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日本の旅の記録です・・!!

国内旅行をはじめハワイや沖縄、世界遺産など国内各地の旅の記録です。

世界遺産と熊野地方(18) 世界遺産・「熊野本宮大社」

2008年02月13日 10時36分57秒 | 世界遺産の熊野地方
        本宮大社、八咫烏と鳥居、本宮旧社の大鳥居

世界遺産と熊野地方(18) 世界遺産・「熊野本宮大社」

難所の国道169から宮井大橋を右折して本宮大社方面に向う。 
山々が迫っている・・、熊野川と付きつ離れつしながら・・。
小生、先ほど分岐する二つの川は「北山川」と「十津川」と記したが、この辺り和歌山県内では熊野川と言い、R168が北方の奈良県の十津川村へ至って十津川と称するのが正しいらしい・・。 

大塔山に源を発する大きな支流の大塔川を渡る。 
この先は、有名な川湯温泉や渡瀬温泉があり、更には、今夜投宿する「湯峰温泉」が点在する。 特に、川湯温泉は熊野川の支流大塔川の川原を掘ると温泉が湧き出すという全国でも珍しい温泉で、体が浸かる大きさまで掘れば自分だけの露天風呂が出来上がるという。 冬毎年11月から翌年2月にかけて川を堰き止め、広大な露天風呂が出現する。 仙人風呂(千人風呂)と呼ばれ、野趣あふれる冬の風物詩として親しまれている。
熊野は、「木の国」とはよく言ったもので、左を見ても右を見ても見事に植林された杉や桧の大木が山の斜面に天を貫くように連なっている。

やがて国道は、再び、熊野川に突き当たる。 ここからは、熊野川の河岸に築かれた国道168号線を北に向かって走ることになる。 
熊野川も、かなり上流域なのに意外と河原の幅が広い。 熊野の山野を潤しているこの母なる川も今は渇水期なのか、夥しい川石がまるで海岸の砂浜のように続いている。

車は、やがて本宮の市街地に入り、支流・音無川の畔に鎮座する熊野本宮大社の鳥居の前に到着した。
傍らで、巨大な八咫烏の幟(のぼり)がはためく大鳥居の前に立ち、木製の鳥居が天を指して、そこにはやはり「熊野大権現」と記してある。
この社(やしろ)が熊野信仰の中心の所謂、「熊野本宮大社」である。

熊野詣の総ての参詣路はこの神社を目指している。 ここから熊野川を下って速玉大社、那智大社へと巡るのが、熊野詣での昔からのコースである。 
大鳥居の奥に年輪の就いた杉並木の石段が続ていて、左右にびっしりと「熊野大権現」と「八咫烏」の図柄の旗群が参詣者を歓迎してるようである。 

石段を登り切ると参道の向こうに神門が見える。 神門から神域に一歩神域に足を踏み入れると、正面にパノラマのように社殿が広がる。
先ずは拝殿に額ずいて参拝を致す・・。

社殿は古色木目調で、那智や速玉の社殿の朱色の煌びやかさに比して、いかに落ち着いた風格を醸し出している。
小生の知るところ、「出雲大社」を彷彿させる・・。

祭殿は三段に施してあり、奥まった位置の「上四社」の主殿・第三殿には家津美御子大神(ケツミミコ)、第一殿に伊邪那美大神(イザナミ)、第二殿に伊邪那岐大神(イザナギ)、第四殿に天照皇大神(アマテラス)などの祭神を祀る。
家津美御子大神(ケツミミコ)は素盞鳴尊(スサノオ)の別名で出雲の国の太祖にあたり、大国主(オオクニヌシ:スサノオの子、又は孫)を同時に授かる・・、出雲の祖神でもある。 スサノオはイザナギとイザナミの間に産まれたとされ、三貴神・三兄弟神(アマテラス、ツキヨミ、スサノオ)の末子に当たる。 
因みに、、産まれた時アマテラスには天を、ツクヨミには夜を、スサノヲには海(水)を支配するように言いつけたという。
だが、スサノヲは高天原では荒ぶる神として嫌われ、姉のアマテラスに追放されて葦原中国(アシハラノナカツクニ:日本)の出雲に降りたとされる。 

出雲地方には出雲一宮である「出雲大社」」があるが、出雲第一の宮といわれる熊野大社(島根県八雲村熊野)もあり、一説によると、この出雲・熊野大社が出雲の国から紀伊の国・熊野地方に勧請されて紀伊・熊野大社になったとも云われる・・。

序ながら、出雲地方における熊野大社の置位については・・、
「出雲国風土記」によると『熊野山、郡家正南一十八里なり、いわゆる熊野大社坐す』とあることから、遥か大昔は八雲村の熊野山(今の天狗山)にあったことになる。
熊野大社は、食物の生産を見守る強い信仰のあった神様と言われ、熊野山に祭られたのは、古代出雲文化の中心であった意宇平野(出雲国内でも一等の古墳地帯、古代の政治・文化の中心地で国庁・国分寺が所在した)の水田をうるおす水の源・「水の神」として祀られたという。
そして、出雲大社の大国主命は、この食物の生産を見守る熊野大社(須戔嗚尊)をいただいて国造りをされる神様として祀られた。
このことは、出雲国造を相続するときは、熊野大社で火継式が行われたと伝えられることからも知ることができる。
つまり、熊野大社は出雲大社の親神であり、それは「水の神」でもあった。 更に、紀伊地方の「熊野」という呼称は、八雲村の熊野から伝わって来たことにもなる。


戻って「熊野本宮大社」の社殿のことである・・、
次に中間の「中四社」の各殿にはオシホミ、ニニギ、ヒコホホデミ、ウカヤフキアエズなどの天孫の錚錚(そうそう)たる神々が祀られている。
手前の「下四社」・各殿の神々と合わせて全十二社神を祀っている。
こちらの十二神も熊野三神に概ね共通する神々である。

熊野本宮大社は、先に訪れた熊野速玉大社、熊野那智大社と並ぶ熊野三山の主神で全国に数千もある熊野神社の総本宮である。 古色蒼然とした檜皮葺きの社殿群は、概ね重要文化財に指定されている建造物でもある。
境内の隅に「都道府県別、熊野神社全国分布図」とした掲示板がが有った。
千葉、福島、愛知が其々200社以上あってビック3であり、全国合わせて3831社とあった。

ころで本社殿は明治24年に移建された社宮だと云う・・。 
本宮大社の社殿は当初から現在地にあったのではなく、元の社殿は熊野川とその支流の音無川と岩田川が合流する「中州」にあったとされる。 
明治22年(1889)の大洪水で倒壊したため、神像とともにこの地に移され、現在に至っているとのことらしい。 
旧境内は大斎原(おおゆのはら)と呼ばれ、現在の社地の八倍の広さだったという。
大洪水は大斎原に鎮座していた上、中、下各四社のうち、上四社を除くすべての社殿を一瞬のうちに押し流してしまい、そのため上四社のみをを明治24年に現在の社地に遷し、その他の流された社殿は仮に石祠を造営して合祀してあるという。 

旧境内の田園の中に、近年(平成11年)造営された大鳥居が天を突いている。


次回は、 「熊野参詣」について


世界遺産と熊野地方(17) 熊野川・「瀞峡」

2008年02月12日 11時09分59秒 | 世界遺産の熊野地方
瀞峡:瀞八丁(特別名勝・天然記念物)と亀岩

世界遺産と熊野地方(17) 熊野川・「瀞峡」

昨日訪れた新宮の地、新宮高校のある橋本という交差点を左折し、国道168号線を内陸へ向って北上する。 
熊野の清流をすぐ横に見ながらの快適なドライブである。 

道の駅「瀞峡街道熊野川」があり車を寄せてみたけど、駐車スペースは小さくなんとなく沈気である。看板に「アイドリング、花火、宿泊禁止」とあり、宿泊禁止はマイカー旅行者には冷たい感じがしないでもない。 個人で営むんでいるのだろう、田舎のドライブインといった風で入るのには気が引けた・・?、そのまま直ぐに出立した。

熊野川沿いから、間もなく熊野川町に入ったらしい・・。 
チョット賑やかな町並み集落を過ぎると、「古志」という地域に来ると急に賑やかになり、 道路沿いに華やかに瀞峡観光巡りの案内、看板が目立つ。 
ここは、ウオータージェット船の船着場乗り場で、ボチボチ観光バスも停まっていた。

聞くところ、この先の上流部に「和船」の乗り場(玉置口)があって、どうもユックリ、のんびり観光するには其方のほうがいいらしい・・、途中、R168とR169、本宮と玉置口への分れ道があり熊野川にかかる宮井大橋を渡る。

この辺りは、熊野の大河が大きく二つに分岐してて、通称、右方が「北山川」で北山村へ、左方が「十津川」となって十津川村へ遡っている。
瀞峡の本命は北山川である。この北山川は和歌山・奈良・三重の3県にまたがって流れている。 峡と言うだけあって山域、山腹が狭まり川筋は、その間をぬって激しく蛇行を繰り返している。

それにしても国道と言いながら道の細さには参る・・、殆ど両一車線のみの上下曲折の道路である、びくびくしながらも、案内板に従ってどうにか辿り着いた。 
地元の農家の方が営んでいるらしく、「はるや」という和船乗場の小店兼受付所があった。たまたま同様の夫婦連れと同船した、4人で5000円。 
ウオータージェットは一人3350円であるから、一応納得である。


川の流れ、山の香り、そして耳をすませば、洞穴の奥から滝の流れる音を聴き取ることもできる。 川面は、急峻な山が迫り、迫力ある自然でありながらも、どこか上品な風情を感じられるのは、瀞(とろ)であるゆえか・・。
「瀞」というのは、「河水が深くて流れがユッタリと静かなところ」という意味である。秩父にも「長瀞」という地名があるが、「瀞八丁」を地元の人は「どろはっちょう」と濁って呼んでいるようだ・・。
因みに、川、特に渓谷の流れは多々表情がある。これらの流れには、滝(たき)、瀞(とろ)、釜(かま)、滑(なめ)、瀬(せ)、淵(ふち)、等と流れの地形や表情によって、いろんな名称が付いているが・・、瀞の場は、大抵の場合急峻な岩場が競り合っている所で、流水が深く淀んでいる所であり、川幅も比較的広く、ゆったりと流れているところである。
そんな中で、瀞峡は、岩塊や断崖が多くの表情を表し、自然の造形美を造っているのである。

「和船」はウオータージェットと違って、完全開放型で小さな推進エンジンを付けた、手漕ぎのボートを一寸大きくしたような6人乗りぐらいの小型船である。 
昔は同様の大きさで参詣人達、たまには貴人を載せてこの川を往来したのであり、瀞ばかりでは無く、場所によっては波立つ急流をも上下したのであろう・・。

船頭の洒落た語り口、案内で同船の4人はスッカリ打ち解けて談笑もしきりである・・。 川面を滑るように和船の雰囲気は、それだけでも風流であり風雅である。
しかも、これだけの大自然の中にスッポリ納まってしまうと、世相の憂さや、汚(けが)された身も心も川の水と一緒に洗われ流されて、自然と一体となった清爽味を感じるのである。

ところで瀞峡は流域によって下瀞、上瀞そして奥瀞に、其々上流に向かって区分呼称されているとも言う。 「下瀞」は、我等が和船の乗り場・玉置口から瀞ホテル付近の十津川村田戸間を指し、「上瀞」は田戸から上流部で北川峡ともいい、紀和町小松辺りを指している。そしてその奥、北山村のほぼ全域で七味ダム辺りまでを「奥瀞」と称している。最近では奥瀞の七色峡・筏下りが人気を呼んでいるという。

序に、小さな「北山村」のことであるが・・、
地図を良く観ると判るが行政区分は和歌山県に属しながら周りを奈良県と三重県に囲まれており、所謂、領域が飛地になっている。このような村は、日本の市町村単位では唯一の自治体であるという。
しかも平成の大合併で村が消滅するなか、和歌山県で唯一の村となっている。
北山村はその村域の大部分が山林地帯であり、古来よりその木材を切り出して北山川に流し、下流の新宮の商人がそれを売さばいて村の人々の暮らしが成り立っていた。つまり新宮との結びつきが強く、明治期の廃藩置県で「新宮」が和歌山県に入ると、この村も新宮との結びつきの強いゆえに和歌山に入ることを望み、これが叶った為に「飛び地村」が出来たという。
村の集落は、北山川沿いの南端部分に小さく点在するのみであったが、七色ダムの建設にともない、更に多くの集落が湖底に沈んだという。
明治中期に小集落の北山村が出来て以来この村に合併でなどは一切無く、「飛地」故に現在でも人口が少なくとも一村を維持してきている・・。
近隣の熊野川町も和歌山県の飛地の町であったが、2005年の合併により新宮市の一部と成っている。又、村の北側に下北川、上北川の両村があるが、何れも奈良県に属している。

さて、我等が向かっている下瀞は「瀞八丁」とも呼ばれ、瀞峡では最も景勝の地と云われるらしい。摂理の綺麗な両岸は岩質が硬いため浸食に強く、古代から変わらぬ姿を示しているといい、崖の高さは約50m、水深も16~20mに及び、川幅も60~80mにもなる地域であるという。
進むに従って特色ある岩塊が出現し夫婦岩、亀岩、ライオン岩と賑やかである。中天門というのは「瀞八丁」でのメインで、河両岸に大絶壁が連なる地域である。その中に「すべり岩」というのが有って、その昔地震が起きたときに滑り落ちたという謂れがあるとか・・。

間もなく左手に断崖の上に聳える木造の吊り橋と木造の建物が見えてきた、「瀞ホテル」といって断崖の上に危なっかしく、辛うじて建っているようである・・。 本館が奈良県十津川村、吊橋を渡った川向こうの別館が和歌山県北山村と、地域が全く異なったところに建つ変わった旅荘でもある。(現在は休業中らしい・・?)

この辺りで和船は向きを変え、引き返すことに成る。概ね、40分位の遊覧であったろうか。


次回は、 「熊野本宮大社」

世界遺産と熊野地方(16) 勝浦・「ホテル浦島・・Ⅱ」

2008年02月11日 11時31分35秒 | 世界遺産の熊野地方
ホテル浦島全容と温泉

世界遺産と熊野地方(16) 勝浦・「ホテル浦島・・Ⅱ」

夕闇迫る頃、勝浦温泉の「ホテル浦島」に戻った。
そして再び「ホテル浦島」のことであるが・・、
勝浦温泉は白浜と並んで南紀を代表する温泉であろう。
勝浦温泉は和歌山でも一番の源泉数を持つといい、源数175本(町所有8本)を数える。因みに和歌山県下の総本数は468本であるとのこと。 
前にも記したが、勝浦温泉は大正時代に発見された比較的新しい温泉である。
現在は、南紀白浜温泉と並ぶ和歌山県を代表する温泉地であり、世界遺産に登録された那智山や那智滝、熊野三山詣での拠点となっている。
この勝浦温泉が白浜温泉並みにもっと早く発見されていたら、温泉地は別な様相を呈していたかもしれない・・。

岬の岩影や島などいたるところに湯が湧き出し、源泉ごとに泉質が異なるというユニークな温泉でもある。島の周りには大型ホテルや旅館が点在し、港から宿まで客を送迎ボートで送り迎えする変り種のホテルもある。
殆どの宿が自家源泉を持ち、個性ある温泉が揃っているという。 趣向を凝らした露天風呂で、「紀の松島」や果してなく続く水平線を眺めながらの湯浴みは格別で、一日の疲れが癒されていく。

勝浦湾は、夜ともなると黒くシルエットになった島影を背景に、湖のように波静かな湾内を赤や青の灯を点した船が行きかう様が美景である。 
湾内の隠やかな風景とは対照的に、先ほど遊覧した湾の外側は熊野灘の荒波に洗われる洞窟や絶壁の続く男性的な景観で、ホテルや旅館などもこの豪快な海景を楽しめる場所にも建っており、部屋の窓からの風景は迫力そのものであると・・。

勝浦湾を抱く狼煙半島のほぼ全域を占める「ホテル浦島」であるが、湾内に左右に広がる「本館」や「なぎさ館」等の他に、山上の「山上館」や外海に面した「日の出館」などが在り、看板の「忘帰洞」の他に各建物ごとの五ヶ所の温泉浴場を持っている。 
各建物(各温泉)へは山上へのエスカレーター(スカイウオーカー)の他に、連絡用のトンネル、エレベーターなども揃っている。

昨日も紹介したが、このホテルの温泉の名物である「忘帰洞」を今日も覗くことした。 
熊野灘に向って大きく口を開いた景観は相変わらずだが、本日も波浪が高そうなので、その様子を探る目的もあったのである・・。 やはりそうだった・・!、波頭が岩場に当たって飛沫となって、湯船の中まで飛び込んでくるのである、イヤー、実に爽快爽快・・!。 
源泉は穴の横から温泉が湧き出しており、香りある硫黄臭がしている。

又、同様に昨日入浴したが本館の「滝の湯」(男湯:女湯はハマユウの湯)は本館1階にある内湯で、大きな岩から流れ落ちるお湯が浴槽に注がれている、コーナー階段の上に壷湯もあり、小さな露天風呂もついている。
就寝前には「玄武洞」、「磯の湯」に浸かる事にした。
玄武洞は忘帰洞と双璧をなす洞窟風呂で、玄武洞へと続く地下通路を歩いているだけでもう硫黄の匂いと熱気がむんむんしてくる。 海に開けた洞窟の口は忘帰洞より小規模であるが、浴槽は内側に面した広いスペースのと海に面したものと二つある。海に面した浴槽は温めで気持ちがいいが、こちらも波が高く海に吸い込まれそうで恐怖感が漂う。耳を凝らすとゴウゴウと波浪音が聞こえてきて、大自然の偉大さに圧倒される。 

磯の湯は、玄武洞に続く地下通路の途中にある内湯で、特徴的なのが、浴槽が透明のものと白濁しているものの二つ在り、透明のほうは湯温が高く、白濁のほうは温めになっている。 
H・浦島の源泉は、どこもが成分の濃い硫黄泉であるが、ここ磯の湯が一番濃いように感じる。 

そして、次の朝目覚めに浸かったのが6ヶ所中の最後の「なぎさ湯」であった。
「なぎさ館」の端っこに位置する温泉で、穏やかな勝浦湾を望ながら入れる露天風呂である。 ここから観る勝浦湾の景感もいい、早朝より往来する船の出入りを見ながらの入浴もまた乙なもので詩情を醸す・・。 ここの湯は、他に桶の浴槽が4つと四角い浴槽一つがあった。

因みに、同ホテルの敷地内源泉数は9本あり、各温泉の泉質は硫黄泉、硫化水素泉、単純泉、塩化物泉などであり、効能はリウマチ、神経痛、胃腸病、貧血症、皮膚病、婦人病等などであるらしい・・。 尚、泉温48度 ph7.7 毎分358L・・。
H・浦島には館ごとにそれぞれ浴槽があり、スタンプラリーで全館、全湯制覇すれば        景品がもらえるようになっている。因みに、景品は当館の「絵はがき」であった。


今朝も、好天の中の目覚めで気分も快調である。
連泊の後、今日は旅支度を整え来館記念の写真を撮って出発である。 
今日の目的地は概ね、中辺路、本宮大社、それに熊野川・瀞峡遊覧等・・、泊まりは「湯の峰温泉」としているが・・。


次回は、 熊野川・「瀞峡」


世界遺産と熊野地方(15) 勝浦・「紀の松島と太地」

2008年02月09日 11時49分23秒 | 世界遺産の熊野地方
世界遺産と熊野地方(15) 勝浦・「紀の松島と太地」

那智勝浦まで戻り、ホテル・インしてのんびり温泉でも浸かろうと思っていた・・、ところ勝浦近郊湾岸で海洋遊覧船を実施しているのを確認し、 桟橋にはタイミング良く今日最終の便が出航するところあり、早速乗り込んだ。

案内書によると、勝浦港周辺に点在する「紀の松島」は周囲17kmの区間に大自然が創造した紺碧の海に浮かぶ大小の島々が点在する。中にはラクダ岩、ライオン島、洞窟の鶴島などがあり又、その昔屋島の戦いに敗れた中将・平維盛が入水(じゅすい)したと伝えられる島の一つ山成島などもあり南紀随一の景勝地である・・と。

出航してからすぐに「勝浦魚市場」の埠頭が眺められる、桟橋からは余りハッキリ見えなかったが、さすがに遠洋マグロの水揚げ日本一波止場だけに広大な市場である。

勝浦湾を塞ぐように浮かぶ中ノ島、コンモリした小山の島であるが海辺に沿って巨大ホテルが取り巻いている。 そう、この島は全山がこのホテル・「中ノ島ホテル」の敷地だという。 海辺の露天風呂から若き女性・・?が身を隠しながら手を振っている。 
遊歩道の山上には、近頃「空海の湯」(足湯)がオープンしたという、空海は、クウカイではなくソラミと読むらしい、文字通り大空の展望絶佳の地である。
この島は人口50人というが・・?、ホテルの従業員達ではないですか・・?。

桟橋の右手に我等がホテル「H・浦島」が海上に浮く様に広がっている。
良く見ると山腹に沿って(実は長―いエスカレータである)更に山上のホテル館(山上館)まで繋ながっている。
船が動き出して湾外へ出ると、海の香りと潮風が顔に当たり、時折波しぶきが飛んでくる。
先程までの暑さを感じていたが、まるで嘘のように涼しさと爽快感である。 船も縦横左右に揺れる様になった、船好きな小生にとっては痛快である・・。

「ホテル浦島」が居座る緑に囲まれた狼煙半島の先端は断崖絶壁で切れ落ちてる、その先端は鶴島、乙島に連なっている。 半島の裏側に至って我がホテルの名物温泉「忘帰洞」が見え出した。 周辺山肌は累々とした岩場になっていて、その隙間にできた海食洞窟であることがよく判る、入浴客が前向きで手を振っている。 
今日は海は荒れ気味なので飛沫が飛び散り「忘帰洞」の入浴は面白そうである・・、同ホテルの日の出館が外洋に面して建っている、通路は山中を貫いているのだろう・・?。

船は反転して太地方面に向う・・。
沖合いに大小点々とした島が在る、「山成島」といって平氏・平維盛(たいらのこれもり)が入水したとされる群島である。 
平維盛は、平安時代末期の武将、平清盛の嫡孫で平重盛の嫡男である。 その学識と端整な容姿から「光源氏の再来」と称されていたという。 源平合戦で頼朝、義経らと合戦し、1183年(寿永2年)倶利伽羅峠の戦いでは源義仲に敗れて、平家都落ちといわれる西へ走り、1184年(寿永3年)屋島の戦いで源氏と対陣中、密かに逃亡したとされている。 後、高野山に入り、まもなく那智の沖の「山成島」で入水自殺したといわれる。

次に船は湾の南西側に突き出た岬の先端に近づいた。
船内アナウンスが「らくだ島」、「越の湯」と紹介していた。 確かに背中にコブが有って似たはいるが、鮮明ではない・・。 その向こうが気になる所である、平らな岩場に柵が施してあり、其処に露天風呂が有るようだ、混浴なのであろう・・、水着を着けた男女の数人のグループが入浴を楽しんでいる・・。 
船が真近まで行くと、やはり女性陣が手を振ってくれている・・。 先程もそうだが、やはり最近は女性のほうが積極的な面が伺える。

ここの露天風呂は、老舗旅館「越之湯」が所有していた温泉で、昭和天皇も泊まったという名旅館であったが何故か2002年に倒産してしまったという・・。
そのため現在は、釣り船業者が渡船を使用しながら管理しているという、浴場は渡し船でなければ行けない場所である・・。 
湯船から見ると、ラクダの形をした奇岩が正面に横たわり背後には茫洋とした海が広がる。 紀の松島の大パノラマを眺めながらの入湯、人里離れたこんな場所に湯煙の上がる特等席があったのである。
狼煙半島の洞穴周辺には、海食洞穴には180ヶ所もの温泉が湧きだしていて、この越の湯・「らくだの湯」もその内の一つであると・・。

暫くして「太地」(たじ)の埠頭へ着岸し、一旦上陸する。
目の前に巨大な「くじらの博物館」が現れた・・、太地町の捕鯨400年の歴史と技術を後世に伝えることを目的として開館したという。 
大きな鯨の絵が描かれた建物にはビックリしたが、様々なクジラの骨格標本や、鯨の生態、捕鯨に関する資料1000点以上が展示されているという。 
子供の頃より普通に慣れて食していた鯨の肉が途絶えて久しい・・。 
時間があればユックリ見学したいところであるが・・・!、くじら浜公園には他に、捕鯨船や海洋水族館、ラッコ館、熱帯植物園など文化施設も集まる。

太地の歴史は、鯨なしには語れないといわれる・・。 
太地は日本における捕鯨発祥の地だと言われている。
日本人は縄文期の頃より鯨類を利用していたことは考古学的にも判っているが、組織的な漁業活動として史実に登場してくるのは近世になってのことである。
徳川の世になって熊野水軍として戦いはなくなり、そこで新規参入・・?に乗り出したのが捕鯨であった。
鎌倉期からこの地方の名族として知られた「和田頼元」(わだよりもと)が、組織的な捕鯨法を開発したといわれる。
捕獲は網取式捕鯨法といわれるもので、網に鯨を囲い込み、手投げ銛(もり)で仕留めるものだが、小舟に乗った漁民が銛を片手に大きな鯨に立ち向かうのは命懸けだった。
捕鯨から解体処理までの一連の作業は数百人の人手を要する大仕事で、多くの人がこの仕事で暮らし、紀州藩も捕鯨を奨励した。
和田家は幕府より「太地」の姓をいただき、それが地名の由来となったとされている。

ところが、1878年(明治11年)に捕鯨中の事故により100名以上の死者を出すという大惨事が起こった。このため鯨方も一時衰退してしまうが、太地が再び捕鯨の町となるのは日露戦争後のことであった。 
近代的な大資本による遠洋捕鯨の基地として多くの船で賑わい、鯨体の処理場や鯨を缶詰にする工場もできたため、太地は再び捕鯨に依存するようになったのである。 
ところが幕末には米国の捕鯨船が日本近海に来航し、北太平洋の鯨を取り尽くして太地の漁獲も激減してしまった。 
米国捕鯨船の目的は鯨油であり、肉は廃棄するという不経済なものだった。 

それから200年たった現在、日本の捕鯨に対する風当たりが強くなりつつあった(捕鯨問題)、米国が鯨保護運動の先頭に立って日本を目の敵にするようになったのである。 
結果、1988年(昭和63年)には国際捕鯨委員会の取り決めに従い、ついに太地でも商業捕鯨が中断されるに至ったのである。 これはまったく歴史の皮肉というべきだろう。

近年、隣町の勝浦がマグロ漁で日本一の盛況を呈している中、太地は鯨の町とはいいながらその賑わいは過去のものとなり、今は博物的意味合いで何とか息を繋いでいるという・・。


ところで、日本有数のマグロ水揚げ基地である勝浦町であるが、その勝浦漁協市場で今季(2005年)最大の300キロ以上のクロマグロが水揚げされ、1kg当たり2500円前後で取引されたという。
高級トロの材料として人気が高いクロマグロやミナミマグロであるが、現実は、資源状態が世界的な悪化の兆しがみえはじめ、資源水準は極めて低い傾向になりつつあるという。 日本が世界で最も多くを捕っている太平洋のクロマグロも同様で、低下傾向に歯止めがかからず、乱獲が進んでいる可能性が高いと・・。
更にクロマグロ,ミナミマグロ,メバチは日本人が大部分関与しているといい、世界中のどの海で獲られ、どこの港へ水揚げされても結局は大部分が日本へ輸入され消費されているという。 
即ち、「日本へ輸出すれば儲かるから」からマグロの漁獲量を増やすという構図もある。

マグロが食べれなくなる・・・??。 
日本人に馴染み深いマグロだが、日本だけでなく世界各国で削減され、漁獲割り当て量が段階的に削減されていて、それを「大西洋マグロ類保存国際委員会」(ICCAT)とやらが目を光らせているらしい。 
近年その生息数が激減していると言われるマグロであるが・・、
鯨が食卓から消えてから久しいが、その太地町とマグロで隆盛を誇る勝浦町の対比が将来を暗示しているようにも思われるが、そうでない事を祈りたい・・・。

太地町は周辺の町村が合併を繰り返す中、明治22年に太地村と森浦村が合併した当時から、そのまま残っているため面積が和歌山県で一番小さく、その全域が海と那智勝浦町に囲まれている。 
こんな地理的条件で今般の「平成の大合併」の最中でも、那智勝浦町と太地町の合併の情報は無いようである・・。


次回は、 ホテル浦島・・Ⅱ

世界遺産と熊野地方(14) 新宮・Ⅳ「水運・熊野川」

2008年02月08日 11時24分51秒 | 世界遺産の熊野地方
熊野本宮大社旧社(大斎原・おおゆのはら)と熊野川。

世界遺産と熊野地方(14) 新宮・Ⅳ「水運・熊野川」

速玉大社のすぐ北側に「熊野川」が滔々と流れる、以前
は「新宮川」とも称していたらしいが・・。 
現在も、千年前も、万年前も川わ変わることなく廻りながら流れている。 人々は、この川を遡りながら歴史を繰り返し、造ってきた。 紀伊の人々にとって熊野川は、心の拠りどころであり、古里であろう・・。

新宮の町は古来、熊野三社参詣の大辺路、中辺路、伊勢路が集合、交差していている門前町として栄えた。 更に、新宮は木材輸送で栄えた町だとも云われる。

紀伊の国は「紀の国」そして「木の国」といわれる。
元々、和歌山県は木の神様(五十猛命・イソタケル)が鎮座した国というので「木の国」と呼ばれていたが、奈良時代に国の名前を起こす時、二文字にして雅字を充てるという勅令が出されて「紀伊国」になったといわれる。 

和歌山市の「紀ノ川」近くに伊太祁曽神社(いたきそ・・)が紀伊国(紀州)の祖神として祀られている。
伊太祁曽神社の祭神は「五十猛命」(イタケル)である・・。 
素盞鳴尊(スサノオ)の御子神とされ、日本書紀によれば父神に従って高天原から大八洲国(オオヤシマグニ=日本)に天降られる時、多くの樹木の種を持って来られた。 そして日本全土に木の種を播き植林した、そのおかげで日本の国は緑の豊かな山々を擁し、空青く水清き森林が育成されたという。
五十猛命は木の神 木材業・林材業繁栄 緑化の祖神と言われる。


熊野の山地で伐採された吉野杉や熊野桧等の木材を筏にし、熊野川と北山川を下って新宮に運ばれ、この筏流しの歴史と密接な町域が過去に形成されていたという。
その昔、この筏流しと関連深い川原町(昭和20年代、南海大地震と水運の衰退で町は消滅)と呼ばれた町が存在した。 
現在の新宮市船町(熊野速玉大社の前面)あたりの川原に存在したもので、最盛期には200軒を超える家が建っていた言われている。
川原には、軒を並べるようにして宿屋、鍛冶屋、雑貨屋、米屋、銭湯、理髪店、飲食店、履物屋などの町が形成されていた。 
これらの建物すべてが容易に組み立て・解体ができる構造になっていたといたというのが驚きで、 それは「川原家」(かわらや)と呼ばれ、川原町に住む人々は大雨が降り洪水の危険を察知すると即座に家を解体し、安全な高台に避難し、そして水が引くとまた川原に家を建てていたという。 
組み立てやすく、解体しやすい構造は家が流されないための知恵であったと・・、今の、プレハブ住宅のご先祖版であろうか・・?。


又、苔むした古道と同様に、熊野川は参詣道として山岳霊場を繋ぐ(つなぐ)熊野川の水上交通として重要な役割を果たしていた。
かつては、熊野三山を巡拝する場合、熊野本宮大社から舟で熊野川を下り、熊野速玉大社、熊野那智大社へ向かい、再び、もと来た道を引き返し熊野川を遡上していったともいう。熊野古道の大辺路、中辺路が陸の路とすれば、こちら熊野川は熊野・水の路と呼ぶべきであろう・・?。

熊野三山と総称される各社は元々は独自の信仰を持っていたようで、共通するのは三社の信仰の起源は自然崇拝から始まった。 特に本宮大社と速玉大社は、熊野川に対する深い信仰があり、本宮大社は元は大斎原と呼ばれる熊野川、音無川、岩田川の合流地点の中州に鎮座していた。それは、熊野川が神聖な場所として崇め、洪水鎮圧のために祀ったとも考えられる。
速玉大社は熊野川の河口付近に鎮座していることから川を神として崇敬し、本宮同様に、川の氾濫を鎮める役割を担っていたのではと・・。
速玉という名前が玉のように早い流れを意味することでも熊野川との関係が伺える。さらに速玉大社の例大祭である「御船祭」というのもある。
「熊野川」は神が往来する場として捉えられ、神聖視されてきたともいえる。


明日は、この熊野川上流の北山川の「瀞峡」で船遊びをしようと思っているが・・?、
新宮市(初代)は、1942年に実施された市町村合併で県では2番目の市として発足している。そして平成の大合併の2005年に熊野川町と合併し、新しい「新宮市」が発足している。


次回は、 「紀の松島」