尊の十一面千手観音は平安後期の作で重要文化財に指定されている。


「補陀洛山寺」は特異な寺院として往時は良く知られていた・・、ここが補陀洛渡海の出発地とされたからである。 
那智地方には熊野灘の彼方に観音菩薩が住む浄土・補陀洛(ふだらく)があるという信仰があり、そのため僧侶、住職達は浄土へ向かって旅だっていったとされ、これを「補陀洛渡海」と称している。 渡海船を復元した模型が、寺の境内の建物の中に展示してある。

記録で最も古い補陀洛渡海は平安初期には行われたとされ、それ以後18世紀の初め頃までこうした渡海が続き、特に補陀洛山寺の住職は61歳になると渡海を行うことが何時の頃からか習慣化していったという。 

16世紀後半、金光坊という僧が渡海に出たものの途中で屋形から脱出して付近の島に上陸してしまい、たちまち捕らえられて海に投げ込まれるという事件が起こった。 
後にその島は「金光坊島(こんこぶじま)」とよばれるようになり、またこの事件は井上靖氏の小説『補陀洛渡海記』の題材にもなっている。 
以降、江戸時代になって生者の渡海は行われなくなり、代わって補陀洛山寺の住職が死亡した場合、あたかも生きているかのように扱って、かつての補陀落渡海の方法で「水葬」を行うようになったという。

補陀洛渡海で往生した僧たちは渡海上人とも呼ばれ、補陀洛山寺の裏手には渡海上人たちの墓がある。 
記録では那智の浜からは21人が渡海を遂げたと言われ、こちらにも補陀落を目指して船出した人々の名を刻んだ碑が寺の境内に置かれているという。

寺院を一巡して速玉大社に向かった・・。


次回は、 新宮・「徐福伝説・・」


世界遺産と熊野地方(9) 那智山・「青岸渡寺・那智大滝」

2008年02月02日 10時43分47秒 | 世界遺産の熊野地方
世界遺産と熊野地方(9) 那智山・「青岸渡寺・那智大滝」

前記したが、この先参拝する速玉大社(新宮大社)と本宮大社は明治初期の「神仏分離」により仏教色が除かれ、仏堂は全て棄廃されて完全な神社神道様式になったのであるが、ここ那智大社は隣の「青岸渡寺」(せいがんとじ)に観るように神仏一体の伝統が今現在も守られている。
 
『 補陀洛(ふだらく)や 岸打つ波は 三熊野(みくまの)の 那智のお山に ひびく滝つ瀬 』

と御詠歌(巡礼または仏教信者などがうたう和歌)で親しまれている「青岸渡寺」は西国第一番の札所である。
当山の縁起に、開基は仁徳帝の頃(4世紀)、印度天竺の僧・裸行(らぎょう)上人が那智大滝において修行を積み、その暁に滝壷で24cmの観音菩薩を感得して、ここに草庵を営んで安置したのが最初といわれる。
 
那智大社の東側奥に「那智山青岸渡寺」の本堂が隣接して建っている。
神仏分離による廃仏棄却の際、那智大社では観音堂が破却を免れて後に信者の手で「青岸渡寺」として復興したといわれる。 
本堂は寺院様式・入母屋造りで東南向を正面に趣のある堂々とした建物で歴史を感ずる。 外部だけでなく内部もなかなかのもの、本堂に祀られている本尊「如意輪観世音菩薩像」は約1400年も前に造られた由緒のある仏像とか・・。 本尊は秘仏であり、通常、本尊は直接拝観できないが2月の一日だけ開扉されているようである。 
珍しく本堂内撮影禁止などというミミッチイことを云わないのもいい。

本堂は現在までに数回改築されているらしいが、現存する本堂は織田信長の軍勢によって焼き討ちされた後、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が弟である大納言・秀長によって再建させたものである。 
因みに、「豊臣秀長」は秀吉の異父弟、秀吉の片腕として辣腕を奮い、文武両面での活躍を見せ天下統一に貢献した。紀伊・和泉などの64万石初代当主、 和歌山城の築城を果たす。

その後、本堂、御堂を中心とした伽藍造営が本格的に行われ、熊野三山の一つである熊野那智大社とともに大隆興している。 観音霊場巡りの「中興の祖」と呼ばれる花山法王は、この山に千日篭り後に西国33ヵ所第一札所とした。それ以来、那智巡拝は盛んになり現在に至るまで絶え間なく続いているという。

本堂のすぐ下に「山門」が建っている。
昭和8年(1933年)の建設といわれており、朱塗りも鮮やかで見た目にも新しい建物である。山門に安置されている金剛力士像は湛慶の作と伝えられている。その下の石段基部に「根本札所 西国第一番 なちさん霊場」と風雨に晒された石柱が立つ。「なちさん」と平仮名で彫ってあるのがいい、もしかしたら相当年代物かも知れない・・?。

境内広場のすぐ上に真紅の「三重の塔」が艶やかで鮮やかである。 そして、右手山腹に、かの名瀑布、日本一の那智の滝が望観できる。 
「三重塔と那智の滝」の配置・フレームは一服の絵であり、多くの観光用パンフレットでお馴染みである。 
この「三重塔」は昭和47年(1972年)に再建されたといわれている通り、見た目にも新しい建物である。 その内部には「飛滝神・大滝」の本地仏である千手観音が安置されており内部の壁面には彩色の金剛諸界仏、観音、不動明王などの壁画が描かれている。 
ただ建物が新しいだけに相等に壁画も新しいという・・、500年後、1000年後にはどうなっているか・・?、塔の歴史は刻み始めたばかりである・・。

展望の良い境内からは「那智の滝」の後背部が那智山系に連なっているのが鮮明である。 構成する山々は大雲取山(966m)、烏帽子山(871m)、などがあり、この雲峰の地は熊野古道が延びているのである。又、那智滝や急渓流などの水源林である那智原始林(天然記念物)の深い山様、森林が残されている。

那智山・青岸渡寺から徒歩で20分ほど古道を登ると那智高原公園で、現在も果たしてそうであろうか・・?この地は「富士山が見える最遠の地」と云われている。


熊野の人々は険しい山と美しい川や海と共に暮らし、古くから山や滝、巨岩、巨石、巨木などに神々が宿ると信じて崇めてきた。 
この熊野の地は神武天皇が東征の際に上陸し、那智の滝に大巳貴神(大国主)を祀り八咫烏(やたがらす:後述)の案内で熊野の深い山々を越え大和に入ったとされている。 
その後、仁徳天皇の時代に那智の滝より社殿を現在の那智大社に移し、仏教の伝来とともに神仏習合の信仰が広まり、「蟻の熊野詣」(ありのくまのもうで:後述)と言われるほど多くの人々に信仰されたという。
熊野那智大社、青岸渡寺、那智の滝等を総称して「那智山」と呼んでいる由縁である。

次に「那智の滝」へ向う。 
一旦降りて商店街が並ぶ車道を下り、道が大きくヘアーピンカーブを描いているその先端に大滝の入り口である林の中に雰囲気ある鳥居があった。鳥居には飛滝神社の名額が掲げてある。
何故か鳥居正面の参道の真ん中に老杉が立つ、これも自然神域の一画であろう・・、その横に自然石で那智大滝と記してあった。 
鳥居を潜った参道は、やや急な石段が森の奥まで延びている。 次第に滝壺の音が大きくなってきて、やがて眼前に現れた、正面に第二の鳥居が見張り番のように立っている。 
こうして日本一の滝を眼前に見られ、その豪快さにただ黙念とするばかりである・・。

「那智大滝」はその落差133mといわれており、最上部の滝口は三筋になっていて、これが那智の滝の特徴とされ「三筋の滝」とも言われる。 
滝口の上に注連縄(しめなわ)が張られているが、この滝は滝壺の近くにある「飛滝神社」のご神体とされている。 飛滝神社の前からは那智の滝を更に目前に見上げることができる。

那智大滝の奥、那智山系の那智原始林には60余に達する多くの滝があるというが、このうち48の滝は「瀧篭の行場」(滝にこもって修行する場)とされ、これらの滝には其々番号と諸宗教(神道を中心に、儒教、仏教、道教、陰陽五行説など)にもとづく名が与えられているという。 
それらの滝を総称して「那智四十八滝」と呼び、この那智滝第一である「那智の大滝」を「那智一の滝」と称している。

因みに、これら四十八の滝は那智山内にあり、主に本谷、東の谷、西の谷、新客(しんきゃく)谷の4つの谷に点在し、那智一の滝の他に曽以の滝(文覚の滝)、那智二の滝(如意輪の滝)、那智三の滝(馬頭観音滝)、大日霊女滝(大陽の滝)、登磨免の滝(念仏の滝)、倍牟の滝(弁財天の滝)等と称して、これらは修行者各自身が命名したととされている。

これらの滝では、青岸渡寺開祖と伝えられる「裸形上人」をはじめとする宗教者達のほか、巡礼中興の祖・花山法皇も二の滝の断崖上に庵を設けて「千日瀧篭行」をしたと伝えられている。

ところが、明治初期以降は神仏分離令・修験道廃止令によって、これらの「行」を支えた神仏習合的な信仰が失われたという、加えて、那智での瀧篭行は特に厳格さや秘密性が強く、行法や作法の伝授も全て口伝であったため、所在や名称の文覧も不明となっていたという。 
だが1991年、わずかに残された古地図・古文書などを手がかりに地元の有志・新聞社・僧職・神職などが「四十八滝探査プロジェクト」を行い再確定に成功したともいう。
そして更に1992年からは青岸渡寺の主唱によって、那智四十八滝・回峰行も再興されているという。

尚、那智大滝は日光華厳の滝、常陸・袋田の滝と共に日本三名瀑に数えられている。

次回は、 補陀洛山寺